わたしの徒然草・8
この二十八段は、後醍醐天皇の母后が亡くなられて、その喪に服した様をジンワリと心にしみるところがあり、ため息のように書かれた段であります。
後醍醐天皇は、持妙院統の花園天皇から譲位された。本来なら、後二条天皇の皇子である邦良親王に譲位されるところでありましたが、邦良親王がわずかに九歳であったっため、邦良親王(くによししんのう/くにながしんのう)の叔父ながら中継ぎの天皇として位についたものであります。
読者もご存じのとおり後醍醐天皇は、その後持妙院統にも、同じ大覚寺統である邦良親王の遺児にも位を譲らず、建武の新政を始め、自分の皇子恒良親王(つねながしんのう/つねよししんのう)に譲位し、いわゆる南北朝時代の混乱をまねいた天皇であります。
兼好法師のオッサンはまだそんな(その時代の彼にとって)未来のこともわからずに、母后の死に喪に服する後醍醐の姿にあわれを感じ、書いたのでありますが、この兼好のオッッサンあまりそのことには気をもんだ様子が、徒然草二百四十三段のどこにも出てきません。もともと邦良親王の里内裏の堀川家の執事のような仕事をしていたんだから、出家していたとはいえ、このオッサンの分からないところであり、また魅力でもあります。
この南北朝時代の朱子学に基づく、正閏論(せいじゅんろん。片一方が正統で、もう片方はまちがいではないが正統ではないという、ムツカシイ理屈)にはあまり踏み込みません。もとが浅学非才のわたしには荷が重いし、わたしが想う日本という国を考える上ではあまり意味のないことでもあり、兼好のオッサンもそう感じていたフシがあります。
日本史の中で、後醍醐という天皇は異形の存在であります。
わたしの知る限り、自分で政治をやった(正確には、やろうとして失敗した)天皇は、記紀神話に出てくる武烈天皇くらいのもので、この武烈天皇の悪逆非道ぶりは、そのスグ後の継体天皇を正当化するためにねつ造されたフシがあります。
日本の天皇というのは、世界史的にみても、権力をもったり、自分一人で政治の方針をうちたてたことが皆無に等しいようです。
秦の始皇帝や、ルイ十四世のような絶対的な権力を持ったことがないし、持とうとしたこともありません。だから、わたしたちが若かったころ先生達に教えてもらった、天皇がロシアのツアーリやドイツのカイゼルとよばれる皇帝たちのように絶対的な権力を持つという意味での絶対主義など存在しなかった(高校を四年、大学を五年も通ったしごく不真面目劣等生のわたしは、ろくに授業を幸いにも聞いておらず、その手の感覚はすり込まれずにすんだ)
わたしの独学から得た感覚(知識と言えるほど体系だってはいない)で言うとこうなります。
天皇とは世界に類を見ない「祈る者としての王者」である。
マツリゴトとしての政治(戦争も含めて)は、皆、時の為政者たちが行ってきました。
為政者たちは、関白であったり、幕府であったり、AKB48以上の数の大名であったり、明治政府であったりしました(その延長線上に戦前の昭和がある)。天皇はその中で、ほとんど自分の意志を通したこともなく、表そうともせず、ただひたすらにこの国とこの国の民の平穏、安寧(あんねい)を祈る存在でありました。
あくまで梅や桜の下でビール片手の話として聞いていただきたいのですが。日清戦争も、日露戦争も、第一次大戦への参戦も、大東亜戦争も、天皇の意志でおこなわれたものは一つもありません。
ただ一度、大東亜戦争を終結させるときに、時の為政者たちは、天皇の意志に頼りました。本来禁じ手のはずなのですが、それで三百万以上の犠牲を出し、本土決戦を叫んでやまなかった軍部を沈黙せしめ、戦争を終結させ、マッカーサーをして「天皇の存在は百個師団の軍に匹敵する」と言わしめました。それを例外として、以来、昭和、平成、令和の三代の陛下は、祈りの存在であり続けておられます。
やや、揮発性の高い話をしているかもしれません。あくまでも缶ビール片手のお話であります。今の政府、政党、議会のオメデタサにヘキエキされている方は多いと思います。しかし、日本人は革命も暴動もおこしません。それは日本の魂のあり場所が内閣にも議会にも無く、もっと別のところにあることを無意識的に知っているからではないでしょうか(幸か不幸か、欧米やイスラムで言うところの神や教会の存在も量的に言って無いに等しい)。
むつかしい言葉を並べましたが、日本は深刻な闘争や騒乱をせずに国の統一が保てていることを喜んでいるということであります。
それだからこそ、徒然草には、その手の話題が少ないのではないかと思う次第なのです。