(76番)わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの
雲居(ゐ)にまがふ 沖つ白波
法性寺入道前関白太政大臣 『詞花集』雑下・382
<訳> 果てしなく広がる海上に舟を漕ぎ出してはるか彼方を眺めると、空に立つ雲と見間違えるばかりの沖の白波であることよ。(板野博行)
ooooooooooooo
梅雨が明けて、キラキラ輝く太陽の下、視線を大海原遥かに遣ると、天際に白雲と見まがう白波の沸き立つのが見える。舟で漕ぎ出でなくとも、浜辺で沖に向かい、両腕を大の字に挙げて、深呼吸二つ三つ。想像するだに、コロナの憂さも吹っ飛ぶ。
雄大な佳い歌を残してくれました。作者は、仰々しい名で出ていますが、藤原道長の直系6代目、氏の長者・忠通(タダミチ、1097~1164)である。忠通38歳の時、崇徳天皇が催した歌合で「海上遠望」の詠題で詠った、想像上の歌ということである。
飾りを廃し、直截に五言絶句にしてみました。下記ご参照ください。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [下平声七陽韻]
海上遠望
浩瀚不尋常, 浩瀚(コウカン)たること尋常ならず,
開船到大洋。 舟を漕ぎ出して大洋に出る。
遥看天際浪, 遥(ハル)かに看(ミ)る天際の浪,
如白雲遠揚。 白雲の遠く揚(ア)がるが如し。
註]
浩瀚:水が広々としたさま。 開船:出港する、船を漕ぎだす。
天際:天のはて。
<現代語訳>
海上遠望
果てしなく広がること尋常ならず、
舟を漕ぎ出して大海原に出る。
遥か彼方には日に映える白波が見えて、
あたかも遠く白雲が沸き上がるが如く見えることだ。
<簡体字およびピンイン>
海上远望 Hǎishàng yuǎn wàng
浩瀚不寻常, Hàohàn bù xúncháng,
开船到大洋。 kāi chuán dào dàyáng.
遥看天际浪, Yáo kàn tiānjì làng,
如白云远扬。 rú báiyún yuǎn yáng.
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作者・忠通は、25歳で関白になったのち、出家するまでに摂政・関白を三回づつ、また太政大臣を二回歴任した超エリート政治家。柿本人麻呂にも匹敵するほどの歌人と評されていたようです。さらに漢詩にも優れた才能を発揮していたという万能の士である。
上の歌を詠った20年後、都で内乱(保元の乱、1156)が勃発、崇徳上皇と忠通は敵対する関係となります。貴族の世(平安)から武士の世(鎌倉)へと変わっていく激動の萌芽期と言えるでしょうか。
いつの時代でも、爛熟期がしばらく続くと世が乱れ、変革の機運が醸成されていくのは歴史の必然と言えるのでしょうか。保元の乱の様相をちょっと覗いておきます。後々、歌の理解にも役立つと思われますので。
保元の乱の枠組みは、大本の原因として皇族および摂関家それぞれの内紛、それに武士が加わった争いである。まず役者は、皇族では鳥羽上皇と崇徳天皇親子(?)、摂関家では忠通・頼長兄弟、それに平氏・源氏の武士たちである。
鳥羽上皇(74代)と妃の待賢門院璋子との間には、第一宮(長子)・崇徳天皇(75代)と第四宮(四男)・雅仁(後の77代後白河天皇)がいる。実は、鳥羽上皇・妃璋子・白河上皇(鳥羽上皇の祖父、72代)は三角関係にあって、崇徳天皇は白河上皇の子であろうとされている。国のトップが乱れていたのですね。
鳥羽上皇は、崇徳天皇を我が子とは認めず、“叔父子(オジコ)”と呼んでいて、悉く崇徳天皇を排斥する策をとります。崇徳天皇が上皇として退位する際、自分の子への譲位は阻止され、弟の後白河天皇が即位する。すなわち、院政を敷く資格を得ることが叶わなかったのである。
一方、摂関家では、関白忠実には長子の忠通と弟の頼長がいる。例にもれず(?)、長子はおっとり型、一方、第2子の頼長は活発な性格であり、家督を継ぎ氏の長者となり、関白の位も欲しいのである。
鳥羽上皇が崩御すると、後白河天皇方、崇徳上皇方に分かれて、対立が激しくなっていきます。後白河天皇方には、忠通、さらに平清盛、源義朝ら、崇徳上皇方に頼長、源為朝、平忠正らが加わり、一触即発の状態となります。後白河天皇方が機先を制して夜襲し、合戦は短時間で決着がついた由である。
崇徳上皇は難を逃れ仁和寺に身を隠していたが、捉えられて讃岐(現香川県坂出市)に配流、頼長は逃げる途中流れ矢に当たって深手を負い、間もなく死亡する。数奇な運命を辿る崇徳上皇は、平安の爛熟期に生まれた、時代の申し子と言えなくもなく思われる。
崇徳天皇は、優れた歌の才の持主であり、歌は百人一首にも取り上げられている。西行法師(1118~1190)は、崇徳天皇の才能を高く評価していたようです。なお一歳違いの同世代という近親間もあったのではないでしょうか。
西行は讃岐の崇徳院の元に度々手紙や歌を届けていた と。但し直接贈ることは憚られて、院の女房宛てに送り、また院の動静も女房より得ていたようである。崇徳院の崩御に当たっては公然と追悼はできず、乱世に消えた才能を惜しみ、友人の寂然法師とつぎのような歌の遣り取りをして、崇徳院を偲んだ と。
ことの葉の なさけたえぬる をりふしに
ありあふ身こそ かなしけれ (西行法師)
[世が乱れ 和歌の情趣の失われてしまう時代に行き合ってしまったわが身を
悲しくおもっています。]
しきしまや 堪えぬる道に なくなくも
君とのみこそ 跡をしのばめ(寂然法師)
[絶えてしまった歌の道のその跡をせめてあなたとともに泣く泣くしのび
ましょう](小倉山荘氏)
雲居(ゐ)にまがふ 沖つ白波
法性寺入道前関白太政大臣 『詞花集』雑下・382
<訳> 果てしなく広がる海上に舟を漕ぎ出してはるか彼方を眺めると、空に立つ雲と見間違えるばかりの沖の白波であることよ。(板野博行)
ooooooooooooo
梅雨が明けて、キラキラ輝く太陽の下、視線を大海原遥かに遣ると、天際に白雲と見まがう白波の沸き立つのが見える。舟で漕ぎ出でなくとも、浜辺で沖に向かい、両腕を大の字に挙げて、深呼吸二つ三つ。想像するだに、コロナの憂さも吹っ飛ぶ。
雄大な佳い歌を残してくれました。作者は、仰々しい名で出ていますが、藤原道長の直系6代目、氏の長者・忠通(タダミチ、1097~1164)である。忠通38歳の時、崇徳天皇が催した歌合で「海上遠望」の詠題で詠った、想像上の歌ということである。
飾りを廃し、直截に五言絶句にしてみました。下記ご参照ください。
xxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [下平声七陽韻]
海上遠望
浩瀚不尋常, 浩瀚(コウカン)たること尋常ならず,
開船到大洋。 舟を漕ぎ出して大洋に出る。
遥看天際浪, 遥(ハル)かに看(ミ)る天際の浪,
如白雲遠揚。 白雲の遠く揚(ア)がるが如し。
註]
浩瀚:水が広々としたさま。 開船:出港する、船を漕ぎだす。
天際:天のはて。
<現代語訳>
海上遠望
果てしなく広がること尋常ならず、
舟を漕ぎ出して大海原に出る。
遥か彼方には日に映える白波が見えて、
あたかも遠く白雲が沸き上がるが如く見えることだ。
<簡体字およびピンイン>
海上远望 Hǎishàng yuǎn wàng
浩瀚不寻常, Hàohàn bù xúncháng,
开船到大洋。 kāi chuán dào dàyáng.
遥看天际浪, Yáo kàn tiānjì làng,
如白云远扬。 rú báiyún yuǎn yáng.
xxxxxxxxxxxxx
作者・忠通は、25歳で関白になったのち、出家するまでに摂政・関白を三回づつ、また太政大臣を二回歴任した超エリート政治家。柿本人麻呂にも匹敵するほどの歌人と評されていたようです。さらに漢詩にも優れた才能を発揮していたという万能の士である。
上の歌を詠った20年後、都で内乱(保元の乱、1156)が勃発、崇徳上皇と忠通は敵対する関係となります。貴族の世(平安)から武士の世(鎌倉)へと変わっていく激動の萌芽期と言えるでしょうか。
いつの時代でも、爛熟期がしばらく続くと世が乱れ、変革の機運が醸成されていくのは歴史の必然と言えるのでしょうか。保元の乱の様相をちょっと覗いておきます。後々、歌の理解にも役立つと思われますので。
保元の乱の枠組みは、大本の原因として皇族および摂関家それぞれの内紛、それに武士が加わった争いである。まず役者は、皇族では鳥羽上皇と崇徳天皇親子(?)、摂関家では忠通・頼長兄弟、それに平氏・源氏の武士たちである。
鳥羽上皇(74代)と妃の待賢門院璋子との間には、第一宮(長子)・崇徳天皇(75代)と第四宮(四男)・雅仁(後の77代後白河天皇)がいる。実は、鳥羽上皇・妃璋子・白河上皇(鳥羽上皇の祖父、72代)は三角関係にあって、崇徳天皇は白河上皇の子であろうとされている。国のトップが乱れていたのですね。
鳥羽上皇は、崇徳天皇を我が子とは認めず、“叔父子(オジコ)”と呼んでいて、悉く崇徳天皇を排斥する策をとります。崇徳天皇が上皇として退位する際、自分の子への譲位は阻止され、弟の後白河天皇が即位する。すなわち、院政を敷く資格を得ることが叶わなかったのである。
一方、摂関家では、関白忠実には長子の忠通と弟の頼長がいる。例にもれず(?)、長子はおっとり型、一方、第2子の頼長は活発な性格であり、家督を継ぎ氏の長者となり、関白の位も欲しいのである。
鳥羽上皇が崩御すると、後白河天皇方、崇徳上皇方に分かれて、対立が激しくなっていきます。後白河天皇方には、忠通、さらに平清盛、源義朝ら、崇徳上皇方に頼長、源為朝、平忠正らが加わり、一触即発の状態となります。後白河天皇方が機先を制して夜襲し、合戦は短時間で決着がついた由である。
崇徳上皇は難を逃れ仁和寺に身を隠していたが、捉えられて讃岐(現香川県坂出市)に配流、頼長は逃げる途中流れ矢に当たって深手を負い、間もなく死亡する。数奇な運命を辿る崇徳上皇は、平安の爛熟期に生まれた、時代の申し子と言えなくもなく思われる。
崇徳天皇は、優れた歌の才の持主であり、歌は百人一首にも取り上げられている。西行法師(1118~1190)は、崇徳天皇の才能を高く評価していたようです。なお一歳違いの同世代という近親間もあったのではないでしょうか。
西行は讃岐の崇徳院の元に度々手紙や歌を届けていた と。但し直接贈ることは憚られて、院の女房宛てに送り、また院の動静も女房より得ていたようである。崇徳院の崩御に当たっては公然と追悼はできず、乱世に消えた才能を惜しみ、友人の寂然法師とつぎのような歌の遣り取りをして、崇徳院を偲んだ と。
ことの葉の なさけたえぬる をりふしに
ありあふ身こそ かなしけれ (西行法師)
[世が乱れ 和歌の情趣の失われてしまう時代に行き合ってしまったわが身を
悲しくおもっています。]
しきしまや 堪えぬる道に なくなくも
君とのみこそ 跡をしのばめ(寂然法師)
[絶えてしまった歌の道のその跡をせめてあなたとともに泣く泣くしのび
ましょう](小倉山荘氏)