展覧会初日の土曜日、昨日の日曜日にもお客様が続けていらしてくださいました。
みなさまが佐野の作品をご覧になりたいとお思いになってくださるお気持ち、また当店をお気にかけてくださるお気持ちを大変嬉しく感じさせていただいています。ありがとうございます。
佐野繁次郎自身のことに関する資料が少ないとこちらにも書かせていただきました。
けれど、やはり求め続けることは大切だと思えたのは、まさに灯台下暗し!
まさかここには載っていないわよねぇ~と書棚の一番下の古い現代日本美術全集を開いてみると、あったのです。佐野繁二郎のページが(*_*)
しかも、私が疑問におもっていたことに随分答えがみつかりました。
とても、よい内容ですので、がんばってキーボードをたたいてこちらにご紹介しようと思います。
余談になりますが、私は中学時代「英文タイプ倶楽部」に所属していたのです。入部の理由はただ格好よさそうだからだったのですが、私の才能に無駄な期待をかけてしまった母がお金もないのに無理をして確か丸井だったと思いますが、英文タイプを買ってくれてしまって~私は少し練習するしかなくなってしまいました。
が、やはり飽きっぽい私は一年ほどですぐにその機械をも無駄にしてしまったのですが、何十年かたち、佐橋美術店を開店する少し前にパソコンのことも少し勉強しておかなくちゃと思ったとき、思いもがけず英文タイプで少し身に着けたことが役に立ちました。いまも入力ミスは多いですし、技術は全く向上していませんが、こうしてブログを書けるのもあのときの「母の必要以上のわが子への期待」によるものだということを実感いたします。
さて、指が温まってきたので参ります。
佐野繁次郎 福島繁太郎
佐野繁次郎という名は、随分前から知っていたが、その作品を見たのは、新聞の挿絵が最初である。戦争前のことで、たぶん横光利一の小説であったであろう。原画は、日本紙に濃い墨でかいたらしく、細い黒い線がわずかににじんで、なかなか味のある挿絵であった。
佐野は明治33年1月、大阪船場で生まれた生粋の大阪商人の子である。祖父は墨の名舗、古梅園の所有者であった。父は金融業であったらしいとは佐野自身の話。なにしろ長男である彼が、一歳のときに父が死亡したので、商売も華々しくやっていたわけではないが、船場のボンボンとして甘やかされて育ったらしい。16歳のころから油絵が好きになり、後に小出楢重が教師をしていた信濃橋研究所に学んだ。同じ、大阪出身の、佐伯祐三と知り合ったのは、19歳の頃であった。知り合いが、多く二科会にいたので、佐野も二科に出品し、やがて樗牛賞を受けて会員となったが、故あって二科を退き、永い間何処にも出品しなかった。
裕福な佐野は、生活するために絵を売る必要はなかったが、買食い一方で、財産を潰してしまう極道息子ではなかった。彼は大阪人である。資産を巧みに運営して、悠々暮しているので、画壇での出世をあせることをしなかったのである。
大正の頃、「御園」という有名な化粧品会社があった。明治からその頃までは、女の流行の根源は、花柳界で、この花柳界に大きな勢力を持っていたのは歌舞伎であり、「御園」は、宣伝の主力を、この歌舞伎に置いていた。売り行きが、次第に落ちてきたので、「御園」は、あせって歌舞伎に宣伝を益々強化したにもかかわらず、売れ行きは低下するばかり、ついに危機に瀕したのである。頼まれて経営に参加した佐野は、世の動勢の変化に気づいた。芸者は、一般女子に対して魅力を失い、映画俳優が之に代わっていた。従って、化粧品も、芸者の多くを用いる、水白粉、練白粉がすたり、粉白粉が次第に勢力を得て来たのだ。そこで、製品を、粉白粉に切りかえ、宣伝の場所も、歌舞伎から映画劇場や新聞紙に移し、会社名も、パピリオとハイカラ好みに改めた。この企画によって会社は見事社運を回復した。
敗戦後も、変にへたくそなボキボキした字で、しかもわざと間違えたり、文字をぬかしたりして、赤字で直した広告が、模倣者が続出するほど当たって、益々社名があがった。
このように、実業界での華々しい活動の為に、その陰にかくれて、油彩の方の業績は兎角世の中から重く見られないきらいがないでもないが、彼は常に絵画への精進を怠らなかった。1937年フランスに渡り、まずパピリオの取引先のグラス香料屋の家に落ち着いて数か月を過ごし、フランスの事情になれた。後にパリに出てアカデミーに通い、又ニースに行き、アンリ・マチスを訪ねたりしているうちに、第二次戦争が迫ってアメリカを経て帰朝した。1951年再びフランスに渡り、トロンセ画廊やボージャ画廊での個展は、好評であったといわれる。人間を知り、油絵を見たのは敗戦後、共に熱海に移り住むようになってからであるが、油絵を見て、余りにも彼の実業界での活動に似ているのに驚いた。芸術的にも、時代の感覚は確かに持っている。梅原、安井より若い50代以上の人が、却って梅原、安井より古いか、せいぜい同時代としか思えない感覚が多いのに、佐野が、ともかく次の時代の仕事をしているのは特筆すべきである。インディゴーのような青とカドミュームエローのような色彩も、独特で刺激的である。妙にちぢこまった裸婦の肢体は、佐野の広告の下手くそな字のようにやにつこい。このやにつこさは独特のものだが、また一部の人の反感をそそることは事実である。思うにこのやにつこさは大阪人独特で、小出楢重もこの癖は確かにあった。然し、小出の場合はこのやにつこさが気にならぬまで昇華されていた。佐野の場合はここまで昇華されるかが問題であるが、室内絵などでは、既にこの域に達しているようである。
以上
この文章についての感想などについては、また次の記事に書かせていただきます。