大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

らいと古典・わたしの徒然草60『芋頭といふ物を好みて』

2021-04-02 06:06:50 | 自己紹介

わたしの然草・60
『芋頭といふ物を好みて』   



 この六十段は、長いので原文は割愛しますが、要約するとこんな感じです。

 仁和寺の真乗院に、盛親僧都(じょうしんそうず)という、変わり者の坊主がいた。
 芋頭(いもがしら)という里芋が大好きで、年中こればかり食べている。師の坊さんが亡くなったとき、少しばかりの貯えを、この坊さんに残したが、それも全部芋頭の食い代にするような坊主である。
 そして行儀が悪い。お経を唱えるときも、病気でひっくりかえっていても、この芋頭を食べながら。法事に呼ばれても、皆が揃わないうちに、さっさと食べ始め、食べ終わると挨拶も無しで帰ってしまう。人に適当にあだ名をつける。それがふるっている。
「しろるうり」
「『しろるうり』て、なんでんねん?」
 人に聞かれると、こうだ。
「そんなもん知らん。もし、『しろるうり』いうもんがあったら、そうやねんやろ」
 と、下手なコントのボケのように取り留めがない。
 と言って、破戒僧でもない。 姿よくて、力強く。書、学、論、全てに優れ、寺でも重く扱われていた。

 この段は、普通、こう解釈されているようです。

 能力や才能に長けた者は、多少の奇行(イカレた言動)があっても大目にみてもらえる。

 わたしの住まいの近くに、かつて今東光(こんとこう)という怪僧がいました。横浜の船長の息子として生まれ、日本プロレタリア映画同盟の委員長をやったりしましたが、いろいろとあった後、天台宗の坊主になり。わたしの近所の天台院という無住のお寺の住職になって、そこに住み着いていたインチキ坊主を叩き出しました。
 叩き出したのはよかったけども、檀家は三十軒しかないという貧乏寺。檀家まわりに行くときの袈裟もないので、風呂敷を肩で結んでごまかした。賭け事、ケンカも大好きで、河内の風土が体にあって、河内を舞台にした小説『悪名』などを残しています。
 近所の流行らない床屋に行ったとき、お女将さんに頼まれました。
「オッサン(和尚さんの意味で、いわゆるオッサンとはアクセントが違う。ちなみに、大橋さんも、つづまると、オッサン)なんか、流行りそうな店の名前、考えとくれやす」
「おう、まかしとけ」
 で、数日後、墨痕鮮やかに『美人館』と、書いてやってきました。昭和二十年代の話しでありますが、今でもこの床屋さんは健在である……というのは、ちょっと前に書きましたね(^_^;)。
「人間死んだら、どこへ行くんですか?」と、聞かれれば、こう答えます。
「知らねえよ、張り倒すぞ」
「じゃ、極楽は?」
「それも行ったことねえから、分かんねえ」
「髪が薄いんですが……」
「髪の毛有る奴見ると、ああ、むさっくるしいだろうなって、同情しちゃうね」
 というあんばい。
 しかし、『お吟さま』で直木賞をとり、後年は国会議員になったり、中尊寺の貫主になった。瀬戸内晴美が出家するときには、自分の法名春聴から一字をとり寂聴としたりしました。

 教師の話をします。

 昔の教師は、生徒の目から見ても、教師は玉石混淆(良いのも悪いのも混ざっている)でありましたた。
 生徒は、独特の勘で、それを見分け、玉の先生からは得難い影響を受けていました。以前書いた和気史郎先生などは、その典型です(分からない人はネットで検索してください。瀬戸内寂聴をして「狂気と正気の境目に立つ画家」と、言わしめた人です)。 そんな先生が、公立の学校に平気な顔で普通に教え、偉大な影響を生徒達に与えました。

 古くは宮沢賢治、夏目漱石も教師でありました。夏目漱石は、鼻毛を抜いて、鏡に植え付けたり、子どもをタンスの上に上げ「そこから飛び降りなさい!」と命じたりして奥さんから、よく叱られていたそうです。
 わたしのひい祖父さんは尋常小学校の先生をやっていましたが、人が通らない田んぼの間や、野原を通って学校に通い、いつのまにか細い道になりました。
 村の人達は、その奇行をおかしがり、ひい祖父さんの名前をつけて侍従道と名付けました。
 
 昔の教師は安月給な分、気楽であったようです。
「一学期、まことにご苦労様でした。明日からの夏休み、どうか、ゆっくりとご休養ください」
 昔の校長が、終業式のあと、先生たちに言った言葉です。今の教師は夏休みでも毎日定刻に出退勤しなければなりません。
 昔の教師は、情熱のある人は、部活や補習。中には自主的に生徒を連れて体験学習をやったり。むろん怠け倒して、休んでいる人もいましたが。
 今は、形で教師を縛ります。IDカードで出退勤を管理され、パソコンを使って、常にレポートや、報告書を求められ、免許さえ十年おきに更新しなくてはなりません。
 確かに管理は行き届くようにはなりました。
 しかし、学校は官僚機構のようになり、先生は玉石共にいなくなったように感じます。

 ちなみに教員採用試験の倍率は三倍を切って久しいと言います。他の公務員や民間企業では最低でも七倍の倍率が無いと組織を維持する水準の人材は取れないと言われます。

 ある校長先生がおっしゃっていました。

「いやあ、個性を殺さず、採ってから育てます、大丈夫です」

 期待してます。


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