笑うかどには福きたる

日常生活で見たこと、聞いたこと、感じたことを牧歌的にのんびりと書いています。

「京都駅近くに泊まっただけの、2023年夏休み」 ~書き残し

2023年08月15日 12時00分04秒 | 日々雑記
書き残しや、後から分かったこととか、備忘録とか。。

<東本願寺 阿弥陀堂門正面の牡丹の木鼻>


牡丹まで、しっかり阿吽の呼応になっていた!


<こんなイベントがあった>

 ”木彫刻の寺”東本願寺の魅力再発見‼
   「井波彫刻師による東本願寺 の彫刻ガイドツアー
  なるものがこの春に開催されたとかで、解説動画をここで観られます。
  「解説完全版」は見応え十分。
  見所いっぱいの東本願寺、また行かなきゃ~(*^^*)

<で、井波彫刻師って?>
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「物語から飛び出したかのような、躍動感のある彫り」が特徴

井波彫刻の始まりは、18世紀・江戸時代中期頃と言われています。「井波」とは、現富山県南砺市の地名であり、元々技術水準の高い大工が存在していました。当時、井波に建立された瑞泉寺の本堂再建に当たり、京都本願寺の御用彫刻師である前川三四郎が派遣され、これに地元大工である番匠屋九代七左衛門ら参加し前川三四郎に彫刻の技法を習ったことが始まりとされています。
1792年(寛政四年)、浮き彫りの技法で作成された瑞泉寺勅使門「菊の門扉」と門の両脇の「獅子の子落とし」は、番匠屋九代七左衛門の代表作であり日本彫刻史上の傑作と称されています。

KOUGEI JAPANより
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<本願寺はなぜ東西に分かれているのか>

妹殿あたりから「あんた、そんなことも知らないの?」と直球で言われそうですが(^_^;)
ゴメンよく知らないの。というわけで、ほんのちょっと調べてみました。

 ・もともとはひとつの浄土真宗であった
 ・東と西に分かれた理由は、織田信長の石山本願寺戦争にある
 ・本願寺内で、徹底抗戦派と和睦派に別れ
  (信長の死後も、この分裂が後々まで本願寺のお家騒動に繋がり)
 ・秀吉の京都再建に伴い京都に戻るが(これが現在の西本願寺)
  (その後地震や火災により建物が消失し、1760年(宝暦10年)に現在の姿になった)
 ・本願寺内のお家騒動を利用した家康はかつての主戦派側に土地を寄進し、
  別に寺を建立させ分断を図る(これが現在の東本願寺)
  (東本願寺は戦禍や火事のため全焼し、1895年(明治28年)に現在の姿になった)
 ・西本願寺は「浄土真宗本願寺派」を名乗り
 ・東本願寺は「真宗大谷派」を名乗っている
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<興正寺の彫刻が東本願寺の彫刻に似ていることについて>

これはあくまでも、根拠のない想像ですが、、、
「彫刻ガイドツアー」によると、1762年に井波瑞泉寺が焼失した時に、東本願寺の彫刻師が井波に来て技術を教え、その後1895年の東本願寺の再建事業の時に井波の彫刻師たちが大活躍したのだそうです。
興正寺は火災により多くの建物が焼失し、「1912年(明治45年)に御影堂が、1915年(大正4年)に阿弥陀堂が完成」とあるので、ひょっとしたら井波の彫刻師たちも関わったのかもしれません。。

<WEBにあった、興正寺の寺紋>


<やっと一息>





2日目の夜、「都路里 京都伊勢丹店」にて。
一日お疲れ様でしたの「黒蜜のかき氷」と、窓側のカウンター席から見えた京都タワー

今度は、パフェ食べよ~っと(^^)b
コメント (2)
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