2019年9月15日(日)
好天となり気温も30℃近くに上がりそうだが、カタツムリ歩行の第6回同窓会に参加
した。
集合地は西武多摩川線の多磨駅。JR中央線武蔵境駅から乗り換えるこの西武多摩川線
に乗るのは初めかもしれない。
今回の担当はNさんとKさんだが、Kさんは都合で不参加。地図をもらい、9時57分
に多磨駅をスタートした。
線路沿いを北進して踏切際を左折し、人見(ひとみ)街道を西へ、
多磨墓地が近いので通りには石材店などが並ぶ。
近くの六差路を北西にすぐで、多磨霊園の正門を入る。
右手の管理事務所で「東京都多磨霊園案内図」をもらう。表面は霊園の地図、裏面には
150人近い著名人の墓地の位置が示されていた。
そばの円形建物は、平成5(1993)年に完成した新しい墓地形式の新納骨堂「みた
ま堂」。
多磨霊園の開設は大正12(1923)年4月で、わが国最初の公園的風景を取り入れ
た大規模な墓地だとか。
開設当初は約100万㎡だったが、昭和14(1939)年に西側に拡張して現在は約
128万㎡(約39万坪)あり、都立の8霊園の中で最も広く、霊園全体で墓地の面積は
50%以下に抑え、豊かな緑地を形成しているという。
広大な霊園には、政治家、学者、芸術家など著名人の墓地があるようだが、今日はその
一部、東南側を回ってみることにする。
北に真っ直ぐに伸びる幹線ともいえる園路を進んだつもりが、次の交差点で西北へ延び
た線と分かり、ロータリーを東へ。
ロータリー近くの等身大の坐像は、教育者で東京女子大学長などを務めた新渡戸稲造
(にとべいなぞう)の墓地だった。
東に進むと救世軍墓地があり、その先が3本の園路が南北に走る中央部最初の十字路。
特種と呼ぶ西側最初には、第二次大戦開戦時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の山本
五十六(いそろく)の墓があった。
その北に隣接して日露戦争時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の東郷平八郎墓がある。
すぐ先、中央部ロータリーには8本柱の大きな塔が立ち、近くには純白のボタンヅルが
咲いていた。
ロータリーの東北側に、第20代首相や蔵相を務めた高橋是清(これきよ)の墓地が。
ロータリ北側には、大きなサルスベリがたくさんの花を見せている。
北にすぐ、次の東西に長いロータリーの北東側に、霊園案内図にはないが福沢桃介(ふ
くざわももすけ)の墓がある。
福沢桃介は明治から昭和初期の実業家。福澤諭吉の婿(むこ)養子となり主として電気
事業に関与し、木曽川などで水力開発を手がけている。私がこの人の名を知ったのは、中
山道ウオークで木曽川沿いを歩いて、ゆかりの発電所のそばを通過したことからだ。
東側に隣接した開放的な芝生墓地の中央は石橋正二郎墓地。ブリヂストンタイヤの創業
者でプリンス自動車工業の育ての親でもあり、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大
な貢献をされている。
ロータリーの北西側には、作家の有島武郎(ありしまたけお)夫妻が眠っていた。
そして南西側は、枢密院(すうみついん)議長や第35代首相をされた平沼騏一郎(き
いちろう)墓地である。
北に進んで次の交差点の先、西側には漫画家長谷川町子の眠る長谷川家墓地があった。
その先、10区画北東端の十字路で右折して東に向かう。周辺にはりっぱな松などが並
び立ち、東への園路沿いにススキが穂を見せる。
通りの中ほど北側に、陸軍大将山下奉文(やましたともゆき)墓が目に入る。
太平洋戦争の初期、英領マレーとシンガポールを攻略し、「マレーの虎」の異名で知ら
れている。
近くのロータリーを南下して次のロータリを東進し、11時に霊園の東門を出た。
すぐ南側から東に延びる多磨町通りを進み、西武多摩川線の踏切を渡る。北側に永福寺
があるが寄らず、次の十字路を南への鶴川街道に入る。
間もなく祭礼の準備中の三谷神社前だが、時間が無いのでここも通過した。
多磨駅の北側から延びる通りに出て、近くの交差点から都立武蔵野の森公園の西北端に
入る。
2004年の開園で面積は約34万7千㎡あり、調布飛行場を挟んで北地区と南地区に
分かれている。入った一帯は、桜などの植栽が伸び伸びと枝を広げる大芝生広場になって
いた。
少し進むと南に滑走路が延びる調布飛行場が一望で、間もなく軽飛行機が北へと離陸し
た。
滑走路の北端近くには修景池(しゅうけいいけ)があり、傍らに「この公園は災害時に
大規模救出・救助活動の拠点となる」ことなどが記されていた。
池の北側、公園の北端に沿って玉石張(たまいしばり)の水路が残り、その沿革を記し
た掲示もある。
池のそばに高さ数mの丘があり、上がると調布飛行場やその向こうにあるサッカー場・
味の素スタジアムなどが一望できる。
味の素スタジアム、9月20日(金)に始まるラグビーワールドカップ初戦・日本-ロ
シア戦の会場である。
車道を横断した東側も公園の一部で、そこに二つの掩体壕(えんたいごう)が残されて
いた。
最初のは「掩体壕 大沢2号」で、そばの説明板によれば、掩体壕は軍用機を空襲から
守るための格納庫で、戦況が悪化した昭和19(1944)年頃から短期間に約60基が
造られ、この公園に2基と府中市内に2基が残っているという。
この掩体壕には「飛燕(ひえん)」と呼ぶ戦闘機が格納されていたようだが、見た目に
は飛行機を格納するほどの大きさには見えない。
南東側のもう一つの方にも回る。こちらは「掩体壕 大沢1号」で、やはり「飛燕」が
格納されていたようで、前面に飛燕のイラストが描かれ、そばに飛燕と掩体壕の模型彫刻
もあった。
公園の北東端付近から出て、東側の水車通りを北進する。東側の野川(のがわ)右岸に
は水車小屋があるが、時間が無いのと以前訪ねているので省略とする。
突き当たりを西にすぐで人見街道に合し、北側の龍源寺(りゅうげんじ)へ。本堂前の
大きなサルスベリが花盛り。
本堂左手に比較的新しい双代道祖神があり、その横から本堂背後の墓地に回ると、東京
都指定文化財「近藤勇(こんどういさみ)の墓」や辞世碑があり、傍らに説明板が立って
いた。
近くには長寿観音石像が、門前の人見街道際には「近藤勇と天然理心流」説明碑や近藤
勇の胸像などが並んでいた。
人見街道を西にすぐ、変則五差路際に小さい祠(ほこら)と木製の鳥居の立つ近藤神社
の周辺が近藤勇生家跡。神社のそばに調布市史跡「近藤勇生家跡」の説明板が立っていた。
それによれば、当時の屋敷は面積約7千㎡あり、建物は母屋のほか、蔵屋敷、文庫蔵、
乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋などがあり、周囲はケヤキ、カシなどの大木や竹林が茂っ
ていたという。
その交差点際を北に入ると、野川を挟んで南北に広大な緑が広がる都立野川公園の正門
である。
正門を入って左手の野川公園サービスセンターが今日のゴール、12時05分に着いた。
参加の皆さんのほとんどもあい前後して着く。
センターの建物を北に抜け、蒸し暑くなった日差しを避けてクスノキなど大きな木の下
にシートを広げ、昼食にした。
食事を済ませてしばらく休み、記念撮影とミーティングをして、近況報告や周知事項の
発表などあり、13時20分頃散会となる。
皆さんは表門から帰路についたが、私は反対に野川公園を北に抜けることにする。
家族連れやグループなど、たくさんの人が憩う広い芝生地と豊富な緑陰の間を進む。
都道19号・東八(とうはち)道路の上を陸橋で渡り、北側の野川右岸近くに下ると、
野川公園自然観察センターがあったので立ち寄ってみた。
国分寺崖線(がいせん)と野川があるこの場所ならではの自然の大切さを学ぶことので
きる施設で、野川公園の見どころ情報や、植物、野鳥、昆虫などについて、パネルや実物、
はく製などが展示されていた。
自然観察センターを出て、そばの野川の櫻橋際へ。左岸沿いは、かなり以前毎年参加し
ていた東京スリーデーマーチで何度も歩いているのと、日陰が無さそうなので右岸沿いを
上流(西)に向かう。
橋近くの川には、子どもたちが入って何か取ろうとしている。
右岸沿いの豊富な緑陰下、ツクツクボウシの鳴き声を聞きながら進んで三つほど橋際を
過ぎる。
西武多摩川線の高架橋が近づいたところで左岸に回り、線路下を西に抜けて川を離れて
「二枚橋の坂」を上がる。
東町五丁目から四丁目へと住宅街を北上して、14時30分にJR中央線の東小金井駅
に着いた。
駅前では、「東小金井駅開業55周年祭」のステージイベントを開催していた。
14時32分発大月行き下り電車で帰路につく。
(天気 晴、距離 7・6㎞(2・9+4・7㎞)、地図(2万5千分の1) 吉祥寺、
歩行地 府中市、三鷹市、調布市、小金井市、歩数 13,700)
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好天となり気温も30℃近くに上がりそうだが、カタツムリ歩行の第6回同窓会に参加
した。
集合地は西武多摩川線の多磨駅。JR中央線武蔵境駅から乗り換えるこの西武多摩川線
に乗るのは初めかもしれない。
今回の担当はNさんとKさんだが、Kさんは都合で不参加。地図をもらい、9時57分
に多磨駅をスタートした。
線路沿いを北進して踏切際を左折し、人見(ひとみ)街道を西へ、
多磨墓地が近いので通りには石材店などが並ぶ。
近くの六差路を北西にすぐで、多磨霊園の正門を入る。
右手の管理事務所で「東京都多磨霊園案内図」をもらう。表面は霊園の地図、裏面には
150人近い著名人の墓地の位置が示されていた。
そばの円形建物は、平成5(1993)年に完成した新しい墓地形式の新納骨堂「みた
ま堂」。
多磨霊園の開設は大正12(1923)年4月で、わが国最初の公園的風景を取り入れ
た大規模な墓地だとか。
開設当初は約100万㎡だったが、昭和14(1939)年に西側に拡張して現在は約
128万㎡(約39万坪)あり、都立の8霊園の中で最も広く、霊園全体で墓地の面積は
50%以下に抑え、豊かな緑地を形成しているという。
広大な霊園には、政治家、学者、芸術家など著名人の墓地があるようだが、今日はその
一部、東南側を回ってみることにする。
北に真っ直ぐに伸びる幹線ともいえる園路を進んだつもりが、次の交差点で西北へ延び
た線と分かり、ロータリーを東へ。
ロータリー近くの等身大の坐像は、教育者で東京女子大学長などを務めた新渡戸稲造
(にとべいなぞう)の墓地だった。
東に進むと救世軍墓地があり、その先が3本の園路が南北に走る中央部最初の十字路。
特種と呼ぶ西側最初には、第二次大戦開戦時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の山本
五十六(いそろく)の墓があった。
その北に隣接して日露戦争時の連合艦隊司令長官で元帥海軍大将の東郷平八郎墓がある。
すぐ先、中央部ロータリーには8本柱の大きな塔が立ち、近くには純白のボタンヅルが
咲いていた。
ロータリーの東北側に、第20代首相や蔵相を務めた高橋是清(これきよ)の墓地が。
ロータリ北側には、大きなサルスベリがたくさんの花を見せている。
北にすぐ、次の東西に長いロータリーの北東側に、霊園案内図にはないが福沢桃介(ふ
くざわももすけ)の墓がある。
福沢桃介は明治から昭和初期の実業家。福澤諭吉の婿(むこ)養子となり主として電気
事業に関与し、木曽川などで水力開発を手がけている。私がこの人の名を知ったのは、中
山道ウオークで木曽川沿いを歩いて、ゆかりの発電所のそばを通過したことからだ。
東側に隣接した開放的な芝生墓地の中央は石橋正二郎墓地。ブリヂストンタイヤの創業
者でプリンス自動車工業の育ての親でもあり、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大
な貢献をされている。
ロータリーの北西側には、作家の有島武郎(ありしまたけお)夫妻が眠っていた。
そして南西側は、枢密院(すうみついん)議長や第35代首相をされた平沼騏一郎(き
いちろう)墓地である。
北に進んで次の交差点の先、西側には漫画家長谷川町子の眠る長谷川家墓地があった。
その先、10区画北東端の十字路で右折して東に向かう。周辺にはりっぱな松などが並
び立ち、東への園路沿いにススキが穂を見せる。
通りの中ほど北側に、陸軍大将山下奉文(やましたともゆき)墓が目に入る。
太平洋戦争の初期、英領マレーとシンガポールを攻略し、「マレーの虎」の異名で知ら
れている。
近くのロータリーを南下して次のロータリを東進し、11時に霊園の東門を出た。
すぐ南側から東に延びる多磨町通りを進み、西武多摩川線の踏切を渡る。北側に永福寺
があるが寄らず、次の十字路を南への鶴川街道に入る。
間もなく祭礼の準備中の三谷神社前だが、時間が無いのでここも通過した。
多磨駅の北側から延びる通りに出て、近くの交差点から都立武蔵野の森公園の西北端に
入る。
2004年の開園で面積は約34万7千㎡あり、調布飛行場を挟んで北地区と南地区に
分かれている。入った一帯は、桜などの植栽が伸び伸びと枝を広げる大芝生広場になって
いた。
少し進むと南に滑走路が延びる調布飛行場が一望で、間もなく軽飛行機が北へと離陸し
た。
滑走路の北端近くには修景池(しゅうけいいけ)があり、傍らに「この公園は災害時に
大規模救出・救助活動の拠点となる」ことなどが記されていた。
池の北側、公園の北端に沿って玉石張(たまいしばり)の水路が残り、その沿革を記し
た掲示もある。
池のそばに高さ数mの丘があり、上がると調布飛行場やその向こうにあるサッカー場・
味の素スタジアムなどが一望できる。
味の素スタジアム、9月20日(金)に始まるラグビーワールドカップ初戦・日本-ロ
シア戦の会場である。
車道を横断した東側も公園の一部で、そこに二つの掩体壕(えんたいごう)が残されて
いた。
最初のは「掩体壕 大沢2号」で、そばの説明板によれば、掩体壕は軍用機を空襲から
守るための格納庫で、戦況が悪化した昭和19(1944)年頃から短期間に約60基が
造られ、この公園に2基と府中市内に2基が残っているという。
この掩体壕には「飛燕(ひえん)」と呼ぶ戦闘機が格納されていたようだが、見た目に
は飛行機を格納するほどの大きさには見えない。
南東側のもう一つの方にも回る。こちらは「掩体壕 大沢1号」で、やはり「飛燕」が
格納されていたようで、前面に飛燕のイラストが描かれ、そばに飛燕と掩体壕の模型彫刻
もあった。
公園の北東端付近から出て、東側の水車通りを北進する。東側の野川(のがわ)右岸に
は水車小屋があるが、時間が無いのと以前訪ねているので省略とする。
突き当たりを西にすぐで人見街道に合し、北側の龍源寺(りゅうげんじ)へ。本堂前の
大きなサルスベリが花盛り。
本堂左手に比較的新しい双代道祖神があり、その横から本堂背後の墓地に回ると、東京
都指定文化財「近藤勇(こんどういさみ)の墓」や辞世碑があり、傍らに説明板が立って
いた。
近くには長寿観音石像が、門前の人見街道際には「近藤勇と天然理心流」説明碑や近藤
勇の胸像などが並んでいた。
人見街道を西にすぐ、変則五差路際に小さい祠(ほこら)と木製の鳥居の立つ近藤神社
の周辺が近藤勇生家跡。神社のそばに調布市史跡「近藤勇生家跡」の説明板が立っていた。
それによれば、当時の屋敷は面積約7千㎡あり、建物は母屋のほか、蔵屋敷、文庫蔵、
乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋などがあり、周囲はケヤキ、カシなどの大木や竹林が茂っ
ていたという。
その交差点際を北に入ると、野川を挟んで南北に広大な緑が広がる都立野川公園の正門
である。
正門を入って左手の野川公園サービスセンターが今日のゴール、12時05分に着いた。
参加の皆さんのほとんどもあい前後して着く。
センターの建物を北に抜け、蒸し暑くなった日差しを避けてクスノキなど大きな木の下
にシートを広げ、昼食にした。
食事を済ませてしばらく休み、記念撮影とミーティングをして、近況報告や周知事項の
発表などあり、13時20分頃散会となる。
皆さんは表門から帰路についたが、私は反対に野川公園を北に抜けることにする。
家族連れやグループなど、たくさんの人が憩う広い芝生地と豊富な緑陰の間を進む。
都道19号・東八(とうはち)道路の上を陸橋で渡り、北側の野川右岸近くに下ると、
野川公園自然観察センターがあったので立ち寄ってみた。
国分寺崖線(がいせん)と野川があるこの場所ならではの自然の大切さを学ぶことので
きる施設で、野川公園の見どころ情報や、植物、野鳥、昆虫などについて、パネルや実物、
はく製などが展示されていた。
自然観察センターを出て、そばの野川の櫻橋際へ。左岸沿いは、かなり以前毎年参加し
ていた東京スリーデーマーチで何度も歩いているのと、日陰が無さそうなので右岸沿いを
上流(西)に向かう。
橋近くの川には、子どもたちが入って何か取ろうとしている。
右岸沿いの豊富な緑陰下、ツクツクボウシの鳴き声を聞きながら進んで三つほど橋際を
過ぎる。
西武多摩川線の高架橋が近づいたところで左岸に回り、線路下を西に抜けて川を離れて
「二枚橋の坂」を上がる。
東町五丁目から四丁目へと住宅街を北上して、14時30分にJR中央線の東小金井駅
に着いた。
駅前では、「東小金井駅開業55周年祭」のステージイベントを開催していた。
14時32分発大月行き下り電車で帰路につく。
(天気 晴、距離 7・6㎞(2・9+4・7㎞)、地図(2万5千分の1) 吉祥寺、
歩行地 府中市、三鷹市、調布市、小金井市、歩数 13,700)
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