コッペリア・17
「桜の標本木を見に行く!」
テレビで開花したことを知って、栞が叫んだときは、標本木のある靖国神社はもう閉門時間だった。
「じゃ、明日の朝一番!」
「やれやれ……」
颯太はため息をついた。
栞は、驚異的な速度で聞くもの目につくものを吸収し、わずかずつではあるが人間関係も広がってきた。国務大臣のA夫人や、その孫の竜一は、もうお友だちのカテゴリーである。近所の中華料理屋来々軒の飼い猫悟空とも友だちだ。もっとも猫が相手なので、今のところ「ニャー」と猫語で挨拶する程度だが。
大家と不動産屋に連絡すると、いっしょに見に行くと意外の返事。年寄りとはいえ江戸っ子、朝一の靖国に桜だけを見に行くということに「粋」を感じたようだ。
颯太は、正直迷惑だった。
朝ゆっくりできるのは今月いっぱいで、四月に仕事が始まると大好きな朝寝ができなくなる。
地下鉄の駅を降りて九段坂を武道館を左に見ながら登っていく。さすがに人気はまばらだったが、栞の四人組は颯太を除いて意気揚々だった。
「朝の九段もいいもんだね!」
大家が喜び、不動産屋が相槌をうつ。もっとも不動産屋は趣味のカメラの調整と試し撮りに余念がない。
大鳥居をくぐると、まだ内苑の開門に少し時間がある。
「ん、あいつら何してんだ?」
内苑の門の前で、若者四人がなにやらもめている。よく見ると一人は神楽坂高校の制服を着ているではないか。
「あ、あの子!?」
栞が一番に気が付いた。その子は神楽坂高校の正門前で見かけた、あの表情の暗い女子高生だった。
「あ、あの人たち!」
「あいつら!」
五十メートルほどに近づいて初めて分かった。
三人の片言の日本語と流ちょうなC国語で怒鳴りあい、手には白や赤のスプレー缶を持っている。どうやら門扉や門柱に落書きしようとしているC国の若者三人を、神楽坂の女子高生が必死で押しとどめようとしている様子だ。
栞が先頭を切り、そのあとをジイサン二人と低血圧の颯太が追いかけている。
「不動産屋さん、写真撮っといて!」
そう叫ぶと、栞はもめている四人の中に入り、あっというまに、C国の若者三人をのしてしまった。
騒ぎを聞きつけて、守衛のオジサンたちが駆けつけ、すぐに警察に通報。さすがは靖国なのか警視庁なのか二分ほどでパトカーが二台やってきて、三人の青年たちを連行していった。
「あなた、スプレーかけられちゃったのね!」
神楽坂の少女は、あちこちスプレーをかけられ、制服も髪も台無しだった。
「あたし…あたし……」
あとは嗚咽になって聞き取れなかった。
靖国神社の神主さんや巫女さんたちが、少女に感心すると同時に、そのスプレーでグチャグチャになった様子を見て、スプレー塗料を丹念にとってからシャンプーをしてくれて、巫女さんが自分たちの私服の中から、身に合うものを見繕って着せてくれた。
暖かいお茶をふるまってもらうと、やっと口を開いた。
「……ありがとうございます。わたし神楽坂高校の水分咲月(みくまりさつき)です」
「こんなに朝早くから、お参り?」
栞は優しく聞いた。
「今日は、ひいおじいちゃんの亡くなった日なんです」
「……軍人さんだったの?」
「駆潜艇咲月の艇長をやっていました……」
「咲月……ちょっと待ってくださいよ」
神主さんは、パソコンを叩いて駆潜艇咲月のことを調べてくれた。
「昭和二十年三月二十四日、触雷で沈んでいますな……艇長水分良蔵大尉。これがひいおじい様ですか」
「はい……」
「咲月というのは、船の名前をとったんですか……」
「はい……」
咲月が話したのはそこまでだった。栞は咲月の心を読むこともできたが、四月からは同じ神楽坂の生徒だ、彼女が心を開くまでは待っていようと思った。
「ここには600本のソメイヨシノがあります。これが標本木で……」
神主さんは、丁寧に説明してくれた。
「ひいお爺ちゃんは、この桜の木に……花びらになったのかな」
みんなで見上げた桜は、やっと三分咲きほどだった……。