想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

黄檗(きはだ)さん

2010-11-03 07:21:37 | Weblog
愛着のある樹、黄檗が今年もやわらかく色づいていた。二、三日すれば
もっと濃い黄色になる。
桜の次に色づき始め、紅葉よりもゆっくりと変わってゆく姿を日ごとに
確かめる。わたしはこの樹でいつも最初の秋を感じるので、なんとなく
キハダさん、そろそろ始まりますね、とさん付けで呼んだりしている。

キハダさんは漢方薬である。
うちにはハーブも少々植えているけれど、元々あった木の樹皮や葉に
薬効がけっこうあることをだんだんと知ってきた。
森は恵みに満ちた宝庫であるが、見えない鍵がかかっている。

鍵の暗証番号は植物図鑑にあるかと思ったら、それは初心者の思い込み
であった。薬効というのはそれ一つで成るものではないらしく、特に
和漢は調合と時節を選ぶのでいつでも採って出来るわけではなかった。
それに身体のほうも合うとは限らない。

和漢の薬が合うには、おだやかな心持ちも必要なようで、急激に良く
治そうと思えば効いていない気がしたりもして、今を辛抱できない。
自分の都合にモノを合わせてどんどん「便利」にしてきたことが近代化
なら、使うモノに合わせるなんてのは時代遅れである。
時代遅れは人気がないから人が振り返らなくなった。
そうして一巡りして、今はあわてて探しているようだけど、ぶっ壊して
しまった自然を取り戻すのはそう簡単じゃない。

雑木林の原生林は宝の山。そうと聞けば観光客や採取目的の人間がまた
どっと踏み込んでくる。極端から極端である。
「良いモノ」に人が群がり、人の欲は毒気を放って調和していた場所を
混乱させる。

先日、IKEAに本棚を買いに行った。あまりの安さとデザインのユウワク
に釣られてしまって。会計を済ませて宅配の手続きをするときになって
送料が棚の値段より高いことを知ってびっくり、キャンセルした。
それでよかった。買わずに済んでよかった。

IKEAがダイジョウブな人もいるだろうけれど、一緒に行った友人と二人
とも店内を歩いているあいだに具合が悪くなってしまった。
空気中に飛び交う微粒子に含まれている何かにやられたようで、喉と
眼が痛い。ホルムアルデヒドか? 染料に含まれているものか?

それとも、傍らを歩きながら友人が「この安さって、子ども使って作って
るからなんだよな」とブツブツブツブツと言い続けるのを聞き続けた
からなのか? 不明であるが、とにかくキャンセルした後、バタバタと
駐車場へ向かい車に乗り込んでほっとした。
友人は帰宅したあと発熱したようであった。わたしは床に溢れた本を前に
自分の愚かしさにぐったりしたのであった。

この森の奥のほうに、主のような大木があって、その場所はだ~れにも
言えないのである。誰にもみつからず、大きくなったんだから。
そっと近づいてその前にじっと立つ。一本で立っている樹はでも独りでは
ない。森は編目を張り巡らしたようにつながり地中にも空にも続いている。
仰ぎみて、深呼吸して、帰ってくる。

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続、死線を跨いでみて覚ること

2010-11-02 13:48:47 | 
意志は感性がなければただの欲に終わってしまう。欲は肉につながり
肉に呪縛され解放されない。欲の裏側は失うことへの不安や恐怖である
から愚痴るばかりになる。本当の生きる力は湧いてこない。

脳溢血で助かったが半身麻痺で不自由になったと聞くと父を思い出す。
父は偉丈夫な明治の男だった。美男子で、無粋を嫌う人であった。
自力で歩けずほとんど寝たきりで数年を過ごした人生の最期の季節、
床から何が見えていたのか、何を思い考えていたのか。
蘇る記憶の中に、父もまた意志の人であったことを認めることができる。
子であるわたしはそのことに少し幸せな気持ちになれ、不幸中の幸いより
少しだけ多めにくらいだが。

父の死後十年間はそのことを理解する由もなく嘆くあまりに暗い日々を
過ごした。空虚であった。悔いが大きすぎて自分の将来も考えられない
のであった。父の死とともに終わった気さえしていた。
寝たきりの父もまた生きていたのだ、希望を捨てなかったのだということを
知ったとき、わたしは初めて父の死に意義を見いだし、父の人生そのものを
尊ぶことができたと思う。心底うれしかった。
萎えた身体を以ても、生きる意味を教え続けてもらっていたと思う。
思い浮かぶ思い出のあらゆることに「寛容」へ至った父の姿が見えてくる。

これらのことをわたしはカメの教えに導かれて理解してきた。
カメが死者と生者の間をつなぎ、真意を伝えてくれた。
回生とは生者と死者の両方にまたがることのできる生き方である。
二人の科学者の往復書簡からは奇しくも科学では割り切れない世界が、
理知的な意志と相反する事無く伝わってくる。
カメに学んでいる事と、ほぼ重なる新しい思想に、文字にされなかった部分
がかえって読み取れる。それをダイレクトに言わないことが科学者の束縛と
矜持の両方であったろうと思う。
しかし、それでもお二人の肉声ははっきりと聴こえてくる気がした。

あっちが痛い、こっちが痛い、これが不自由、ああ嫌だ、身体の不具合
不都合を嘆き訴える声を身近に聞くことが少なくない。
カメへの取り次ぎ役と頼みにして相談してくる人のなかには自業自得だろ、
と放っておきたくなるわがままな人もいて、そういう人はわがままで
あることを自覚していないから強烈である。
我のかたまりになってぶつかってくる。

けれど、痛みがどういうことか、不自由がどんなに心を傷めるかが
わかっている。知らんフリするにはわかりすぎているともいえる。
ただ情けなく残念に思いながら聞いてはくれないだろう忠告もする。
もちろん、キカナイ、すぐには。こちらも引き下がらない、すぐには。

病になる前にしておかねばならないことは、学ぶことだと痛感する。
後から、悔いてからでも遅くはないが、無知な人は悔いることも
少ないのである。
考える力がなければ、内側から「新しき人」が再生してくるのは
不可能である。タネがなければ芽が出ない。

蓄積された知識と感性が、肉の限界を乗り越え、脳細胞の活性化を
促す原動力となる。魂の力とも言えるけれど、魂とか命という言葉に
アレルギーのある人にそれを説くとき、知性と感性と意志の三つが
必要だとカメは伝えている。
多くをたゆみなく学ぶことが考える力を育て、意志が目覚めるのである。
健康な肉体に恵まれている者も、死線を跨ぎ生き直すことはできる。
「私を滅す」がその方法である。
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死線を跨いでみて覚ること

2010-11-02 00:39:58 | 
多田富雄、鶴見和子往復書簡集より。
「(健康なときは)「金力、名声、権力」をめざした競争を
多かれ少なかれやっていたと思います。
それを自分では批判しながら、やはりそういう状況のなかに
生きていたと思います。
(略)ところが、倒れて半分死んで半分生きているという
状態になったときに、非常に自然の事物が自分にとって近い
ものになりましたし、自然の事物を非常に敏感に感じ取ること
ができるようになった。」(鶴見和子)

多田富雄氏は『寡黙なる巨人』に生まれ変わった後の闘病の
果てに「寛容」という言葉を遺して逝かれたことがまだ記憶に
生々しくあってわたしは感想を述べたりするのが軽々しく思え
気が引けただ瞑目するしか能がない。

知的職業を生業とする者が言語能力が麻痺するという後遺症を
患うことがどんなにか屈辱的であるか、断崖からいきなりつき
落とされ生きながら自己喪失してしまって当然である。
そこから血を吐くようなリハビリを重ねて再びモノ言う人として
活動を始められた。その内容は健康であったときの活動や業績を
鳥瞰する目と深い洞察力によっている。
人間にはこのような可能性があるのかと驚くばかりだが、両氏とも
そのことが死の淵を覗いてきた故のことと記している。

多田氏も鶴見氏も知の巨人であるが、同時に特権を持つ選ばれた
人であった。そこから身体障害者、弱者へと急転した境涯を不幸
と嘆き、無様な姿を世間から隠して生きるという選択もあったはずだ。
両氏ともそうはしなかった理由はなぜだろうか。
対談集はその問いへの応えでもある。
行間から、文字には変換できない奥深い魂の声が伝わってくる。

有名無名に関わらず、人が手足を奪われたときに残るものは何か。
それは言葉であり、言葉を発する能力を奪われたときも意志が消える
ことはない。言葉は意志である。
我に意志はあるか、それが回生への鍵であろうかと思う。後ろ向きに
生きるのではなく前へとまた踏み出すために必要なことだ。
(続く)

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雨雨雨雨雨

2010-11-01 01:54:27 | Weblog
ここは本州のちょうど真ん中あたりなので太平洋側沿いに
北上している台風の影響は少ない。丸二日、大風も吹かず
小雨が降り続いているだけで済んだのは幸いであった。

ベイビーは用足し散歩すると、すぐに「ハウス!」と言われ
庭の植木の陰に「かくれんぼう」したりしてストレス気味な
様子。何とか外にいつづけようとごまかして言う事を聞かない。
「どこかなあ、ベイビー、どこ行ったかなあ」と付き合わせ、
怒られる寸前くらいにトコトコと現れる。
カワイイヤツだ。
雨足もひどくなりそうだから、もう入んなさいよとゴリゴリ
頭を撫でられて仕方なさそうに入るのであった。



気持ちはわかる。写真も撮れないし、庭仕事も風邪っぴきで
できないし、晴れてほしいよ。晴耕雨読って言葉がむかーしから
あるにはあるんだが、お天気とは関係なく読書する足元でゴー
ゴーとイビキかいているな、エラいヤツだ。

小雨の時、里まで降りて行くと村道に普段より車が多い。
何何?と思っていたら、どうやら選挙投票日。知事選だった。
今度ばかりはパス。来週だと思っていたからハガキを置いてきた。
熱意もないし‥。このサメータ感じ、選挙権持ってから初めてかも。

里まで車を走らせた理由はLANケーブルが欲しかったから。
別にどうしても今日でなくてもよかったが、なんとなく雨に
つられて出てきた感じ‥。
そうそう、雨に濡れた集落の景色は、ふだんの猥雑さが消えて
静かでとても「人が良さそうに」見えたのです。




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