四季の旅人

私のブログは生きるを旅として、四季を歩きながらその表情を文に纏めているのが私のブログです。

ついに訪れた悪夢の一日

2009-05-20 | Weblog
裁判員制度について思うこと。

個人参加の裁判制度がいよいよ始まる。
人を裁く、ある意味でその既成事実に基づいてそのベースとなる証拠を元に、
その人が起こした事件を裁くのであるけど、
三権分立という中の司法の場で素人我々が参加して冷静な目で偏りがちな裁判官の考えに、考える疑問の余地を挟むことについては賛成なのですが、今の三権分立を考えた場合、肥大、官僚化、利権確保、法律の拡大解釈、乱発という状況の中でその既成概念が薄れて、その垣根が崩れているのではないかということが危惧してならないひとりである。
「それはなぜ」そう聞かれても確たる証拠は挙げられないけど、報道された内容などのページを捲るときに感じるのである。

裁く。
人が人を裁くそれは難しい。
ある意味で被害者の感情を考慮しないと非難されるし、直ぐに個人の権利は、家族の思いは尊重されないのかと問われる時代である。
私は現場の警察が調査するすべてのことが事実として、そしてそれらの事実にすべての確固たる物的証拠が備わっているのであればいいのだけど、時には推測で判断をしていることもあり、それをベースにして判断しなければならないこともあり素人には難しい。ましてそれらを積み上げて確認する検察がある意味で精確に調査して作成されたかはなはだ疑問を感じる。
冤罪を作るのは検察にもあり、それは警察と検察の表裏一体でなされているのではないかと思ってしまう、今の取調べを体験すると、その調べ方はある意味で脅しであり、自白に追いやるための繰り返しでもあり、人間、長時間同じ人間に繰り返し同じことを言い続けられる、もうどうでもいい楽にしてくれといいたくなるのが事実である。
たしかにはっきりした事実の証拠で成り立つ事件もあるけれど、すべてが必ずしにもそれらの証拠で成り立っていない面もあり、その判断は素人に難しい。

下す。
それは丁か半でなく、閉じ込められるか解放されるか、生かされるか死かである。
罪か冤罪かその分かれ目の判断を下すという事は冷静な既成概念の事実に基づいて、その至らしめた動機、その方法など証拠をベースに遺族の感情を抜きにして真実を見つけて判断しなければならないのである、つまり判定にはすべて100%の物的証拠が揃っていると断言できないのである。
それをベースに遺族の感情をかんがみて適正な判決を下さなければならないこの事実と重圧、それは一般の人間には相当重い判断である。
まだアメリカのような陪審制度の方がいいかと思ってしまう。
何れにしよう始まる新しい裁判制度、個人的には免れたいと思うひとりである。

出来るなら死ぬまでに一度だけでいい法廷に立つのは、
願おう外れることを。

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