新聞にこんな記事が載っていました。
『奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳で、墳丘を八角形に囲む凝灰岩の石敷きが発掘され、八角形墳と確認された。9日発表した村教委によると、石造埋葬施設の周りに巨大な切り石を立て並べ、墳丘表面も石で覆った特異な石造の古墳とみられる。
八角形の墳丘は飛鳥時代の天皇陵の特徴で、天智、天武両天皇の母で、大規模土木工事を好んだとされる斉明天皇が被葬者であることが確定的となった。
間仕切りをして2室にした石槨の構造、合葬された間人皇女と同年代の女性とみられる歯などの出土品と合わせ、斉明陵が、宮内庁が指定する奈良県高取町の車木ケンノウ古墳ではなく、牽牛子塚古墳だとほぼ確定した。』
皇極・斉明天皇、激動の時期を生きた天皇ですよね。
夫・舒明天皇の死によって即位、蘇我氏を重用した政治を行ったものの、弟(後の孝徳天皇)と息子(中大兄皇子、後の天智天皇)によって目の前で寵臣・蘇我入鹿を殺害されるクーデターが勃発、天皇位を譲位させられる。教科書に「大化の改新」と書かれている事件です。
譲位後は中大兄皇子と結び、孝徳は失意のうちに亡くなり、自身は斉明天皇として重祚。
半島で任那が新羅に攻められて滅亡、同盟国の百済も滅亡の危機に瀕したので、出陣のために九州に向かい、その地で病没。
有名な「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎいでな」の歌は、この出兵に際してのものである。。。
この辺の歴史の真実は分からないですね。
最初は蘇我氏、後になっては中大兄皇子の傀儡だったのかというと、私は必ずしもそうは思いません。
開明的だったとは思いませんが、それなりに権謀術策に長けた、威厳のある女帝だったのではないでしょうか。
さて、宮内庁はどう出るのでしょうか。
比定間違いと思われる古墳を斉明天皇陵として、税金を使って管理し続けるのでしょうか。
あくまで天皇陵と主張して、発掘調査を拒否し続けるのでしょうか。
こうした姿勢が日本の考古学、ひいては日本の歴史の解明に大きな障害になっているとは思わないのでしょうか。
それにしても牽牛子塚古墳、一枚岩の巨石を刳りぬいた石室のある、天皇陵にふさわしい、それはすごいものらしいです。
見に行きたいですよね。これは。
『奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳で、墳丘を八角形に囲む凝灰岩の石敷きが発掘され、八角形墳と確認された。9日発表した村教委によると、石造埋葬施設の周りに巨大な切り石を立て並べ、墳丘表面も石で覆った特異な石造の古墳とみられる。
八角形の墳丘は飛鳥時代の天皇陵の特徴で、天智、天武両天皇の母で、大規模土木工事を好んだとされる斉明天皇が被葬者であることが確定的となった。
間仕切りをして2室にした石槨の構造、合葬された間人皇女と同年代の女性とみられる歯などの出土品と合わせ、斉明陵が、宮内庁が指定する奈良県高取町の車木ケンノウ古墳ではなく、牽牛子塚古墳だとほぼ確定した。』
皇極・斉明天皇、激動の時期を生きた天皇ですよね。
夫・舒明天皇の死によって即位、蘇我氏を重用した政治を行ったものの、弟(後の孝徳天皇)と息子(中大兄皇子、後の天智天皇)によって目の前で寵臣・蘇我入鹿を殺害されるクーデターが勃発、天皇位を譲位させられる。教科書に「大化の改新」と書かれている事件です。
譲位後は中大兄皇子と結び、孝徳は失意のうちに亡くなり、自身は斉明天皇として重祚。
半島で任那が新羅に攻められて滅亡、同盟国の百済も滅亡の危機に瀕したので、出陣のために九州に向かい、その地で病没。
有名な「熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎいでな」の歌は、この出兵に際してのものである。。。
この辺の歴史の真実は分からないですね。
最初は蘇我氏、後になっては中大兄皇子の傀儡だったのかというと、私は必ずしもそうは思いません。
開明的だったとは思いませんが、それなりに権謀術策に長けた、威厳のある女帝だったのではないでしょうか。
さて、宮内庁はどう出るのでしょうか。
比定間違いと思われる古墳を斉明天皇陵として、税金を使って管理し続けるのでしょうか。
あくまで天皇陵と主張して、発掘調査を拒否し続けるのでしょうか。
こうした姿勢が日本の考古学、ひいては日本の歴史の解明に大きな障害になっているとは思わないのでしょうか。
それにしても牽牛子塚古墳、一枚岩の巨石を刳りぬいた石室のある、天皇陵にふさわしい、それはすごいものらしいです。
見に行きたいですよね。これは。
見に行きたかったが、、遠いから。
公開前に200人の行列ができたと、ニュースに書いてありました。
そのあたりの年代が、、歴史の中でリアリティーが出てくるはじめで、その前はかすみの中のようです。
記述を書き換えたのか、元々なかったのか、議論はつきません。
教科書に書かれている歴史は、古事記とか日本書紀とかの記述に沿った史観になっているから、編纂した元明天皇側の史観になっていると思われます。
真実は、、、案外中大兄ではなく蘇我入鹿の方が開明派で、大化の改新は保守反動のクーデターだったのかもしれません。
発掘調査を進めれば分かることも多いと思うのですが。