想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

疑うなかれ、されど疑え

2009-04-12 13:56:24 | Weblog

  昨日は「後ほど」なんて言いながら更新しなかったうさこ、疲れてしまった
  のであります。失礼いたしました。
  なかなかはかどらない仕事とイマイチの体調で、親分も結局長い散歩には
  行かずに、木工作業中のカメにまとわりついて仕事の邪魔をして叱られたり‥‥
  おやつでごまかされんぞ、オイラはオトナなのだ! と言いたげでしたが。

  でも親分は夜には大イビキで、ねこけていましたので、今日はほら、元気
  いっぱいです。裏山を走り抜けて‥。
  偵察、偵察、ワルいヤツはいないか?



  少し離れたところに別荘があり、建ってから誰かが過ごしにきたこともない
  まま1年半くらいたちました。で、とうとうというかあたりまえというか、
  泥棒参上とあいなったようです。
  どうしてわかったかというと、我が家の前の道をガラス屋さんのトラックが
  行き来して、某上場企業傘下の住宅会社のバンが何度も行ったり来たりする
  からです。建設中にも通っていたから間違いない!(長井秀和のネタ風、古い!)
  場違いに無防備な様子で建っていたので、いつかは洗礼を受けるであろうと
  噂していたのです。(親分とうさこが)

  防犯措置など、こんなに静かな森の中でいらないと思っているのは外の人。
  長く住んでいると、きょろきょろしながら低速度で走る車をよくみかける
  し、声をかける前に急にスピードをあげて走り去るアヤシいやからが来ます。
  被害に合わないとわからないんだなあ、と経験者うさこは思います。

  何か自分に不都合があったときに、自分の不始末か?と己を疑うのではなく
  即、どうして? なぜ? と誰かのせいにしてしまう、でも誰か何かが
  思い浮かぶはずもないので、結局不都合にあった自分を可哀相がるしかない
  のでしょんぼりする。
  というのは、もちろんわたしです。
  とるにたらないことで、こういうことを思いますねえ。
  (大事では思いませんけど)
  たとえばですね、着ようと思った服を探していてクローゼットにない、
  ない、ない? え、クリーニング屋さんからもらってきたはずなのに、
  あそこの人は忘れたかしら? とか。
  東京に行ったときにはパスモを使うのであるが、そのパスモをとにかく
  よく無くしてしまう。正確にはなくすのではなく、見当たらなくなって
  しまうのでありますが、えっと? 動揺したついでにどこに落としただろう
  なんて思います。必ずやジャケットのポケットか、別のハンドバックに
  入っているのが数日後に見つかり、へへへへへへと、一人で笑います。
  こういうのは不都合というほどのこともないと思われるかもしれませんが
  ビール一ダース盗ったら泥棒で一本ならいいのか? という話を大激論
  した話を椎名誠さんが書いていますけど、そういうことです。
  大か小かではなく、質の問題。

  なくしたこと、やっちまったこと、それらの不測の出来事にどう対処する
  か、で人格がわかるというものではないか。
  うさこは人間ができていないので、へへヘヘヘと笑ってごまかすのですが
  ごく私事の場合にかぎってしか、ヘヘヘじゃ許されないんだわ。
  他を疑う前に、己を省みよってか。
  でもなあ、そのときにはほんとにパスモないのよ、なんでだろう。
  という「でもなあ」はいけません、でももへちまもないの!
  といつも自分にいいきかせますので、周囲の人はうさこのこういうヘボな
  実態をおそらく見逃していると思います。(カメ以外の、です)

  世間ズレといいますか、悪い人がいるなあ、悪事が多いなあということを
  経験上知ってくると、同時に人の心には疑念という感情が植えつけられて
  しまいます。
  それを放し飼いにすると、不都合はすべて他人のせいにしてしまう考え方
  犯人がみつからないと運が悪いせいにしてしまう。
  あまりに単純すぎる考えなようだけど、こんな感じは多いですなあ。


   (まだまだ裸の木が多い山道でみつけた白い花、モクレン?)

  疑うことを知らないのは、でも、よいことなのではないのです。
  知らないままのは、子どもとかおバカさんと呼ばれます。
  知った上で、考える力が必要なんだわ。
  考えるには、けっこう知力がいるからね、そこんとこが壁になるんだろう。
  この壁を前にして、「バカの壁」みたいに避けたり無視したりする方法
  じゃなくて(養老センセの考えには?だから)
  いっしょうけんめい考えるから、発見があるんだわ。
  疑いなきところに、進歩はないもんね。

  そうなんだわ。
  パスモはポケットに入れちゃいけない、ということなんだわ、パスモ入れを
  買えばいいんだわ、と思いつき、次にパスモ入れごと無くしそうなうさこで
  あります。

  


    
    
  


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おはようさんです

2009-04-11 09:44:54 | Weblog

   ニッポン全国晴れ、おはようさんです。
   午前8時24分の風の谷の空も青い。
   いつものように、あまりの青空に誘われて、とりあえず庭先だけで春気分。
   昨夜の冷えが嘘のように、あたたかい。
 
   




   親分は遠出をしたいので、不満げな顔です。
   おっかあ、何をしているのだ、でかけるのだ、オラは行くぜ、の決意の表情。
   でもねー、おっかあはちょいと忙しいのであるよ。
   また後でね。
   ととりあえず引っ込み、やることやってから森を満喫します。
   で、また後ほど。
   (勝手きままで言いたい放題、更新おろそかなうさこ、なのに来てくださって
    大変もうしわけござんせんの気分です。いつもアクセスありがとうございます。
    よって、後ほどまた改めて。とりあえず朝一発、青空報告まで)


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『妄想』 森鴎外

2009-04-10 02:51:59 | 

    デレクジャーマンの庭、ダンジェントの風景を彷彿とさせる冒頭の情景描写に
    まず引かれて読み始めたのだった。
    荒涼とした人を拒むような場所を、あえて選んで住む人がいる。
    作品の主人公は砂浜に建てた「別荘の真似事のような」小屋から海を見ている。
    ところがこの海はドーバー海峡ではなく、海原の向こうはフランスという
    英国の縁の砂浜ではなく、上総の地。そして海は太平洋であった。

    冒頭からなぜかわたしの妄想はデレクジャーマンの映像につながっていたので
    上総という文字に着いたところで、ちょっとガクッときたんである。
    心の中で半笑い、しかし読み進めて行く。
    「死は哲学のため真の、気息を吹き込む神である‥」というショウペンハウエルの
    言葉を老いた主人公が思い出し回想していくことで話が展開していく。
    しかし、そこは一般論とは異なるがゆえに小説としておもしろいのであって
    鴎外の天の邪鬼というか、前衛的というか、公平さ、聡明さが発揮されていて
    小気味いい。
   「ふと書き棄てた反古である」などと末尾に記してあるが、明治末期の予見が
    約100年後の今日、そう外れていないことにもハハン~と思ったりする。
   
     
    (『森のテラス』にて撮影/武者小路実篤記念館(東京調布市)近くの貸スペース)

    電車の中のうっとうしさを逃れるには文庫本を読むのがいい。
    両隣や前後にイヤホンから音漏れさせていても平気なバカがいたにしても
    作品に集中できれば聴こえなくなるからである。
    おもしろくもないものだとジャリジャリという漏れくる音を遮るのに無理が
    あるが、混雑した車内の30分ほどを別世界(妄想)に飛んでやり過ごした。

    漱石の「こころ」が昨年からずいぶん売れているようだが、わたしは鴎外贔屓。
    森茉莉が好きで鴎外も読み始めたという遅れてきたファンなので大きい声では
    言いませんが、鴎外を読むと心が落ち着くのである。(ちくま文庫愛用)
    考え方がマットウで、まだ「人に道があってあたりまえ」という日本人の教養
    や良識が健在だった時代の安心感かもしれない、なんて言ったりして。

    かつては日本人の教養とか良識があった、それが今はなくなってきた、
    そういう考え方は、しかし都合のいい妄想なのである。
    漱石が人気があるのは、描かれている人間の苦悩や喜びが時代を超えて
    共感を得るからだろう。
    鴎外もまた苦悩を書かないわけではないが外側から描く客観性が勝って
    いる気がして好きだが、明治も平成も人がシットに苦しむところは同じである。
    かつても今も、ほぼ変わらない。人は同じであると思う。
    道を歩こうとする人は今も昔もいるし、個々の人がそれを選んでいるだけの
    ことである。

    デレクジャーマンも鴎外も、その内面的な生き方は少数派である。
    空や海がひらけて見えるところを求め、市井から逃れる。
    道は目に見えるところにはないからである。
    それを鴎外もまた、繰り返し書いている。
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覚悟する時

2009-04-08 01:45:00 | Weblog

   娑羅の木は、白い花をつけるそうな。
   まだ咲いたところを見たことがない。
   よくバラの苗木を買う植木市場のサイトの情報によると娑羅は聖なる木
   と云われ寺院などに植栽されるらしい。名前からなのだろうが、白い花
   はアクがなくてふさわしいのだろう。

   今回、たくさんいただいた娑羅の木。苗木ではなくすでに若木に成長し
   みかけより重い。わたしも移動するときに担ごうとしたが手に負えなくて
   つるつるとした樹皮やしなやかな枝振りの印象とは違っていた。



   庭のどの場所がいいか、よく考えたいので根が傷まないようにとりあえず
   敷地の奥の空いているところへ仮植えすることになった。
   昨年末から難題を抱え込んでいるN君がカメを手伝っているのをみて思った。
   娑羅の木が定位置におさまり白い花がつく夏頃までには、N君の覚悟も
   ひとつの形になっていることだろうと。
   思い、そして願った。

   木を植える。そして木は育ち生き続ける。
   それを見せてもらうことで、人は立ちつづけることができる。
   勇気という言葉は明るい陽がさしている時にこそふさわしい気がして、
   この際、違う気がする。
   苦い涙のときには娑羅の木の白い花びらのやわらかさがありがたい。
   それは勇気ではなくて、慈悲。



   苦しみ抜いた人のうえに、慈悲の花びらが降り注ぎますように。




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手づくりの縁台にて

2009-04-07 09:37:25 | Weblog

  「ああ、おまえは何をしてきたのだ‥‥と、
      吹きくる風がわたしに云う。」(帰郷by中原中也)

  友川かずきの歌声(CD:俺の内で鳴り止まない詩)で、朝っぱらから
  バシバシと耳に心に打ち付けられる言葉を聴いて気合い十分、
  (といきたいうさこなんだが‥)。

  ところで、作ってもらいやした! おいら専用の縁台。
  濡れ縁の幅だとケツがはみ出すのであるからして。
  おいらはちょっと油断するとおっこちてしまうんであるからして。
  シマコさんはチビだからちょうどいいんだろうけど。

  カメのお頭が作ってくれやした!
  なんのお礼もできませんので、おっかあによくハタラクように
  言っときやす、とかなんとか言ってるよな目線。
  勝手なもんだねえ。
  あたいが頼んであげたんだよ。
  シマコがチビなんじゃなくて、あんたがデカイんじゃないのー?

  ということで、庭仕事ができない雨や大風の日に作ってもらっちゃいました。
  通販やホームセンターでちょっとした家具などは安く手に入るので
  作るより安上がりなのですが、ここでは作ることに意義ありがキマリです。
  もちろんわたしは注文するだけなんですけど、作る過程を見ているのが
  楽しいのですね。
  カメだけではなく他の人も作りますね、でも下手くそですね(はっきり言います)
  下手か上手かは関係ありません、作るときの頭の中で起きていることがいいのです。
  何もしないでいるときの脳の動きはわずらわしいものですが、
  モノ作りに集中しているときの脳は指令に従って動くわけなので、気持ちが
  いいのです。いやいやながらやっていれば動きませんからこの気持ちよさは
  味わえませんよ、気持ちよければ出来もよくなりますね、おのずと。

  子どものときに工作の時間があまり好きではなかったのですが、この歳になって
  工作で遊ぶようになりました。絵を描くのがエラい苦手だったうさこは、写真を撮る
  のが好きなのだ、自分? と気がついて思いがけないことです。
  己を知るのは楽しいです。人まねや流されて漫然とやるのではないから。


       (親分の上に光が降っているわ~)

  ここでは時計がいらないので、焦る必要もないわけで、じっくりと作ることが
  できます。一つ一つ、好きなものを形にしていくのです。
  時間を気にせず、モノを作るという至福の時を過ごすといっても、
  けっこう実用的なモノ以外には手は出さないところが子どもと大人の違いです。
  無駄はないとよく言いますが、人間、驕ると無駄を無駄だと気づかなくなる
  らしい、カメの話を聞いていてそう思いました。

  ここで森を切り拓き始めた頃、調子にのった阿呆が山ツツジをほぼ伐って
  しまって。単純な話、誰も喜ばないことなのだったけど、その時はわかんない
  くらい夢中だったようで。チェーンソーを覚えたてで嬉しくて働き者になりきって
  しまっただけのことでした。
  山つつじはとても強く見事に復活してくれたのだけれど、ピンクの花盛りの頃には
  あの無駄な労働ごっこを思い出します。

  無駄ではないというのは何かを得るからで、物以外の何かであるのがいいですなあ。
  吹きくる風に問われる日々。
  驕る者久しからずの警句、この理はまことであるなあと縁台の端っこにて
  思ったりしながら。
  うとうとして、落っこちないよね、親分‥‥。  
  

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青山墓地の桜

2009-04-05 09:14:46 | Weblog
             (青山墓地の桜越しに)

  山の桜はまだまだおあずけだけど、事務所の窓からは桜満開の景色。
  青山墓地は昨日あたりから花見客の席取り新米社員がうろついて‥‥
  花見本番の日はかならず雲行きがあやしくなって雨模様なのは
  なぜだろう、なんて昨日も思った。



  わたしの花見は通りすがりと例年決まっているので、とりたてて
  でかけないけれど、山の桜の下では一度くらい花見の宴を催して
  神様にお礼を申し上げたい気がするのであるが。

  ゴールデンウイークに咲いてあっと言う間に風に散る我が家の桜を
  ちゃんと見たことはまだないのである。
  山桜は花と一緒に葉もつきはじめるのでぼんやり見えるけど、ほぼ
  散ったあとはよけにぼんやりしている。
  今が一番というときを、今年こそ見たいなどと思ったりするが。

  散った花びらをみて、余韻で花見している。
  隅々に神宿り‥‥、人の欲など関係ないのである。


   (一昨年の春撮影)
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夕闇~反省の時間

2009-04-04 01:19:08 | Weblog

    メニエール氏病あるいはメニエル病というめまいの病気がある。
    若い頃はそれに悩まされた。入院したり倒れて運ばれたりして
    たかがめまいなのに、なにも手につかなくなる。
    もう一つの持病が腰痛であった。これも突然襲いかかり、何も
    できなくなる。ちょっと痛いとかではなく、歩けないので寝たきりに
    なって一週間くらいは万事休す。

    これらを過去形で書いていられる今、まったく安心しているわけでは
    ないが、原因がわかったから不安ではない。
    医者ではなく、カメに治してもらったんである。

    最近はそういう研究もなされるようになったようだが、腰痛が心因性で
    起きるなどと大学病院のエラい先生も気づかなかった時代、わたしは
    嘘を言っているんじゃないか、ほんとに痛いのかよ、みたいな視線を
    お医者に向けられてはがっくりしながら、痛いのを我慢して病院まで
    来たのに二度とくるものかと思った。
    しかし何度も医者を頼り神経ブロック注射でごまかし、ギブスで固定し
    真夏にコルセットをしたまま過ごし、17歳から始まった腰痛は十数年間
    わたしを呪縛し続けた。運動をしないまま若い時期を過ごしてきた。
    運動をしないというのは、言い換えると遊べないということでもある。

    それに加わったのがメニエル氏病。三半規管に異常をきたすらしいが、
    要するにくるくると周囲が回るめまいである。難聴までは行かなかった
    のが救いであったが、突然起きるので仕事を投げたことが何度もあった。
    つまり失業である。自由業は受けた仕事をやらないと失業するしかない。

    激しいストレスがかかると耐えきれないぞーという信号を身体が発している
    とわかったのは、十円ハゲを発見してからのことだ。
    ある日、あっ禿げてる~と仲良しの美容師が教えてくれた。
    その時トラブルはすでに終わっていて元気なので、ああ禿げたのか、
    気づかなかったですまして笑い、禿げるほどあたいは辛かったっけ?
    みたいなもんである。
    実感したが、正常を知ると病んでいたこともわかる。
    まちがえっぱなしだと、悪循環から抜け出せないということだ。

    身体に出るさまざまなサインは、自分の限界を教えてくれる。
    今は腰痛が出る寸前くらいになんとなくわかるようになったので小休止する。
    寝るのが一番いいが、そういうときはすでに眠れなくなっている。
    うちの神様と踊り明かして疲れて眠る。
    ゴーゴーと神様がイビキをかくのを聞きながら。

    カメの厳しい教えのもと、瞑想と自省の日を送るようになって腰痛と
    めまいから解放されたのだが、はっきりしているのは反省がたりんと
    腰痛は治らんということだった。わたしの場合はそうなのである。
    いいわけをしているうちは痛いのである。
    人は誰でも自分の言い分はある。自分は悪くない、原因は外にあると。
    しかしカメの教えはそういうことは通用しない。
    徹底してつつしめ、と教えられた。
    そこへ至ったとき、痛みから解放されるというのを繰り返してきた。
    身体と精神のバランス、うまくできている。
    もの言う身体、考えるのは精神ばかりではない。

    器としての身体であるが、そこに宿る魂とつながっているのだから
    あたりまえのことだ。
    あたりまえを知らなかったので、若い頃からずいぶんと痛い目にあって
    おかげで、うさこはカメにたどり着いたのである。
    物語と一緒で、うさぎはカメに追いつけない。

    踏んだり蹴ったりの因幡の白兎よりましなんだが、ああいうお調子者
    でも傷ついた挙げ句、救いの神大国主命に遇ったわけさ。
    転んでも病んでも、あきらめ嘆くばかりではいけない。
    反省反省、どっかに反省の種はありますでしょうが、と夕闇に沈む
    山影をみつつ、思うのであった。

    
    
    
    
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神さま

2009-04-03 15:48:44 | Weblog


  芥川賞作家川上弘美の「神様」とても短い小説なんだが
  なんで神様なのか、気になる方は読んで納得されるがいい。
  わかったようなわからないような感じでいい。
  それが川上小説なので、落ち着かなくても納得できるはず
  である。これを嫌う人もいる。世の中、十人十色なので
  しかたがないこと。わたしは大好きな作家なので新刊を
  単行本で買い求め、やがて文庫化されるとまた買っておく。
  読み終わったものを、二、三年して寝つけない夜などに
  枕元でしみじみ読むと、ここちよい眠りにつけるので
  それには文庫本がいいのである。
  よだれなど、たらしても一向にかまわない。
  他人に貸したりするときは単行本の方にするといいから。

  で、うちにもくまの神様ならぬ犬の神様がいるので
  この神様がこういう顔をときどきする。
  おお、神々しい御顔!
  神様がそろそろ帰ってこいと言うので、そろそろかな、
  といつか言うときがくるだろう、うちの神様も。

  寛容を姿にしたような神様のお使いは、神々しい顔で
  周囲の棘棘を包み込んでくれている。
  この棘棘は彼のお腹に入って、悪さをしなければいいが。
  神様だって、死ぬときはあるのだから。

  (記紀、旧事本紀を読むと、神生みだけではなく死もまた
  多いことがわかるでしょう。)
  

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ふたつのかげぼうし

2009-04-02 10:48:03 | Weblog

  連日の大風が吹き抜け、茶色い昨年の落葉があらかた吹き飛ばされ
  庭掃除してくれてます。

  トラブルがあると内心けっこううろたえるんだけど、
  大風が吹いたあとはきれいになるからさ。
  それに気持ちの動揺はストレッチや筋トレだということで
  鍛えられていいことなんだわ。

  信長さんじゃないけど、人生○○年夢マボロシの如し。
  かげぼうしふたつ。
  四つで一つ。
  遊んでいるうちに、時は過ぎてゆくわ。

  ノンプロブレム、遊んでしまえ!

  (歳を重ねて、学べば学ぶほどにそうなるらしいよ)

  
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