本シリーズでは、「漢詩を読む」と銘打って話を進めています。此処でちょっと立ち止まって、“読む”ことについて触れておきます。
”漢詩を読む”とは、漢詩を‘声’を出して‘朗読’するというよりは、‘漢詩’の奥に潜む何事かを”読み”取る(解釈する)ということを意味しています。すなわち、作者が描き出している世界、またその中で作者が訴えたい‘メッセージ’について想像逞しくして理解しようとする作業となります。
ドラマのなかで引用されている漢詩について語ろうとすれば、話はさらに難しくなります。
まず、ドラマの中で漢詩に出会った場合は、件の漢詩をどのように”読む”か? 更に該ドラマの原作者を含めて、その作製に関わった人々が、件の漢詩を引用した意図は? ひいては物語の展開にどのように関わっているのか? 等々、それらを”読む”羽目に追い込まれることになります。
これらの高いハードルを感じつつも、それはそれ、本稿では肩の凝らない程度の話を心掛けていくつもりです。ある意味、独断と偏見、無責任の誹りは免れない話になるやも知れませんが、敢えて「ドラマの中の漢詩」を取り上げて“読む”ことに挑戦していきます。
欲どおしいことを言えば、ドラマをより楽しく視聴するのに役に立てれば幸いなことであろう と思っています。
素人にとっては、恐れ多い取り組みではあります。しかし、”読む”ことの面白さ、楽しさは捨てがたく、「下手の横好き」である趣味の一つとして漢詩に親しんでおります。
今回は、本論から少々はずれますが、‘漢詩’の奥に潜んでいると思われるメッセージが、人によっていかに自由自在に”読まれ”ているかを示す一例を取り上げてみます。
“若いときは二度とない”のであるから、“機会があったら若いうちに存分にお酒を召しあがれ”という解釈(”読み1”)と“若いうちに一生懸命勉学に励め、時は人を待ってはくれないぞ”という解釈(”読み2”)と、真逆の解釈がなされている例です。
陶淵明の「雑詩 十二首 其の一」と題する漢詩について触れます。十二句からなるやや長い詩です。その詩と邦語の読み下しおよび現代訳は末尾に示しました。本シリーズでは、漢詩そのものについての解説は、先人たちに譲って、避けて通ることとします。
話題にしようとする箇所は、この詩の最後の4句の解釈にあります。実は、この4句は、本邦では独立して「勧学」という題名がつけられております。詩吟の世界では、今日なお詠い継がれているようです。
筆者は、時期は定かではありませんが、若いころ、“盛年(セイネン) 重(カサ)ねて来(キ)たらず、一日(イチジツ)再び… 云々。”と口ずさんだ記憶があり、その詩のメッセージとしては先の“読み2”に当たると理解していました。
この4句は、「人間みな兄弟ではないか、喜びごとがあったなら、隣近所呼び寄せてうちそろい、酒樽を横に飲もうではないか」という句に続く締めの部分です。いま思えば、先の“読み1”と理解することが自然の流れであるように思われます。末尾の<現代訳>をご参照ください。
しかし、詩全体を知ったのは、恥ずかしながら、比較的最近のことであります。それまで何の疑いもなく「勧学」として“読み2”を意味するものと理解しておりました。
さて、“読み2”について、何時、誰が、なんの意図があって「勧学」という題をつけて独立した‘漢詩’として取り扱うようになったのであろうか?非常に興味がありますが、少なくともその道の専門家の提案に依るのであろうことは推察されます。
今一つ“読み3”として、作者は非常にお酒が好きな御仁であることから、自ら飲みすぎの反省の弁として、若者に向かって “読み2”の様に諭している という解釈が成り立たないわけではない。
しかし、晩年には酒を止めようか と思ったようでもありますが、百首以上もの多くの詩を残していて、それらの詩で‘全編酒在り’と言われるほどの酒好きの陶淵明です。“読み3”のような解釈は、コジツケに過ぎないでしょう。
近頃、マスコミが、例えば、政治家の発言について、その中の一部を取り上げて論評して、物議を醸すことが間々あります。“読み2”については、どうしてもこのような事象を思い浮かべてしまいます。
漢詩に限らず物語文などの中の一部の語句、特に四字からなる四字熟語を、あるいは文の一部分を切り取り、喩や警句として日常に用いられている例は、枚挙に遑がありません。
しかし今話題にしている“読み2”については、一般的な意味において、たとえ若者を諭すという善意の意図が根底にあったとしても、この詩全体の流れを勘案すれば、抵抗感があります。
事程左様に、その良し悪しはさておき、個人により“読み”が非常に異なることは、多々有り得ることでしょう。今後、筆者も的外れの“読み”を行う可能性は避けられず、予め断りを入れておくべきか と。その折には、コメントを頂けることを切にお願い致します。
何はともあれ、「漢詩を読む」ことの難しさを示す一例を挙げました。難しさにかまけて、避けるのではなく、素人は素人なりの発想で、以後、ドラマに現れた漢詩について“感想”文を書くつもりで、本稿を進めていくことにします。
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雑詩 十二首 陶淵明
其の一
人生無根蔕 人生 根蔕(コンテイ)無く、
飘如陌上塵 飘(ヒョウ)として、陌上(ハクジョウ)の塵の如(ゴト)し。
分散随風転 分散して風に随(シタガ)いて転ず、
此已非常身 此れ已(スデ)に常の身に非(アラ)ず。
落地為兄弟 地に落ちて兄弟(ケイテイ)と為(ナ)る、
何必骨肉親 何ぞ必(カナラ)すしも骨肉(コツニク)の親(シン)ならん。
得歓当作楽 歓(ヨロコ)びを得ては当(マサ)に楽しみを作(ナ)すべし、
斗酒聚比隣 斗酒(トシュ) 比隣(ヒリン)を聚(アツ)めん。
盛年不重来 盛年(セイネン) 重(カサ)ねて来(キ)たらず、
一日難再晨 一日(イチジツ) 再び晨(アシタ)なり難(ガタ)し。
及時当勉励 時に及びて当(マサ)に勉励すべし、
歳月不待人 歳月は人を待たず。
<現代語訳>
人の命は、つなぎとめる根もへたもなく、
風に舞い飛ぶ路上の塵のようだ。
ちりぢりに風の吹くまま転がってゆく。
人はもともと永遠の体ではない。
この世に生まれ落ちれば誰もが兄弟。
肉親だけが親しいものとは限らない。
歓楽の機会を得たならば楽しむべきである。
酒を用意して隣近所の人と、大いに飲もうではないか。
若いときは二度と来ないし、
一日に朝が二度来ることもない。
時を逃さず楽しまなくてはいけない。
月日はどんどん過ぎ去り、人を待ってはくれないのだから。
石川忠久 監修 NHK『新漢詩紀行』ガイド 5、2010 から引用
”漢詩を読む”とは、漢詩を‘声’を出して‘朗読’するというよりは、‘漢詩’の奥に潜む何事かを”読み”取る(解釈する)ということを意味しています。すなわち、作者が描き出している世界、またその中で作者が訴えたい‘メッセージ’について想像逞しくして理解しようとする作業となります。
ドラマのなかで引用されている漢詩について語ろうとすれば、話はさらに難しくなります。
まず、ドラマの中で漢詩に出会った場合は、件の漢詩をどのように”読む”か? 更に該ドラマの原作者を含めて、その作製に関わった人々が、件の漢詩を引用した意図は? ひいては物語の展開にどのように関わっているのか? 等々、それらを”読む”羽目に追い込まれることになります。
これらの高いハードルを感じつつも、それはそれ、本稿では肩の凝らない程度の話を心掛けていくつもりです。ある意味、独断と偏見、無責任の誹りは免れない話になるやも知れませんが、敢えて「ドラマの中の漢詩」を取り上げて“読む”ことに挑戦していきます。
欲どおしいことを言えば、ドラマをより楽しく視聴するのに役に立てれば幸いなことであろう と思っています。
素人にとっては、恐れ多い取り組みではあります。しかし、”読む”ことの面白さ、楽しさは捨てがたく、「下手の横好き」である趣味の一つとして漢詩に親しんでおります。
今回は、本論から少々はずれますが、‘漢詩’の奥に潜んでいると思われるメッセージが、人によっていかに自由自在に”読まれ”ているかを示す一例を取り上げてみます。
“若いときは二度とない”のであるから、“機会があったら若いうちに存分にお酒を召しあがれ”という解釈(”読み1”)と“若いうちに一生懸命勉学に励め、時は人を待ってはくれないぞ”という解釈(”読み2”)と、真逆の解釈がなされている例です。
陶淵明の「雑詩 十二首 其の一」と題する漢詩について触れます。十二句からなるやや長い詩です。その詩と邦語の読み下しおよび現代訳は末尾に示しました。本シリーズでは、漢詩そのものについての解説は、先人たちに譲って、避けて通ることとします。
話題にしようとする箇所は、この詩の最後の4句の解釈にあります。実は、この4句は、本邦では独立して「勧学」という題名がつけられております。詩吟の世界では、今日なお詠い継がれているようです。
筆者は、時期は定かではありませんが、若いころ、“盛年(セイネン) 重(カサ)ねて来(キ)たらず、一日(イチジツ)再び… 云々。”と口ずさんだ記憶があり、その詩のメッセージとしては先の“読み2”に当たると理解していました。
この4句は、「人間みな兄弟ではないか、喜びごとがあったなら、隣近所呼び寄せてうちそろい、酒樽を横に飲もうではないか」という句に続く締めの部分です。いま思えば、先の“読み1”と理解することが自然の流れであるように思われます。末尾の<現代訳>をご参照ください。
しかし、詩全体を知ったのは、恥ずかしながら、比較的最近のことであります。それまで何の疑いもなく「勧学」として“読み2”を意味するものと理解しておりました。
さて、“読み2”について、何時、誰が、なんの意図があって「勧学」という題をつけて独立した‘漢詩’として取り扱うようになったのであろうか?非常に興味がありますが、少なくともその道の専門家の提案に依るのであろうことは推察されます。
今一つ“読み3”として、作者は非常にお酒が好きな御仁であることから、自ら飲みすぎの反省の弁として、若者に向かって “読み2”の様に諭している という解釈が成り立たないわけではない。
しかし、晩年には酒を止めようか と思ったようでもありますが、百首以上もの多くの詩を残していて、それらの詩で‘全編酒在り’と言われるほどの酒好きの陶淵明です。“読み3”のような解釈は、コジツケに過ぎないでしょう。
近頃、マスコミが、例えば、政治家の発言について、その中の一部を取り上げて論評して、物議を醸すことが間々あります。“読み2”については、どうしてもこのような事象を思い浮かべてしまいます。
漢詩に限らず物語文などの中の一部の語句、特に四字からなる四字熟語を、あるいは文の一部分を切り取り、喩や警句として日常に用いられている例は、枚挙に遑がありません。
しかし今話題にしている“読み2”については、一般的な意味において、たとえ若者を諭すという善意の意図が根底にあったとしても、この詩全体の流れを勘案すれば、抵抗感があります。
事程左様に、その良し悪しはさておき、個人により“読み”が非常に異なることは、多々有り得ることでしょう。今後、筆者も的外れの“読み”を行う可能性は避けられず、予め断りを入れておくべきか と。その折には、コメントを頂けることを切にお願い致します。
何はともあれ、「漢詩を読む」ことの難しさを示す一例を挙げました。難しさにかまけて、避けるのではなく、素人は素人なりの発想で、以後、ドラマに現れた漢詩について“感想”文を書くつもりで、本稿を進めていくことにします。
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雑詩 十二首 陶淵明
其の一
人生無根蔕 人生 根蔕(コンテイ)無く、
飘如陌上塵 飘(ヒョウ)として、陌上(ハクジョウ)の塵の如(ゴト)し。
分散随風転 分散して風に随(シタガ)いて転ず、
此已非常身 此れ已(スデ)に常の身に非(アラ)ず。
落地為兄弟 地に落ちて兄弟(ケイテイ)と為(ナ)る、
何必骨肉親 何ぞ必(カナラ)すしも骨肉(コツニク)の親(シン)ならん。
得歓当作楽 歓(ヨロコ)びを得ては当(マサ)に楽しみを作(ナ)すべし、
斗酒聚比隣 斗酒(トシュ) 比隣(ヒリン)を聚(アツ)めん。
盛年不重来 盛年(セイネン) 重(カサ)ねて来(キ)たらず、
一日難再晨 一日(イチジツ) 再び晨(アシタ)なり難(ガタ)し。
及時当勉励 時に及びて当(マサ)に勉励すべし、
歳月不待人 歳月は人を待たず。
<現代語訳>
人の命は、つなぎとめる根もへたもなく、
風に舞い飛ぶ路上の塵のようだ。
ちりぢりに風の吹くまま転がってゆく。
人はもともと永遠の体ではない。
この世に生まれ落ちれば誰もが兄弟。
肉親だけが親しいものとは限らない。
歓楽の機会を得たならば楽しむべきである。
酒を用意して隣近所の人と、大いに飲もうではないか。
若いときは二度と来ないし、
一日に朝が二度来ることもない。
時を逃さず楽しまなくてはいけない。
月日はどんどん過ぎ去り、人を待ってはくれないのだから。
石川忠久 監修 NHK『新漢詩紀行』ガイド 5、2010 から引用