2017年11月12日(日)
埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの第248回例会は快晴に恵まれた。
風も無く穏やかで、絶好のウオーキング日和である。
今回は千葉県我孫子市(あびこし)郊外で、10時05分にJR成田線の湖北(こほく)
駅南口をスタートした。
== 手賀沼に下り遊歩道を西進する ==
線路の南側、整然と区画された湖北台八丁目の住宅地を西進して、八幡神社に入る。
大きなケヤキやイチョウなどに古くからの歴史が感じられ、本殿には精巧な木組みと緻
密な木彫が施されていた。
湖北台西小の北側を西進して湖北台九丁目に入り、正泉寺(しょうせんじ)に行く。
堂々とした本堂を中心に、左手に鐘楼門や大師堂、地蔵堂が、鐘楼門の前には壱萬体子
育地蔵菩薩像が立っている。
ご住職の奥様が出て来られ、寺のリーフレットをいただく。それによれば、もとは法性
寺(ほうしょうじ)と称し、弘長3(1263)年の創建。正泉寺の名は、足利義満が寺
の因縁する奇蹟に驚き命名したとのこと。
正門は境内北側で、入ってすぐ左(東側)には法性尼(ほうしょうに)の墓がある。
法性尼は寛元4(1246)年の誕生、父は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼で、桐姫と
呼ぶ鎌倉一の姫君といわれたが、武士同士の争いを嘆き、出家して東海道から東北への行
脚中に健康を損ね、17歳で我孫子のこの地で亡くなり、里人の同情と敬慕の念は今も衰
えないという。
正門を出て折り返し、湖北台十丁目との境の道を南下し、5階建て集合住宅の並ぶ湖北
台七丁目の西側から田園地帯に出ると、広々とした展望に変わる。
粒のふくらむひこばえの稲が育った田んぼが多く、右手台地上には中央学院高の建物が
望まれる。田んぼの向こうには、かやぶき屋根にトタンを被せた民家も現れた。
手賀沼北岸を走る車道に出ると、水神宮と天照皇大神宮を祭る小さい社が祭られていた
ので小休止を。
そばの流れに釣り人が数人、竿を垂れていた。その向こう手賀沼北岸との間は、帯状に
田園地帯が東西に続いている。
民家の点在する旧道を南西へ、柿がたわわに実る先でススキの穂が風に揺れる手賀沼遊
歩道に回り、手賀沼を眺めながら桜並木の続く遊歩道を西進する。
少し進むと、えさでももらえると思ったのか数羽の白鳥とカイツブリが湖岸に近づいて
きた。
小さい池が続き、その中にもカイツブリが泳ぐ。
遊歩道を1㎞余り進み、峠下広場と呼ぶ休憩地に12時ちょうどに着き、昼食とした。
湖を回る遊覧船もあるようで、昼食中に近くを通過するのが見えた。
== 鳥の博物館から我孫子駅へ ==
昼食後ミーティングをして、12時45分に出発した。近くの何本かのラクウショウが
たくさん実を付けている。
多くの釣り人が糸を垂れる釣り堀横を過ぎ、次の休憩地、滝下広場を抜ける。
その先の遊歩道にはジュウガツザクラが何本か続き、小さな花を開き始めていた。湖岸
の木の杭にはカワウが並び、羽を休めている。
広場に色づくケヤキが1本立ち、北側台地下の高野山(こうのやま)集落には大きなか
わら屋根の民家が目に付く。
プラネタリウムらしい独特の塔がある、手賀沼の水環境の保全啓発施設「水の館」が近
づく。その手前で遊歩道を離れ、車道の北側にある↓我孫子市鳥の博物館に行く。
館前のピラカンサを背に記念撮影後に入館し、ゆっくりと1時間ほど館内を観覧した。
日本では初、世界でも珍しい鳥専門の博物館で、手賀沼の鳥の四季の生態ジオラマ、始
祖鳥の化石レプリカ、世界の鳥のはく製見本、企画展「鳥・酉・鶏・とり」など、初めて
知る鳥も数多く、どのコーナーも興味深い展示だった。(入館料300円、70歳以上無
料)
トキのはくせいは、大正15(1926)年12月に現在の長野県佐久市根岸で、水田
に舞い降りて2羽のうち1羽を捕獲したもので、N家が戦中戦後を守り抜き、当館に寄託
されたという。
車の多い車道を西進して市役所そばの交差点を渡り、台地下を走る旧道に回る。200
mほど先の旧村川別荘が公開されていたので、斜面林中腹の別荘に上がった。
西洋古代史学者で東京帝大教授だった村川堅固(けんご)氏が、大正6(1917)年
に設けた別荘で、我孫子宿本陣離れ家を移築した母屋(おもや)↑と、堅固自身が設計した
新館↓があり、市民ボランティアガイドに案内してもらった。
新館内部の一室
当時は眼下の手賀沼が一望だったというが、現在は敷地の広葉樹が成長し、手賀沼の手
前一帯は建物が増えてその面影は写真で偲ぶしかない。でも、新館周辺のモミジがよい彩
りを見せていた。
斜面林の下をさらに700m前後先には、作家の志賀直哉邸跡がある。台地中腹の敷地
内に母屋の実物大見取り図がコンクリート上に復元されて、東側には趣ある書斎の建物が
残っていた。
道路を挟んだ斜向かいに白樺文学館があるが、16時が近いので入館は省略する。近く
にあった大正煎餅の木川商店に寄り、当店手造りのせんべいを購入した。
近くの標識に従い、樹林下の細い急坂を上がり、講道館の開設者で教育者として知られ
る嘉納治五郎の別邸跡に行くが、以前は入れた門は閉じていた。
道を挟んだ東側は天神山緑地で、「嘉納治五郎が眺めた手賀沼の眺望」写真があり、沼
の向こうには富士山が見えたというが、現在の展望はかなり変わっていた。
北側の緑一丁目の住宅地を西に抜けて公園坂通りを進み、ゴールのJR常磐線・成田線
の我孫子駅には16時11分に着いた。
一日中快晴で、立冬を過ぎたとは思えぬ穏やかな小春日和。少人数ということもあり、
これまでの例会にないのんびりゆったりとしたウオーキングを楽しんだ。
(参加 6人、天気 快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 取手、歩行地 我孫子市、
歩数 18,500)
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埼玉県内を中心に歩くカントリーウオークグループの第248回例会は快晴に恵まれた。
風も無く穏やかで、絶好のウオーキング日和である。
今回は千葉県我孫子市(あびこし)郊外で、10時05分にJR成田線の湖北(こほく)
駅南口をスタートした。
== 手賀沼に下り遊歩道を西進する ==
線路の南側、整然と区画された湖北台八丁目の住宅地を西進して、八幡神社に入る。
大きなケヤキやイチョウなどに古くからの歴史が感じられ、本殿には精巧な木組みと緻
密な木彫が施されていた。
湖北台西小の北側を西進して湖北台九丁目に入り、正泉寺(しょうせんじ)に行く。
堂々とした本堂を中心に、左手に鐘楼門や大師堂、地蔵堂が、鐘楼門の前には壱萬体子
育地蔵菩薩像が立っている。
ご住職の奥様が出て来られ、寺のリーフレットをいただく。それによれば、もとは法性
寺(ほうしょうじ)と称し、弘長3(1263)年の創建。正泉寺の名は、足利義満が寺
の因縁する奇蹟に驚き命名したとのこと。
正門は境内北側で、入ってすぐ左(東側)には法性尼(ほうしょうに)の墓がある。
法性尼は寛元4(1246)年の誕生、父は鎌倉幕府第5代執権の北条時頼で、桐姫と
呼ぶ鎌倉一の姫君といわれたが、武士同士の争いを嘆き、出家して東海道から東北への行
脚中に健康を損ね、17歳で我孫子のこの地で亡くなり、里人の同情と敬慕の念は今も衰
えないという。
正門を出て折り返し、湖北台十丁目との境の道を南下し、5階建て集合住宅の並ぶ湖北
台七丁目の西側から田園地帯に出ると、広々とした展望に変わる。
粒のふくらむひこばえの稲が育った田んぼが多く、右手台地上には中央学院高の建物が
望まれる。田んぼの向こうには、かやぶき屋根にトタンを被せた民家も現れた。
手賀沼北岸を走る車道に出ると、水神宮と天照皇大神宮を祭る小さい社が祭られていた
ので小休止を。
そばの流れに釣り人が数人、竿を垂れていた。その向こう手賀沼北岸との間は、帯状に
田園地帯が東西に続いている。
民家の点在する旧道を南西へ、柿がたわわに実る先でススキの穂が風に揺れる手賀沼遊
歩道に回り、手賀沼を眺めながら桜並木の続く遊歩道を西進する。
少し進むと、えさでももらえると思ったのか数羽の白鳥とカイツブリが湖岸に近づいて
きた。
小さい池が続き、その中にもカイツブリが泳ぐ。
遊歩道を1㎞余り進み、峠下広場と呼ぶ休憩地に12時ちょうどに着き、昼食とした。
湖を回る遊覧船もあるようで、昼食中に近くを通過するのが見えた。
== 鳥の博物館から我孫子駅へ ==
昼食後ミーティングをして、12時45分に出発した。近くの何本かのラクウショウが
たくさん実を付けている。
多くの釣り人が糸を垂れる釣り堀横を過ぎ、次の休憩地、滝下広場を抜ける。
その先の遊歩道にはジュウガツザクラが何本か続き、小さな花を開き始めていた。湖岸
の木の杭にはカワウが並び、羽を休めている。
広場に色づくケヤキが1本立ち、北側台地下の高野山(こうのやま)集落には大きなか
わら屋根の民家が目に付く。
プラネタリウムらしい独特の塔がある、手賀沼の水環境の保全啓発施設「水の館」が近
づく。その手前で遊歩道を離れ、車道の北側にある↓我孫子市鳥の博物館に行く。
館前のピラカンサを背に記念撮影後に入館し、ゆっくりと1時間ほど館内を観覧した。
日本では初、世界でも珍しい鳥専門の博物館で、手賀沼の鳥の四季の生態ジオラマ、始
祖鳥の化石レプリカ、世界の鳥のはく製見本、企画展「鳥・酉・鶏・とり」など、初めて
知る鳥も数多く、どのコーナーも興味深い展示だった。(入館料300円、70歳以上無
料)
トキのはくせいは、大正15(1926)年12月に現在の長野県佐久市根岸で、水田
に舞い降りて2羽のうち1羽を捕獲したもので、N家が戦中戦後を守り抜き、当館に寄託
されたという。
車の多い車道を西進して市役所そばの交差点を渡り、台地下を走る旧道に回る。200
mほど先の旧村川別荘が公開されていたので、斜面林中腹の別荘に上がった。
西洋古代史学者で東京帝大教授だった村川堅固(けんご)氏が、大正6(1917)年
に設けた別荘で、我孫子宿本陣離れ家を移築した母屋(おもや)↑と、堅固自身が設計した
新館↓があり、市民ボランティアガイドに案内してもらった。
新館内部の一室
当時は眼下の手賀沼が一望だったというが、現在は敷地の広葉樹が成長し、手賀沼の手
前一帯は建物が増えてその面影は写真で偲ぶしかない。でも、新館周辺のモミジがよい彩
りを見せていた。
斜面林の下をさらに700m前後先には、作家の志賀直哉邸跡がある。台地中腹の敷地
内に母屋の実物大見取り図がコンクリート上に復元されて、東側には趣ある書斎の建物が
残っていた。
道路を挟んだ斜向かいに白樺文学館があるが、16時が近いので入館は省略する。近く
にあった大正煎餅の木川商店に寄り、当店手造りのせんべいを購入した。
近くの標識に従い、樹林下の細い急坂を上がり、講道館の開設者で教育者として知られ
る嘉納治五郎の別邸跡に行くが、以前は入れた門は閉じていた。
道を挟んだ東側は天神山緑地で、「嘉納治五郎が眺めた手賀沼の眺望」写真があり、沼
の向こうには富士山が見えたというが、現在の展望はかなり変わっていた。
北側の緑一丁目の住宅地を西に抜けて公園坂通りを進み、ゴールのJR常磐線・成田線
の我孫子駅には16時11分に着いた。
一日中快晴で、立冬を過ぎたとは思えぬ穏やかな小春日和。少人数ということもあり、
これまでの例会にないのんびりゆったりとしたウオーキングを楽しんだ。
(参加 6人、天気 快晴、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 取手、歩行地 我孫子市、
歩数 18,500)
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