愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 158 飛蓬-65 小倉百人一首:(藤原忠通)わたの原

2020-07-31 10:32:40 | 漢詩を読む
(76番)わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの
      雲居(ゐ)にまがふ 沖つ白波
       法性寺入道前関白太政大臣 『詞花集』雑下・382
<訳> 果てしなく広がる海上に舟を漕ぎ出してはるか彼方を眺めると、空に立つ雲と見間違えるばかりの沖の白波であることよ。(板野博行)

ooooooooooooo
梅雨が明けて、キラキラ輝く太陽の下、視線を大海原遥かに遣ると、天際に白雲と見まがう白波の沸き立つのが見える。舟で漕ぎ出でなくとも、浜辺で沖に向かい、両腕を大の字に挙げて、深呼吸二つ三つ。想像するだに、コロナの憂さも吹っ飛ぶ。

雄大な佳い歌を残してくれました。作者は、仰々しい名で出ていますが、藤原道長の直系6代目、氏の長者・忠通(タダミチ、1097~1164)である。忠通38歳の時、崇徳天皇が催した歌合で「海上遠望」の詠題で詠った、想像上の歌ということである。

飾りを廃し、直截に五言絶句にしてみました。下記ご参照ください。

xxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文>  [下平声七陽韻]
 海上遠望
浩瀚不尋常, 浩瀚(コウカン)たること尋常ならず,
開船到大洋。 舟を漕ぎ出して大洋に出る。
遥看天際浪, 遥(ハル)かに看(ミ)る天際の浪, 
如白雲遠揚。 白雲の遠く揚(ア)がるが如し。
 註]
  浩瀚:水が広々としたさま。  開船:出港する、船を漕ぎだす。       
  天際:天のはて。

 
<現代語訳>
 海上遠望
果てしなく広がること尋常ならず、
舟を漕ぎ出して大海原に出る。
遥か彼方には日に映える白波が見えて、
あたかも遠く白雲が沸き上がるが如く見えることだ。

<簡体字およびピンイン>
 海上远望 Hǎishàng yuǎn wàng
浩瀚不寻常, Hàohàn bù xúncháng,
开船到大洋。 kāi chuán dào dàyáng.
遥看天际浪, Yáo kàn tiānjì làng,
如白云远扬。 rú báiyún yuǎn yáng.
xxxxxxxxxxxxx

作者・忠通は、25歳で関白になったのち、出家するまでに摂政・関白を三回づつ、また太政大臣を二回歴任した超エリート政治家。柿本人麻呂にも匹敵するほどの歌人と評されていたようです。さらに漢詩にも優れた才能を発揮していたという万能の士である。

上の歌を詠った20年後、都で内乱(保元の乱、1156)が勃発、崇徳上皇と忠通は敵対する関係となります。貴族の世(平安)から武士の世(鎌倉)へと変わっていく激動の萌芽期と言えるでしょうか。

いつの時代でも、爛熟期がしばらく続くと世が乱れ、変革の機運が醸成されていくのは歴史の必然と言えるのでしょうか。保元の乱の様相をちょっと覗いておきます。後々、歌の理解にも役立つと思われますので。

保元の乱の枠組みは、大本の原因として皇族および摂関家それぞれの内紛、それに武士が加わった争いである。まず役者は、皇族では鳥羽上皇と崇徳天皇親子(?)、摂関家では忠通・頼長兄弟、それに平氏・源氏の武士たちである。

鳥羽上皇(74代)と妃の待賢門院璋子との間には、第一宮(長子)・崇徳天皇(75代)と第四宮(四男)・雅仁(後の77代後白河天皇)がいる。実は、鳥羽上皇・妃璋子・白河上皇(鳥羽上皇の祖父、72代)は三角関係にあって、崇徳天皇は白河上皇の子であろうとされている。国のトップが乱れていたのですね。

鳥羽上皇は、崇徳天皇を我が子とは認めず、“叔父子(オジコ)”と呼んでいて、悉く崇徳天皇を排斥する策をとります。崇徳天皇が上皇として退位する際、自分の子への譲位は阻止され、弟の後白河天皇が即位する。すなわち、院政を敷く資格を得ることが叶わなかったのである。

一方、摂関家では、関白忠実には長子の忠通と弟の頼長がいる。例にもれず(?)、長子はおっとり型、一方、第2子の頼長は活発な性格であり、家督を継ぎ氏の長者となり、関白の位も欲しいのである。

鳥羽上皇が崩御すると、後白河天皇方、崇徳上皇方に分かれて、対立が激しくなっていきます。後白河天皇方には、忠通、さらに平清盛、源義朝ら、崇徳上皇方に頼長、源為朝、平忠正らが加わり、一触即発の状態となります。後白河天皇方が機先を制して夜襲し、合戦は短時間で決着がついた由である。

崇徳上皇は難を逃れ仁和寺に身を隠していたが、捉えられて讃岐(現香川県坂出市)に配流、頼長は逃げる途中流れ矢に当たって深手を負い、間もなく死亡する。数奇な運命を辿る崇徳上皇は、平安の爛熟期に生まれた、時代の申し子と言えなくもなく思われる。

崇徳天皇は、優れた歌の才の持主であり、歌は百人一首にも取り上げられている。西行法師(1118~1190)は、崇徳天皇の才能を高く評価していたようです。なお一歳違いの同世代という近親間もあったのではないでしょうか。

西行は讃岐の崇徳院の元に度々手紙や歌を届けていた と。但し直接贈ることは憚られて、院の女房宛てに送り、また院の動静も女房より得ていたようである。崇徳院の崩御に当たっては公然と追悼はできず、乱世に消えた才能を惜しみ、友人の寂然法師とつぎのような歌の遣り取りをして、崇徳院を偲んだ と。

ことの葉の なさけたえぬる をりふしに 
   ありあふ身こそ かなしけれ (西行法師)
  [世が乱れ 和歌の情趣の失われてしまう時代に行き合ってしまったわが身を
  悲しくおもっています。]
  
しきしまや 堪えぬる道に なくなくも 
   君とのみこそ 跡をしのばめ(寂然法師)
  [絶えてしまった歌の道のその跡をせめてあなたとともに泣く泣くしのび
  ましょう](小倉山荘氏)

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閑話休題 157 飛蓬-64 コロナ禍の春日

2020-07-25 15:19:37 | 漢詩を読む
コロナ禍の春日

地球一円コロナの猛威に晒されている。所によっては豪雨水害に見舞われており、まさに“禍不単行(禍は単独では来ない)”の諺通りの状況に苦しめられている。“祈る”以外に手立てを持たない身が情けない。

xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻]
冠状春日  冠状(カンジョウ)の春日
公園無孩子, 公園に孩子(コドモ)無く、
球賽無打鉦。 球賽(キュウサイ)に鉦(ショウ)を打つ無し。
国際無来往, 国際の来往(ライオウ)無く,
只聞遥遠鶯。 只だ聞くは 遥か遠くに鶯のみ。
 註]
  冠状(病毒):コロナ(ウイルス)。   球賽:球技大会。
  鉦:しょう、応援団の鐘太鼓。 
  鶯:ウグイス、鳴き声は“ホ・ホケキョ(法華経)”と聞こえる。
コロナを鎮めてくれと仏に祈っているようである。 
<現代語訳>
 コロナ禍の春の日
公園には元気に遊び廻り騒ぐ子供たちの姿はない、
無観客のプロ球技場では応援団の打ち鳴らす鐘の音もない。
世界の各国で人の行き来はご法度、巷で外国人の賑やかな話し声は聞かれない、
唯だ 聞こえたのは、裏山で鳴くウグイスの一声のみ、“ホ・ホケキョ”と。

<簡体字およびピンイン> 
冠状春日 Guānzhuàng chūnrì
公园无孩子,Gōngyuán wú háizi,
球赛无打钲。qiúsài wú dǎ zhēng.
国际无来往,Guójì wú láiwǎng,
只闻遥远莺。Zhǐ wén yáoyuǎn yīng.
xxxxxxxxxxxxxxx

鎌倉・第3代将軍・源実朝は、当時、起こった豪雨災害時に「……八大龍王 雨やめさせたまえ」と、力強く、気迫を込めて祈られた(前々回・閑話休題-154)。筆者は、ウグイスの鳴き声を借りて、コロナ・豪雨水害の脅威が早く治まることを祈っている次第である。

「春の海 終日(ヒネモス)のたり のたりかな」(与謝蕪村)。さもなければ、海と言わず、まどろむ“春日”であるが、慌ただしく騒々しい春であった。但し生活周囲のあらゆる音は消えている という無・無・無と“3無”の異様な状況なのである。上の漢詩は、この情景を詠ったつもりである。

例年、ウグイスは、今頃、“ホ ケキョッ ケキョッ ケキョッ ホ ケキョッ”と、いわゆる“ウグイスの谷渡り”の元気な鳴き声が,ここかしこでこだましていたはずである。今年は心なしか、か弱く“ホ・ホケキョ”の一声が、遠くにいるように聞こえた。

ウグイスと言えば、最近、気になることがある。

かつては木の葉の裏や小枝に小指ほどの大きさの青虫や蛾の幼虫がたむろしていて、その除去に精出していた。また猫の額ほどの庭の片隅に茂っていたブラックベリーの花では、ミツバチや大小さまざまな蝶が飛び交い、密を吸っていた。

ここ2,3年、これらの生物の数が減少しているかな と気にしていたのだが。今年は、直径数mm、体長2cmほどの青虫一匹を目撃したのみ。またミツバチは目撃なし、小さい蝶が2,3羽見かけたのみである。

里山で、ウグイスの生命を支える虫の類が姿を消しつつあるのではないか と危惧するのである。

2018年4月、黄河沿い洛陽と鄭州の中間に位置する、杜甫の故郷・鞏義(キョウギ)市を訪ねる機会があった(閑話休題-79)。その折、記念施設・“杜甫故里”内の柳の木陰で囀るコウライウグイス“黄丽/黄鹂”の鳴き声を聞くことができた。

帰国後の録音を含めて、注意を凝らして聴いたのだが、“ホ ホケキョ”のフレーズを聞き取ることはできなかった。“ホ ホケキョ(法華経)”は、日本人が聞いた、日本のウグイスの鳴き声 ということである。上の漢詩は、残念ながら国際的に通用する詩ではないということである か。 
コメント (1)
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閑話休題 156 飛蓬-63 小倉百人一首:(権中納言定家) 来ぬ人を

2020-07-24 10:27:46 | 漢詩を読む
 (97番) 来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪に
        焼くや藻塩の 身もこがれつつ
              権中納言定家 『新勅撰集』巻13・恋3・849
<訳> いくら待っても来ない人を待つ私は、松帆の浦で夕凪の頃に焼かれて焦げる藻塩のように、切なさで身も焦がれる想いでいるのです。(板野博行)

oooooooooooooooo
淡路島・松帆の浦で焼かれる海藻にも似て、身を焦がすほどに待てども、待ち人は来らず。表面的には、作者(男性)が恋人を待つ身の歌ですが、海女乙女に成り代わって、切ない乙女の恋心を詠った歌のようです。1218年定家56歳の作。

実は、『万葉集』にある笠金村(カサノカネムラ)の歌:「……松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海女をとめ……」を基(本歌)とした「本歌取り」の歌である。この「本歌取り」は、定家が初めて編み出した歌の技法である と。

歌の「松帆の~藻塩の」部は、「こがれ」の序詞(ジョコトバ)、“松”は、“松帆”の“松”と“来ぬ人”を“待つ”、“こがれ”は、“焼け焦がれ”と“恋焦がれ”のそれぞれ掛詞、「本歌取り」、“松帆の浦”は歌枕 と技のオンパレードである。漢詩では、序詞は起・承句とし、掛詞も活かすように心がけました。

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文>   [去声四寘韻]
 等意中人的来訪 意中の人の来訪を等(マツ)
海女制塩松帆浦, 海女(アマ) 塩を制(ツク)る 松帆(マツホ)の浦,
夕無風浪焼藻類。 夕べに風浪なく藻類を焼く。
恋人不来惟等待, 恋人来たらず 惟(タダ)等待(マ)つのみ,
有如海草転焦思。 海草の如(ゴトク)に 転(ウタタ) 思(ムネ)を焦(コ)がす有り。
  註]
  松帆浦:兵庫県淡路島北端の地名。 
  焼藻類:古い塩の製法。海藻に海水をかけ,干して乾かしたものを焼いて、水に
溶かし、さらに煮詰めて塩を精製する。この方法で作られた塩を藻塩
という。
  等待:待つ。          転:ますます嵩じてくるさま。
焦思:胸をこがす。

<現代語訳>
 意中の人の来訪を待つ
海女乙女は、松帆の浦で塩を造っていて、
風浪が収まった夕凪時には塩を含ませた海藻を焼く。
恋人は来ず、唯々待ちわびていて、
焼かれる海藻のように、ますます胸を焦がすのである。

<簡体字およびピンイン>
 等意中人的来访  Děng yìzhōngrén de láifǎng
海女制盐松帆浦, Hǎinǚ zhì yán Sōngfān pǔ,
夕无风浪烧藻类。 xī wú fēnglàng shāo zǎolèi.
恋人不来惟等待, Liànrén bù lái wéi děngdài,
有如海草转焦思。 yǒurú hǎicǎo zhuǎn jiāo sì.
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作者・藤原定家(1162~1241)は、藤原俊成(閑話休題-155)の次男、寂蓮法師(同-152)の義弟である。二つの勅撰集:『新古今和歌集』(1205)および『新勅撰和歌集』(1235)の撰者で、当時の歌壇の中心的存在。また“小倉百人一首”の撰者でもあります。

定家は、若いころ肉体的に虚弱、神経質で感情に激する傾向があり、成人してからも呼吸器疾患と神経症に悩まされていたようです。病弱ゆえに感性の鋭さが備わって来たのでしょうか。

父親譲りの歌才に恵まれ、18歳に賀茂別雷神社の歌合に初めて参加している。20歳に『初学百首』を詠み、翌年父の命により、まとまった歌作として初めての作品『堀河院題百首』を作っている。

1186年(25歳)、西行法師の求めにより、伊勢神宮に奉納するために詠まれた100首の歌集『二見浦百首』ができている。先に挙げた(閑話休題1-151)“秋の夕暮れ”を詠った「三夕の歌」の一首:「見渡せば花も紅葉もなかりけり……」はこの歌集に収められた歌である。

同年九条兼実家の家司(ケイシ、家政を掌る職員)として出仕を始め、兼実の庇護を受けて順調に昇進、また歌人としても目覚ましい活躍を見せる。しかし1196年、内大臣・源通親による政変で兼実はじめ関係者は罷免されます。定家も連座して除籍処分を受けた可能性がある。

一方、後鳥羽天皇(在位1183~1198)は、退位し上皇となると和歌に対する興味が高まってきたようである。1200年、“院初度御百首”が企画された。定家は、六条家の策謀を受け、参加から除外されていたが、父・俊成や周囲の人々の運動により参加が許される。

翌年催された“千五百番歌合”にも参加して詠進する機会があり、定家の歌は、後鳥羽上皇の好みに合ったようで、以後上皇から取り立てられていく。定家は、源通具らとともに勅撰和歌集の編纂の院宣を受け、1204年『新古今和歌集』として上申、翌年完成している。

承久の乱(1221)後、後鳥羽院は隠岐に配流されるが、定家との歌の交流は続いていたようである。1232年後堀河天皇から『新勅撰和歌集』編纂の下命を受けて、単独で撰出を開始、1235に完成している。

同年、宇都宮頼綱から嵯峨野に建てた別荘(小倉山荘)の障子色紙に古来の歌人和歌を揮毫してほしいとの要望を受ける。その折100人の歌人の和歌を一首づつ選んだ。それに一部修正が加えられ、今日の『百人一首』となる。1241年、薨去、享年80歳。

定家の歌については、当時「ヘンな歌を読む異端児」という評価が専らであったようである。後鳥羽院歌壇に加わり詠進するにつれ、若き後鳥羽院の琴線にも触れる所があったことが、一般に“新風の歌”として世の中に認識させる契機となったようである。

定家について、後鳥羽院は、「才能は生得のもので、人のまねできるものではない」と最上級の評価をしている。半面厳しい評価もされているようだ。次の歌は、ある寺院の絵屏風の為の歌であるが、後鳥羽院は、採用してなかった と。

秋とだに 吹きあへぬ風に 色かはる
   いくたの森の 露のした草(続後撰集 秋)
秋だとわかるほどには吹かない風をうけても 色が変わっていくよ 露をたたえた生田の杜の木陰の草たちは

後鳥羽院は、「言葉の使い方が巧みで艶(エン)なる仕上がりになってはいるものの、心の深さや情景の魅力はそれほどでもない」との趣旨の評をされた由。今回話題の歌「来ぬ人を……」についても、似たようなことが言えるのでは?と、筆者は愚考するのであるが、如何でしょうか。

定家の歌は、古来、時代によって毀誉さまざまな評価がなされているようである。定家に対する先人たちの評価は、総じて、「巧緻・難解、唯美主義的・夢幻的で、まさに“新古今調”の代表的な歌人」である と。 
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閑話休題 155 飛蓬-62 小倉百人一首:(皇太后宮大夫俊成) 世の中よ

2020-07-17 16:28:02 | 漢詩を読む
(83番)世の中よ 道こそなけれ 思ひ入(イ)る
       山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
            皇太后宮大夫俊成 『千載集』雑・1148
<訳> この世の中には、悲しみや辛さを逃れる方法などないものだ。思いつめたあまりに分け入ったこの山の中にさえ、哀しげに鳴く鹿の声が聞こえてくる。 (小倉山荘氏)

oooooooooooooo
壮年の域に差し掛かる27歳、悲嘆にくれる状況にあったのでしょうか。世の中の苦を逃れて隠棲するつもりで山に入ったが、鹿の悲しい鳴き声が耳に入り、ハッと悟る所があった。山中でさえ安寧な世界ではないのだ と。

後に歌に新風を起こした藤原俊成である。藤原北家御子佐流・権中納言・藤原俊忠の子。10歳で父を亡くし、義兄・勧修寺流・藤原顕頼の猶子(ユウシ)となったが、後に実家の御子佐流に戻った。

後白河院の院宣を受け、第七勅撰集『千載和歌集』(1188完)の撰進に当たっている。上掲の歌は、同集に撰集されているが、その際、政治的な思惑から一悶着あったようである。漢詩には誤解される余地はないでしょう。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声十一尤韻]
放棄出家的念頭  出家の念頭(ネントウ)を放棄する
嗟嗟世上満憂愁, 嗟嗟(アア) 世上憂愁(ユウシュウ)満つ,
欲遁惟知無所由。 遁(ノガ)れんと欲(ホッ)するも惟(タ)だ由る所無きを知るのみ。
終為隠居山里赴, 終(ツイ)に隠居せんが為に山里(サンチュウ)に赴(オモム)くも,
驚訝聴到鹿呦呦。 驚訝(キョウガ)するは鹿の呦呦(ヨウヨウ)を聴く。
 註]
  念頭:考え、心づもり。   嗟嗟:あゝ、嘆息の声。
憂愁:心配事。       驚訝:意外に、不思議に。
呦呦:鹿が悲しげに鳴く声。

<現代語訳>
 出家を断念する
ああ、世の中は何と心配事に満ちていることか、
それから逃れようとしても拠る術がない。
遂には山奥に隠棲しようと山に向かったが、
意外にも山奥でさえ牡鹿の悲しげに鳴く声が聞こえてきたのだ。

<簡体字およびピンイン>
 放弃出家的念头 Fàngqì chūjiā de niàntou
嗟嗟世上满忧愁, Jiē jiē shìshàng mǎn yōuchóu,
欲遁惟知无所由。 yù dùn wéi zhī wú suǒ yóu.
终为隐居山里赴, Zhōng wèi yǐnjū shān li fù,
惊讶听到鹿呦呦。 jīngyà tīng dào lù yōuyōu.
xxxxxxxxxxxxxxxx

まず、『千載集』撰集の際の一悶着について。かつて中国では、天下の乱れは皇帝の不徳によって起こるとされていたようです。この歌が作られた時期は、やがて“保元の乱”が起こるという、乱世の頃であった。

歌の中の「道」が「政道」と受け取られて、“世の乱れは政治の乱れに依る”と誤解される危惧がある と、入集は一旦見送られたらしい。当時詠まれた多くの俊成の歌の内容も参照された結果でもあろう、誤解は解けたようである。

俊成については、先に(閑話休題152)、寂蓮法師の稿で一部触れました。ここでその生涯をザッと振り返ってみます。17歳の頃から本格的に歌の詠作をはじめ、藤原基俊の師事を得ている。

上掲の歌ができたころ、自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを多くの歌に遺している。崇徳天皇の歌壇の一員となり、「久安百首」の詠進者14名に加えられるなどの知遇を得ており、歌人として世に認められているようである。

またその頃、美福門院加賀と再婚しています。加賀は、宮中の話題を独り占めするほどの美少女(15、6歳)であった と。賢くて芸事も器用にこなす、明るい女性であった由。後に定家の母御(1162)となるお方である。

御子佐流に復帰(1168)後、「住吉神社歌合」など社頭歌合の判者を務めています。ただ病を得て1176年(63歳)に出家、釈阿と称する。とは言え、出家後、病が癒えて、歌人としての活躍は衰えることはなかった。

1178年、摂政関白・九条兼実(慈円の同母兄)の知遇を得て、九条歌壇の師として迎えられます。また後白河院から新勅撰集編集の院宣(1183)があり、『千載和歌集』(第七勅撰集)を撰進している。名実共に歌壇の第一人者となったことを意味します。

1193・94年、左近衛大将・藤原(九条)良経の家において、『左大将家百首歌合』が催された。作者には主催者良経をはじめ、新風歌人の定家・家隆・慈円・寂蓮、旧派六条藤家の顕昭・経家らを含めた計12人。俊成は判者を務めます。

予め与えられた題で各人100首、計1200首を用意して600番の歌合とした。特に当代歌壇の二大門閥、御子佐家と六条藤家、新旧両派の歌の理念をめぐる議論は、それぞれの威信を掛けてなされ、激しいものであったようです。

この歌合せにおける判者・俊成の 歌を詳細に批評した判詞は、“幽”に通ずる余情や艶(エン)を重視したもので、優れた文学評論であり、後代への影響も大きいとされている。一方、顕昭は俊成の判を不服として、反駁を加え「六百番陳状」を著している。

寂蓮と顕昭の議論は特に激しく、顕昭は独鈷(ドクコ)という仏具を手にし、寂蓮は鎌首(カマクビ)のように首を曲げて論争した。そこで女房たちは二人の争いが始まるたびに「ほら、また、独鈷と鎌首よ」と囃したてたらしい。そこで後々、歌に関わる議論を「独鈷と鎌首の争い」と言われるようになった と。

以後なお、俊成は後鳥羽院の歌壇に加わり数々の歌合で判者を務めるなど、歌の世界における活躍は目を見張るものがある。1204年11月10日「春日社歌合」に参加して詠作した。同11月30日91歳で生涯を閉じている。

ところで、新歌風、俊成の“幽玄”の心は、筆者の理解を超えた概念ではある。世の参考書を紐解くと、“言外に余情を漂わせた、かすかで奥深い情趣美”で、のちの“わび”・“さび”につながる概念とある。

俊成の生きた時代は、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)、治承・寿永の乱(1180~1185、源平の戦い)と穏やかならぬ世の中で、俊成はこの乱世を通して目にされたことになります。平氏一族は敗戦を喫し、遂には朝敵として都落ちすることになった。

平忠度(1144~1184)は俊成を歌の師と仰いでいた。時に利あらず、忠度も都を捨てて逃れるほかなかった。しかし忠度は秘かに引き返して、五条の俊成宅を訪ね、自ら選んだ歌百首余の巻物を俊成に預けて、「一首でよいから勅撰和歌集に載せてほしい」と告げて去った と。

俊成はその後ろ姿に涙したという。後に俊成は『千載和歌集』に忠度の歌(下記)を載せている。但し、“よみ人知らず”として。朝敵の名を記すことはできなかったのでしょう。俊成に関わる佳話の一つを挙げて、本稿の締めとしたい。

さざ波や 志賀の都は あれにしを
   昔ながらの 山ざくらかな (千載集 春 よみ人しらず)
  [さざ波の寄る滋賀(大津)の都はあれてしまったが 長等(ながら)の山の
  桜は昔のままに咲いているよ](小倉山荘氏)。

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閑話休題 154 飛蓬-61 小倉百人一首:(鎌倉右大臣) 世の中は

2020-07-10 09:16:30 | 漢詩を読む
(93番)世の中は 常にもがもな 渚(ナギサ)漕ぐ
      海女の小船(オブネ)の 綱手(ツナデ)かなしも
           鎌倉右大臣 『新勅撰和歌集』羇旅・525
<訳> 世の中の様子が、こんな風にいつまでも変わらずあってほしいものだ。波打ち際を漕いでゆく漁師の小舟が、舳先(へさき)にくくった綱で陸から引かれている、ごく普通の情景が切なくいとしい。(小倉山荘氏)

oooooooooooooooo
京都対鎌倉、また鎌倉内での権力争いと心安からぬ日常にあって、波静かな渚で目にした、漁師たちが力を合わせて舟を曳く情景に、心打たれたのでしょう。いつまでもこのような安寧な時が続いて欲しいものである と。

作者・源実朝は、源頼朝が興した鎌倉幕府で第3代征夷大将軍となる。12歳で将軍に擁立され、28歳の若さで甥によって暗殺された。歌の才に恵まれ、明治時代・正岡子規は、柿本人麻呂、山部赤人に肩を並べる歌人であると絶賛しています。

為政の頂におりながら、民を思い遣り、やさしい眼差しを向けるお方であったようです。百人一首の中にあって異色な感がなくもない。民の安寧に注意する姿を念頭に翻訳を進めました。

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<漢詩原文および読み下し文> [上平声四支・十灰韻]
希求常世間安寧 世間の常なる安寧(アンネイ)を希求す
世間恒久願弥滋, 世間の恒久ならん願い弥(イヨ)いよ滋(シゲ)し,
瞻望大洋海灘隅。 瞻望(センボウ)す大洋 海灘(カイタン)の隅(クマ)。
把小漁船用縄曳, 小漁船を把(トッ)て縄を用(モッ)て曳く,
一何寧静動心哉。 一(イツ)に何ぞ寧静(ネイセイ) 心を動かす哉(カナ)。
 註]
  弥:ますます。     瞻望:遠くを見渡す。
灘:浅瀬、渚。     寧静:平穏無事なこと。

<現代語訳>
 世の中がいつまでも穏やかである事を願う
この世の中が今のまゝ、永遠に平穏であるようにとの願いが一層強くなる。
大海原を遥かに眺め見る渚の隈。
漁師の小舟を綱で引いていくのが見えて、
何と平穏無事な情景であろうか、心動かされずにはおかないことだ。

<簡体字およびピンイン>
希求常世间安宁 Xīqiú cháng shìjiān ānníng
世间恒久愿弥滋, Shìjiān héngjiǔ yuàn mí zī,
瞻望大洋海滩隅。 zhānwàng dàyáng hǎi tān yú.
把小渔船用绳曳, Bǎ xiǎo yúchuán yòng shéng yè,
一何宁静动心哉。 yī hé níngjìng dòngxīn zāi.
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鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(1147~1199)が亡くなると、息子の頼家(1182~1204)が18歳で家督を継ぎ、第2代将軍となります。しかし若年でもあり、実権は母方の北条氏が執ることになります。

やがて頼家も病気がちとなり、次代を思案する。頼家は、息子一幡に家督を継ぐつもりでいた。しかし一幡は比企家の血を引く子供である。北条家にとっては認めがたく、血筋を守るため、頼家の弟・千幡(実朝)を立てる。

結局、戦さとなり北条氏の一方的な勝利に終わる。比企家は全滅、一幡も殺された。頼家は蟄居の身となるが、やがて不可解な死を遂げる。12歳の実朝が第3将軍に就きます。繊細な少年実朝にとって、“世の中”とは何たるか、胸に思うところは浅からぬものがあったに違いない。

頼朝も和歌の名手であったようで、『新古今和歌集』に入集されている。また慈円(閑話休題153参照)と贈答歌を交わすほどの実力であった と。実朝も父に刺激されて歌の道に入って行った。

実朝は、『新古今和歌集』の編者・藤原定家を歌の師と仰いで、鎌倉―京都間を手紙や歌を遣り取りして教わったようです。また定家は『近代秀歌』や『万葉集』を実朝に贈ったとの事である。

実朝の歌は、徐々に萬葉調の歌風に磨きが掛かっていったようである。明治時代の歌人・正岡子規は、「……実朝は固より善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出たらんが、なかなかに善き歌とは相成り候ひしやらん。……」(『歌よみに与ふる書』)

時により 過ぐれば 民の嘆きなり
   八大龍王 雨やめさせたまへ(金槐和歌集 雑部)
  [恵の雨も降り過ぎれば人々の嘆きです 八大龍王よ 雨を止ませてくれ]

詞書に、「建歴元年(1211)の洪水の際、独り本尊に向かって祈念した」とある。若き将軍が民衆の苦しみを救おうと“真心から詠みだした歌”と言えようか。この梅雨期の中北部九州から四国・東海に及ぶ集中豪雨被害の報道に接するにつけ、実朝のこの歌が頭を過ぎり、同様に祈念し、早い復旧を祈る次第である。 

実朝は22歳の頃、自作の歌を編集し、『金槐和歌集』としてまとめています。700首を越す和歌が収められており、いずれの歌も若者らしい素朴さ、新鮮さをもつ秀作であるという。

頼家には、一幡のほかに善哉という子がいました。親がなく、痛々しい生活をしていたが、実朝は猶子(ユウシ)として手元に引き取り、親代わりとなり育てていた。将来僧侶として自立できるように と仏門に入り公暁(クギョウ)という法名を名乗っていた。

実朝は1218年右大臣に昇進し、翌年そのお礼に、鎌倉の鶴岡八幡宮に詣でた。帰路、大銀杏の陰に隠れていた公暁に襲撃され、28歳の若さで亡くなっている。百人一首では“鎌倉右大臣”と記されている。なお公暁は、悪知恵を吹き込まれたとする陰謀説がある。

実朝は、亡くなる当日、次の辞世の歌を残している。当時の“世の中”の状況から、心中、覚悟はしていたのでしょうか。

出て去(イ)なば 主なき宿と なりぬとも
   軒端の梅よ 春を忘るな(吾妻鏡)
  [私が立ち去って主人のいない家となっても 軒端の梅よ 春を忘れず咲いておくれ](小倉山荘氏)

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