コッペリア・33
栞は福原先生と約束……させられた通り文芸部の部活を一人で始めた。
文芸部の特権は、図書室の閉架図書も自由に閲覧できることだ。
初版本や、学術図書、高価な全集などが並んでいる。
とりあえず手ごろな夏目漱石全集を取り出し、閲覧室の机にドッカと積んで読みだした。
以前、颯太が教科書を与えて数十分で一二年の教科書を読破したことがあった。
そんなに早く読んでは、みんなから怪しまられる。そこで栞は、少し熟読してみることにした。
まず、漱石入門と言っていい『坊ちゃん』からである。
三ページも読むと、明治時代の松山の世界に飛び込んでしまった。
まるで3Dの映画を観るように、生き生きと町や学校の情景が浮かんでくる。
文芸部の見本のような生徒になった……成りすぎた。
読んだイメージが実体化してしまうのである。
赤シャツの教頭や、野太鼓、山嵐、うらなり、などが職員室を出入りし。赤シャツは、教頭先生に「そこは僕の席だから空けなさい」と言い、野太鼓は居並ぶ先生にお愛想を振り、山嵐は廊下やグラウンドで態度の悪い生徒を見つけては叱っている。
十数分後には、松山の旧制中学の生徒で学校が溢れかえり、あちこちで騒ぎが起こった。
「ここの女生徒は、スカートが短いぞななもし!」
と言って女生徒を追い掛け回し、女生徒が図書館に逃げ込んできたことで、栞はやっと気づいて本を閉じた。
坊ちゃんの登場人物たちは、一瞬で姿を消した。
「どうして、こうなっちゃうかなあ!」
栞は、我ながら嫌気がさして、美術室の颯太のところに駆け込んだ。
「栞自身、人形が人間になっちまったもんだから、そのくらいのことはおこるかもな……」
「なんとかしてよ。これじゃ、一冊も読めないよ!」
「そうだな……」
颯太は、三つの絵を並べた。
「いいか、これがクロッキー。デッサンのもっと簡単な奴、二三分で描き上げる。その隣がデッサン。基本的には鉛筆だけで色彩はない……で、これが本格的な油絵だ」
かつて生徒が描いたサンプルのようだが、サンプルに残してあっただけあって、どれも高校生とは思えないような出来である。
「どういう意味?」
「クロッキーとデッサンと油絵じゃ、対象に対して入り方が違う。栞は物事に対して、このコントロールが効かないんだ。何事も深く入り込んでしまう。この三つの絵のようにコントロールが効くようになればいいさ」
「気楽に言ってくれるわね。こんな風にあたしを作ったのはフウ兄ちゃんなんだからね」
「それは、何かがオレの腕を使って造らせたんだ」
颯太の言い方は、どこか意識的に無責任だった。
そして、ようやく騒動も収まった放課後に思い出した。
「なんで、坊ちゃんとマドンナは現れなかったんだろう……?」