徒然草 第七十六段
世の覚え花やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行きとぶらふ中に、聖法師の交じりて、言ひ入れ、たたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ。
さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。
徒然草は、あまり真面目に読んではいけない。最初に本人が言っている、「徒然なるままに=思いついたことを勝手に書き散らしてるだけだから、マジな顔して読まないでくれる!?」
実際、読んでみると矛盾したところがよく出てきます。この七十六段なんかは、その典型でしょう。
この、たった三行のエッセーは「葬式なんかで、坊主が受付に並んでたりするのウザイよなあ、坊主ってのは、俗世間からは、離れてなくっちゃいけねえぜ」という気まぐれ。
兼好自身が坊主で、世間の垢にまみれているのは、徒然草自体を読めばよく分かることです。
だから、わたしは、兼好坊主の与太話に付き合うつもりぐらいの軽いノリで書いております。
実は、わたしの親類は坊主だらけなのです。叔父と従兄弟二人が坊主で、五親等ぐらいたどればもっといます。
十年前の2011年11月11日という分かり易い日に父が亡くなりました。生前から、ある葬儀会社の積み立てに加入していたので、すぐそこに連絡して葬儀の準備にかかりました。
「で……おかかりのお心づもりは(予算はどのくらいで、という意味)」と営業のオバサンがしめやかに聞いてきた。わたしは、黙って指一本を出した。これで通じる。葬儀が十万であがるわけでもなく、一千万もかけられるほどのブルジョアでないことは、わたしの風体・人相からでも明らかであり、百万であることはすぐにしれる。
オバサンは、タブレットをチョイチョイと操作し、百三十万ほどの金額を提示してきた。その中に、坊主にかかる費用は入っていなかった。
「ボンサン呼んだら、いくらぐらいかかります?」
オバサンは、黙って人差し指と中指を立てた。別にジャンケンのチョキを出したわけでも、ピースサインを出したわけでもない。相場が二十万ということである。葬儀費用と合算すれば百五十万を超え、予算を五十%もオーバーしてしまう。
で、従兄弟の坊主を思い出し、気楽に電話した。商売慣れというのも変だが、二十分後には葬儀会館までやってきてくれました。
「直接言うてくれて正解。業者通したら四割ほどキックバックとられるとこや」
わたしは、さらに値切って、相場の半額であげた。葬儀費用とつっこみで、百二十万ほどであげました。別になんでも値切り倒す大阪人根性からではありません。父が残した僅かな貯えで、身の丈にあった、葬儀や、それから何年も続く法要の費用まかなおうという思いからです。死んでまで息子に借金するようでは、親父も後生が悪いだろうと思いました。
家は、代々浄土宗なのですが、従兄弟は仏光寺派の浄土真宗です。まあ親類のような宗旨でもあり、なにより気楽な宗派なので、あっさり改宗。法名(浄土真宗では戒名とは言わない)は釋善実と付けてもらいました。
ついでに自分の法名を自分で考えてみました、釋睦夫(シャクボクフ)。本名を音読みしただけですが、なんとも長閑な音の響きが気に入っております。これで、わたしの葬儀費用から法名代が節約できる。
浄土真宗のお気楽さは、年号を使わないところにも現れています。寺から頂くカレンダーは西暦で、本堂に行くと「護ろう憲法九条!」などのポスターが平気で貼ってあります。九条についての考え方は、わたしのそれとは大きく離れるのですが、そういうことを平気で貼ってあるところがいい。
郷土の名士に今東光がいました。天台宗の坊主で瀬戸内寂聴の法名を付け、中尊寺の貫主を勤めたほどの偉い坊主で、文学者でありました。死ぬまで世俗の中にいた人で、編集者が原稿をもらいにいくと、座卓に向かい呻吟していて。編集者は、さぞかし難しい教典でも読んでいるのかと思えば、週刊誌のグラビアの女の子の見比べをやっていたそうです。今でもネットで検索すると、今東光和尚の法話などが出てきますが、とてもNHKの地上波や学校で生徒に言える内容のものではないのですが、面白くタメになる(ならないものもあります)のであります。
坊主というのは、かくも世俗にまみれてこそのものである。兼好坊主の、この七十六段は、坊主として、いや大人として生きる人間へのパラドクス的な喝(かつ)であろうかと思いました。