あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

四国遍路道ある記(後編)・愛媛その8

2006-11-08 21:22:52 | 初めての四国遍路
 第3日 2004年11月15日(月) 曇後晴 <46番浄瑠璃寺> 
 =三坂峠を下って松山市内へ=
 
 6時10分起床、まだ雨は降っている。昨夜はかなりの雨だった。
7時朝食、7時45分古岩屋荘を出発。ポンチョは着けず雨ズボン
とスパッツを着用した。

 宿の周辺、大岩と紅葉の取り合わせがよく、それにもやがかか
り独特の景観を見せてくれる。


 宿のすぐ西から谷間を西に進むへんろ道に入る。大岩の下に
ある不動明王堂を見下ろしながら進む。


 緩い上り道にかかるともう汗ばんできた。

 八丁坂入口から先は、落ち葉がたっぷりの林道を抜け、いっ
たん県道に出て、さらに南側のへんろ道へと、昨日岩屋寺に向
かった道を逆行する。

 県道に出たら、男性遍路3人と相次いで行き違った。河合の
交差点先で昨日の道と分かれ、少し先で「四国のみち」の標識
に従い、畑の横の細道に入ったが、どうもおかしい。

 少し上に林道があったので上がって了解。どうやら標識より
少し先に入口があったようだ。

 林道は途中から沢沿いになる。沢から上がってきたのか、
林道にサワガニが2匹いた。

 上り詰めたところが千本峠。狭い峠の手前は広葉樹林だっ
たが、峠の先は、その名のもとになったと思われる沢山の杉
が林立し、ガスがたれ込め薄暗い。

 ガスの中を下っていったら数戸だけの高野集落に出た。

 集落の外れにある天満宮のそばに、東屋とトイレを設けた
休憩地があった。峠越えで汗をかいたので休憩する。しかし、
気温が低いのか、ちょっと休んだだけで涼しくなった。

 集落を出たら雨が落ちてきたので急ぎポンチョを着ける。でも
すぐ止み、以後、降られずに済んだ。


 大除城跡の説明板がある槻之沢集落で車道に下る。

 いっぱい実った柿の木とS字カーブの棚田が、日本の原風景
を見せてくれる。


 山砂採取場の脇を下って国道33号に出た。国民宿舎で聞い
てきた、弁当調達のため、久万町中心街方向にあるコンビニ、
サークルKまで500mほど行き戻る。

 車の多い国道を北に進む。明神小を過ぎ、中組集落の「東明
神青空市」の看板が出た店がある。閉店している小屋にイスが
あったので、無断借用して昼食をさせてもらう。

 昼食後も、緩い上り道となった国道33号を進む。U字溝だけ
の車道となり、アップダウンが多くて歩きにくい。左下の谷間で、
三坂峠をバイパスするための三塚第1トンネル工事が進んで
いた。

 急カーブ点にあったレストパーク明神や、皿ヶ峰(12う0,5m)
登山口を過ぎ、1kmほどで三坂峠へ。薄日が出てきたが、標高
718mの峠近くは吐く息が白い。

 民家の前を抜け、四国のみちになっているへんろ道を下り始め
ると、眼下に松山市郊外の家並みの展望が広がる。

 道は幅広く、思ったより傾斜も緩やかで、膝の負担も少ない。

 途中に久万街道の説明板があり、「この道は明治25年(1892)、
旧国道33号が開通するまで、松山と高知を結ぶ重要な街道だっ
た」という。道理で、草道で濡れるかと思って、スパッツも着けた
まま来たが、不要だったのだ。

 右からの流れが迫ってきたところに東屋があったので、ひと
休み。その先は、簡易舗装の下り。向かい風が気持ちよい。

 細い棚田が続くが、周囲に猪よけのトタン板と電気牧柵が張っ
てある。

 桜集落から榎集落までは、開けた棚田沿いの気持ちよい下り。
桜集落に、「お遍路さんの道の駅」があり、石のベンチといす、
石の水車など、石造りのものが並ぶ。


 本組からの棚田沿いの道を、途中から上がって行くと、ミカン
畑が現れちょうど収穫中。

 挨拶をしたら、「幾つでも持って行きな」と言う。大きくてよく
熟したのを2つだけいただいた。


 番外霊場網掛大師堂に参拝。道路際に、弘法大師の網掛け石
という大石がある。名のとおり網のような縞が付いていた。


 そばの民家で、奥さんが炭焼きがまのようなものに薪を燃や
していた。聞くと、五右衛門風呂で、別棟に新しい風呂もあるの
だが、ご主人はこの風呂が好きなのだという。

 奥様心づくしの風呂で、ご主人は心も体も温まることだろうと、
うらやましく通り過ぎた。

 上関屋で県道207号に上がる。御坂川を渡って間もなく久谷
郵便局があったので入り、月初に発売された四国霊場の切手を
購入した。

 16時10分、民宿長珍屋に着く。コンクリート造りで、団体参拝
客用の旅館と、個人遍路用の民宿は玄関が別。ザックを置かせ
てもらい、そばの46番浄瑠璃寺へ。

 境内には、樹齢千年を越すという高さ20mのイブキの大木や、
仏足石、説法石、九横封じ石、さらに戦死者への思いを記した皿
を埋め込んだ鎮魂の皿などがある。


 民宿客は4名。コインランドリーで洗濯中に入浴。まだ誰も入って
いない泡風呂で、今日もこった肩(特に右)をよくもんだ。

 夕食は大食堂。20人前後の団体が3グループ入り、その一つ
には、若い坊さんが10人くらいいた。ほかにも数人の団体がいて
賑わう。

〈コースタイム〉国民宿舎古岩屋荘7:45ー八丁坂下8:03ー県道8:35
ー住吉神社8:56ー千本峠9:35ー高野の休憩地10:00~16ー西明神
(国道33号へ)10:55ーサークルK11:05~15ー東明神青空市(昼食)
12:05~45ーレストパーク明神13:06~10ー三坂峠下の東屋14:13~
20ー網掛大師15:14~20ー民宿長珍屋16:10ー46番浄瑠璃寺16:12
~32ー民宿長珍屋16:・43

(距離 28km、地図(1/5万) 久万、松山南部、歩行地 久万高原
 町、松山市、歩数 47,800)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(後編)・愛媛その7

2006-11-07 21:06:06 | 初めての四国遍路
 第2日 2004年11月14日(日) 曇後雨
 <44番大宝寺~45番岩屋寺>
 =二つの峠越えと、へんろ道の上り下り=
 
 4時50分起床、5時25分朝食。おかみさんから、大きなおむ
すびを一つもらい6時に出発。まだ外は暗い。天気予報から、
今日は雨を覚悟して出る。

 田渡川沿いの国道379号を進む。寒そうなのでジャンパーを
着て出たが、30分も歩くと暑くなり脱いだ。明るくなった国道の
周囲、杉林と清流の谷間を進む。

 本村の分校跡らしいところに、小田町郷土資料館があった。
中田渡の三差路にある、新田八幡宮の境内は紅葉が見頃だ。

 趣ある中田渡の小集落を抜ける。民家の玄関に下がっていた
温度計をのぞいてみたら11℃だった。

 県道42号を分ける堂ノ浦の三差路に、新しい薬師堂が立って
いた。そばにトイレもある。

 
 落合でトンネルを抜け、国道と分かれて右折、県道42号に入る。

 車の行き違いがやっとの細い県道で、歩道もないが車は少ない。
モロヘイヤに似た大きな草木に、赤紫の花が下がっている。
なんだろう。

 瀬音を聞きながら渓流沿いに緩い上り道が続く。浮船集落のとこ
ろだけ2車線で歩道もあった。


 棚田の背後に民家が並ぶ大込を過ぎたら、ポツポツしてきたので、
スパッツを付け雨用のズボンをはく。ザックカバーもしたが、本降り
にはならなかった。

 本成では、自宅前の作業小屋で、ご夫婦が親指くらいの太さの
松を整えている。聞くと、正月用の門松だという。

 毎年11月初めから作業を始めており、整えた枝は出荷まで生け
簀(いけす)に漬けて鮮度を保つという。この集落では同じ作業を
何組ものご夫婦でやっていた。


 三島神社は、紅葉が見ごろである。


 イチョウがかなり落葉した厄除大師下を過ぎ、畦々(うねうね)で
三差路を左に上がると、傾斜が強まり汗が出る。

 「大宝寺7.8km」の表示のある「四国のみち」の標識横から
山道へ。小さい沢を渡りヒノキ林を上がって下坂場峠に出た。
再び県道に下り、緩やかに下ると宮城である。

 T字路にある葛城神社の、モミジやイチョウがきれいな彩り。
葛城橋を渡り、鴇田(ひわだ)峠へのへんろ道へ。

 しばらくは1車線の舗装路を上がり、峠まで1kmの表示のある
ヘヤピンカーブのところから高原状の草道に。

 杉落ち葉の上り道、弘法大師が、空腹と修行の足りなさに、
だんじり(じだんだ)を踏んだという「だんじり岩」があった。

 ひとしきり大汗をかいてヒノキ林の中の鴇田峠に着いた。峠の
標高は800m、昭和30年(1955)頃まで茶屋があり、久万
(くま)への主街道として賑わったという。

 嘉永4年(1851)12月の「四国四十度大願成就」碑があり、
そばにベンチもあったので腰を下ろし、大おにぎりを7分目くらい
食べる。

 杉林の下り道、苔むす大杉の下に石仏が2つ並んでいた。
やがて県道に出て、さらに下ってゆくと、眼下に久万高原町の町
並みが広がる。

 水道の加圧弁の建物横から草道を下り、久万町の集落に出る。
国道33号を横断し、東側の旧道を北に少しで右折する。

 この辺りに食堂か弁当を売る店が無いか探したが、見つから
ない。

 小さい川を渡ったところに大宝寺の山門があり、さらに1km
近く進むと、大宝寺門前の売店があり、キンカン茶と干しいも、
もちのお接待をいただいた。

 すぐ後に若い男性と女性の歩き遍路が来たが、女性は店には
寄らずに行った。

 44番大宝寺は、苔むす大杉の間を上がり、大わらじの奉納
された山門をくぐり、大イチョウやモミジの色づく石段の上にある。

 本堂と大師堂に参拝して読経。3月16日の43番岩本寺以来
8か月ぶりの参拝である。

 納経後、今日例会で歩いているカントリーウオークメンバーへ
のメッセージを、SMさんに携帯メールして寺を出た。

 東に進み、杉木立の下の土道を上がって下り、峠御堂トンネル
東側の県道に出る。1kmほどで河合の住吉神社横に下り、東に
向かう。パンでも売ってないかと店を探したが、無いのであきら
める。

 少し先から、県道の南に平行するへんろ道へ。田んぼの横を
進む草道。久万高原ふるさと旅行村入口の見えるあたりで、残っ
たおむすびを食べて淋しい昼食とする。

 いったん県道に出て、すぐ「八丁坂入口」の表示で再びへんろ
道に。落ち葉がいっぱいの山道。

 細い清流に沿って進み、流れを離れて石止めの階段を上がり、
尾根に出たのち下る。逆打ちの男性遍路と行き交う。

 道筋にはリンドウやノコンギクが咲いている。へんろ地図を持っ
た逆打ちの若い女性遍路も来た。トイレのある八丁坂入口に着き、
T字路を右折して八丁坂にかかる。

 延長2.8kmの急坂は、昔から修行のへんろ道。

 再び大汗をかいて上り、坂上のベンチで休憩した。道標は、
岩屋寺へ1.9kmを示す。


 ところどころにモミジのきれいな稜線を上り下り。「まむし注意」
の札もある。やがて北斜面をトラバースするようになり、さらに
下ると太い杉木立の下に番外12明王の石像とのぼりが並んで
いた。

 真っ赤な不動明王を祭ったお堂があり、背後の大岩に食い込
んでいる。

近くには逼割(せりわり)行場というのがある。岩屋寺開山の
法華仙人が弘法大師に痛力を見せた跡と伝えられるところで、
大きな岩の裂け目をくさりとはしごでよじ登り、頂上の白山大
権現に詣でる山岳修験者の行場になっているという。


 さらに杉木立の下を下り、薄暗くなって45番岩屋寺に着く。
大きな大きな岩を背後にした山岳道場らしい荘厳な雰囲気だ。

 17時も近いので急ぎ納経。納経所で歩き遍路へのお接待と
して、お茶と干しイモなどをいただいた。

 杉木立下の石段や急坂をかなり下って川のそばに出た。車で
来た遍路は川向こうで車を下り、この坂を上がらねばお参り
できない。膝や足の不自由な人にはかなり厳しい霊場であろう。

 橋を渡ったら、とうとう本降りになった。屋根の着いたバス停
でポンチョを被り雨の県道を国民宿舎に向かう。それにしても、
ここまでよく降らずに持ってくれた。

 途中から新しい歩道が出来ていたが、小石をコンクリートで固
めた舗装。雨の時は滑りやすいし、固くて歩きにくい。歩く人の
ことを考えない設計に腹が立った。

 17時22分、国民宿舎古岩屋荘に着く。早速コインランドリーで
洗濯、温泉の源泉は13℃のようだが、沸かした湯は温かくて
ツルツル。久しぶりに10kg近い荷を背負い、山道を含め31km
歩いて筋肉痛の肩や足をもみほぐす。

 食堂に行ったのは18時40分過ぎ。料理は一番安い値段にした
が、8品あり十分。夕食後、2日分のレポートをメモして、21時
30分に就床した。

〈コースタイム〉さかえや旅館6:00ー堂の浦の薬師堂7:07~10ー
落合(県道42号へ)7:30ー大込の分校跡8:00~08ー三島神社8:25
~30ー畦々の三差路9:00ー下坂場峠9:25ー宮成の三差路9:40ー
鴇田峠10:35~49ー44番大宝寺12:00~45ー住吉神社13:38ー狩場
(昼食)13:52~14:00ー八丁坂下14:45ー八丁坂上15:07~16ー45番
岩屋寺16:12~45ー国民宿舎古岩屋荘17:22

(距離 31km、地図(1/5万) 久万、松山南部、歩行地 小田町、
 久万高原町、歩数57,600)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(後編)・愛媛その6

2006-11-06 23:21:56 | 初めての四国遍路
 間もなく2度目の四国遍路に出かけますので、途中で中断と
なりますが、一昨年秋に歩いた四国遍路(後編)を始めます。

 前半の遍路では、初めてデジカメを買って持参したのですが、
メモリが少なかったので、1日に10枚前後しか撮影できません
でした。そこで後半は、予備メモリを買い足しましました。
 写真は、前半より多くご覧いただけるかと思います。

 ===========================

 四国遍路後半は、春の区切り、43番札所明石寺と44番大宝
寺の間、愛媛県内子町を2004年11月13日にスタートし、88
番大窪寺に11月下旬~12月上旬の結願(けちがん)を目指して
歩くことにした。

 春の遍路の際、40番観自在寺で、「トレッキング・ザ・空海」と
いう催しに誘っていただいたYさんが、高知県でのNPOの仕事
を終えられ、11月3日から逆打ち遍路中と聞いた。

 途中でYさんと、どこで行き会えるかも、大きな楽しみである。

 第1日 2004年11月13日(土) 晴
 =柿実る小田川沿いに=

 2ヶ月前に予約購入した超割航空券にて、東京・羽田空港9時
25分発のANA585便に乗る。出発便の混雑で20分近く遅れ、
松山空港到着も予定の10時45分が、11時過ぎとなった。

 連絡バスでJR松山駅に行く。予定の内子線の列車に乗るには
急いで昼食をする必要がある。駅構内で(場違いの感もする)
喜多方ラーメンを食べ、12時3分発1両のワンマンカーに乗る。
乗客のほとんどは高校生だった。


 13時3分、内子駅に下りた。前半の区切り以来、約8か月ぶり
である。

 今日は、お寺へのお参りはないので白衣は着ないことにした
が、日よけのため菅笠はかぶった。

 駅を出ようとしたら、男女の歩き遍路が来た。今日ここで区切
り打ちという、京都の男性と神奈川の女性。お接待でもらったと
いうパック入り海苔巻きをいただく。

 昼食は食べたばかりと言ったのだが、お2人も昼食後にもらっ
たようだった。10分ほど話して出発する。


 内子町の中心街には、前回寄った住まいと暮らしの博物館や、
下芳我家など、古い造りの家が残っている。


 町外れのY字路を左に入ったら、向こうからレトロバスが来た。

 珍しいので写真を撮っていたら、バスが止まり運転手が、道が
違うことを教えてくれた。

 Y字路まで戻り、橋を渡ってすぐ先を左に進み、次のT字路を
右折して進んだら、また自家用車が止まり、道が違うと言う。

 再度戻って言われた道を進み、道の駅のそばに出た。町を
抜けるのに20分近くロスしたろうか。出だしから2度も間違える
ようでは、この先が思いやられる。

 でもその先は、小田川沿いの国道379号をひたすら進む
だけ。干し柿を吊した家に秋を感じる。七反から長野へ向かう
辺り、ミゾソバが咲き、初めてこの花の名を知った新潟・村上を
思い出す。

 川の土手には、10月の台風の際の増水状況がうかがえる、
布やビニール片が、現在の流れより5m以上も上に引っかかっ
ていた。

 梨、桃、柿の直売所を過ぎ、長岡山トンネル(392m)に入る。
天井が高く、照明が明るくて広い歩道があるので安心して歩け
る。この国道は、トンネルだけでなく歩道の幅もずっと広いので
助かる。

 トンネルの先に、「お遍路無料宿」と書かれた建物があった。

 そっと戸を開けてみたら、野宿で回っているという男性遍路氏
が休んでいた。私も入って休憩させてもらう。

 彼は、昨日、一昨日は駅やバス停に泊まったが、寒くて寝られ
なかったので、今日は早いがここに泊まるという。10月13日に
出発し、台風の日は、徳島県神山町で雨宿り先を追い出され
たりしたことなどを聞く。

 もらった海苔巻きを差し上げたら大変喜ばれた。私も食べ切れ
そうになく、始末に思案していたのでよかった。

 上和田の田んぼ、青々と伸びたひこばえに固い粒が付いてい
た。柿畑には柿がたわわに実り、この先、小田町との境界付近
まで、内子町内は柿畑が多く、色づいた柿の紅葉がよい彩りを
見せていた。


 夫婦で木を切って薪にしている家がある。近くの大瀬電話交換
局は谷間にあり、パラボラアンテナが南方の山上に向いていた。

 15時を過ぎると、日陰は涼しくなった。明応寺や大瀬郵便局
のある成屋集落は、狭い通りに旧街道らしい家並みが続く。


 県道241号を北に分ける河口橋バス停は、丸太組みの待合
室。近くに「曽我五郎、十郎首塚まで徒歩20分」の表示があっ
たが、暗くなりそうなので寄るのはあきらめた。


 日が傾き、コンクリート壁面に自分の影が長く映る。


 石積を過ぎると歩道は無くなった。川登の分校跡らしいところ
に、筏(いかだ)流しの里資料館があったが、ここも時間の関係で
寄らずに通過する。

 千人宿大師堂のそばの、柿の葉がきれい。楽水大師堂前の
小田川カーブ点には、筏流しの里の写真が貼ってあった。

 付近の斜面の柿畑も、柿色の紅葉がよい。


 小田町に入って間もなく、田渡川を渡ったT字路の向こうに、
今日の宿、さかえや旅館があった。17時18分に着いた。

 埼玉に比べ日没がかなり遅い。快晴だったこともあり17時
過ぎまで明るく、経度の違いを実感する。

 遍路宿らしいひなびた旅館。急階段を上がって2階の部屋に
入る。風呂は、脱衣所と洗い場と浴槽の間に仕切りがない。

 2階のトイレは方形でなく変形の落とし便で古色蒼然。でも、
おかみさんが「けんちゃん」と呼ぶご夫婦は仲が良さそうで
適度な話好き。

 夕食は、地元産だという里芋、シュンギク、椎茸などの煮物と、
サンマ焼き、アジ焼き、卵とじうどんなど盛り沢山。食べきれ
ないので、サンマ焼きは朝食に回してもらうことにした。食後の
デザートは、やはり柿だった。

 この宿の名、へんろ地図には、「徳岡旅館(さかえや旅館)」と
なっている。聞くと、著者の宮崎さんが、姓の徳岡も旅館名と
したようで、表の看板どおり「さかえや旅館」が正しいとのこと
だった。

 夕食後、おかみさんに、明日のコースのことを聞き、明後日の
距離のことと考え合わせ、明日の宿を国民宿舎として、予約した。
宿の室内からは携帯は通じず、そばの橋の上から電話する。

 21時前就床、部屋には暖房が無く寒いが、布団は暖かかった。

〈コースタイム〉内子駅13:15ー道の駅14:00ー石浦バス停14:40ー
へんろ無料宿15:00~10ー大瀬郵便局15:54ー千人宿大師堂
16:14ーさかえや旅館17:18

(距離 15㎞、地図(1/5万〉大洲、久万、歩行地 愛媛県内子
 町、小田町、歩数 26,600)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(前編)・愛媛その5

2006-11-02 21:32:23 | 初めての四国遍路
 今日は、東京・京橋で開催中の『「どんぐりの会」風景画展』と
いう絵の作品展を見に行きました。カントリーウオークの仲間、
Tさんも出品していると聞いたからです。

 13人の作品展でしたが、いずれも日本の自然を、やわらかな
タッチで描いていて、心が洗われるような作品でした。

 そのあと、近くの八重洲ブックセンターで、四国遍路に必要な
2万5千分の1と5万分の1地形図を数枚購入しました。

 いまレポート中の、2年前の四国遍路の際、購入を漏らした
ところと、最近発行された部分です。来週末あたりから、2度目
の遍路に出かける予定なので、買ってきたのです。

 四国遍路(前半)のレポートは、今日が最終回です。

 ==========================

 第27日 2004年3月17日(水) 晴後曇
 =内子駅で前半の区切り=
 
 5時45分起床、ふるさと旅館の暖房は利きが良く、暑いので
夜半に切って毛布も外してちょうどよかった。

 6時30分朝食、6時58分、今朝もTさんと一緒に出る。女性
一人と多摩市の区切り打ちの男性は早立ち、逆打ち遍路氏は
まだ食堂に来なかった。

 きのうまでと比べると今朝は暖かい。きょうも交通量の多い
国道56号を西に向かう。500m余りで線路の北側の旧道に
入り、新谷町の古い町並みを抜ける。

 帝京第五高の先、北斜面の栗林にいっぱい咲く菜の花が、
黄色いじゅうたんのよう。矢落橋を渡って国道に戻ると、車が
途切れなく続く。

 五十崎(いかざき)駅のそばでへんろ標識に従い左手に入る。
すぐに草の道となり、柔らかな感触が足に優しい。こういう道
がへんろ道として続いているとよいのだが…。

 間もなく内子(うちこ)町。車道に出てすこし上がり、運動公園
の間を抜ける。

 8時半前、内子駅入口に着き、Tさんと多摩市の男性に別れた。

 Tさんとは8日間も同宿し、4日前からはほとんど一緒に歩き、
大変お世話になった。この先元気に歩かれ、無事結願をお祈り
する。

 私は、ここが今回の区切りである。内子駅に行き、時刻表を
借りて調べ、帰りのジパング切符を購入、ロッカーに荷を預けて
2時間ほど内子町を観光することにした。
 
 =内子の町並みを巡る=
 
 駅は町はずれにあり、町並みは駅の北北東に伸びている。

 まず内子座に行く。大正5年(1916)に建てられた木造2階建て。
老朽化で取り壊しになるところを、町民の熱意で昭和60年10月、
復元工事を終え再出発、現在は年間7万人が訪れ、80日近く
劇場として活用されているという。

 枡席、回り舞台、花道などが、木のぬくもりある造りで出来ており、
よく大正時代の演芸場としてのふんいきを醸し出している。

 東に進んで商店街に入る。図書館前に安達玄杏碑があった。
幕末~明治の医者で、育英の先覚者だったという。



 商店街を北に向かい、八幡神社前にある商いと暮らし博物館に
入館する。明治からの薬商、佐野薬局を町が博物館として公開
しているもの。

 大正の頃の商家の暮らしを、間取りに合わせ当時の道具と人形
を配して再現している。良くできた正面の人形に、入ったときに
思わず声を掛けてしまった。


 伊予銀行のそばの交差点を左に入った緩い坂のあたりから、
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された八日市・護国
地区である。

 電線を地中に埋め、昔ながらの白壁の古い家並みが両側に
続いている。

 内子町は、江戸後期から明治時代にかけて、和紙と木蝋(ろう)
で栄えた町。ただ1軒残る和ロウソク製造の大森太郎さんの店
では、ハゼノキから絞った蝋を、芯の回りに何回となく手でかけて
作る独特の製法を実演していた。


 町並みは、伝統工芸の和傘やシュロ細工の店、喫茶、土産物
店などが続き、国重文の建物、大村家、本芳我邸もある。観光
バスや自家用車で来た観光客が多い。

 もう一つの国重文、上芳我邸は木蝋資料館として公開されて
いるので入館した。

 木蝋造りの道具や工程などが、広い邸内にある主屋、釜場、
土蔵、蝋造り小屋、製蝋用具展示棟などを回ることにより、理解
できるようになっている。

 建物は明治27年(1893)に建てられたもので、名家だったこと
が知れるりっぱな造りである。

 館内に、後半何度か見かけた、同年輩の男性の歩き遍路が
見学していた。声をかけたら、水戸市の方。手の爪が化膿して
しまったので、今日は休養して内子町の見学をしているという。

 保存地区の末端まで行って、土産物店をのぞき、ほぼ同じ道
をJR内子駅に戻る。

 11時55分発、内子線上り松山行き普通電車に乗り、長旅
からの帰途についた。

〈コースタイム〉ふるさと旅館6:58ー五十崎駅前8:00ー内子駅
8:28

(距離 7km、歩行地 大洲市、五十崎町、内子町、歩数 
 11,700)                       《前編完》
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(前編)・愛媛その4

2006-11-01 21:54:33 | 初めての四国遍路
 第26日 2004年3月16日(火) 快晴後晴 <43番明石寺>
 =おはなはんの町・大洲へ=
 
 5時45分起床、6時30分朝食、Tさんと一緒に7時に出発。
民宿みやこから見える、肱川の川面から朝霧が上がっている。


 今朝も雲一つない快晴。冷たいので軍手をする。県道29号を
稲西で北北西に入り、卯之町の町並みの手前で北東に向かう。

 宇和島高の先から大久保の山すそを進み、紅梅の咲く参道を
上がって43番明石寺(めいせきじ)に入る。

 山懐にある深閑とした寺。杉木立やケヤキの大木が目につく。
私としては、前半の区切りとなる寺である。


 納経を終え、杉木立の道を上り下りして卯之町の古い家並みへ。
へんろ道の標識を見落とし、国道56号まで進み、朝のラッシュ時
で車の多い国道を北に向かう。

 上宇和駅の手前で国道東側の旧道へ。こちらは車も少なく静か
だ。坂戸の小さい店で弁当を仕入れる。

 田園地帯となった宇和町大江に、じゃこ天の店「おかだ蒲鉾」が
あった。Tさんが、「一昨日の宿で出た、じゃこ天がおいしかった」
と、熱々のじゃこ天を買い、おすそわけをいただいた。

 瀬戸で旧道に入り、車から解放されホッとする。格子戸の古い
家並みを抜け、国道を経由し、鳥坂峠へのへんろ道に向かう。


 鳥坂集落の途中、山道にかかるところに鳥坂番所跡があり、
復元した建物があった。

 峠に向かってヒノキや杉林をゆっくりと上ったが、顔や背中は
大汗。時々見える展望に後方を振り返る。


 標高470mの峠には何の表示もない。ゆるい下りと少しの上り
で、日天月社という小さな祠(ほこら)があった。

 一度林道を横切り、少しだけへんろ道を下って再び林道となる。
西側を走る国道の車の音が真下に聞こえるが、こちらは時折車
が通過するだけで静かな道だ。

 杉林の林道を下り、少しだけ山道を抜けて、番外霊場・札掛
大師堂に下った。読経はしたが、不在なので納経帳への印は
もらえない。

 ちょうどよい時刻なので、鐘楼門前の草地にシートを敷き、オオ
イヌノフグリ、ホトケノザなどの咲くそばで昼食。眼下に開通間近
で追い込み工事中の、松山自動車道の工事現場を見下ろしなが
ら食べる。

 南久米小横から国道56号に戻る。相変わらず車が多く、歩道
がないので歩きにくい、嵩富川の金山橋を渡り、大洲北只郵便局
で最後の資金補充をした。

 右岸沿いの県道144号を進み、国道56号を越えると、国道441
号となる。

 やなせ橋近くの東屋にトイレがあったので休憩。まもなく「おはな
はん」の町、大洲市街に入った。

 川沿いの神社階段下に、昭和3年8月製の昭和塔という変わっ
た塔がある。

 北側の通りは「明治のさんぽみち」と呼ばれ、土蔵造りなどの
古い家並み。

 一つ西側の通りが「おはなはん通り」、ほかにも、細い通りに
昭和か大正年代と思われる古い家並みが見られた。


 へんろシールに従い右折して肱川橋を渡る。上下流に数十隻の
屋形船が並んでいる。6~8月の鵜飼いを見る船のようだ。


 川のカーブ点にある大洲城にはシートがかかり、9月まで改装
中とか。すぐ先から国道56号の車を避けて、大洲駅方面の旧道
を迂回した。

 国道に戻った東大洲の辺りは、地形図上は畑や田んぼなのだ
が、大型の薬局、電気店、靴屋、書店、ファーストフード、スー
パー、ユニクロ、ホテルなどがびっしりと並び、すっかりイメージが
壊された。

 その先に、無料宿泊所・一夜堂のある番外札所・十夜ヶ橋(とや
がはし)永徳寺があった。

 お大師様が宿を断られ、一夜を橋の下で過ごされたという伝説
の地。その橋の上にはいま、高速道が走り情緒はない。


 次の信号を右折し、15時58分、ふるさと旅館に着いた。道を
挟んで、食堂のある新館と宿泊棟の旧館に分かれている。

 旧館の部屋に入り、入浴、洗濯をして、17時半頃には夕食。
あとから区切り打ちの男性、逆打ちの男性、順打ちの女性など
が来た。

〈コースタイム〉民宿みやこ7:00ー43番明石寺7:34~55ー坂戸
9:18ー鳥坂峠へんろ道入口10:36ー鳥坂峠番所跡10:43ー鳥坂峠
11:06~10ー日天月天社11:20ー番外・札掛大師堂(昼食)12:06~
52ーやなせ橋近くの東屋13:58~14:06ー番外・十夜ヶ橋永徳寺
15:30~45ーふるさと旅館15:58

(距離 29km、歩行地 西予市、大洲市、歩数 49,000)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(前編)・愛媛その3

2006-10-29 22:46:31 | 初めての四国遍路
 2日間とも好天に恵まれた栃木県日光市(旧足尾町)のウオー
キングから21時頃、帰宅しました。レポートは明日以降として、
今日は四国遍路道ある記を続けます。

 ============================

 第25日 2004年3月15日(月) 晴 
 <41番龍光寺~42番佛木寺
 =松尾峠を越えて宇和島へ=
 
 5時45分起床、6時30分朝食、7時にTさんと三好旅館を出る。
狭い町並みに古い家並みの並ぶ通りには、獅子文六ゆかりの
文六餅の店がある。

 近くに、臨江寺という変わった山門の寺があった。どうやら番外
15番札所のようなので寄り、参拝を終え納経帳をお願いする。

 しかし、ほかの番外霊場と違い、受付には納経帳に記帳するテー
ブルなど無く、奥で記入して受付で押印してくれた。山門に戻って
看板をよく見たら、何と「四国ぼけ封じ33番札所第15番」とある。

「ぼけ」を「番外」と読み違えていたのだ。ぼけが進むか、参拝した
ので治るか、どっちだろう?

 国道56号に出ると、休み明けの朝のラッシュ時で車が多い。上谷
で旧道の迂回路へ。国道を直進すると、長さ1710m、歩いて27分
かかり、排気ガスの多い松尾トンネルがある。

 迂回路は、1.7km多いが車は少ないとのことで、回ることにした
のだ。

 結構急坂が続き、どんどん高度が上がる。真珠貝養殖工場を過ぎ、
旧道松尾トンネルに入る。歩道はないが、長さは300m足らず、ライ
トを付けて通過する。行き違った車は3台だけだった。

 トンネルを出ると宇和島市で、下り道となる。大きな採石場を過ぎ、
国道56号に出る手前の柿木で休憩した。

 国道に戻って少しで西側の旧道に入る。へんろ道ではないが、
1kmあまり車の少ない山すその集落を進む。下保田の薬師谷川
を渡ると宇和島市街が近づき、商店も車も増えてきた。

 並松で、奥様から「お賽銭に」と百円をお預かりしたので、次に
回った41番に納めた。

 市街地に入ったところで、地形図を見て国道より東の道に入り、
少しだけショートカット。伊予ゆかりの伊達博物館の先で国道に
戻った。

 四月に開催する闘牛のポスターがあり、宇和島が闘牛の町だっ
たことを思い出す。マンホールのふたにも闘牛が描かれていた。

 山上に天守閣が見える宇和島城の下を南から東に回る。城への
上り口になっている上立門のそばに、「児島惟謙先生像」というの
が立っていた。

 宇和島藩士で坂本龍馬と交流があり、のち大審院長(現在の
最高裁長官)になった人だという。


 宇和島郵便局の手前で、歩道橋を渡って広い通りに入り、きさ
いけロードと呼ぶアーケードの通りを横断する。
 

 その先、宇和島駅の東南にある番外霊場、龍光院に参拝する。
 
 寺は長い階段を上がった丘陵上にあり、宇和島城や市街地の
展望がよい。大きな本堂、境内にかわいいお地蔵さんが並び、
ミニ88か所が設けられていた。


 宇和島駅東側の踏切を越えたら、そうざい店があった。中をのぞ
いたら弁当も置いてある。外崎さんと栗おこわを買った。

 国道56号に出てすぐ、光満川沿いの遊歩道を県道との分岐点
近くまで進み、県道57号に入った。道は上りとなる。

 安常の、コインランドリーと自動販売機の並ぶ無人販売所に、いす
と机があったので、場所を借りて昼食にする。Tさんから、おかずと
フルーツ菓子を頂いた。

 県道は、光満川を挟んでJR内子線沿いに谷間を進む。新屋敷を
経て柳の芽吹く馬根を過ぎる。

 気温が上がってきたが、湿気が少なく風がさわやか。窓峠を越え
ると、行く手に曽根の田園が広がる。

 14時前、41番龍光寺に着いた。本堂の納札箱に錦の納札が
あるのをTさんが見つけた。太子堂にも同じ札があり、私に分けて
下さった。昨夜、茶柱が立ったのはこれだったのかと、ありがたく
頂く。

 錦の納札は100以上回った人が納めたもの。価値あるものと
して珍重され、額に入れて飾る人もいるという。

 納経所を出て墓地を抜け、へんろ道の林を西に下り、田園地帯
を西に進む。成家で、「50年前、胃ガンを摘出して元気になった
のはお大師様のおかげ」と、一緒に歩きながら話してくれたおばあ
さんからミカンのお接待を頂いた。


 その先で手押し車の遍路を抜き、静かな集落の42番佛木寺に
着いた。本堂と大師堂は並んでいる。鐘楼は珍しくかやぶきだ。



 更に南西に500mほど進み、沼のほとりを上がって歯長峠へ
向かう。峠へ1.6km地点から山道になった。急坂が続き、顔も
背も一気に汗が吹き出る。

 200mほどの鎖場もあったので、息が弾まぬくらいのペースで
上り、送電線の鉄塔のある歯長峠に着いた。標高490m、送迎庵
見送り大師跡でもあり、小さな庵があった。

 峠の先は、スギやヒノキ、そして広葉樹の落ち葉の多い林を下っ
て車道に出た。肱川沿いの県道29号を西に進む。夕日が山の
向こうに落ちた17時42分、レストラン民宿みやこに着いた。

 部屋は、食堂を挟んで1階と地階にある変わった構造。私は
車庫の奥の地階の部屋。そばに風呂と洗濯機があったので利用
する。

 夕食は18時45分から食堂で。結構盛りだくさんの料理。隣席
は車で遍路している2組の夫妻。先に食事を始めており、意気
投合して大声で話しが弾んでいた。

〈コースタイム〉三好旅館7:00ー臨江寺7:22~上谷(旧国道へ)
7:50ー旧国道松尾トンネル東口8:25ー柿木8:58~9:06ー薬師谷
川先の三差路10:45~51ー宇和島城西下の門10:40ー番外・龍光
院10:57~11:23ー安常(昼食)12:05~26ー新屋敷13:17ー41番
龍光寺13:58~14:22ー42番佛木寺15:03~32ー歯長峠16:24~
30ー車道へ17:00ー民宿みやこ17:42

(距離 35km、歩行地 津島町、宇和島市、三間町、吉田町、
 西予市(旧宇和町)、歩数 60,100)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(前編)・愛媛その2

2006-10-27 19:53:27 | 初めての四国遍路
 明日28日(土)と29日(日)は、カントリーウオークグループの
メンバーで、栃木県日光市(旧足尾町)へ、1泊のウオーキング
に出かけます。

 28日は、渡良瀬川の支流・庚申川をさかのぼって国民宿舎泊、
29日は、旧足尾精錬所跡の見学と、旧国鉄足尾線廃線跡を間藤
まで歩く予定です。

 標高800m以上の谷間にある国民宿舎では、モブログは無理
かと思いますので、レポートは30日以降にアップします。

 四国遍路道ある記(前半)は、愛媛県に入りましたが、あと4日
歩きます。

 ==========================

第24日 2004年3月14日(日) 晴
=峠の上で遍路組曲のコンサート=
 
 今日は、昨夜の前夜祭に続く催し、「トレッキング・ザ・空海」に
参加するのと、次の宿まで22km足らずだし、昨夜遅かったことも
あり、7時に朝食とした。

 朝食前、部屋にあった2冊のノートを読む。宿泊者が書いたもの
だが、前日の宿から荷物を車で運んでもらったこと、歩けなくなっ
て次の宿まで送ってもらったこと、おかみの人柄にひかれて何回も
泊まったことなど、「御荘小町」といわれた美人おかみに感謝する
メッセージであふれていた。

 おかみさんと話ながらの朝食。ご主人を数年前に亡くし、一人で
宿を守っておられることや、宿泊した遍路の誘いで、一緒に旅行や
催しなどを楽しませてもらったことなど、人気おかみならではの交流
について聞かせてもらった。

 昨夜のご厚意を感謝して、8時2分にTさんと磯屋を出る。トレッキ
ングの出発地は、昨夜と同じ「DEあい21」。約9kmあるというが、
10時に着けるだろうか。

 御荘湾沿いの国道に、赤い実だけで葉のない街路樹が続いている。
Tさんと「何の木だろう」と話ながら進む。川之江では高度が上がり、
御荘湾の展望がよい。

 菊川小の先の上り坂で、逆打ちの男性遍路に声をかけられた。家
にはほとんど帰らず、野宿で回って19回目とか。

 赤い納札をくれて、「家からは月5千円の仕送りしかないので、いく
ばくかの…」と言う。それではと500円ずつさしあげた。もらった納札
には、妻子3人を相次いで失い、供養のため回っていることが記され
ていた。


 坂を上り、切り通しを越えると室手。海の展望が広がり、真珠貝の
養殖いかだが幾つも並んでいる。沖合は春霞みで見えない。


 9時50分、「DEあい21」に着く。すでに大勢の参加者が体操中。
急いで受付とトイレを済ませると10時、参加証(下の写真)をもらい、
すぐにスタートした。



 相川沿いにぞろぞろと長い列が続く。役員に聞くと、参加者は約
500人という。村外の参加者がほとんどのようだ。

 見事なハクモクレンが咲く柏坂上り口に着いた。ここからが急坂の
山道だ。用意されていた杖代わりの竹棒を借りて、突きながら一列
になって坂を上がる。

 標高300mの柳水大師には給水サービスがあり、冷水をもらう。
歩き遍路の参加者は我々2人だけ。参加者と話しながら、少しずつ
抜いてゆく。上りが続き汗が出る。

 標高460mの柏坂を過ぎると、林間のゆるい下りとなる。小さな
祠(ほこら)の清水大師に参拝し、更に進んで昼食地の接待松に
着いた。

 由良半島周辺の海を見下ろす絶好の展望地で、甘酒のサービス
があった。ここで野外演奏をする月岡さん、松末さんは既に着いて
いて準備中。

 すぐ近くが空いていたので腰を下ろし、磯屋のおかみさん心づく
しのおむすびを食べる。

 12時から野外コンサートが始まった。ごぜ唄、童謡、そして遍路
組曲が、青空の下、すばらしい展望の中で、今日も月岡さんの力
強い唄が響き、大変感激する。

 演奏が終わり、下りようとしたら、きのう紹介してくださったYさん
が来て、月岡さん、松末さんに、我々が歩き遍路中に参加した
ことを紹介して下さり、お二人からも激励の言葉を頂いた。

 反対側への下り道は傾斜が緩い。牛の背、女兵さん私案の石、
狸の尾曲がりなど、伝説の説明板を見ながら下る。茶堂休憩地
を過ぎたら、珍しいシキミの畑があり、花の咲き出した木もあった。

 ミカン畑が現れた。持ち主の奥さんが、「出荷後だから自由に
食べて下さい」と言う。数個もいで甘いミカンをその場でいただき、
残りはザックに入れる。

 津島町上畑地の1戸だけの民家の横に、へんろ椿と呼ぶヤブ
ツバキの古木があった。樹齢300年、目通り2.26m、高さ12
mという。

そばに、今朝見た赤い実の木があったので聞くと、接ぎ木して
実の付くようにしたモチノキだと教えてくれた。

 近くにあるピンクの桜が見ごろである。

 舗装された林道を下り、国道56号に近いゴール地に着いた。
缶飲料と酒まんじゅうを頂く。ここで声をかけて下さったのが、こ
の後開く句会の選者、夏井いつきさんの叔父にあたる宮部さん。
いつきさんの句入り名刺を頂いた。

 担当の方にお礼申し上げ、参加者に分かれて先方に向かう。
国道56号の南側、芳原川沿いの集落を抜ける。アオサギが
2羽、芦原に立っていた。

 さらに芳原川沿いの自転車道を左岸から右岸へと進む。この
街路樹は、オリーブに続き、ツバキとハクモクレンだった。

 津島大橋の手前を東に入り、川沿いに進んで、15時52分、
三好旅館に着いた。古いたたずまいで、いかにも旅館という
造り。新館と旧館の間に醤油販売の店があり、これも古い店
造りだ。

 本館に入り、早速入浴と洗濯をする。夕食は別館でTさんと
一緒に。豪華なエビフライ、さしみ、などなど盛りだくさん。
おいしいので全部頂いた。

 食後、Tさんが入れてくれたお茶に茶柱が立ち、「明日はきっと、
いいことがありそうだね」と喜んだ。

〈コースタイム〉民宿磯屋8・02ー菊川橋8:46ー御荘町・内海村境
9:31ー「DEあい21」9:50~10:00ー柏坂ーつわな奥展望台(昼食・
青空コンサート)12:00~13・00ー茶堂ー小祝ー三島(国道56号際
ゴール)14:43ー三好旅館15:52

(距離 22km、歩行地 御荘町、内海村、津島町、歩数 
 41,500)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(前編)・高知その16/愛媛その1

2006-10-26 20:53:13 | 初めての四国遍路
 第23日 2004年3月13日(土) 晴 <40番観自在寺>
 =松尾峠を越えて愛媛県入り=
 
 5時25分起床、6時朝食、「また来るんだよー」との親父さんの
声に送られて6時45分にへんくつやを出発する。


 雨が上がり、濃い朝もやで視界は100mくらい。気温も下がって
吐く息が白い。寒いので、軍手を着用する。

 国道56号に出て、小森から旧道へ。市山古石塔群を過ぎた辺り
で霧が晴れ、間もなく日が差してきた。

 和田で国道56号に分かれて北側の県道4号に入った。松田川の
宿毛大橋を渡って右折、文教センター、宿毛郵便局、市役所前など
を通過して、県道109号へ。

 町並みの終わりで国道56号と交差する。貝塚集落の山すそに向
かうと、国史跡・宿毛貝塚があった。縄文中期~後期の貝塚で、四国
では最大だという。貝塚一帯は芝生になっている。

 貝塚の先から山すその上り道。宿毛の町や宿毛湾の展望がよい。
ヒノキ林のたっぷりの落ち葉道や、ナノハナの咲く畑のあぜなどを上り
下りして錦集落を抜ける。

 集落は、桃、ナノハナ、ホトケノザなどが花盛りで、春先らしいやわ
らかな彩りを見せてくれる。


 再び草の道や杉落ち葉のへんろ道を進む。両側に池が現れ、小さ
な祠(ほこら)があったので休憩。久しぶりに自宅に電話し、近況と、
帰宅が1日遅くなることを伝えた。

 放置された棚田が、アシや草など伸び放題になっている。深浦集落
の手前で、駅の方を回ってきたという八戸の女性が左手の道から現
れた。以後同道する。

 八戸の女性とは何日か同宿したが、いつも私が先に宿帳を書き、
名前を知らなかったので聞いて、Tさんと知る。

 Tさんは、いつも「お父さん」と呼ぶご主人や、グループの仲間と、
連休や夏休みなどに山登りをされ、すでに九州、四国の日本百名山
も上ったという。さらに、冬はツアースキー、夏場海に潜るなど、活発
なアウトドア派の方のよう。

 伊予・土佐藩の松尾峠出番所跡を過ぎる。大深浦の集落では、
収穫した文旦をいっぱい並べて出荷作業中。距離は短いが、昔の
まま残る石畳道があった。

 みかん畑の横に新しい地蔵堂があり、「遍路さん休んでいって
下さい」と書いてあったので、Tさんと寄って休憩する。

 天気は良し、ミカン畑や芽吹き間近な山並みなど、のどかな展望
が広がり、いつまでも眺めていたくなるところだった。


 その先は上り坂が続き、茶屋跡を過ぎると海が見え、まもなく松尾
峠。大師堂があり、「純友城跡」の表示と、土佐と伊予の国境標石が
立っていた。


 峠が県境とは知らずに来たので、思いがけない国境標石だった。

 長かった高知県を歩き終え、愛媛県に入るのだと思うと、一瞬、
感慨を覚える。

 峠の先は、疑木の手すりが付いたゆるやかな下り。足あたりの
よい快適な土の道である。


 県道299号に出た。右から合した三差路には、小山番所井戸の
説明があった。

 坂石集落に入る。自宅の前で作業していた男性から、「ちょっと
待って」と言われ、中にいた奥さんをせかせて乳酸菌飲料のお接待
を頂く。そばに東屋(あずまや)があったので昼食とする。

 一本松町の中心街を抜け、国道56号を横切る。おだやかな午後
の日より、ゆったりした気分で車の少ない県道を進んだ。

 札掛集落を抜け、上満倉へ向かう山間は、県道がヘヤピンカーブ
を繰り返す。ショートカット工事中のところもあり、地図で確認したが
よく分からない。

 車の若い人も止まってくれたので聞いたが、要領を得ない。古い
方の道を回ったらへんろ道の標識があった。

 大場集落を過ぎ、谷間の田んぼを左に見下ろしながらゆるい下り
道を進むと、三差路が見えた。その先の僧都川の三差路と勘違いし、
左へショートカットしようとして、あぜ道を入ったら芦原となる。

 休耕田に回ったのだが、Tさんは水のあるところに踏み込み、靴が
泥だらけになった。ほんの少し近回りしようとして、かえって時間を
食い、へんろ道を行くのが正解だったと悟った。

 直前に抜かれ男性歩き遍路が見えないが、左の道をしばらく進む。
でも方向が違う感じ。

 次の三差路にあったへんろ標識は、先ほど見たような気がする。
結局、2km前後の回り道をしたことになり、勘違いした三差路に
戻った。

 15時前に観自在寺に着く見通しだったが、どうやら30分ほど遅れ
そう。Tさんと、「一人ならこんなことはしなかったろうね」と話す。

 城辺町の中心街を通過し、僧都川を越えて御荘町に入り、15時半
過ぎ、40番観自在寺に着いた。解放された感じの明るい境内。3匹
のカエルの石像がある。

 大師堂で参拝しようとしたら、「歩きですか?」と声をかけられた。

 NPO法人、黒潮実感センター事務局長のYさん。「今夜6時から隣
の内海村のDEあい21ホールで、津軽三味線奏者、月岡祐紀子さん
の演奏と、作家・早坂暁さんの講演があります。歩き遍路なら、ぜひ
お出で下さい」と勧められた。

 Tさんも、よい機会だから行きたいという。

 16時28分、民宿磯屋に着いた。早速おかみさんに話したら、急い
で夕食を用意して下さり、17時半前には出してもらった。急いでいた
だく。

 その上、ホールまで9kmあるからと、おかみさんが車で送迎して
下さることになった。

 開演直前に着き、急いで会場に入る。すでに満員だったが、幸い
前から5~6番目に空席があり、座ることが出来た。

 まず、月岡さんの演奏。ごぜうた、中山晋平の民謡三曲、そして
期待していた遍路組曲が始まる。

 月岡さんは2000年、前年に続き各札所で津軽三味線を奉納しな
がらの歩き遍路をして、この遍路組曲をつくった。

 私は、月岡さんの「平成娘巡礼記」(文春新書)や、月岡さんのことを
記した辰濃和男さんの「四国遍路」(岩波新書)を読んでいたので、
大変感慨深く聞く。

 声量豊かに弾き歌う月岡さん、そして伴奏の松末真由美さんの琴
とあわせ、心に残る演奏だった。

 続いて早坂暁さんの「四国遍路の底力」という講演。自分の幼児期、
母親に背負われての四国遍路のこと、最近、東京・高島屋で開催され
た四国遍路展のために作った遍路まんだらの話、四国遍路道の魅力
は人里を抜ける道だ、四国は千年の煩悩が埋もれた道である、平成
遍路の特徴は、自分の生き方を求めて来る人が出たきたこと、など、
予定時間をオーバーして味わい深い話しをされた。

 一緒に聞いた磯屋のおかみさんも大変喜ばれ、私たち遍路にとっ
ても一番思い出深い夜となった。

 もし道を間違えなかったらYさんに会えず、この企画も知らなかった
と思うと、これもお大師さまのお導きかと感謝した次第。21時過ぎ宿
に戻り入浴、就床は23時を過ぎた。

〈コースタイム〉民宿へんくつや6:45ー和田(県道へ)7:44ー深浦(二つ
の池)8:58~9:15ー地蔵堂9:36~50ー茶屋跡10:25ー松尾峠10:40~
50ー県道29号へ11:10ー坂石の東屋(昼食)11:45~12:15ー上満倉の
大宮神社13:35~50太場の三差路戻り14:41ー40番観自在寺15:35~
16:04ー民宿磯屋16:28

(距離 32km、歩行地 宿毛市、愛媛県一本松町、城辺町、御荘
 町、歩数 52,300)

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(前編)・高知その15

2006-10-25 18:30:09 | 初めての四国遍路
 2日余り続いた冷たい雨が上がり、さわやかな秋空となりまた。

 四国遍路前編のレポート22日目、私の遍路旅は天気に恵まれ、
前半で1日中雨だったのはこの日だけでした。

 =========================== 

 第22日 2004年3月12日(金) 雨 <33番延光寺>
 =雨の県道をひたすら=
 
 5時25分起床、6時朝食。雨なのでザックカバーをかぶせ、ポン
チョとスパッツを付け、6時45分に安宿旅館を後にする。

 下ノ加江川に沿った国道321号を西北に戻り、2つ目の橋を渡
って県道21号に入る。

 新しいバイパスのあたりで雨がやんだのでポンチョを脱ぐ。道は
下ノ加江川右岸高みの木立の間を進む。先発した愛知県の女性
と八戸の女性に追いつき、すこし話しながら進み、途中から先行
する。
 
 きのうより気温が下がり歩きやすい。この辺りの地形図とへんろ
地図コピーは、きのう自宅に送り返してしまったので、現在地の
確認が出来ない。

 木立が続いて遠望が聞かないので、ウグイスの声を聞きながら
雨で濡れた道をひたすら前に進む。2戸だけ家並みが現れ、梅や
ボケが花盛り。

 空がかなり明るくなったが、水のない棚田でにぎやかなカエルの
競演が続く。

 再び家が途絶えた。県道といっても狭いところは1車線しかない。
でも車はめったに通らないので安心。土佐清水市大河内の標識
近くに数戸の集落があった。市の北端になる。

 聞こえるのはウグイスの鳴き声と自分の靴音、そしてかすかな
せせらぎのみ。

 杉林に囲まれた河内神社のあたりからまた雨が落ちてきたが、
少しで止んだ。三原村に入り、ゆるやかな上り道が続く。


 伐採した材木を運ぶワイヤーが、川の上を数百mに渡って伸び
ている。再び人家のない川筋。「たまご放し飼いしゅりの里」の看板
があった。

 山すそを半円形のカーブで回って鶴場橋を渡る。側溝の落ち葉
を3人で除去作業中。大雨の時に道路冠水を防ぐための作業だと
いう。

 楽に歩かせていただけるのも、このような作業のおかげと知り
感謝。また本降りになったので、廃屋の小屋でポンチョを付ける。

 芳井橋を渡って芳井集落に入ると、へんろ小屋第7号があった。
太い孟宗(モウソウ)の割竹で屋根や壁代わりに囲い、上にはビニ
ールの波板を張ってある。

 夕べ同宿した女性2人も着いて休憩する。早着した私は先に小屋
を出た。

 谷間に霞がかかり、山水画のよう。下之加江川沿いにSカーブを
繰り返しながら進む。もう、田のあぜに土塗りして水を張り、田植え
の準備をした田んぼもある。

 三原橋の先、たけうち商店の前に、4~5人抱えくらいもある太い
木に、「名木・タブの木」の標示があったが、由来などは記されて
いなかった。

 伝説「嫗滝権現と猫の爪跡石」という説明板があり、そばにある
幅7m前後の大岩に、猫の爪跡のような窪みがある。


 その先、左カーブする地点の天満宮には、下長谷城跡の標示が
あった。

 来栖野トンネルからの道と合した先に、いきいきみはら会のへん
ろ休憩所があった。お茶のポットが置いてあったので1杯頂く。

 何人か泊まれる宿泊施設もある。

 三原村役場近くのファミリーストアで弁当を買い、そばの、村総合
保険センターの屋根下にベンチがあったので、許可を得て昼食を
させてもらった。

 まもなく船ヶ峠交差点。峠の名がついているが平坦で、その先が
わずかな下り坂になっている。

 特養老人ホームふれあい広場前を通過、雨は止まず、息も白く
手がかじかむので、ニギニギしながら歩く。ひたすら歩くのみだが、
これも修行と考え無心で進んだ。

 宿毛市に入り、梅の木トンネルを出ると、左手に中筋川ダムの
堰堤(えんてい)が見えた。

 この写真は堤防の上流なのだが、水ははるか下に少ししかない。

 黒川トンネルを抜け、桜並木の続く川沿いを行く。


 土佐くろしお鉄道平田駅の先のT字路で国道56号に入ったら、
急にダンプや乗用車の交通量が増えた。

 1km余りで延光寺道に入り、14時20分、門前の宿、民宿へん
くつやに着いた。


 ザックを預けて39番延光寺に参拝。よく手入れされ庭、大師堂
は小ぶり。寺の山号、赤亀山ゆかりの赤亀の像があった。


 14時50分、へんくつやに戻った。親父さんは、いろいろなもの
を集めるのが趣味のよう。大石、漁具のガラス玉、いろりの釣り
カギなどが庭に並んでいる。古い発動機も数台あるという。

 2つある岩風呂も1年がかりで親父さんが作ったとか。宿泊客
からもらったという各地の天皇陵の掛け軸、八十八か所の砂入り
座布団など、珍しいものもある。

 ここでは、宿泊客は誰でも「お兄さん」とか「お姉さん」と呼んで
くれるようで、私はお兄さん、八戸の女性はお姉さんと呼ばれた。
歳はおじいちゃんだが気持ちはお兄さんのつもりなので、悪い
気はしない。

 夕食は八戸の人と2人。親父さんから、宇都宮の遍路にもらっ
たという金の納札を頂く。夕食後、ご夫妻の遍路が着いた。

〈タイム〉安宿旅館6:45ー県道21号バイパス7:15~18ー三原村へ
8:28ーたまご放しがいの里看板8:57ー鶴場橋8:55ー芳井橋近く
の廃屋9:05~10ー三原橋10:22ー天満宮10:45ーいきいき三原会
11:12~20ー三原村役場11:25ー総合保険センター(昼食)11:37~
12:00ー宿毛市へ12:47ー梅の木トンネル北12:55ー国道T字路
13:52ー民宿へんくつや14:20ー39番延光寺14:25~43ー民宿へん
くつや14:50

(距離 32km、歩行地 土佐清水市、三原村、宿毛市、歩数 
 48,800)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

四国遍路道ある記(前編)・高知その14

2006-10-24 21:35:37 | 初めての四国遍路
 庭や隣の畑のカラスウリが赤くなりました。今日は11月中旬の
気温とか。1日中冷たい雨でした。

 4日以降中断していた、「四国遍路道ある記(前編)」を再開します。

=============================

 第21日 2004年3月11日(木)  曇後雨
 =土佐清水経由打戻り=
 
 6時15分起床、7時朝食、弁当をお接待していただき、7時40分
に民宿青岬を出る。

 雲は多いがすぐに雨とはなりそうにない。林道を少し進むと、広葉
樹林の間のんろ道になる。なま暖かい風だが、今朝もウグイスが
元気。舗装が途切れて土の道へ。

 西側に潮騒を聞きながら林間を進み、やがて県道27号に出た。

 白波の立つ岸壁や、県道バイパスの新しい大浜トンネルを右に
見ながら北に進む。紫のモクレンガきれいな見せている。

 ヘアピンカーブをショートカットして中浜集落に入った。蒸すために
何段も積んだ棚に、女性数人が生カツオをのせている。

 町並みを抜け、坂を上がって青いアーチの中ノ浜大橋近くに出た。
いま抜けてきた、中浜の集落が見下ろせる。

 へんろ道の標識は橋の方向を指している。橋を渡って1kmあまり
進んだら、中浜万次郎生誕地への矢印があった。

 そうだ中浜は、ジョン万次郎こと中浜万次郎の出身地だったと
思い出す。

 しかし、へんろ道とはどうも方角が違うようだ。県道27号の標示
が出て、大浜方面に戻っているようなので引き返した。

 大橋の西側まで戻ったら、50mほどのところにへんろ道の標識
があった。見落としたため30分ほどロスしただろうか。でも、今日
は距離が短いので安心だ。

 このへんろ道は、落ち葉の多い道を上がり、平坦になり、やがて
下っていったのだが、とても歩きやすいいい道だった。

 下りはじめの木の間から、清水港が見えた。

 へんろ道が終わり、三差路に出てひと休みしていたら雨が落ちて
きた。ザックカバーを付け、ポンチョを抱えて立ち上がる。

 すぐ先の橋を渡ったところに、国史跡・唐船島記念碑があった。
遣明船の前線基地だったという。


 清水港の最奥部を回りこんでいたら突然風雨が強くなった。あわ
ててポンチョを付けようとしたが、風にあおられる。そこへ通りかか
った女性が、自分の傘が飛びそうなのも省みず、ポンチョを反対側
に回してくれた。本当に自然の所作で、ありがたいお接待だった。

 少し先に、消防署の倉庫のような建物があったので、入らせてもら
い、雨ズボンとスパッツを付けた。右カーブしたら薬局があったので、
あかぎれの薬を買う。

 土佐清水市の中心街から来た国道との三差路を右折して、国道
321号を北に向かう。ゆるやかな坂道を上がってトンネルを抜けた
ところで八戸の女性に追いつき、以後、宿まで同道する。

 往路に出る手前、以布利郵便局近くで雨が上がり、暑くなったので
ポンチョを脱いだ。

 下港山のへんろ道を抜け、往路同様、大岐海岸の砂浜に下りる。
引き潮で波打ち際は湿気があり、きのうより歩きやすかった。

 北端の橋を渡り、ナノハナの咲く砂浜で昼食。八戸の女性から、
お接待でもらったというトマトと和菓子のおすそ分けをもらう。

 蟻崎や久百々も往路のへんろ道へ。途中、2日目のさくら旅館で
一緒だった名古屋の男性が向こうから来て、久しぶりの再会。途中
3日間帰宅したと言うが、それにしてはあのころの足取りに比べる
と、速いペースになったものだ。

 久百々を過ぎた辺りで、今度は八戸の人が、初めのころ一緒だっ
たという男性と1人、更にその先で2人と相次いで行き違う。


 また雨になったが、八戸の女性と2人とが、しばし話し込む。

 かなり濡れてきたが、宿も近いのでもう少しと思い雨具を付けず
に進み、14時42分、安宿旅館に戻った。

 すぐに宿の親父さんから新聞紙をもらい、濡れたものを干し、靴
にも入れて乾かす。

 宿に預けていった荷物はもう不要と考え、近くにある閉局間際の
郵便局に行き、ゆうパックで送り返した。しかし、あわてて持って
いったので、必要なものも3点ほどあった。入浴後洗濯をする。

 今日の宿泊は、一緒に戻った我々2人と、愛知の女性1人だった。

〈コースタイム〉民宿青岬7:40ー払川の県道8:10ー大浜トンネル分岐
8:24ー県道27号折返し9:10ー中ノ浜大橋(戻り)9:26ー厚生町の
車道へ10:02~08ー旭町三差路(国道へ)10:50ー以布利郵便局11:26
ー大岐海岸砂浜へ11:56ー砂浜北端(昼食)12:22~45ー安宿旅館
14:42

(距離 23km、歩行地 土佐清水市、歩数 39,200) 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする