大橋むつおのブログ

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高校ライトノベル・あのころの自分・5『ミカン箱一杯だけの世界』

2015-05-04 12:36:44 | 私小説

あのころの自分・5
『ミカン箱一杯だけの世界』
         



 針仕事をする母の傍で、畳のヘリを線路に見立てて三十円ほどの玩具の電車で遊んでいました。

 三畳に六畳、五軒並びの長屋の南から二つ目が、物心ついたころのわたしの家でした。
 家には一畳半の玄関の三和土(たたき)と二畳分ほどの縁側がついていました。
 でも、いつも母が針仕事している六畳の部屋が、わたしのコクーンでした。

 母が針仕事している二畳分ほどは聖域で、わたしの電車は、そこへ行きつくと手前の畳のヘリのジャンクションで曲がります。そんなことを半日ほどやって、飽きたら新聞の広告の裏などに拙い絵を描いて遊んでいました。
 日がな一日、そんなことをしていた記憶があるので、おそらく幼稚園にあがる前の四歳くらいの記憶です。まだテレビもなく、上皇陛下は若い皇太子で独身であられました。

 臨時工であった父は朝鮮戦争後の不景気で人員整理され、別の工場で以前より安い給料で働いていました。あ、わたしが生まれた昭和二十八年ごろのことです。明くる二十九年からは神武景気になり、父は再び臨時工の身分で元の会社にもどりました。
 で、人員整理した会社が済まないと思ったのか、組合が強かったのか、父と母は神崎川のほとりのボロアパートから、新築の社宅に越してきました。
 わたしは、まだ生後三か月ほどだったそうで、一番古い記憶が、母の傍らの六畳一間でした。

 もはや戦後ではない……と言われましたが。日本はまだまだ貧しく、例えば舗装道路は、家から五百メートルほど離れた市電の通りまで行かなければありませんでした。

 母の針仕事は、二万に届かない父の月給を補うための内職でした。和裁用の黒い裁縫箱、ささやかな貝殻のカケラが塗りこめてあり、幼いわたしには威厳に満ちた魔法の箱のように思えました。

 二段の大きい引き出し。その上に中くらいと小さな引き出し、上の蓋を開けると指ぬきやチャコ、糸切狭に針山。他に、わたしにはわからない和裁の細々とした道具が入っていました。
 右だったかの隅には、二寸ほどの引き起こし式のタワーがついていました。和裁に疎いわたしには、その名称は分かりませんが、幼いわたしには「母ちゃんのタワー」でした。

 タワーからは子どもの手ほどの金属製の洗濯ばさみのようなものが付いていて、それで反物の端を挟み、よく切れる洋裁ばさみで、小気味よく生地を断っていました。生地を断つ前は、器用に手で一尺ずつ尺をとり、細かいところは鯨尺で寸をとっていたように思います。

 母は、ラジオを点けながら内職をやっていました。田畑義男、春日一郎、笠置シヅ子、美空ひばりの歌が聞こえたり、ダイマル・ラケットの漫才などをやっていたように思います。
 ラジオに合わせて、母が時にラジオに合わせて鼻歌で和したり、漫才に笑ったりすると、とても幸せでした。ときたま母と目が合って、二人とも笑っていたりすると、しびれるぐらい幸せでした。

 父は大正十四年の生まれではありましたが、第二丙種ぐらいだったようで、兵隊にはとられませんでした。幼い時の病気で人より手足が短く、身長は四尺半ほどしかなく、工場での仕事も辛いようで、風呂やから帰って来ると背中や肩にサロンパスを貼っていました。背中の真ん中が貼りにくく、ときどき母や姉が貼っていました。わたしもやってみたかったおですが、セロハンからうまく剥がせずにダメにしてしまうことがあったので、やらせてはもらえません。

 社宅の長屋で兵役の経験が無いのは父一人だけでした。工場では辛いことも多かったのでしょう。たいてい帰宅するときには眉間にしわを寄せ、なにやら人への呪詛めいたことをブツブツ言っていました。

 父は、我が家のブラックホールでした。

 だから、昼間、母の内職の傍で遊んでいたことが、とても幸せ……だったことに気づいたのは、母の葬儀を済ませて丸二年がたった最近です。

 わたしにも母の裁縫箱に匹敵する箱がありました。

 小さなミカン箱です。そこには四歳のわたしの全財産が入っていました。30円の電車の玩具。多分よそのお家からもらったお下がりの玩具。そして僅かばかりの絵本。サクマドロップの空き缶に入っていた数十個のビー玉。
 いま思えば玩具とも言えないようなガラクタが宝物で、小さなミカン箱は宝箱でした。

 少し大きくなってから、ミカン箱には、もう一つの意味が付け加わりました。

 わたしの上には三つ上の姉がいて、さらにその一つ上に、生まれて三十分だけ生きていた兄がいました。兄の話は小学生ぐらいで聞いたように思います。

 兄は、七カ月に満たない早産でした。いまの時代なら未熟児として生きていたでしょう。

 でも、そのころは手の施しようがありません。産婆さんは死産として処理しました。生まれてから死んだのでは戸籍を作らなければならず、葬式も出さなければなりません。貧しい両親にそんな余裕はありませんでした。

 で、子犬ほどの大きさの兄は、おくるみに包まれ、哺乳瓶一本のミルクだけ添えられミカン箱の棺に入れられ、神崎川の河川敷に埋められました。

 ミカン箱一杯だけの世界。わたしには、この二つの意味があるという話でした。




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