タキさんの押しつけ読書感想
『エンダーのゲーム』
昨年の春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している読書感想ですが、もったいないので転載したものです。
エンダーを読み終えた今、WOWOWで「バンビ」を見ています。70年前のアニメにここまで感動するなんて……思ってもいませんでした。
“エンダー~”は30年前、オースン・スコット・カードによって書かれたSFで、いまだに続編が続いています。これを原作にした映画(ヒューゴのエイザ・バターフィールド主演、小型のジェレミー・レナーに見えます)が全米公開中、日本では来年公開です。
この話、日本のゲームや漫画(恐らく進撃の巨人を指しているんでしょう)に影響を及ぼしたとか言われとりますが、発表が70年代初頭ならいざ知らず、85年発表の本作に日本のSFが影響を受けたなど有り得ません。
未来、地球は「バガー」という未知生命体から攻撃を受ける。第一次攻撃は偵察程度、後にやって来た第二次攻撃は本格的植民を狙っていた。ギリギリの土壇場で地球人類はバガーを撃退するが、来るべき第三次攻撃を邀撃出来るかは絶望的だった。
人類は先制攻撃するべく次々宇宙戦艦を建造、順次発進させている。趙空間航法は未だに実現していない、初めの攻撃隊は70年前に発進している。
バガー(“バグ=虫 蟻が進化した思えば良い……ハインラインの「スペース・トゥルーパー」モ虫形宇宙人が敵、発表はハインラインが先)はテレパシー能力があり、一個体の記憶も経験も瞬時に全個体に平均化される。テレパシー能力に距離の影響は無く、例え銀河の両端にいようとも瞬時に意志疎通できる。人類はバガーの研究から機械を使ってテレパシーと同様の通信が可能になっている。 地球艦隊はバガーの繁殖本星まで後5年の距離にまで到達しているが、戦闘の総指揮を取る指揮官がいなかった。10年以上前から養成されてはいるが、絶対間違いないと確信出来る人材は見つからない。5年前、エンダー・ウィッギンという“6歳の少年”に白羽の矢が立った。エンダーは天才であり、通常の6歳ではないが本質は子供である。そして、その子供を11歳になるまでに非情な艦隊指揮官に仕上げなければならない。
ここからエンダーのあまりに過酷な演習がスタートする。物語はエンダーの養成学校入校からバガー母星破壊までを描く。
バガーに勝つにはバガーの心理を理解しなければならず、その為にはバガーとの精神的同化が必要であると言うことと、指揮官はバガー母星宙域に居らずとも通信で指揮できるというのが重大設定。
ここまで言うと、慣れたSF読者には本作のストーリーはバレルでしょう。物語の底に、異形に対する無理解、問答無用の排他性が流れています。
人類が虫形宇宙人に出会って、まず理解しあおうという精神状態になるか? まぁ、あきまへんやろね。肌の色が違う、宗教が違うだけで殺し合うのですよ、我々は……バガー達にしてみれば、この宇宙に思考力を持つ生物は自分達だけだと考えていた。文明らしき物を持っている人類にせよ、テレパシーを持たない醜い生き物に過ぎなかった。
エンダー・ウィッギンは艦隊指揮官であると共に、人類唯一のバガー理解者となり、それが彼を絶望の淵に追いやる事となる。
さて、なんで冒頭に「バンビ」の話をしたのか?
森で育ったバンビが母に初めて草原に連れられた時、そこは危険な場所だと教えられる。 そこには人間という秩序破壊者がいて、森のように身を隠すすべがないからです。バンビに人間の姿は登場しませんが、銃声が追ってくる、火の不始末で山火事になる。人間てのはろくな存在じゃない。70年前から人間の存在はそのように描かれて来ました。エンダーは その頭脳と進化から人類以上の存在になっている、宿敵バガーですら“種の存続”をエンダーに託す。コーマック・マッカーシーが人間の本質が“悪”だと告発するなら、SFは人類の種からも“善”の芽はでるのだと主張する。ただ、絶対的力を持ち得なければ、その善は無力だとも……その意味では本作の結末もコーマック・マッカーシーの結論も一致しているのかもしれません。
子供が主人公ですから、ジュビナイル的な印象を受けますが、ネビュラ/ヒューゴ両賞をとった立派なハードSFです。人間がこの世界で最高位の捕食者(プレデター)であるのは、捕食する身体的実力を持つからではなく(実力からみれば人間は依然として獲物に過ぎない)歪んだ思考力と精神性によるのです。数あるプレデターの中で共食いするのはチンパンジーと人間だけなのですから。
『エンダーのゲーム』
昨年の春(2016年4月)に逝ってしまった滝川浩一君を偲びつつ
これは、悪友の映画評論家・滝川浩一が個人的に身内に流している読書感想ですが、もったいないので転載したものです。
エンダーを読み終えた今、WOWOWで「バンビ」を見ています。70年前のアニメにここまで感動するなんて……思ってもいませんでした。
“エンダー~”は30年前、オースン・スコット・カードによって書かれたSFで、いまだに続編が続いています。これを原作にした映画(ヒューゴのエイザ・バターフィールド主演、小型のジェレミー・レナーに見えます)が全米公開中、日本では来年公開です。
この話、日本のゲームや漫画(恐らく進撃の巨人を指しているんでしょう)に影響を及ぼしたとか言われとりますが、発表が70年代初頭ならいざ知らず、85年発表の本作に日本のSFが影響を受けたなど有り得ません。
未来、地球は「バガー」という未知生命体から攻撃を受ける。第一次攻撃は偵察程度、後にやって来た第二次攻撃は本格的植民を狙っていた。ギリギリの土壇場で地球人類はバガーを撃退するが、来るべき第三次攻撃を邀撃出来るかは絶望的だった。
人類は先制攻撃するべく次々宇宙戦艦を建造、順次発進させている。趙空間航法は未だに実現していない、初めの攻撃隊は70年前に発進している。
バガー(“バグ=虫 蟻が進化した思えば良い……ハインラインの「スペース・トゥルーパー」モ虫形宇宙人が敵、発表はハインラインが先)はテレパシー能力があり、一個体の記憶も経験も瞬時に全個体に平均化される。テレパシー能力に距離の影響は無く、例え銀河の両端にいようとも瞬時に意志疎通できる。人類はバガーの研究から機械を使ってテレパシーと同様の通信が可能になっている。 地球艦隊はバガーの繁殖本星まで後5年の距離にまで到達しているが、戦闘の総指揮を取る指揮官がいなかった。10年以上前から養成されてはいるが、絶対間違いないと確信出来る人材は見つからない。5年前、エンダー・ウィッギンという“6歳の少年”に白羽の矢が立った。エンダーは天才であり、通常の6歳ではないが本質は子供である。そして、その子供を11歳になるまでに非情な艦隊指揮官に仕上げなければならない。
ここからエンダーのあまりに過酷な演習がスタートする。物語はエンダーの養成学校入校からバガー母星破壊までを描く。
バガーに勝つにはバガーの心理を理解しなければならず、その為にはバガーとの精神的同化が必要であると言うことと、指揮官はバガー母星宙域に居らずとも通信で指揮できるというのが重大設定。
ここまで言うと、慣れたSF読者には本作のストーリーはバレルでしょう。物語の底に、異形に対する無理解、問答無用の排他性が流れています。
人類が虫形宇宙人に出会って、まず理解しあおうという精神状態になるか? まぁ、あきまへんやろね。肌の色が違う、宗教が違うだけで殺し合うのですよ、我々は……バガー達にしてみれば、この宇宙に思考力を持つ生物は自分達だけだと考えていた。文明らしき物を持っている人類にせよ、テレパシーを持たない醜い生き物に過ぎなかった。
エンダー・ウィッギンは艦隊指揮官であると共に、人類唯一のバガー理解者となり、それが彼を絶望の淵に追いやる事となる。
さて、なんで冒頭に「バンビ」の話をしたのか?
森で育ったバンビが母に初めて草原に連れられた時、そこは危険な場所だと教えられる。 そこには人間という秩序破壊者がいて、森のように身を隠すすべがないからです。バンビに人間の姿は登場しませんが、銃声が追ってくる、火の不始末で山火事になる。人間てのはろくな存在じゃない。70年前から人間の存在はそのように描かれて来ました。エンダーは その頭脳と進化から人類以上の存在になっている、宿敵バガーですら“種の存続”をエンダーに託す。コーマック・マッカーシーが人間の本質が“悪”だと告発するなら、SFは人類の種からも“善”の芽はでるのだと主張する。ただ、絶対的力を持ち得なければ、その善は無力だとも……その意味では本作の結末もコーマック・マッカーシーの結論も一致しているのかもしれません。
子供が主人公ですから、ジュビナイル的な印象を受けますが、ネビュラ/ヒューゴ両賞をとった立派なハードSFです。人間がこの世界で最高位の捕食者(プレデター)であるのは、捕食する身体的実力を持つからではなく(実力からみれば人間は依然として獲物に過ぎない)歪んだ思考力と精神性によるのです。数あるプレデターの中で共食いするのはチンパンジーと人間だけなのですから。