2015年6月29日(月)
西武鉄道のPR誌のプレゼント当選でもらった「西武沿線一日フリーきっぷ」の期限が
明日までに迫ったのと、梅雨の晴れ間にもなったので、秩父へのウオーキングに出かけた。
西武池袋線・秩父線で西武秩父駅へ。秩父鉄道の御花畑駅から上り電車で皆野駅に10
時19分に下り、10時23分にスタートする。
駅北側の小さい踏切を渡って線路の西に回り、原集落の荒川右岸近くにある虚空蔵堂へ。
お堂の前で2体の石仏が迎えてくれた。
2本南の通りには、五輪塔と石仏が並ぶ。五輪塔は室町中期の明応3年(1494)の
造立。
たくさんの花に囲まれ、この地域の人たちの信仰の厚さがしのばれる。
畑と集落の間に武甲山を望みながら南に緩やかに回り込み、皆野橋へ下る車道に出た。
道路の南側には、赤鳥居の並ぶ出世稲荷神社があり、拝殿には油揚げが奉納されていた。
狭い境内の右手に、大きなかめと石碑が並ぶ。これも信仰の対象になっているらしい。
皆野橋の近くまで進むと、緑の木々に囲まれて高さ2.5mという「皆野橋記念碑」が
立っている。
対岸の大田に住む若者が皆野の娘に恋し、毎日渡し船で渡っていたが、舟ののろさに
「橋があれば早く会えるのに」といい、これがきっかけで橋が生まれてといういきさつが
記してあるという。
荒川に架かる延長105mの皆野橋は昭和10年(1935)に完成し、近年修復され
たとか。
対岸近くまで往復して緑に囲まれた荒川の流れを一望した。
出世稲荷まで戻り、すぐ先を下った浄水場の先に秩父七福神の大黒天を祭る円福寺があ
る。
開基は平将門(たいらのまさかど)の弟、平将兵(まさひら)で、墓地には平将兵↑と
畠山重能(はたけやましげよし)↓の墓と伝えられる崩れた五輪塔がある。
畠山重能は近くの吉田の生まれ、代々秩父氏と称していたが川本町(現在の熊谷市)に
移り畠山氏を名乗り、畠山重忠の父である。
本堂右手の斜面上には、名取観音堂が祭られている。東京・佃島(つくだじま)の児童
50名を引率して名取広作先生は円福寺に疎開したが、昭和20年(1945)3月に心
身過労で亡くなられた。それを悼み、地元民が立てたのだという。
荒川右岸沿いを東進すると薬師堂がある。古墳だった場所を台状に削って建てたもので、
南側を含め一帯が的塚古墳だったらしい。
その先のY字路を左折し、台地に上がった左手の豊富な緑陰に、椋(むく)神社が祭ら
れている。
景行天皇41年に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国巡見の折、猿田彦命の導き
により創始したと伝えられるとか。椋神社は秩父に5社あり、延喜式神名帳(えんぎしき
じんみようちよう)に記された椋神社はどれか不明のようだが、円福寺が鎮守として崇敬
し、近くに古墳の多い当社がそれとの説もあるらしい。
社殿左手の宝物殿前から背後に回ると摂社が並び、右手には護国神社↑や神楽殿、皆野
出身の俳人、金子兜太(かねことうた)の新しい句碑もある。
正午に近いので手水舎横の椅子を借り、西武秩父駅横の仲見世で買った秩父釜めしで昼
食とする。
12時15分に境内を出て、正面の大鳥居をくぐる。すぐ左手に「秩父みそ屋」ののれ
んの下がる荒井武平商店の直売店があったので立ち寄ってみた。
店内には秩父味噌やその加工品などが並び、店員がお茶を出してくれた。子供の頃愛用
したおなめと、みそ飴を求めて店を出る。
店の前の広場の一角にも金子兜太の句碑があり、道路際には昭和60年(1985)ま
で味噌の仕込みに使っていたという大樽が2つ並んでいた。
秩父鉄道の踏切を越えて東側を平行する旧国道に出る。南東に進んで皆野秩父バイパス
の高架橋下を抜けた先に、県指定史跡の大塚古墳がある。
古墳時代後期の7世紀前半の築造と推定される円墳で、秩父地方に現存の古墳では大規
模のものとか。
直径約33m、高さ約7mあり、秩父の片岩(へんがん)を用いた横穴式石室があるが、
入口の扉は施錠されていて入れない。古墳上は高木に覆われ、全体像は認識しにくい。
東側の国道140号に出て、折り返し北進して右側の小道に入る。リサイクルパーツの
建物の先の標識に従い、そばの草道を進んだ山すそが小池氏館跡である。
小池氏は、室町時代に左間之助光里がこの地に館を設け、養子に迎えた弥八郎は寄居・
鉢形城の北条氏邦(うじくに)に仕えたといわれるという。
弥八郎の子、左馬之助栄算は名主を務め、大塚池を掘り付近一帯を開拓したとか。その
後も小池氏は代々皆野村の名主を務め、明治になってからも戸長になっているようだ。
館跡は土塁の一部しか残っていないが、新編武藏風土記稿には「郡中第一の庭」と記さ
れ、近在から遊覧に来るものが多いとも記されているという。
南側の細長く大きい池はほとんど水が涸れていたが、北側の心字池には弁財天が祭られ、
当時の面影がしのばれる。
皆野秩父バイパスに沿って右に回り込み、ムクゲ自然公園の入口に出る。「本日休園」
の札があるので行かなかったが、斜面を上がると四季折々の草花や樹木が楽しめるようで、
7月下旬には10万本のムクゲが咲くという。
すぐそば、バイパス美の山トンネル入口手前の急石段を上がると、小池氏の鬼門に祭ら
れた八幡神社がある。
拝殿左手背後にはまきが積み置かれ、木々の切れ目から西方の山の展望が良い。
バイパス下をトンネルを抜けて腰集落に入る。国道の東を平行する腰通りを北進して2
つ目の十字路を東に入り、山すその山根福徳稲荷神社へ。
お堂にはたくさんの白キツネが並び、傍らのカシは、根元から何本もの枝が伸びていた。
次の十字路を左折し、滝の入沢沿いの桜並木の道を進む。国道の信号を渡り、すぐ北の
道を斜めに入ると、たくさんの鳥居の並ぶ河原崎稲荷神社がある。
素朴な社殿上部には数多くの絵馬が掲げられ、ユニークな絵柄が多く見飽きない。
社殿の左右には、甲子塔と庚申塔が立っていた。
国道を次の十字路まで進み、腰通りのT字路を少し戻ると、「吉岡佐五郎幸英先生之碑」
が立つ。
吉岡佐五郎幸英は、江戸時代の古武道のひとつ秩父気楽流(きらくりゆう)を広めた人
物のようだが、現在継承者はないらしい。
さらに越通りを北上し、実のふくらんできたぶどう園の横を過ぎる。次の十字路で美の
山からの道路に入り、皆野町役場入口交差点で国道140号を横断する。
役場の駐車場の東南隅に「県立秩父農工高等学校皆野分校跡」碑が立っていた。
皆野分校は昭和24年(1949)1月に開校し、文武両道で県外にも知られていたが、
昭和59年(1984)3月に閉校したという。
道路を挟んだ役場にも立ち寄り、「皆野町登山&ハイキングマップ」などを入手した。
変則四差路を左折し、すぐ先の下原交差点際から参道を入ると円明寺。墓地の傍らの地
蔵堂に、八坂地蔵尊が祭られている。
本堂は寺院らしからぬ近代的なつくり。右手の不動堂の横には、金子兜太と父・金子伊
昔紅(いせきこう)の句碑、兜太書の「唄と踊りと花の寺」碑が並ぶ。
東側の原通りに出て北にすぐ、皆野小校庭に「火伏のエノキ」と呼ぶ2本のエノキが立
っていた。
下原交差点に戻り、すぐ先の変則交差点際には、「右 寄井熊谷……」などと読める古い
道標が土塀の隅に残され、小さな広場には休憩用ベンチもある。
南西から南に回り込む旧道を進むと金子医院がある。金子兜太の父、金子伊昔紅が昭和
2年(1927)に国神村から移転して開院し、兜太が小学2年生から旧制熊谷中入学ま
で過ごしたところ。
祖父母の時代からあったかと思われる土蔵も残されていた。
病院の南側には、金子家の氏神だったという茂徳稲荷神社が祭られている。今日訪ねた
稲荷神社はこれで4つ目。皆野の町中にどうしてこんなに稲荷神社があるのだろうか…。
駅近くまで戻り、矢尾商店の東南側交差点には、↑「左大ミや 右よし田」と刻まれた
道しるべ石と「秩父音頭家元碑」↓が立つ。
ちなみに秩父音頭は、古くからあった盆踊り唄が低俗な詞と単調な踊りですたれていた
のを、昭和初期に金子伊昔紅が格調ある歌詞と踊りに改めて秩父音頭とし、今では八木節、
日光和楽踊りとともに関東三大民謡といわれている。
2つの碑のそばには火の見やぐらが残り、南側の広場にある皆野町営バス待合所には、
観光パンフレットも置かれていた。
西側の突き当たりが皆野駅。15時16分に戻り、15時35分発下り電車に乗る。
(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 皆野、歩行地 皆野町、
歩数 17,300)
今日のコースは、「地図で歩く秩父路」(さきたま出版会発行)の95コース中から選
んだ。著者の飯野頼治(いいのよりじ)さんは、秩父の高校で32年間地理の教師をされ、
秩父をくまなく歩かれ秩父を知り尽くされていた。
私は、やまさんの「関東百駅巡礼歩行」で飯野さんとお会いし、その後、飯野さんが代
表をされていた「所沢山里探訪会」の催しで、講演会と秩父や所沢周辺の歩きに参加させ
てもらい、現地での歴史や暮らしなどの解説を聞きながらの歩きを楽しませていただいた。
ところが、飯野さんはちょうど1年前の昨年7月2日に急逝され、後からそのことを知
り驚き、もうご一緒する機会の無くなったことが大変に残念だった。
遅ればせながら、飯野さんのご冥福をお祈り申し上げます 合掌
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西武鉄道のPR誌のプレゼント当選でもらった「西武沿線一日フリーきっぷ」の期限が
明日までに迫ったのと、梅雨の晴れ間にもなったので、秩父へのウオーキングに出かけた。
西武池袋線・秩父線で西武秩父駅へ。秩父鉄道の御花畑駅から上り電車で皆野駅に10
時19分に下り、10時23分にスタートする。
駅北側の小さい踏切を渡って線路の西に回り、原集落の荒川右岸近くにある虚空蔵堂へ。
お堂の前で2体の石仏が迎えてくれた。
2本南の通りには、五輪塔と石仏が並ぶ。五輪塔は室町中期の明応3年(1494)の
造立。
たくさんの花に囲まれ、この地域の人たちの信仰の厚さがしのばれる。
畑と集落の間に武甲山を望みながら南に緩やかに回り込み、皆野橋へ下る車道に出た。
道路の南側には、赤鳥居の並ぶ出世稲荷神社があり、拝殿には油揚げが奉納されていた。
狭い境内の右手に、大きなかめと石碑が並ぶ。これも信仰の対象になっているらしい。
皆野橋の近くまで進むと、緑の木々に囲まれて高さ2.5mという「皆野橋記念碑」が
立っている。
対岸の大田に住む若者が皆野の娘に恋し、毎日渡し船で渡っていたが、舟ののろさに
「橋があれば早く会えるのに」といい、これがきっかけで橋が生まれてといういきさつが
記してあるという。
荒川に架かる延長105mの皆野橋は昭和10年(1935)に完成し、近年修復され
たとか。
対岸近くまで往復して緑に囲まれた荒川の流れを一望した。
出世稲荷まで戻り、すぐ先を下った浄水場の先に秩父七福神の大黒天を祭る円福寺があ
る。
開基は平将門(たいらのまさかど)の弟、平将兵(まさひら)で、墓地には平将兵↑と
畠山重能(はたけやましげよし)↓の墓と伝えられる崩れた五輪塔がある。
畠山重能は近くの吉田の生まれ、代々秩父氏と称していたが川本町(現在の熊谷市)に
移り畠山氏を名乗り、畠山重忠の父である。
本堂右手の斜面上には、名取観音堂が祭られている。東京・佃島(つくだじま)の児童
50名を引率して名取広作先生は円福寺に疎開したが、昭和20年(1945)3月に心
身過労で亡くなられた。それを悼み、地元民が立てたのだという。
荒川右岸沿いを東進すると薬師堂がある。古墳だった場所を台状に削って建てたもので、
南側を含め一帯が的塚古墳だったらしい。
その先のY字路を左折し、台地に上がった左手の豊富な緑陰に、椋(むく)神社が祭ら
れている。
景行天皇41年に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国巡見の折、猿田彦命の導き
により創始したと伝えられるとか。椋神社は秩父に5社あり、延喜式神名帳(えんぎしき
じんみようちよう)に記された椋神社はどれか不明のようだが、円福寺が鎮守として崇敬
し、近くに古墳の多い当社がそれとの説もあるらしい。
社殿左手の宝物殿前から背後に回ると摂社が並び、右手には護国神社↑や神楽殿、皆野
出身の俳人、金子兜太(かねことうた)の新しい句碑もある。
正午に近いので手水舎横の椅子を借り、西武秩父駅横の仲見世で買った秩父釜めしで昼
食とする。
12時15分に境内を出て、正面の大鳥居をくぐる。すぐ左手に「秩父みそ屋」ののれ
んの下がる荒井武平商店の直売店があったので立ち寄ってみた。
店内には秩父味噌やその加工品などが並び、店員がお茶を出してくれた。子供の頃愛用
したおなめと、みそ飴を求めて店を出る。
店の前の広場の一角にも金子兜太の句碑があり、道路際には昭和60年(1985)ま
で味噌の仕込みに使っていたという大樽が2つ並んでいた。
秩父鉄道の踏切を越えて東側を平行する旧国道に出る。南東に進んで皆野秩父バイパス
の高架橋下を抜けた先に、県指定史跡の大塚古墳がある。
古墳時代後期の7世紀前半の築造と推定される円墳で、秩父地方に現存の古墳では大規
模のものとか。
直径約33m、高さ約7mあり、秩父の片岩(へんがん)を用いた横穴式石室があるが、
入口の扉は施錠されていて入れない。古墳上は高木に覆われ、全体像は認識しにくい。
東側の国道140号に出て、折り返し北進して右側の小道に入る。リサイクルパーツの
建物の先の標識に従い、そばの草道を進んだ山すそが小池氏館跡である。
小池氏は、室町時代に左間之助光里がこの地に館を設け、養子に迎えた弥八郎は寄居・
鉢形城の北条氏邦(うじくに)に仕えたといわれるという。
弥八郎の子、左馬之助栄算は名主を務め、大塚池を掘り付近一帯を開拓したとか。その
後も小池氏は代々皆野村の名主を務め、明治になってからも戸長になっているようだ。
館跡は土塁の一部しか残っていないが、新編武藏風土記稿には「郡中第一の庭」と記さ
れ、近在から遊覧に来るものが多いとも記されているという。
南側の細長く大きい池はほとんど水が涸れていたが、北側の心字池には弁財天が祭られ、
当時の面影がしのばれる。
皆野秩父バイパスに沿って右に回り込み、ムクゲ自然公園の入口に出る。「本日休園」
の札があるので行かなかったが、斜面を上がると四季折々の草花や樹木が楽しめるようで、
7月下旬には10万本のムクゲが咲くという。
すぐそば、バイパス美の山トンネル入口手前の急石段を上がると、小池氏の鬼門に祭ら
れた八幡神社がある。
拝殿左手背後にはまきが積み置かれ、木々の切れ目から西方の山の展望が良い。
バイパス下をトンネルを抜けて腰集落に入る。国道の東を平行する腰通りを北進して2
つ目の十字路を東に入り、山すその山根福徳稲荷神社へ。
お堂にはたくさんの白キツネが並び、傍らのカシは、根元から何本もの枝が伸びていた。
次の十字路を左折し、滝の入沢沿いの桜並木の道を進む。国道の信号を渡り、すぐ北の
道を斜めに入ると、たくさんの鳥居の並ぶ河原崎稲荷神社がある。
素朴な社殿上部には数多くの絵馬が掲げられ、ユニークな絵柄が多く見飽きない。
社殿の左右には、甲子塔と庚申塔が立っていた。
国道を次の十字路まで進み、腰通りのT字路を少し戻ると、「吉岡佐五郎幸英先生之碑」
が立つ。
吉岡佐五郎幸英は、江戸時代の古武道のひとつ秩父気楽流(きらくりゆう)を広めた人
物のようだが、現在継承者はないらしい。
さらに越通りを北上し、実のふくらんできたぶどう園の横を過ぎる。次の十字路で美の
山からの道路に入り、皆野町役場入口交差点で国道140号を横断する。
役場の駐車場の東南隅に「県立秩父農工高等学校皆野分校跡」碑が立っていた。
皆野分校は昭和24年(1949)1月に開校し、文武両道で県外にも知られていたが、
昭和59年(1984)3月に閉校したという。
道路を挟んだ役場にも立ち寄り、「皆野町登山&ハイキングマップ」などを入手した。
変則四差路を左折し、すぐ先の下原交差点際から参道を入ると円明寺。墓地の傍らの地
蔵堂に、八坂地蔵尊が祭られている。
本堂は寺院らしからぬ近代的なつくり。右手の不動堂の横には、金子兜太と父・金子伊
昔紅(いせきこう)の句碑、兜太書の「唄と踊りと花の寺」碑が並ぶ。
東側の原通りに出て北にすぐ、皆野小校庭に「火伏のエノキ」と呼ぶ2本のエノキが立
っていた。
下原交差点に戻り、すぐ先の変則交差点際には、「右 寄井熊谷……」などと読める古い
道標が土塀の隅に残され、小さな広場には休憩用ベンチもある。
南西から南に回り込む旧道を進むと金子医院がある。金子兜太の父、金子伊昔紅が昭和
2年(1927)に国神村から移転して開院し、兜太が小学2年生から旧制熊谷中入学ま
で過ごしたところ。
祖父母の時代からあったかと思われる土蔵も残されていた。
病院の南側には、金子家の氏神だったという茂徳稲荷神社が祭られている。今日訪ねた
稲荷神社はこれで4つ目。皆野の町中にどうしてこんなに稲荷神社があるのだろうか…。
駅近くまで戻り、矢尾商店の東南側交差点には、↑「左大ミや 右よし田」と刻まれた
道しるべ石と「秩父音頭家元碑」↓が立つ。
ちなみに秩父音頭は、古くからあった盆踊り唄が低俗な詞と単調な踊りですたれていた
のを、昭和初期に金子伊昔紅が格調ある歌詞と踊りに改めて秩父音頭とし、今では八木節、
日光和楽踊りとともに関東三大民謡といわれている。
2つの碑のそばには火の見やぐらが残り、南側の広場にある皆野町営バス待合所には、
観光パンフレットも置かれていた。
西側の突き当たりが皆野駅。15時16分に戻り、15時35分発下り電車に乗る。
(天気 晴、距離 7㎞、地図(1/2.5万) 皆野、歩行地 皆野町、
歩数 17,300)
今日のコースは、「地図で歩く秩父路」(さきたま出版会発行)の95コース中から選
んだ。著者の飯野頼治(いいのよりじ)さんは、秩父の高校で32年間地理の教師をされ、
秩父をくまなく歩かれ秩父を知り尽くされていた。
私は、やまさんの「関東百駅巡礼歩行」で飯野さんとお会いし、その後、飯野さんが代
表をされていた「所沢山里探訪会」の催しで、講演会と秩父や所沢周辺の歩きに参加させ
てもらい、現地での歴史や暮らしなどの解説を聞きながらの歩きを楽しませていただいた。
ところが、飯野さんはちょうど1年前の昨年7月2日に急逝され、後からそのことを知
り驚き、もうご一緒する機会の無くなったことが大変に残念だった。
遅ればせながら、飯野さんのご冥福をお祈り申し上げます 合掌
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