あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

小江戸川越七福神と蔵造りの街並みを巡る(埼玉)

2017-02-17 17:00:37 | ウオーキング
 1週間近くなりますが風邪の回復が遅れ、パソコンに向かう時間が疎遠のまま過ぎて
しまいました。

 順序が入れ替わりますが奄美4島巡りは後にして、今回は川越市内のウオーキングレ
ポートです。

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 2017年2月11日(土・祝)

 発足以来まる24年、25年目のスタートとなるカントリーウオークグループの第240
回例会に参加した。集合地はJR川越線と東武東上線の川越駅。今回は小江戸川越七福神
を中心のタウンウオークである。


 所用で休むがアドバイスに来た地元Kさんによると、今日は観光客が多いので昼食予定
地も人出が多いはずとのこと。昼食地を初雁球場に変えて、4組に分かれて10時15分
にスタートした。
 
 == 県道39号の東を回り初雁球場へ ==

 東口を出て線路に平行する車道を南へ、踏切の近くから東進して、最初の七福神、毘沙
門天の妙善寺(みようぜんじ)に入る。

 妙善寺は、寛永元年(1624)の創建とか。コンクリート造り2階建ての本堂は昭和
53年(1978)の再建、階段を上がって2階の本堂に参拝する。

 Kさんによれば、各七福神の寺には水琴窟(すいきいんくつ)があるという。妙善寺に
もあったが、そばを走る県道39号の騒音が大きいので、竹筒を通して水音を聞くように
なっていた。


 県道39号を北へ、白梅が見頃な菅原神社前を通過する。信号のある交差点から東へ、
仙波町二丁目を抜けて国道16号側に回り込むと、寿老人の天然寺(てんねんじ)である。

 創建は天文23年(1554)で、木造大日如来座像は建武2年(1335)などの修
理銘があり、市内に現存する仏像としては最古のひとつという。


 境内の白梅は満開、寿老人は本堂前の小さなお堂に祭られていた。
     

 コイの泳ぐ池や手水舎には豊富な湧水が注がれ、ここの水琴窟は良い音色を聞かせてく
れた。


 北東側近くにある川越観音・長徳寺にも回ってみた。りっぱな山門を入ると、正面の本
堂も大きい。

 長徳寺は、「新版武蔵風土記稿」によれば永正年代(1514)の名が過去帳に記され、
境内にはもと若干の土塁と堀があったといわれ、仙波氏の館跡(やかたあと)と推定され
ているという。

 6地蔵を祭る地蔵堂は瓦屋根とコンクリート造りのりっぱなもの。山門の横には、千体
地蔵尊が祭られていた。露座の川越観音は愛くるしい幼児のように見える。
      

 東側にはコンクリート造りの新しい大きな建物があり、その横から背後に抜けると畑の
隅に白梅の古木が見頃な花を見せていた。


 仙波町二丁目に戻って北へ、川越一中の門前にある大きなコブシの芽がかなりふくらん
でいる。光西寺前を通過して鐘楼門をくぐり、中院(なかいん)に入る。


 中院は、北側にある喜多院同様天長7年(830)に慈覚大師の創立とのこと。当初は
現在の東照宮の地にあったが、寛永10年(1633)の東照宮建造の折にこの地に移さ
れたという。



 境内には樹木が多く、3本のシダレザクラや格好良い松、キンモクセイの古木などが目
に付く。

 墓地には、川越城主秋元候の家老、大陽寺一族の墓↓や、島崎藤村の義母、加藤みきの
墓などがある。


 中院を出てさらに北へ、川越総合高正門前を通過して間もなく、国重要文化財で朱塗り
の八脚門、仙波東照宮の随神門を入る。


 仙波東照宮の社殿は、門を入り空堀の横を過ぎ、石段を上がった小高い一角に祭られて
いた。

 朱塗りの拝殿と弊殿も国の重要文化財。創建は寛永10年(1633)で、弊殿には後
水尾天皇の御染筆による「東照大権現」の勅額が掲げられているという。

 北に続く広い境内は、川越の代表的な寺院で大黒天を祭る喜多院(きたいん)。正月に
は参拝客で賑わうようだが、今日はさほどでもない。

 喜多院は、淳和天皇の勅願により天長7年(830)慈覚大師が創建、寛永15年
(1638)の川越大火後、3代将軍家光公が江戸城の別殿を移築し、その他諸堂も再建
したという。

 大本堂にあたる慈恵堂のほか、境内には多宝塔、慈眼堂、五百羅漢、客殿などが点在し
ている。
      

          
 多宝塔の横から北に抜け、時の鐘に似た塔の目に付くそば処の横を進み、恵比寿天を祭
る成田山(なりたさん)川越別院へ。

 千葉県成田市の成田山新勝寺の別院で、交通安全祈願で知られる。恵比寿天は、本堂と
大師堂の間の小さなお堂に祭られていた。
      

 北側の県道15号を横断して東北に進み、三芳野神社の参道を進む。この参道は、わら
べ歌「とおりゃんせ」の歌詞の発祥の地といわれているようだ。

 三芳野神社は、川越城の鎮守として寛永元年(1624)に再建されたとのこと。社殿
は修復中で、シートに囲まれていた。


 神社の北側が昼食地の初雁球場で、12時10分に着いた。だが、門が閉じて球場内に
は入れない。西側の塀付近にシートを広げて昼食とした。

 == 各自蔵造りの街並みを巡り本川越駅へ ==

 食事を終え、そばの川越城本丸御殿の周辺を見て回る。川越城は長禄元年(1457)
に築城され、県指定文化財の本丸御殿は、嘉永元年(1848)の造営。



 現在は玄関、大広間、家老詰所が残っている。邸内の紅梅が満開の花を見せる。


 御殿前の公衆電話ボックスは、利用者減少で電話機は1月中旬に撤去され、ボックス自
体も今月中には撤去すると記されていた。
      

 ミーティングの後に記念撮影をして、13時20分頃午後のコースに向かう。


 市立美術館前を左折して西へ、郭町交差点の先に川越城中の門堀跡が、数10mだけ整
備して公開されていた。


 市役所前から札の辻交差点周辺まで進むと、観光客がかなり増え、当初の昼食予定地、
元町休憩所も大勢の人が休んでいる。ここで15時までフリータイムをとり、各自自由に
近くの蔵造りの街並みや菓子屋横丁などを回ることにする。


 細い路地の菓子屋横丁も観光客で賑わい、色とりどりな菓子を眺めたり買い求めたりし
ていた。





 川越の中心部を南北に走る、中央通・県道12号の札の辻交差点から連雀町交差点周辺
まで、川越の代表的景観である蔵造りの家並みが続いている。

 重厚な蔵造りは、明治26年(1893)の大火を契機に築かれ、伝統的な町家群と近
代洋風建築などが連なる街並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 札の辻に近い蔵造り資料館から南へ、両側に並ぶ蔵造りなどの街並みを見て回る。電線
の地中化は済んでいるが自動車の交通量が多く、その間に多くの観光客の往来が続き、人
と車に注意しながら仲町交差点まで進む。

 東側に並行する通りに回って折り返し、先月修復を終えたばかりの川越のシンボル、
「時の鐘」の下を通過する。
      
 時の鐘は、江戸初期の酒井忠勝が城主(1627~34)の頃建設されたと伝えられ、
現在の鐘は、明治26年(1893)の大火の翌年の再建、高さは約16mで、環境庁の
「残したい日本の音風景百選」に選ばれている。

 県の登録有形文化財、埼玉りそな銀行川越支店の建物は、大正7年(1818)に第八
十五銀行の本店として建設された、ネオ・ルネッサンス様式の建物である。



 元町休憩所に全員戻り、15時過ぎに後半の七福神巡りへ。西進して新河岸川の高沢橋
際から右岸をすぐで、布袋尊の見立寺(けんりゆうじ)に入る。

 見立寺は、永禄元年(1558)小田原北条氏の重臣で川越の城将大道寺正政繁候によ
る開山とのこと。本堂内には、黄金色のりっぱな仏像が祭られていた。
      


 昼過ぎまで快晴で暖かだった空に雲が増え、気温も下がってやや寒々してきた。左岸沿
いに進んでお部屋橋を渡り、十念寺横を南下すると弁財天の妙昌寺(みようしようじ)が
ある。

 永和元年(1375)に池上本門寺の末寺として開山し、寛保元年(1741)に川越
城改修に伴い、現在地に移ったとか。

      
 弁財天堂は墓地横を下ったところにあり、水琴窟もその近くだった。


 少し戻って東へ、七福神の最後は福禄寿神を祭る、中央通に面した連雀町の連馨寺(れ
んけいじ)である。

 連馨寺は、天文18年(1549)川越城主大道寺駿河守政繁が母の連馨尼を追福する
ため開山したもの。のちに浄土宗の学問所である関東十八壇林のひとつに列せられ、葵の
紋所が許されるなどで栄えたという。

 現在は子育吞龍上人(どんりゆうしようにん)で親しまれ、さわると病気平癒祈願など
に霊感あらたかな、おびんずる様も人気のよう。
      

 ここで七福神巡りを終わり、さらに中央通を南下して西武新宿線の本川越駅に16時7
分に着き、散会となった。

(参加 18人、天気 快晴後晴、距離 11㎞、地図 (1/2.5万)川越、小江戸
 川越散策マップ、歩行地 川越市、歩数 19,500)





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