2019年5月19日(日)〈続き〉
カタツムリ歩行同窓会がゴールの名主の滝公園で解散後、帰路は、西南方向のJR埼京
線板橋駅に向かうことにして、13時28分に正門を出た。
北側の急坂、三平坂を上がり王子本町二丁目の住宅地を南西へ。
都道455号を王子本町歩道橋際で右折して西進し、都営王子本町三丁目アパートの東
側を下って石神井川の紅葉橋を渡る。
橋の右岸上流際は以前訪ねた金剛寺で、門前に「源頼朝の布陣伝承地」の説明板がある。
治承4(1180)年,頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、鎌倉を目指す途中この地に陣を
とったといわれているよう。当時の石神井川流域両岸は岩が切り立ち、松や楓があり深山
幽谷の趣をもっていたという。
寺伝によれば、弘法大師空海がこの地を遊歴し不動明王像を彫り、これが本尊になって
いるとのこと。江戸時代は紅葉の名所として知られ、「紅葉寺」の別称でも知られている
よう。
山門を入ると、本堂周辺はモミジなどが新緑の彩りを。
右手には弁天堂が祭られ、その横に地蔵菩薩や七福神が並んでいた。
南下して都営滝野川三丁目アパートの東南端を西へ少しで、新緑の森が残っていた。四
本木(しほんぎ)稲荷神社の森である。
拝殿に参拝しようとしたら、境内を清掃中の男性が居られたので声をかけたところ、こ
の神社のことをいろいろと教えてくれた。
神社周辺の広い一帯は、戦時中は陸軍の火薬工場地だったので地元民も入れず、戦後も
昭和26(1951)年まで同様で、境内地は現在も国有地だという。
境内にある手水鉢と忠魂碑の裏面を見るように言う。手水鉢には「明治四拾参年四月
銃包火具職工一同」と、りっぱな忠魂碑には「大正六年四月 火具製造所一同」との奉納
者の名がある。
この神社は当時、火薬工場での作業中に火薬などの爆発で犠牲になった人たちの霊を祭
る神社だったとも教えてくれた。 こちらの小さい社殿が古い本殿だという。
帰宅後、ネットでこの辺りの古い地形図を調べたら、1896~1924年の地形図に
は「雷汞所」、1927~39年には「火工場」と記されていた。
また、別のネット情報では『滝野川地区にもかつて日本陸軍の火薬製造廠があり、東京
第一陸軍造兵廠滝野川工場、別名滝野川雷汞所〈らいこうしょ〉です。
雷汞とは、水銀を硝酸で溶解しエチルアルコールを加えて反応させたもので、わずかな
加熱や衝撃で激しく爆発する起爆薬。雷汞を詰めたのが雷管で、ここは砲弾等の雷管を製
造する場所だったようです』などと記されていた。
わずかな鎮守の森に、このような戦争の歴史が隠されていたとは…。貴重な巡り会いで
あった。
鎮守の森の西南側には鎮魂のためか、たくさんの花が咲いていた。
住宅地の中を南西へ、滝野川三丁目には八幡神社がある。
八幡神社は滝野川村の鎮守で、創建は建仁2(1202)年ともいわれるが詳細は不明
とか。社殿裏手からは縄文後期の住居跡が発見されており、神仏分離以前は先ほどと訪ね
た石神井川畔の金剛寺が別当寺だったという。
境内にある御神木のムクノキやケヤキなどは、北区の保護樹木に指定されている。
神社の前を西進して、地下を都営地下鉄三田線が、上を首都高池袋線の高架が走る国道
17号線に出た。
わずかなスペースに稲荷神社が祭られ、近くの滝野川6交差点で国道を横断する。
南東に延びる「きつね塚通り」商店街などを進み、JR埼京線の板橋駅の東口広場に出
た。
広場の東側に「近藤勇墓所」の標識があるのに気づく。駅前広場は10数年前の中山道
ウオークで休憩したことがあるが、この墓所は知らなかった。
墓所には、新選組組長近藤勇と副長土方歳三の名の記された大きな墓碑、新選組長倉新
八墓碑のほか、近藤勇の立像、近藤勇埋葬当初の墓石、それに3人の肖像画などがある。
説明板によれば「慶応4(1868)年4月25日、近藤勇は中山道板橋宿手前の平尾
一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑され、首級は京都に送られたが胴体は
この場所に埋葬された。大きな墓碑の側面には合計百四十名の隊士の名なども記されてい
る」ことなどが記され、近藤勇と新選組隊士供養塔は北区の有形文化財に指定されていた。
駅間広場を横断して、JR埼京線板橋駅東口には15時03分に着いた。
(天気 晴 距離 7㎞、地図(1/2.5万) 赤羽、歩行地 北区、歩数 15,300)
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カタツムリ歩行同窓会がゴールの名主の滝公園で解散後、帰路は、西南方向のJR埼京
線板橋駅に向かうことにして、13時28分に正門を出た。
北側の急坂、三平坂を上がり王子本町二丁目の住宅地を南西へ。
都道455号を王子本町歩道橋際で右折して西進し、都営王子本町三丁目アパートの東
側を下って石神井川の紅葉橋を渡る。
橋の右岸上流際は以前訪ねた金剛寺で、門前に「源頼朝の布陣伝承地」の説明板がある。
治承4(1180)年,頼朝は配流先の伊豆で挙兵し、鎌倉を目指す途中この地に陣を
とったといわれているよう。当時の石神井川流域両岸は岩が切り立ち、松や楓があり深山
幽谷の趣をもっていたという。
寺伝によれば、弘法大師空海がこの地を遊歴し不動明王像を彫り、これが本尊になって
いるとのこと。江戸時代は紅葉の名所として知られ、「紅葉寺」の別称でも知られている
よう。
山門を入ると、本堂周辺はモミジなどが新緑の彩りを。
右手には弁天堂が祭られ、その横に地蔵菩薩や七福神が並んでいた。
南下して都営滝野川三丁目アパートの東南端を西へ少しで、新緑の森が残っていた。四
本木(しほんぎ)稲荷神社の森である。
拝殿に参拝しようとしたら、境内を清掃中の男性が居られたので声をかけたところ、こ
の神社のことをいろいろと教えてくれた。
神社周辺の広い一帯は、戦時中は陸軍の火薬工場地だったので地元民も入れず、戦後も
昭和26(1951)年まで同様で、境内地は現在も国有地だという。
境内にある手水鉢と忠魂碑の裏面を見るように言う。手水鉢には「明治四拾参年四月
銃包火具職工一同」と、りっぱな忠魂碑には「大正六年四月 火具製造所一同」との奉納
者の名がある。
この神社は当時、火薬工場での作業中に火薬などの爆発で犠牲になった人たちの霊を祭
る神社だったとも教えてくれた。 こちらの小さい社殿が古い本殿だという。
帰宅後、ネットでこの辺りの古い地形図を調べたら、1896~1924年の地形図に
は「雷汞所」、1927~39年には「火工場」と記されていた。
また、別のネット情報では『滝野川地区にもかつて日本陸軍の火薬製造廠があり、東京
第一陸軍造兵廠滝野川工場、別名滝野川雷汞所〈らいこうしょ〉です。
雷汞とは、水銀を硝酸で溶解しエチルアルコールを加えて反応させたもので、わずかな
加熱や衝撃で激しく爆発する起爆薬。雷汞を詰めたのが雷管で、ここは砲弾等の雷管を製
造する場所だったようです』などと記されていた。
わずかな鎮守の森に、このような戦争の歴史が隠されていたとは…。貴重な巡り会いで
あった。
鎮守の森の西南側には鎮魂のためか、たくさんの花が咲いていた。
住宅地の中を南西へ、滝野川三丁目には八幡神社がある。
八幡神社は滝野川村の鎮守で、創建は建仁2(1202)年ともいわれるが詳細は不明
とか。社殿裏手からは縄文後期の住居跡が発見されており、神仏分離以前は先ほどと訪ね
た石神井川畔の金剛寺が別当寺だったという。
境内にある御神木のムクノキやケヤキなどは、北区の保護樹木に指定されている。
神社の前を西進して、地下を都営地下鉄三田線が、上を首都高池袋線の高架が走る国道
17号線に出た。
わずかなスペースに稲荷神社が祭られ、近くの滝野川6交差点で国道を横断する。
南東に延びる「きつね塚通り」商店街などを進み、JR埼京線の板橋駅の東口広場に出
た。
広場の東側に「近藤勇墓所」の標識があるのに気づく。駅前広場は10数年前の中山道
ウオークで休憩したことがあるが、この墓所は知らなかった。
墓所には、新選組組長近藤勇と副長土方歳三の名の記された大きな墓碑、新選組長倉新
八墓碑のほか、近藤勇の立像、近藤勇埋葬当初の墓石、それに3人の肖像画などがある。
説明板によれば「慶応4(1868)年4月25日、近藤勇は中山道板橋宿手前の平尾
一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑され、首級は京都に送られたが胴体は
この場所に埋葬された。大きな墓碑の側面には合計百四十名の隊士の名なども記されてい
る」ことなどが記され、近藤勇と新選組隊士供養塔は北区の有形文化財に指定されていた。
駅間広場を横断して、JR埼京線板橋駅東口には15時03分に着いた。
(天気 晴 距離 7㎞、地図(1/2.5万) 赤羽、歩行地 北区、歩数 15,300)
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