2017年2月6日(月)
== 沖永良部島観光後フェリーで徳之島へ ==
3日目の朝、沖永良部島のおきえらぶフローラルホテルにて、6時50分に起床した。部
屋の窓から外を見ると雲が多い。
7時30分過ぎ、1階のレストランに行きバイキング朝食を。もうほとんどの人は済んだ
のか、レストランは閑散としていた。
朝食後、外に出てホテルを眺める。すぐ東側には知名小の校舎が見えた。
ホテルの壁面と床の一部には、沖永良部島特産のトラバーチンと呼ぶ温泉や鉱泉、地下
水中などから生じた石灰質化学沈殿岩が使われている。
9時30分に昨日のバスに乗り、島の南西部、知名町の中心街にあるホテルを後にする。
今日のドライバーは松村哲男さん、ガイドは松尾沙百合さん、松尾さんは福岡県出身で、
沖永良部島のガイドになって2か月という。
バスは太平洋岸沿いを10分余り東進して、最初にウジジ浜公園に行く。ウジジ浜は長い
年月に侵食された岩が多く、様々な形の岩が独特の景観を見せている。
この浜では、明治23年(1890)9月、カナダの帆船リジー・C・トゥーループ号が長崎
から米国に向かう途中に台風で座礁し、難波したという。
乗組員22名中、10名が住民の必至の救助活動により救出されて無事帰国し、カナダ政府
は島民の献身的な救護に感謝して、2年後に望遠鏡と42ポンドを村役場と救助にあたった
村民に贈ったとのこと。
公園は、遭難から110周年の2000年9月に整備したようで、遭難した帆船の模型やいか
りが展示されていた。
10時にウジジ浜を後にして、畑の多い太平洋岸を東北に向かう。沖永良部島は農業の島
で、島の面積の48%は畑、全国では4%に過ぎない農業従事者も島では33%になるという。
東側の和泊町(わどまりちよう)に入って市街地を抜け、島の東端に近い国頭(くにが
み)小に行く。国頭小の校庭の中央部校舎寄りには、日本一のガジュマルがあった。
その枝の広がりぶりは、ほかの木でもめったに見られそうにないもの。
明治31年(1898)の第1回卒業生が植えたもので、新日本名木百選に選定されていて、
和泊町指定天然記念物である。木には赤い実がついていた。
ガジュマルの近くには、「汐干す母」と呼ぶ像がある。国頭小は地元の民謡仲里節の継
承、汐づくり体験やサトウキビづくりなどしており、文部科学省の「伝統文化教育」推進
校に指定されている。ちなみに、島内には小学校が9校、中学校4校、高校が1校あると
いう。
バスは、島の北端に近い東シナ海側に回ってフーチャへ。フーチャとは隆起サンゴ礁が
荒波で浸食されてできた「潮吹き洞窟」のこと。
沖永良部島北岸特有の絶壁と浸食されてできた景観は、強い季節風や台風時には20m~
70mも天高く飛び散った水滴が霧状になり、農作物にも大きな被害をもたらしたので、昭
和38年(1963)には4か所中の3か所を破砕し、被害が少なかったこの場所だけが観光資
源として残されたようだ。
今日はかなり風もあり、見下ろす岩の間からは、寄せくる波の都度異なる様々な波しぶ
きや、岩に砕ける豪壮な波頭などが見下ろせ、周辺の岸壁にも強い波が次々に押し寄せる
ダイナミックな景観が見られた。
10時43分にフーチャ海岸を離れる。今日は少し時間の余裕が出来たとのことで、予定外
だが近くの農産物販売所に寄ってくれるという。
数分で国頭集落にある農産物販売所「ほおらしゃ市」に着いた。
小さな店だが、島特産の新鮮な野菜や果物、農産物加工品、花などを販売している。重
い買い物は止めて、沖縄で買ったことのある「あんだーぎ」と呼ぶ菓子を求めた。
バスは東シナ海と太平洋が見えるという島で一番狭い部分を通過して、太平洋側東部の
笠石(かさいし)海浜公園へ。
ユニークな形の展望塔に上がると、島の東北端の国頭岬や眼下の岩礁の多い浜辺、周辺
の畑や島に多いという潅漑用ため池などが展望できる。
展望塔から下り、近くの海岸や公園に咲くブーゲンビリアなどの花を眺め、3月12日開
催というジョギング大会のアーチのそばからバスに乗り、11時55分に出発した。
南東に2㎞余りで和泊町の中心街に入る。創作島料理の店「とうぐら」に12時5分に着
き、その島料理の昼食をいただいた。
食事を終えた後、13時15分までフリータイムとなり、近くの西郷南州記念館まで往復す
ることにする。 和泊町のマンホールのデザインは、特産のエラブユリのよう。
店のすぐ近くには「いしこ公園」があり、この町の主要企業の創業者らしい山田三十茂、
明夫妻の像や記念碑が立っていた。
2つ目の信号を越えた川沿いの一角に、かやぶき屋根の小さな建物がある。西郷隆盛が
島津久光公の怒りにふれ、薩摩藩の重罪人として沖永良部島に流されたときの牢屋で、そ
ばに西郷南州記念館が設けられている。
西郷隆盛は文久2年(1862)に流罪となり、1年6か月間ここで牢屋生活を送ったとの
こと。その間、隣に胸像のある操家の蔵書や持参した書籍で学問に励み、精神を錬磨して
天地自然の理を悟り、「敬天愛人」の大思想を完成させ、これが沖永良部島発展の基をな
しているのだという。西郷南州記念館は休館日で入館は出来なかった。
全員予定より早く戻ったので、13時08分にバスは昼食地近くのディスカウント店前を出
発する。沖永良部島最後の目的地、市街地から3㎞ほど西南の沖永良部酒造に7分程で着
いた。
沖永良部酒造は、島内にある4つの蔵元が醸造した奄美黒糖焼酎を受け入れ、38~41℃
で3年間貯蔵後にブレンドして、幾つかの銘柄にして出荷しているところ。
出荷量は年約9万本で、島内外への出荷量はおよそ半々ずつという。
ちなみに奄美黒糖焼酎は、昭和28年(1953)に奄美群島がアメリカから返還されたとき、
奄美の主要産業であるサトウキビからできる黒糖で焼酎を造り、飲んでいた実績が評価さ
れ、黒糖を原料にしての酒類製造は酒税法で奄美群島(奄美大島、喜界島、徳之島、沖永
良部島、与論島)だけに認められているのだという。
工場内で説明を聞いた後、売店に入って試飲タイムとなり、25~40度の銘柄を度の大き
い方から少しずつ口に含んで味わう。
直売もしているので購入して、持ち帰ったり宅配便を依頼したりする人もあった。
13時43分に沖永良部酒造を出て和泊町中心部に戻り、和泊港のフェリー乗り場に行く。
岸壁にはすでにフェリー波の上号は着岸していて、昨日与論島から乗ったフェリーより
もかなり大きい。
次の徳之島に向けてフェリーは14時40分に和泊港を離れた。
フェリー波之上号は総トン数8,072トン、全長145m、幅24m、最大速力23.29Kn(キロノッ
ト)、旅客定員707名、乗用車72台、8トントラック48台を積載できるという。
1時間50分の船旅で、16時30分に3つ目の島、徳之島の東南部にある亀徳(かめとく)
港に着いた。今日の宿は港に近い亀津(かめつ)の市街地、太平洋を望むホテル グランド
オーシャンリゾート、16時45分頃に入った。
夕食は17時30分から、ホテル2階のレストラン ブルーマリンにてのバイキング料理。
私たちは部屋でゆっくりして、19時頃にレストランに行く。
(歩数 9,000歩)
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== 沖永良部島観光後フェリーで徳之島へ ==
3日目の朝、沖永良部島のおきえらぶフローラルホテルにて、6時50分に起床した。部
屋の窓から外を見ると雲が多い。
7時30分過ぎ、1階のレストランに行きバイキング朝食を。もうほとんどの人は済んだ
のか、レストランは閑散としていた。
朝食後、外に出てホテルを眺める。すぐ東側には知名小の校舎が見えた。
ホテルの壁面と床の一部には、沖永良部島特産のトラバーチンと呼ぶ温泉や鉱泉、地下
水中などから生じた石灰質化学沈殿岩が使われている。
9時30分に昨日のバスに乗り、島の南西部、知名町の中心街にあるホテルを後にする。
今日のドライバーは松村哲男さん、ガイドは松尾沙百合さん、松尾さんは福岡県出身で、
沖永良部島のガイドになって2か月という。
バスは太平洋岸沿いを10分余り東進して、最初にウジジ浜公園に行く。ウジジ浜は長い
年月に侵食された岩が多く、様々な形の岩が独特の景観を見せている。
この浜では、明治23年(1890)9月、カナダの帆船リジー・C・トゥーループ号が長崎
から米国に向かう途中に台風で座礁し、難波したという。
乗組員22名中、10名が住民の必至の救助活動により救出されて無事帰国し、カナダ政府
は島民の献身的な救護に感謝して、2年後に望遠鏡と42ポンドを村役場と救助にあたった
村民に贈ったとのこと。
公園は、遭難から110周年の2000年9月に整備したようで、遭難した帆船の模型やいか
りが展示されていた。
10時にウジジ浜を後にして、畑の多い太平洋岸を東北に向かう。沖永良部島は農業の島
で、島の面積の48%は畑、全国では4%に過ぎない農業従事者も島では33%になるという。
東側の和泊町(わどまりちよう)に入って市街地を抜け、島の東端に近い国頭(くにが
み)小に行く。国頭小の校庭の中央部校舎寄りには、日本一のガジュマルがあった。
その枝の広がりぶりは、ほかの木でもめったに見られそうにないもの。
明治31年(1898)の第1回卒業生が植えたもので、新日本名木百選に選定されていて、
和泊町指定天然記念物である。木には赤い実がついていた。
ガジュマルの近くには、「汐干す母」と呼ぶ像がある。国頭小は地元の民謡仲里節の継
承、汐づくり体験やサトウキビづくりなどしており、文部科学省の「伝統文化教育」推進
校に指定されている。ちなみに、島内には小学校が9校、中学校4校、高校が1校あると
いう。
バスは、島の北端に近い東シナ海側に回ってフーチャへ。フーチャとは隆起サンゴ礁が
荒波で浸食されてできた「潮吹き洞窟」のこと。
沖永良部島北岸特有の絶壁と浸食されてできた景観は、強い季節風や台風時には20m~
70mも天高く飛び散った水滴が霧状になり、農作物にも大きな被害をもたらしたので、昭
和38年(1963)には4か所中の3か所を破砕し、被害が少なかったこの場所だけが観光資
源として残されたようだ。
今日はかなり風もあり、見下ろす岩の間からは、寄せくる波の都度異なる様々な波しぶ
きや、岩に砕ける豪壮な波頭などが見下ろせ、周辺の岸壁にも強い波が次々に押し寄せる
ダイナミックな景観が見られた。
10時43分にフーチャ海岸を離れる。今日は少し時間の余裕が出来たとのことで、予定外
だが近くの農産物販売所に寄ってくれるという。
数分で国頭集落にある農産物販売所「ほおらしゃ市」に着いた。
小さな店だが、島特産の新鮮な野菜や果物、農産物加工品、花などを販売している。重
い買い物は止めて、沖縄で買ったことのある「あんだーぎ」と呼ぶ菓子を求めた。
バスは東シナ海と太平洋が見えるという島で一番狭い部分を通過して、太平洋側東部の
笠石(かさいし)海浜公園へ。
ユニークな形の展望塔に上がると、島の東北端の国頭岬や眼下の岩礁の多い浜辺、周辺
の畑や島に多いという潅漑用ため池などが展望できる。
展望塔から下り、近くの海岸や公園に咲くブーゲンビリアなどの花を眺め、3月12日開
催というジョギング大会のアーチのそばからバスに乗り、11時55分に出発した。
南東に2㎞余りで和泊町の中心街に入る。創作島料理の店「とうぐら」に12時5分に着
き、その島料理の昼食をいただいた。
食事を終えた後、13時15分までフリータイムとなり、近くの西郷南州記念館まで往復す
ることにする。 和泊町のマンホールのデザインは、特産のエラブユリのよう。
店のすぐ近くには「いしこ公園」があり、この町の主要企業の創業者らしい山田三十茂、
明夫妻の像や記念碑が立っていた。
2つ目の信号を越えた川沿いの一角に、かやぶき屋根の小さな建物がある。西郷隆盛が
島津久光公の怒りにふれ、薩摩藩の重罪人として沖永良部島に流されたときの牢屋で、そ
ばに西郷南州記念館が設けられている。
西郷隆盛は文久2年(1862)に流罪となり、1年6か月間ここで牢屋生活を送ったとの
こと。その間、隣に胸像のある操家の蔵書や持参した書籍で学問に励み、精神を錬磨して
天地自然の理を悟り、「敬天愛人」の大思想を完成させ、これが沖永良部島発展の基をな
しているのだという。西郷南州記念館は休館日で入館は出来なかった。
全員予定より早く戻ったので、13時08分にバスは昼食地近くのディスカウント店前を出
発する。沖永良部島最後の目的地、市街地から3㎞ほど西南の沖永良部酒造に7分程で着
いた。
沖永良部酒造は、島内にある4つの蔵元が醸造した奄美黒糖焼酎を受け入れ、38~41℃
で3年間貯蔵後にブレンドして、幾つかの銘柄にして出荷しているところ。
出荷量は年約9万本で、島内外への出荷量はおよそ半々ずつという。
ちなみに奄美黒糖焼酎は、昭和28年(1953)に奄美群島がアメリカから返還されたとき、
奄美の主要産業であるサトウキビからできる黒糖で焼酎を造り、飲んでいた実績が評価さ
れ、黒糖を原料にしての酒類製造は酒税法で奄美群島(奄美大島、喜界島、徳之島、沖永
良部島、与論島)だけに認められているのだという。
工場内で説明を聞いた後、売店に入って試飲タイムとなり、25~40度の銘柄を度の大き
い方から少しずつ口に含んで味わう。
直売もしているので購入して、持ち帰ったり宅配便を依頼したりする人もあった。
13時43分に沖永良部酒造を出て和泊町中心部に戻り、和泊港のフェリー乗り場に行く。
岸壁にはすでにフェリー波の上号は着岸していて、昨日与論島から乗ったフェリーより
もかなり大きい。
次の徳之島に向けてフェリーは14時40分に和泊港を離れた。
フェリー波之上号は総トン数8,072トン、全長145m、幅24m、最大速力23.29Kn(キロノッ
ト)、旅客定員707名、乗用車72台、8トントラック48台を積載できるという。
1時間50分の船旅で、16時30分に3つ目の島、徳之島の東南部にある亀徳(かめとく)
港に着いた。今日の宿は港に近い亀津(かめつ)の市街地、太平洋を望むホテル グランド
オーシャンリゾート、16時45分頃に入った。
夕食は17時30分から、ホテル2階のレストラン ブルーマリンにてのバイキング料理。
私たちは部屋でゆっくりして、19時頃にレストランに行く。
(歩数 9,000歩)
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