ブラスカル

元マラソンランナーですが、今や加齢と故障でお散歩専門、ブラタモリっぽく街歩きをしています。

なんとなく、死生観とか。

2013-01-11 23:44:55 | その他
今年はなぜか喪中葉書がやたらと多くて、年賀状が余ってしまいました。
幸い私は両親健在なのですが、偶然か、そういう歳周りなのか。。。

世界の人口は約70億人、自分もその中の一人なのですが、「自分」と「自分以外の70億人」と考えると、自分が実在する世界ってのは、自分の寿命の分だけ、たかだか80年かそこらということになります。
でも、人間は、世界中の70億人を全体として外から眺めるという視点を持っているわけで、自分が生まれる前からこの世の中が悠久の歴史を刻んできたことも、自分が死んだ後も何事もなかったかのようにこの世界が続いていくことも知っている。

だから人間は、自分の心の安寧のため、肉体の死の後も自分は別の形で存在し続けると考えたくなり、それが宗教になっていった、のかな?

キリスト教とかイスラム教とか、世界の多数派である一神教では、「信教を貫いた者だけが死後に永生を得ることができる」という選民思想が基本みたいです。
砂漠みたいな自然環境、異民族同士の紛争、そういう厳しい環境の中から「神の国」「天国」という発想が生まれてきたのでしょう。

その対極にある死生観は、死んでも次に何かに生まれ変わる、「輪廻転生」ということになるのでしょう。
こっちはヒンズー教とか、仏教とか、いかにも熱帯、亜熱帯地域由来の多神教っぽい。
豊かな自然の元、生命が生まれては死に、生まれては死にする環境に影響を受けているのでしょう。
温暖な気候、美しい四季、豊かな海、日本神道も、どっちかといえばこの系統ですよね。
私は日本人なので、信仰を積んで天国に行くよりも、輪廻転生の方が何となくしっくりきます。

でも、まあ、昔の人や、よっぽど信仰の厚い人、原理主義者ならいざ知らず、普通の人は、実際問題として死後の世界なんてないって分かっていて、それをあえて口にしないだけ。
「宇宙兄弟」の日々人も、「天国とか地獄とかは、生きている人の見るもの」って言ってたし。
そう思うと、宗教の違いにどうしてあそこまで非寛容にならなければいけないのかな、日本人である自分には理解不能です。

なんて、余った年賀状を見ながら、そんなことを考えてしまいました。
正確な宗教知識があって書いたものではない、単なる戯言ですので、ご容赦ください。
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2 コメント

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Unknown (アラレ)
2013-01-13 20:12:50
宗教は難しいですが、自分が正義という人にはよく出会って、結局、どれだけ自分のたち位置とか考え方とかを、相対的に見ることができるか、ということが胆だと思う、今日このごろです。
あきらめたらゲームセットだとは思いますが、私は、あきらめました。最後の手段だったのですが、能力が落ちただけで、痛みはそのままです。
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きっといつかはまた走れるようになる (RASCAL)
2013-01-14 08:44:26
アラレさん
私が初めて故障した時、まつごろうさん(当時は、100kmマラソンを2日連続で走るなど、大江戸唯一のウルトラランナーでした)に言われた言葉が、「いつかは分からないけど、でもきっとまた走れるようになる」でした。
アラレさんは、まだ私が走り始めた時くらいの年齢だから、簡単に結論を出さないで、もっと時間軸を長く持って考えたらいいんじゃないかな。
私はまだあきらめてません。
あきらめない限りは終わらないから。
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