2018年2月11日(日)
埼玉県を中心に歩くカントリーウオークグループの第250回例会に参加した。
昨日まで低温の日が続いていたが、今日は夜半の雨が上がり日中の気温も15℃前後の
予報で暖かい。
集合は西武新宿線の沼袋(ぬまぶくろ)駅。駅周辺は地下化工事中で駅舎も仮設である。
今回は神田川の支流、妙正寺川(みょうしょうじがわ)を遡行することになり、10時
3分にスタートした。
ちなみに、妙正寺川は東京都内を流れる1級河川で、流路延長は9.7㎞、流域面積は
21.4㎢。杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池が水源で、途中で江古田川を合わせ、新宿
区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流している。
== 妙正寺川沿いを源流まで ==
西側の踏切を渡って妙正寺川の右岸沿いを南西へ。南側一帯は広い緑地の平和の森公園
だが、流れ側は工事中で入れない。
流れが右カーブして北西に向かうと、川を挟んで両側が都立中野工高で、右岸側の校舎
の長さは100m以上もあり長い。その先で環七通り↓を跨道橋で横断する。
再び南西に向きを変えて間もなく、大和公園で最初の小休止をした。対岸の大和幼稚園
の塀には「創立八十二周年」の表示があった。
次の橋で左岸に回り中野四中の北側を迂回し、スーパーマルエツの先の橋で右岸に戻り、
新しい白鷺せせらぎ公園で休憩する。
人工芝のグランドでは、少年野球の試合中だった。
そのグランドの下は、妙正寺川の増水時のための調整池になっていた。川底までは8m
前後あり、源流から3㎞くらいで渇水期の今は流れもわずかだが、近年増えているゲリラ
豪雨の被害防止には必要不可欠な設備なのだろう。
この辺りから流れは北へ、西武新宿線の鷺ノ宮(さぎのみや)駅際で左カーブして西南
西に向かう。
駅の南西側に広い緑地の福蔵院があったの寄ることにした。福蔵院ルンビニー庭園と呼
ぶ新しい公園の横から東に回って境内に入る。
本堂前の白梅が咲き出し、本堂の屋根にはたくさんのソーラーパネルが目につく。
寺院の本堂の屋根にこのような設備を見たのは初めてだ。広い境内には、伸び伸びと枝
を伸ばした木々が立ち並ぶ。
本堂の南側に「福蔵院の十三仏」が並んでいた。不動明王、釈迦如来、地蔵菩薩、大日
如来などで、これら十三仏は死後の忌日をつかさどり、死者の救済を願って祭られたとか。
寛政8(1796)年の再建で、十三仏全部が揃っているのは都内でも珍しいという。
山門には「御府内八十八ヶ所第十四番札所」の表札があり、門前のロウバイが見ごろに
なっていた。
西側に接して鷲宮八幡神社がある。康平年間(1058~65)、源頼義が東国平定後、
鎌倉街道に面した当地に建立し、戦勝感謝と国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのが始まり
とのこと。
当時境内には老樹が林立しサギが住んでいたので里人は鷺宮大明神と称し、これが地名
の起因になったとか。
慶安2(1648)年に江戸幕府から御朱印7石余を付与され、中野区内で御朱印を受
けた唯一の神社だという。境内や本堂には「厄除け祈願」のぼりが立っていた。
ご住職が出て来られ、神楽殿で中嶌龍文(なかじまたつふみ)先生の日本画展を開催中
なので観覧するようすすめられた。
皆で神楽殿に上がり、奥多摩や桜など精密なペン画に彩色した美しい作品10数点を鑑
賞する。
境内には、旧鷺宮近くの村一の力自慢が健康と長寿を祈願し奉納したという力石が15
個も保存されていた。
流れの両側に続く、白鷺二丁目の都住宅供給公社鷺宮西住宅の中層住宅群の間を進む。
対岸の西中野小の校舎に五輪マークが目に入る。オリンピックとどんな関係があるのだ
ろうか…。ここが中野区の西端でその先は杉並区である。
「沓掛小のこみち」と呼ぶ説明板のある小公園に、「夢を大切に」と刻まれた石台の上
に手形を刻んだ卵形の石彫があり、裏面に「小柴昌俊」と刻まれていた。
小柴さんは2002年にノーベル物理学賞を受賞され、杉並区名誉区民である。
その辺りから右岸沿いにはシダレザクラが続く。平成5(1993)年とその2年後に
植樹された木のよう。木の下に人形の石彫が並ぶところもあった。
落合橋の下で妙正寺川は暗きょとなり、12時36分にその先の妙正寺公園に入り昼食
とした。
公園の西側にある池が妙正寺川の源流だったが、近年は湧水量が減ったので近くに井戸
を掘り、地下水をくみ上げて池の水の大部分をまかなっているという。
池にはたくさんのキンクロハジロが泳ぎ、カルガモやオナガがモモ見られた。
公園内にはほかに、遊戯広場、多目的広場、健康広場などがある。
== 井草川遊歩道から富士見台駅へ ==
記念撮影とミーティングをして13時35分に出発し、まずは南側台地にある妙正寺に
境内裏手の墓地側から入る。
墓地の入口に「本因坊六世知伯の墓」の案内標柱があったので記された辺りに行ってみ
たが見つからず、本因坊と同姓の井口家の墓がたくさん並んでいた。
妙正寺は、文和元(1352)年に妙正寺池のほとりにお堂を建てて開創され、正保3
(1646)年に社殿を再建してから広く信仰されるようになったとか。
慶安2(1649)年、3代将軍家光が鷹狩りの際、朱印地5石を寄進してからは御朱
印寺として有名になったという。
本堂の前にはシダレザクラが並び、境内にはケヤキの高木やカシなどが多い。
南側の山門を出たところの掲示板に「心の中に降る雨に人の情けが傘をさす」の張り紙
があった。
東側の道路を北進して再び妙正寺公園に入り、大きなヤナギの横を進んで公園の北東端
に抜けた。
そこには北側に向かう遊歩道が延び「科学と自然の散歩みち」の案内図があったので、
それに従い井草川遊歩道を進むことにした。
「科学と自然の散歩みち」は、小柴昌俊博士のノーベル賞受賞と名誉区民称号贈呈の記
念事業としてつくられたもので、井草川遊歩道と妙正寺川、妙正寺公園などをつなぐ「散
歩みち」だという。
井草川遊歩道を北に進み、中瀬中の西で都道438号・早稲田通りを横断して井草四丁
目へ。
少し先の突き当たりは「中瀬中のこみち岩石園」と呼ぶ公園で、遊歩道側に緑泥片岩、
蛇紋岩、玄武岩、花崗岩などの岩石が並び、その説明板がある。
ここにも小柴昌俊さんの言葉と手形の石彫が設置されていた。
遊歩道は同じ町内にある桃井四章を囲むように東から北へ、さらに西へと「コ」の字状
に回り込む。その途中にも小柴さんの石彫が置かれていた。
緩やかなカーブで北西に進み、配られた地図の西端の道路に出て遊歩道を離れ、西武新
宿線井荻駅東側の踏切を渡る。すぐ先から北東に延びる道に入り、都道25号・旧早稲田
通りとの交差点際のセブンイレブン前で小休止する。
北側の新青梅街道↑を横断し、団地の間を進んでさらに北東へ。
都道439号・千川通り↑を横断して並行する道を東進し、ゴールの西武池袋線富士見
台駅に15時ちょうどに着いた。
今日はグループ発足以来ちょうど25周年の記念日。千川通りにあるサイゼリアに入り、
乾杯をしてささやかな祝宴のひとときを17時頃まで楽しんだ。
(参加 14人、天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地
中野区、杉並区、練馬区、歩数 18,900)
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埼玉県を中心に歩くカントリーウオークグループの第250回例会に参加した。
昨日まで低温の日が続いていたが、今日は夜半の雨が上がり日中の気温も15℃前後の
予報で暖かい。
集合は西武新宿線の沼袋(ぬまぶくろ)駅。駅周辺は地下化工事中で駅舎も仮設である。
今回は神田川の支流、妙正寺川(みょうしょうじがわ)を遡行することになり、10時
3分にスタートした。
ちなみに、妙正寺川は東京都内を流れる1級河川で、流路延長は9.7㎞、流域面積は
21.4㎢。杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池が水源で、途中で江古田川を合わせ、新宿
区下落合一丁目の辰巳橋付近で神田川高田馬場分水路に合流している。
== 妙正寺川沿いを源流まで ==
西側の踏切を渡って妙正寺川の右岸沿いを南西へ。南側一帯は広い緑地の平和の森公園
だが、流れ側は工事中で入れない。
流れが右カーブして北西に向かうと、川を挟んで両側が都立中野工高で、右岸側の校舎
の長さは100m以上もあり長い。その先で環七通り↓を跨道橋で横断する。
再び南西に向きを変えて間もなく、大和公園で最初の小休止をした。対岸の大和幼稚園
の塀には「創立八十二周年」の表示があった。
次の橋で左岸に回り中野四中の北側を迂回し、スーパーマルエツの先の橋で右岸に戻り、
新しい白鷺せせらぎ公園で休憩する。
人工芝のグランドでは、少年野球の試合中だった。
そのグランドの下は、妙正寺川の増水時のための調整池になっていた。川底までは8m
前後あり、源流から3㎞くらいで渇水期の今は流れもわずかだが、近年増えているゲリラ
豪雨の被害防止には必要不可欠な設備なのだろう。
この辺りから流れは北へ、西武新宿線の鷺ノ宮(さぎのみや)駅際で左カーブして西南
西に向かう。
駅の南西側に広い緑地の福蔵院があったの寄ることにした。福蔵院ルンビニー庭園と呼
ぶ新しい公園の横から東に回って境内に入る。
本堂前の白梅が咲き出し、本堂の屋根にはたくさんのソーラーパネルが目につく。
寺院の本堂の屋根にこのような設備を見たのは初めてだ。広い境内には、伸び伸びと枝
を伸ばした木々が立ち並ぶ。
本堂の南側に「福蔵院の十三仏」が並んでいた。不動明王、釈迦如来、地蔵菩薩、大日
如来などで、これら十三仏は死後の忌日をつかさどり、死者の救済を願って祭られたとか。
寛政8(1796)年の再建で、十三仏全部が揃っているのは都内でも珍しいという。
山門には「御府内八十八ヶ所第十四番札所」の表札があり、門前のロウバイが見ごろに
なっていた。
西側に接して鷲宮八幡神社がある。康平年間(1058~65)、源頼義が東国平定後、
鎌倉街道に面した当地に建立し、戦勝感謝と国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのが始まり
とのこと。
当時境内には老樹が林立しサギが住んでいたので里人は鷺宮大明神と称し、これが地名
の起因になったとか。
慶安2(1648)年に江戸幕府から御朱印7石余を付与され、中野区内で御朱印を受
けた唯一の神社だという。境内や本堂には「厄除け祈願」のぼりが立っていた。
ご住職が出て来られ、神楽殿で中嶌龍文(なかじまたつふみ)先生の日本画展を開催中
なので観覧するようすすめられた。
皆で神楽殿に上がり、奥多摩や桜など精密なペン画に彩色した美しい作品10数点を鑑
賞する。
境内には、旧鷺宮近くの村一の力自慢が健康と長寿を祈願し奉納したという力石が15
個も保存されていた。
流れの両側に続く、白鷺二丁目の都住宅供給公社鷺宮西住宅の中層住宅群の間を進む。
対岸の西中野小の校舎に五輪マークが目に入る。オリンピックとどんな関係があるのだ
ろうか…。ここが中野区の西端でその先は杉並区である。
「沓掛小のこみち」と呼ぶ説明板のある小公園に、「夢を大切に」と刻まれた石台の上
に手形を刻んだ卵形の石彫があり、裏面に「小柴昌俊」と刻まれていた。
小柴さんは2002年にノーベル物理学賞を受賞され、杉並区名誉区民である。
その辺りから右岸沿いにはシダレザクラが続く。平成5(1993)年とその2年後に
植樹された木のよう。木の下に人形の石彫が並ぶところもあった。
落合橋の下で妙正寺川は暗きょとなり、12時36分にその先の妙正寺公園に入り昼食
とした。
公園の西側にある池が妙正寺川の源流だったが、近年は湧水量が減ったので近くに井戸
を掘り、地下水をくみ上げて池の水の大部分をまかなっているという。
池にはたくさんのキンクロハジロが泳ぎ、カルガモやオナガがモモ見られた。
公園内にはほかに、遊戯広場、多目的広場、健康広場などがある。
== 井草川遊歩道から富士見台駅へ ==
記念撮影とミーティングをして13時35分に出発し、まずは南側台地にある妙正寺に
境内裏手の墓地側から入る。
墓地の入口に「本因坊六世知伯の墓」の案内標柱があったので記された辺りに行ってみ
たが見つからず、本因坊と同姓の井口家の墓がたくさん並んでいた。
妙正寺は、文和元(1352)年に妙正寺池のほとりにお堂を建てて開創され、正保3
(1646)年に社殿を再建してから広く信仰されるようになったとか。
慶安2(1649)年、3代将軍家光が鷹狩りの際、朱印地5石を寄進してからは御朱
印寺として有名になったという。
本堂の前にはシダレザクラが並び、境内にはケヤキの高木やカシなどが多い。
南側の山門を出たところの掲示板に「心の中に降る雨に人の情けが傘をさす」の張り紙
があった。
東側の道路を北進して再び妙正寺公園に入り、大きなヤナギの横を進んで公園の北東端
に抜けた。
そこには北側に向かう遊歩道が延び「科学と自然の散歩みち」の案内図があったので、
それに従い井草川遊歩道を進むことにした。
「科学と自然の散歩みち」は、小柴昌俊博士のノーベル賞受賞と名誉区民称号贈呈の記
念事業としてつくられたもので、井草川遊歩道と妙正寺川、妙正寺公園などをつなぐ「散
歩みち」だという。
井草川遊歩道を北に進み、中瀬中の西で都道438号・早稲田通りを横断して井草四丁
目へ。
少し先の突き当たりは「中瀬中のこみち岩石園」と呼ぶ公園で、遊歩道側に緑泥片岩、
蛇紋岩、玄武岩、花崗岩などの岩石が並び、その説明板がある。
ここにも小柴昌俊さんの言葉と手形の石彫が設置されていた。
遊歩道は同じ町内にある桃井四章を囲むように東から北へ、さらに西へと「コ」の字状
に回り込む。その途中にも小柴さんの石彫が置かれていた。
緩やかなカーブで北西に進み、配られた地図の西端の道路に出て遊歩道を離れ、西武新
宿線井荻駅東側の踏切を渡る。すぐ先から北東に延びる道に入り、都道25号・旧早稲田
通りとの交差点際のセブンイレブン前で小休止する。
北側の新青梅街道↑を横断し、団地の間を進んでさらに北東へ。
都道439号・千川通り↑を横断して並行する道を東進し、ゴールの西武池袋線富士見
台駅に15時ちょうどに着いた。
今日はグループ発足以来ちょうど25周年の記念日。千川通りにあるサイゼリアに入り、
乾杯をしてささやかな祝宴のひとときを17時頃まで楽しんだ。
(参加 14人、天気 晴、距離 10㎞、地図(1/2.5万) 東京西部、歩行地
中野区、杉並区、練馬区、歩数 18,900)
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