大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

コッペリア・17『桜の木になろう』

2021-06-08 06:00:36 | 小説6

・17 

『桜の木になろう』 




 

「桜の標本木を見に行く!」

 テレビで開花したことを知って、栞が叫んだときは、標本木のある靖国神社はもう閉門時間だった。

「じゃ、明日の朝一番!」

「やれやれ……」

 颯太はため息をついた。

 栞は、驚異的な速度で聞くもの目につくものを吸収し、わずかずつではあるが人間関係も広がってきた。国務大臣のA夫人や、その孫の竜一は、もうお友だちのカテゴリーである。近所の中華料理屋来々軒の飼い猫悟空とも友だちだ。もっとも猫が相手なので、今のところ「ニャー」と猫語で挨拶する程度だが。

 大家と不動産屋に連絡すると、いっしょに見に行くと意外の返事。年寄りとはいえ江戸っ子、朝一の靖国に桜だけを見に行くということに「粋」を感じたようだ。

 颯太は、正直迷惑だった。

 朝ゆっくりできるのは今月いっぱいで、四月に仕事が始まると大好きな朝寝ができなくなる。

 地下鉄の駅を降りて九段坂を武道館を左に見ながら登っていく。さすがに人気はまばらだったが、栞の四人組は颯太を除いて意気揚々だった。

「朝の九段もいいもんだね!」

 大家が喜び、不動産屋が相槌をうつ。もっとも不動産屋は趣味のカメラの調整と試し撮りに余念がない。

 大鳥居をくぐると、まだ内苑の開門に少し時間がある。

「ん、あいつら何してんだ?」

 内苑の門の前で、若者四人がなにやらもめている。よく見ると一人は神楽坂高校の制服を着ているではないか。

「あ、あの子!?」

 栞が一番に気が付いた。その子は神楽坂高校の正門前で見かけた、あの表情の暗い女子高生だった。

「あ、あの人たち!」

「あいつら!」

 五十メートルほどに近づいて初めて分かった。

 三人の片言の日本語と流ちょうなC国語で怒鳴りあい、手には白や赤のスプレー缶を持っている。どうやら門扉や門柱に落書きしようとしているC国の若者三人を、神楽坂の女子高生が必死で押しとどめようとしている様子だ。

 栞が先頭を切り、そのあとをジイサン二人と低血圧の颯太が追いかけている。

「不動産屋さん、写真撮っといて!」

 そう叫ぶと、栞はもめている四人の中に入り、あっというまに、C国の若者三人をのしてしまった。

 騒ぎを聞きつけて、守衛のオジサンたちが駆けつけ、すぐに警察に通報。さすがは靖国なのか警視庁なのか二分ほどでパトカーが二台やってきて、三人の青年たちを連行していった。

「あなた、スプレーかけられちゃったのね!」

 神楽坂の少女は、あちこちスプレーをかけられ、制服も髪も台無しだった。

「あたし…あたし……」

 あとは嗚咽になって聞き取れなかった。

 靖国神社の神主さんや巫女さんたちが、少女に感心すると同時に、そのスプレーでグチャグチャになった様子を見て、スプレー塗料を丹念にとってからシャンプーをしてくれて、巫女さんが自分たちの私服の中から、身に合うものを見繕って着せてくれた。

 暖かいお茶をふるまってもらうと、やっと口を開いた。

「……ありがとうございます。わたし神楽坂高校の水分咲月(みくまりさつき)です」

「こんなに朝早くから、お参り?」

 栞は優しく聞いた。

「今日は、ひいおじいちゃんの亡くなった日なんです」

「……軍人さんだったの?」

「駆潜艇咲月の艇長をやっていました……」

「咲月……ちょっと待ってくださいよ」

 神主さんは、パソコンを叩いて駆潜艇咲月のことを調べてくれた。

「昭和二十年三月二十四日、触雷で沈んでいますな……艇長水分良蔵大尉。これがひいおじい様ですか」

「はい……」

「咲月というのは、船の名前をとったんですか……」

「はい……」

 咲月が話したのはそこまでだった。栞は咲月の心を読むこともできたが、四月からは同じ神楽坂の生徒だ、彼女が心を開くまでは待っていようと思った。

「ここには600本のソメイヨシノがあります。これが標本木で……」

 神主さんは、丁寧に説明してくれた。

「ひいお爺ちゃんは、この桜の木に……花びらになったのかな」

 みんなで見上げた桜は、やっと三分咲きほどだった……。


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