わたしの徒然草・20
因幡国に、何の入道とかやいふ者の娘、かたちよしと聞きて、人あまた言ひわたりけれども、この娘、ただ、栗をのみ食ひて、更に、米の類を食はざりければ、「かかる異様の者、人に見ゆべきにあらず」とて、親許さざりけり。
これは、今の感覚では「どこそこで、ツチノコが出た!」という地方版のニュースのようなものでしょう。
ウソかマコトか、確かめられずもせずに、因幡(今の鳥取県)から、都に伝わった、その手の地方ニュースの一つなのでしょう。
中味は、鳥取県のある入道(在家で坊主のなりをした、たいがいお金持ち)の娘が、チョーカワイイのですが、米のご飯をまるで食べずに栗ばっか食べている。
で、父親の入道が、こう怒りました。
「こんな栗ばっか食べているような変な娘は、人さまの前にも出せない!」
意訳すると、こうでしょう。
親の言うことをな~んにも聞かないわがまま娘。それが「栗をのみ食いて」に象徴されています。そういう娘のわがままぶりを、可愛く思いながらニクソサ半分の親心をあらわしているように思います。
「人に見ゆべきにもあらず」
これは、屈折した娘自慢。
「人さまの前にも出せない」
これは、実は人さまに見てもらいたいという気持ちの表現。「誉め殺し」ならぬ「殺し誉め」なのかと思ったりします。
「いやあ、家の娘は、オテンバの気まぐれのブスで、嫁のもらい手があるか心配ですわ。アハハハ」
そういう、今の娘を持つオヤジの心理と同じものを兼好さんも感じたのでしょう。
では、単なる親バカかというと、それだけではない。
娘から、阻害されている気配を感じます。
「お父さんのパンツ、いっしょに洗わないでよね!」
「ひとが(自分が)携帯で話してんの、新聞読むふりして聞かないでよね!」
「バレンタインチョコ? 義理チョコ余ったらあげる(さげすんだ眼差し)」
「明日、トモダチ来るから、お父さん、どこか行っててよね!」
「やだ、お父さん、また、このソファーで寝てたでしょ。加齢臭がすんだからやめてよね!」
このように、オヤジというのは年頃の娘にはジャケンにされるものです。そのウップンと寂しさが、うかがえます。
また、十七八の女性というのは、人生でもっとも(その子なりに)輝いている時期で怖いモノ知らずなところがあります。
「わたしたち、な~にをしても、許されるとしごろ♪」
AKB48の『スカートひらり』の歌詞の中にもあるように、その女性の一生の中で一番残忍な、お年頃であります。
太宰治の『カチカチ山』の中で、この年頃の娘ウサギに惚れた親父ダヌキを泥の船に乗せて沈めた。おぼれ死ぬタヌキが、断末魔にこう叫びます。
「惚れたが悪いか!」
それを、ウサギは櫂(オール)でしたたかに打ち据え、トドメをさし、額の汗をぬぐって、ポンと一言。
「ホ、ひどい汗」
このオヤジと娘のコントラストに面白さです。兼好のオッサンもそう理解したのではないでしょうか。
娘に嫌われながらも可愛くて仕方がない不器用な父親に親近感を持ったのでしょう。