あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

所沢の秩父往還・江戸道を歩く(埼玉)

2012-04-06 18:28:44 | ウオーキング
 2012年4月5日(木)

 山里探訪会主催の「第5回とことこ漫歩」と呼ぶ歩きに参加した。集合は、目の前に
西武鉄道本社のある西武池袋線・新宿線の所沢駅東口に10時。参加者は事務局を入れ
て17人。代表の飯野さんの挨拶があり、10時5分に出発した。


 駅前通を所沢駅東口交差点まで進んで南下し、北秋津交差点から「新道の坂」を緩や
かに下る。少し先で右折して東京・田無市方面からの江戸道に入り、近くの日月神社へ。

 境内のソメイヨシノが、3部咲きくらいになっていた。

 石段を上がった右手に「蜻蛉の寄生木(とんぼのやどりぎ)」と呼ぶ、ご神木のケヤ
キにエノキの寄生木があるが、双方とも枯れている。

 昔、秋津の殿様がトンボを自分の歳だけ捕らえろと命じたが1匹足りないのに怒り、
ご神木に別の木を生やして見せろと叫びトンボを投げつけたところ、エノキが生えて殿
様は唖(おし)になり、無理難題を言えなくなったという。

 ご神木の横には、春秋のお祭りなどで村の若者が石担ぎをして力を競ったという35
貫目(約131㎏)の力石(ちからいし)が飾られている。

 その先でT字路に合した南側、新井家の屋敷内に、富士塚が残っていた。新井家は、
江戸後期から盛んになった富士講の北秋津の先達で、塚の傍らに「富嶽六十四度 大願
成就」と刻まれた明治18年(1885)の記念碑が立っている。


 すぐ西のT字路、「タッチュウ坂」への上がり口の両側に、地蔵尊と庚申塔が祭られて
いた。庚申塔は宝暦5年(1755)のもので、「右ちちぶ道、左やま口道」と刻まれ、
道しるべになっていたようだ。


 庚申塔の角から、タッチュウ坂を所沢の市街地に向かう。坂で荷車を押して駄賃をも
らう立人(タッチュウド)がいたのが坂の名の起こりとか…。近くには、お茶やだんご
を出す立場(たてば)があったという。

 現在の坂は、さほど急坂とは感じられず傾斜が緩やかになっていた。坂の西側の民家
のツバキが咲き残り、近くのハナモモも見ごろに。


 坂を上がりきった北秋津交差点際に、正徳5年(1715)の庚申塔(右)と安永7
年(1776)の馬頭尊(中)など、3体の石仏が並んでいる。

 所沢からは江戸時代に将棋の名人が輩出しているが、この馬頭尊は将棋の駒の形をし
ており、何か縁があるのかもしれない。

 6差路になっている北秋津交差点の北西側には、新しい社殿の八雲神社が祭られてい
て、7月の天王様の祭りでは神輿の火渡りが有名とか。


 境内に移設されている弁財天は、安永7年(1778)年の建立で、高さ約1m、頭
上に鳥居が刻まれている珍しいもの。傍らに新しいとぐろをまいた蛇が奉納されていた。

 弁天様は、大正13年(1924)まで近くの塚に祭られていたが、道路拡張で塚を
壊す際に仮安置したところ、夕暮れ時に白装束の女が現れるようになり、蛇石を戻すと
現れなくなったという話が残されているという。

 神社の横から北西に向かう江戸道(秩父道)を進み、西武鉄道所沢駅南側の大踏切を
渡る。


 当時の江戸道は現在の所沢駅のあたりを通過し、現在の所沢一の繁華街であるプロペ
通りを抜けて秩父に向かっていたようだ。


 プロペ通りを通過してダイエー前でファルマン通りに合するところ、植え込みのある
小スペースに、大正9年(1920)に設置したという「所沢町道路元標」があった。

 いつもここを通っているのに、植え込みに隠されて道路元標があるとは全く気づかな
かった。

 ちなみに、道路元標は大正8年の旧道路法では、各市町村に1個ずつ設置することと
され、ほとんどは市町村役場の前か市町村を通る主要な道路同士の交叉点に設置されて
おり、道路の起終点を市町村名で指定した場合は、道路元標のある場所を起終点として
いたとのこと。

 現行の道路法では道路元標は道路の附属物とされ、道路の起終点は道路元標と無関係
に定められていて、道路元標の設置義務もないようだが、近世の歴史遺産ともいうべき
ものなので、市民にも分かるよう、元標のそばの植栽は伐採して見えるようにして、説
明板でも設けて欲しいものだ。

 すぐ先の変則4差路、ファルマン通交差点を右折し、志木方面への旧道である引又道
(ひきまたみち)の先の分岐を左に入り、御幸町にある川端霊園に入る。

 小さいお堂の左手裏の墓地に、将棋の名人、福泉藤吉の墓があった。

 福泉藤吉は、明和3年(1766)現在の市内日吉町の生まれ。家業の紺屋の仕事を
しながら民間棋士として活躍し、天保6年(1835年)7月に発刊された将棋番付
「将棋相撲」で西の大関に格付けされたという。

 おなじ墓地には、天保元年(1830)生まれで、所沢を中心に東京北多摩、西多摩
地方まで伝承されている、祭り囃子(ばやし)「重松(じゆうま)流」の始祖、「古谷
重松」の墓もある。


 霊園と道を挟んだ南側の庚申堂のある境内には、古い青面金剛像や馬頭観音像などが
並んでいた。


 北に下って東川(あずまがわ)の旭橋際に出た。旭橋は、明治44年(191)に所
沢飛行場の開設に伴い造られた飛行機新道に設けられた橋を、昭和5年(1930)に
架け替えたもの。

 鉄筋コンクリート造りの橋に西洋建築の様式的モチーフが取り入れられていて、平成
21年(2009)8月に、所沢市で4番目の国登録有形文化財に指定された。

 東川の北側を平行する旧道を西に向かい、有楽町にある薬王寺へ。境内のソメイヨシ
ノがかなり花開いている。


 どっしりと構える本堂の前に、市の保存樹木になっている2本の太いイチョウがある
が、枝はほとんど伐採されていた。


 寺は新田義貞の三男、新田義宗終焉(しゆうえん)の地。義宗は、足利氏に破れて再
起不能を悟り、髪を落として密かに隠れ住み、晩年は一族郎党の菩提を弔いつつこの地
で亡くなったという。


 ハナモモの見ごろな境内を西に抜ける。りっぱな門構えの深井家の南を進むと、「た
まり漬け」で知られる深井醤油が隣接している。


 売店に立ち寄り、何人かが美味しいというたまり漬けやかりんとうなどの製品を購入
した。


 旧市役所庁舎の横の通りに出て、12時25分に東川の琴平橋際の公園に入って昼食
にする。公園内のソメイヨシノはまだ咲き始め。トサミズキやレンギョウはかなり花開
いていた。


 昼食を終えて13時に出発、まずは旧市役所庁舎の背後を回って所沢市の鎮守である
神明社に行く。境内東側斜面中段にある人形殿では、6月に人形供養が行われるとか。

 西側からの古くからの参道を上がった南側には、所沢出身の歌人、三ヶ島葭子(みか
じまよしこ)の歌碑があり、「しみじみと障子うすぐらきまどのそと 音たてて雨のふ
りいでにけり」と刻まれている。


 同じ参道を上がった北側には、明治17年(1884)に所沢地区の富士講講社によ
り建立した記念碑がある。


 ちなみに、市内では江戸時代、所沢、北秋津、安松、荒幡、南永井などで講社が結成
されたという。

 神明社は所沢市の産土(うぶすな)の神で所沢総鎮守。主祭神は天照大神で、境内に
は摂社も多数あり樹木も多く、御神木のカシは数々の伝説を秘めているという。私も毎
年正月に初詣でに訪れているところだ。


 南側の石段横には市内一という大ケヤキがあるが、西側の参道に下ると、2つに枝を
分けた大ケヤキが目につく。

 県道6号に出て、東川の北側、旧鎌倉街道沿いにある新光寺へ。本尊の聖観音菩薩は
行基の作と伝えられ、寺は源義朝が那須野に行く途中、昼食をしたとか。

 新田義貞が鎌倉攻めの際には戦勝祈願をしたとのこと。4月18日の観音祭りは「馬
のまつり」と呼ばれ、馬を曳いて本堂の周りを回って安全祈願したという。



 中国風山門のそばのシダレザクラがかなり見頃になっていた。最奥の観音堂のそばに
U家の新しい墓域があるが、中心の五輪塔を初めりっぱな石造りの灯ろうなどに目を見
張らされる。

 銀座通りを越えて旧鎌倉街道を南へ、参道で「三八の市」が開かれた実蔵院に入る。


 ガラス越しに見える東側の庭園は、趣ある造りのよう。南側台地にある墓地に上がり、
三ヶ島葭子の墓を探しところ、嫁ぎ先の倉方家の墓地はあったが、葭子の墓は見つけら
れなかった。

 銀座通りの南側を平行する細道を西に少しのところ、斉藤家の住宅の一角に、この地
金山町の名の起こりである金山神社が祭られている。

 天文15年(1546)の河越野戦の折り上杉勢として戦い、敗れて野老沢(ところ
さわ)に移り住んだ斎藤四郎左ェ門利長、斎藤主計祐信弘(かずのすけのぶひろ)が、
奈良県多武峯(とうのみね)の談山神社から金山権現を勧請して、一族の繁栄と地区の
平安を祈願したとのこと。

 当時は金山権現と称えたが、明治の神仏分離令により金山神社と改められたという。
斉藤家は、江戸時代に穀類や炭問屋として栄えたようだ。

 ここで今日の行程を終わり、事務局のSさんから次の催しの案内があり、14時5分
頃散会となる。私は近くのスーパーで買い物をして、14時35分に帰宅した。

(天気 晴、距離 5㎞、地図 所沢、歩行地 所沢市、歩数 10,900)
 



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2 コメント

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やっぱり日本人 (junjun)
2012-04-08 09:40:14
いつだったかネパールの人に「日本人はさくらがすきですねぇ」と言われたことがありますが、花を愛でる文化の違いとその時思いました。
テレビで樹齢400年の身延のサクラを映していましたが(去年のかな?今年はまだ開いていませんでした)140年のサクラ、しだれ桜も見事ですね。
名前のない花・・ バイモ、ムスカリでしょうか。
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花好き (saikoroat)
2012-04-08 21:08:52
本当に日本人は桜が好きですね。春になると書店に桜の本が
幾つも並びますが、このようなことは日本だけかも知れません。
私も春になると、あと何年桜の花が見られるだろうかと毎年考えます。
返信する

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