クレルモンの風・6
あたしは、植物の名前を覚えるのが苦手だ。
パッと見て名前が言えるのは、二十あるかないか。だからアグネスが言ってくれる草花はきれいなんだけど、名前はさっぱり。でも、きれいなモノは素直にきれい。
「わー、かわいい!」「オー、いけてる!」と感嘆の声をあげても、アグネスは容易には信じない。
「それだけ感動したら、覚えそうなもんやのになあ」
「でも、いいじゃん。ステキな公園だし、見晴らしはいいし!」
「まあ、犬は名前覚えんでも、好きなもんには正直に尻尾振りよるけどな」
「あたしは、犬か!?」
「正直に感動するユウコのこと誉めたつもりやけど(^_^;)」
ボケとツッコミができるほど、アグネスとは仲が良くなった。
このモンジュゼの丘(正式には山らしい)から見えるクレルモンの街は絶景だった。
実家がある荒川区の4倍も広いのに、人口は2/3でしかない。真ん中あたりに大聖堂ノートル=ダム=ド=ラサンプシオン(被昇天聖母大聖堂)このクレルモン最大のランドマークがあり、その周りはビルは少なく、伝統的な淡い朱色の屋根がずっと続いている。
「なんていうか、景色は共有財産って意識が浸透してるって感じだね」
「ユウコて、なんか、ときどきすごいことサラって言うね」
「ハハ、多分なにかテレビか本の受け売り」
「昼の講義もそうやったけど、ハッタリでも、あそこまで言えたらたいしたもんやと思う。それ、才能ちゃうか?」
アグネスの小鼻がヒクヒクしている。これは気持ちの半分以上にオチョクリが有る証拠。
「アグネスも正直だね」
「あ、それ、タナカさんのオバアチャンにも言われたわ。そう言うたら、ユウコてうちの姉ちゃんに似てるかもな」
「あ、アリス?」
「うん、あいつもたいがいやったからな……」
放っておくと、お姉ちゃんのアリスへの、溢れるようなニクソサ半分の屈折したグチを聞くハメになるので話題を変える。
不自然な変え方をすると、つっこまれるので、サラリと目に見える景色に目を移す。
「家族連れが多いね。ほら、あの子、お父さんに振り回されて喜んでる。かわいいなあ!」
「ゆうこは、『かわいい』と『いけてる』しか、感動の言葉知らんねんなあ」
痛いところを突かれた。ボキャ貧は、あたしだけでなく、今の日本の若者共通の問題だという自覚はある。アグネスは、シカゴの隣のバアチャンに日本語を習ったので表現が多様だ。
でもって古い。
「ゆうこ、今朝は冷えるよって、オイド温うしていかならあかんで」
「オイド?」
「お尻、オケツ!」
と言うアンバイ。
このモンジュゼに来るにあたっても、チノパンの下にアンダーを一枚重ね着してきた。そうそう、オイドというのは、今では死に絶えた関西の「お尻」の上品な表現であることをウィキペディアで確認した。
機嫌のいいとき、アグネスの二人称は「おうち」になる。なんとなくの感じで二人称であることは分かっているけど、語源はまだ未確認。
お姉ちゃんのアリスは「不思議の国のアリス」と言われるほどの天然らしいけど、アグネスもたいがいである。
「あ、あのモニュメント、日本のオッチャンが作ってんで!」
ワッサカ茂った薮の端っこに、石の団子を積み上げ、縦長のドーナツみたくした大きなモニュメントがあった。
近づくとドーナツの穴はヨウカンのように縦長の窓のようになっていることが分かった。
「へー、不思議だね。石造りなのに、なんだか暖かい」
「初めてまともな感想言うたな。これは『楢葉たかし』いう日本のオッチャンが作った名物やねんで。タイトルは『窓』 よう分かるやろ」
なるほど、近づく距離によって、景色がずいぶん違う。こんなところで、日本人の芸術が見られるとは思わなかった。
「あ、あれ、事務所のアランじゃ、ないの!」
窓を通して見えた、確かにアラン。
「オー フグ!」
声を掛けようとして、アグネスに口を封じられた。
「なに、すんのよ!?」
「声掛けたら、あかん……」
やがて、アランの後ろにブルネットのかわいい(また、アグネスに怒られそう)女の子が付いてきているのが分かった。
「なるほど、邪魔しちゃダメだよね」
このカップルに、深刻な問題があることは、アグネスは言ってくれなかった。もう少し、あたしには知識が不足しているようだった。
「あら、ユウコちゃんじゃないの!?」
アランのカップルが多り過ぎたあと、窓にいきなり知った顔が飛び込んできた……。
※『不思議の国のアリス』は本作の姉妹作です「不思議の国のアリス 大橋むつお」で検索してください。
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