大橋むつおのブログ

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らいと古典・わたしの徒然草・10『第三十段 人の亡き跡ばかり悲しきはなし』

2021-02-19 07:10:15 | 自己紹介

わたしの徒然草・10

『第三十段 人の亡き跡ばかり悲しきはなし』  

 



 ポツダム少尉という言葉をご存じでしょうか。

 大東亜戦争の敗戦時、帝国陸海軍を解体するにあたり、現役の軍人の階級を一階級上げました。その中でも陸軍士官学校在学中の生徒第五十九期の生徒を繰り上げ卒業させ、少尉に任官させたものを言います。
 少尉というのは最下級ではありますが士官です。生徒では下士官相当で、その違いには大きな開きがあり、このポツダム昇進の象徴として「ポツダム少尉」と呼ばれます。

 昨年末に、そのポツダム少尉の一人が他界されました。米寿までにあと一ヶ月でありました。

 商社を二社勤められ、昭和二十年代の半ばで結婚され、三人のお子さんに恵まれましたが、一番下のお子さんを幼くして亡くされました。
 六十歳で、無事定年をむかえられたあとは、近所の中高生を相手にささやかな寺子屋のような塾を開かれておられました。それだけでも退職後無為徒食に過ごしているわたしには眩いことなのですが、このポツダム少尉には感嘆に値することが二つあります。

 一つは、中年になってクリスチャンになられたこと。

 男が自発的に改宗することはめったにありません。奥さんの家がクリスチャンであったことと関りがあって、おそらくは御夫婦の間の事に起因してのことなのでしょうが、奥さんの事や宗教の事を真正面から受け止めて、自分の精神世界を一変させる決断力、行動力は凄いと、自分も、その年齢になって感じます。

 もう一つは奥さんとの結婚です。

 奥さんとの結婚は、彼女がほとんど嫁ぎ先が決まっていたところを、敵中突破の敢闘精神で、嫁にされたと人づてに聞いておりました。ポツダム少尉は大正の末年のお生まれで、この年頃の男は『男一人に女はトラック一杯』と言われるほどに少なく、たいていは条件のいい見合い結婚をしております。この部分だけでも源頼朝が北条政子を略奪婚したことにやや似て、ちょっとドラマチックであります。

 ポツダム少尉は、わたしの親友の父上でありましたが、四十年に近い友人とのつき合いで、わたしが承知していることは、この字数にして二百字程度のことに過ぎません。

 ご葬儀の後、この親友からお父さんのことについて聞いてみましたが、この二百字を超える内容のことは聞けませんでした。
 わたしは、事あるごとに大正や昭和一桁の人たちの話を聞くことにしていました。
 わたしたち戦後生まれの者が知っている戦前、戦中は、学生のころ授業で聞いた「知識」、またはマスコミのバイヤスのかかった「情報」にすぎません。

 しかし、戦後も六十年を超えると、聞き出すのが容易ではありません。戦後の垢にまみれている先人の記憶から、青春時代の「自分」を聞き出すのは、砂浜に落としたダイヤを捜すようなものであります。
 半ば職業的に語り部になっておられる人の話は、たいてい「反戦」のバイヤスがかかっていて、話半分であります。
 ごく平凡に歳を重ねてこられた人は、今まで、そういうことをまともに聞かれたことがないせいか、散文的な答えしか返ってきません。
 聞き出すには時間もかかります。
 友人のお父さんにも昨年の正月にお聞きするはずでありましたが、都合が合わず見送りとなって、そのままになりました。

 四十九日が過ぎた頃、友人から二枚の書類のコピーをもらいました。

 近所の神社の総代会の書類でした。本文はワープロで打たれていました。

 ところどころにメモ書きがあって。そのメモも端正な直線的な字で書かれていました。なにか旧制中学の生徒の字のように感じました。単語を並べただけのようなものでしたが、中味はよく分かります。ワープロの文章も無駄な修飾が無く、有能な前線指揮官の戦闘詳報を見るようでした。

 いつ、どこで、だれが、何を言ったか、報告したか、そういうことが天気の記録(情緒的表現がない)のようにに書かれていました。
 
 たった二枚の書類でしたが、実直でリアリストな人柄が窺えました。

 このポツダム少尉のリアリティーは、大げさに言うと日本人であることでありました。

 
 このポツダム少尉を今少し可視的に述べると、こうなります。

 春の日向にしばらく置いておいた小石のようなお人柄。

 寡黙で小石のようにじっとしておられるが、ほっこりとした温もりがあって……これだけのことしか言えないことがもどかしいです。
 しかし、このポツダム少尉は、その春の日向の小石のような生き様で、われわれ団塊の世代のハシクレにも、おぼろに忖度(そんたく)できるものを残された。

 亡き人の跡ばかり悲しきはなし、であります。

 ムムム(記憶を絞り出している)……一つだけ思い出しました。

 ご本人の話ではなく、一期か二期上の先輩の話であります。
 初めて受け持った小隊の中に同じ町内の兵隊が二人いた。日頃は小隊長と兵隊。
「小隊長殿!」
「なんとか一等兵!」
……の間柄であります。しかし三人だけになると「じゅんちゃん」「しげやん」「としぼう」にもどってしまう。
 三人の連隊は、日本最弱と言われた八連隊であります。明治の昔からこんな里謡がある。
「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊」
 八連隊は大阪、九連隊は京都で、俗に日本最弱と言われていました(事実は違うようで、現実を冷静に判断し、無理押しの戦いはせず、占領地などの軍政の良さには定評があったらしい。また反面、昭和八年にはゴーストップ事件のようなもめ事を起こした軍特有の暗鬱さも持っていた)

 ある戦線で戦況が膠着したとき、この小隊長は頭に血が上ってしまいました。

「小隊、総員突撃!」と軍刀をきらめかせ、壕から飛び出そうとしました。
「あかん、じゅんちゃん。ここで死んだらお母ちゃんが泣く!」と、しげやん、としぼうに止められ、壕に引きずり戻され、実際は「小隊……」までしか言えなかったそうであります。
 まあ、わたしが二十代のころ、鍋を囲みながらホンワカと温もった小石のように言われたことなので、どこまで本当の話かは分かりませんが、その時代と、そのお父さんの人となりを温もりとして思い出させてくれる話でありました。

 亡き人の跡ばかり悲しきはなし。

 


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