愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 132飛蓬-40: 小倉百人一首 (平 兼盛) 忍ぶれど

2020-01-27 16:39:49 | 漢詩を読む

(40番) 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は
       ものや思うと 人の問うまで
                  
<訳> 誰にも知られないように包み隠してきたのだけれども、ついに顔に出てしまったようだ、私の恋心は。「あなたは何か物思いをしているのですか」と人が尋ねるほどに。(板野博行)

「心ここにあらず というふうですが、恋人でもできたの?」と聞かれて、ポッと顔を赤らめて、我にかえる。このような清純な若人を思わせる歌です。“人には知られまい”と念ずれば念ずるほどに、表情や振る舞いに心の内が現れるものでしょうか。

有名な「天徳内裏歌合」20番勝負、最後の番組で、「恋」の題で競い、“勝ち”を決めた歌です。但し公認の“判者”は、対抗の歌も秀歌で判定に迷っていたが、御簾の裏に鎮座する天皇の「しのぶれど……」というササヤキで決まった という曰く付きである。

当時よく催された“歌合せ”については、後に記します。この歌を「初恋の煩悩」と題して、五言絶句の漢詩にしてみました。下記をご参照下さい。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文>
初恋的煩悩    初恋の煩悩(ナヤミ)  (去声七遇韻)
雖秘胸深里、 胸の深奥に秘(ヒ)したりと雖(イエド)も、
吾懐神色露。 吾が懐(オモイ) 神色(シンショク)に露(アラワ)るか。
至人詢問我、 人の我に詢問(ジュンモン)するに至るほどに、
君苦暗思慕。 君 暗(アン)たる思慕(シボ)に苦ありや と。
 註]
  雖:…ではあるけれども; 秘:秘密にする;
  神色:顔つき、表情; 露:露わになる;
  詢問:問う、尋ねる; 苦:つらい、苦しい;
暗思慕:ひそかに思い慕う。
<現代語訳>
 初恋の悩み
胸の奥深くに仕舞い込んで秘密にしていたのだけれども、
わが懐いは 顔の表情に露わになっていたようだ。
人が、私に次のように問うほどに、
君 ひそかにいだく思慕の念に悩んでいるのか と。

<簡体字およびピンイン>
初恋的烦恼   Chūliàn de fánnǎo
虽秘胸深里, Suī mì xiōng shēn lǐ,
吾怀神色露。 wú huái shénsè lù.
至人询问我, Zhì rén xúnwèn wǒ,
君苦暗思慕。 jūn kǔ àn sīmù.
xxxxxxxxxxxxxxxxxx

作者・平兼盛は、平安中期の貴族・歌人である。かつては兼盛王と称していたが、臣籍降下(950)して、平朝臣の姓を与えられ、越前権守に任じられた。最終(977)官位は、駿河守(従五位上)でした。さして高位の官職ではない。

991年に没している。80歳位まで生存したと推定されているが、生年は不明である。三十六歌仙の一人で、『後選和歌集』以降の勅撰和歌集に約90首収められており、家集に『兼盛集』がある と。

その歌風は、一首一首を深く考えて作るというが、難解にならず、比較的わかりやすい率直な表現の歌が多い と。上掲の歌からも、その歌風が伺えるように思われる。

平兼盛には興味を引く逸話が語られている。兼盛と離婚した元妻は、赤染時用(トキモチ)と再婚した。しかし離婚前にすでに身ごもっていて、再婚後に女の子が誕生した。兼盛は、親権を主張して裁判で争ったが、認められなかった。その娘は、後に赤染衛門として、百人一首(59番)に歌を残しています。

“歌合せ”について、簡単に触れておきます。平安時代から鎌倉時代にかけて盛んに行われた和歌の勝負で、月に1~2度、貴族の館で催されていた。右・左の二組に分かれて、予め出された20の“題”で詠まれた和歌の各対について、すなわち、20番組について勝敗を競います。

各組に一人の“方人(カタウド)”―主に高位の大臣、スポンサーでもある―がいて、優秀な詠者を選び、歌を用意させます。歌合せの現場では、“講師(コウジ)”が朗詠し、“判者(ハンジャ)”が勝敗を判定し、各組で“勝ち“数の多さを競います。

会場にも趣向が凝らされ、“州浜(スハマ)”と呼ばれる調度品が左右の両陣営で用意される。“州浜”とは、歌の書かれた短冊を置く台のことです。箱庭または砂浜をかたどり、山・木々や鶴亀などを配した立体模型の作り物ということです。

「天徳内裏歌合」は、第62代村上天皇主催で、960(天徳四)年3月31日、内裏の清涼殿で催された歌合せを言います。“判者”は、貞信公藤原忠平(百人一首26番作者)の息子・左大臣実頼であった。後世語り草になるほどの歌合せを と企画された由である。

この歌合せは、最後の番組以外でも“語り草”を提供しているようです。まず、“州浜”の準備が遅れて、開始が早朝ではなく夕方となり、夜を徹して競技が行われた と。次に、“講師)”が朗詠する歌を取り違えるという大失態を演じた と。天皇の御前で、緊張していたのでしょうか。

最後の番組の対抗の歌は、「(41番)恋すてふ わが名はまだき たちにけり 人知れずこそ 思いそめしか」(壬生忠見)でした。この歌の話題は、次回に取り上げる予定です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 131飛蓬-39: 小倉百人一首 (文屋朝康) 白露に 百人一首-39

2020-01-17 10:40:23 | 漢詩を読む

  (37番) 白露に 風の吹きしく 秋の野は
       つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
                
<訳> 草の上に結ばれた白露に、風がしきりに吹きつける秋の野では、紐で貫きとめていない白玉が散り乱れたように見えることだ。(板野博行)

紅葉が山々を彩る秋、昨夜は小雨だったのでしょうか、あるいは急に冷え込んだためであろうか。野の草の葉に露が宿っている。野分きの風がサッと吹き抜けると、飛び散った露滴が朝日を反射して、キラキラと輝きながら宙を舞う。

あたかも首飾りの紐が切れて、輝いている真珠が一面に舞い散っているようである と。なんとも美しい動的な秋の一情景です。百人一首の選者の藤原定家も気に入っていた歌であるという。「秋の風物詩」と題して、七言絶句の漢詩にしてみました(下記参照)。

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [入声九屑韻]
· 秋天的風物詩   秋天(アキ)の風物詩
遥望山山縱発彩, 遥かに望む山山 彩(サイ)を発するを縱(ホシイママ)にし、
秋原百草露凝結。 秋の原の百草 露が凝結(ギョウケツ)す。
每陣疾風吹跑露, 陣(ヒトシキリ)の疾風ある每(ゴト)に露を吹跑(フキトバ)し,
解縄散玉耀何潔。 解縄(ヒモト)け散りし玉 耀(カガヤ)くこと何ぞ潔(キヨラカ)なる。
 註]
  疾風:秋に吹く野分(ノワ)きのこと。  吹跑:風で吹き飛ばす。
  解縄:紐をほどく。         玉:真珠、白玉

<現代語訳>
  秋の風物詩
遥かに望む山々は紅や黄などいろいろな彩(イロドリ)に染まり始め、
野原の草々の葉には白露が結ばれるようになった。
秋の野分きが吹くごとに白露は吹き飛ばされ、
紐を解かれ、飛び散った真珠のごとく、キラキラ輝くさまは何と清らかなことか。

<簡体字およびピンイン>
  秋天的风物诗 Qiūtiān de fēngwù shī
遥望山山纵发彩,Yáo wàng shān shān zòng fā cǎi,
秋原百草露凝结。qiūyuán bǎicǎo lù níngjié.
每阵疾风吹跑露,Měi zhèn jífēng chuī pǎo lù,
解绳散玉耀何洁。jiě shéng sàn yù càn hé jié.
xxxxxxxxxxxxxxxx

風で宙に舞う露滴を真珠に見立てて、その美しさを詠った歌です。宝飾品としての真珠は、すでに奈良時代には広く利用されていたようである。万葉集に集められた歌4500余首中、真珠を読み込んだ歌が56首あるという。平安時代になると、真珠の首飾りが好まれていたようです。

和服に髪を文金高島田に結った女性で、襟元に後れ毛が乱れて残る後ろ姿の方が、びっちりと整った髪よりも、より艶っぽく見えます(?)。整った首飾りの真珠も美しい。が 想像するに、宙を舞う真珠もまた動的でなお一層美しさを感じます。「美は乱調にあり」と言われる通り か。

この歌の作者・文屋朝康は、先に紹介した(閑話休題127)百人一首27番の作者・文屋康秀の子息である。27番の歌とは:「吹くからに 秋の草木の しをるれば、むべ山風を 嵐といふらむ」。親子の両歌を並べて読み比べてみると、面白いことに気づかされます。

まず、いずれも季節が“秋”であること。さらに、ともに“野分き”によってもたらされた“動的な乱”の状態を表す情景であること。ただ目の向く焦点は、一方は、“(草木を萎れさせる)嵐”であり、他方は、“(宙に舞う)真珠”であるという違いはありますが。

この両歌に見られる発想の類似性は、偶然であろうか、あるいはDNAによるのでしょうか。選者の藤原定家が、ほとんど似た発想の両歌を選んだことからみると、選者は、この秋の“動的な”情景が非常に気に入っていたことを想像させます。

文屋朝康は、平安時代中期の歌人で、生没年ともに不詳です。駿河掾(ジョウ)、大舎人大允(オオトネリノダイジョウ)に任じられたことが伝わる程度で、伝記・経歴については不詳であるという。しかし歌の才能は広く認められており、多くの歌会に参加した記録があるようです。

文屋朝康の歌は、勅撰和歌集について見れば、『古今和歌集』に一首、『後選和歌集』に二首が収められており、さして多くはない。ただ父・康秀の歌の幾つかは、朝康の作ではないかと言われているようで、だとすると、中々の歌人ということでしょう。ただしその真偽は不明である。

参考] 勅撰和歌集について

勅撰和歌集とは、天皇、上皇または法皇の命によって編纂された和歌集を言い、“二十一代集”がある。そのうち平安初期から鎌倉初期の選集は“八大集”と呼ばれていて、下記の集が含まれる。他の13集は、鎌倉・室町時代にできた集である。

古今和歌集(成立905年;醍醐天皇)、後選和歌集(951;村上天皇)、拾遺和歌集(1005~07;花山法皇?)、後拾遺和歌集(1075;白河天皇)、金葉和歌集(1127;白河法皇)、詞花和歌集(1151;崇徳院)、千載和歌集(1188;後白河院)、新古今和歌集(1205;後鳥羽院)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 131飛蓬-39: 小倉百人一首 (文屋朝康) 白露に

2020-01-17 10:37:04 | 認知能

  (37番) 白露に 風の吹きしく 秋の野は
       つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
                
<訳> 草の上に結ばれた白露に、風がしきりに吹きつける秋の野では、紐で貫きとめていない白玉が散り乱れたように見えることだ。(板野博行)

紅葉が山々を彩る秋、昨夜は小雨だったのでしょうか、あるいは急に冷え込んだためであろうか。野の草の葉に露が宿っている。野分きの風がサッと吹き抜けると、飛び散った露滴が朝日を反射して、キラキラと輝きながら宙を舞う。

あたかも首飾りの紐が切れて、輝いている真珠が一面に舞い散っているようである と。なんとも美しい動的な秋の一情景です。百人一首の選者の藤原定家も気に入っていた歌であるという。「秋の風物詩」と題して、七言絶句の漢詩にしてみました(下記参照)。

xxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [入声九屑韻]
秋天的風物詩   秋天(アキ)の風物詩
遥望山山縱発彩, 遥かに望む山山 彩(サイ)を発するを縱(ホシイママ)にし、
秋原百草露凝結。 秋の原の百草 露が凝結(ギョウケツ)す。
每陣疾風吹跑露, 陣(ヒトシキリ)の疾風ある每(ゴト)に露を吹跑(フキトバ)し,
解縄散玉耀何潔。 解縄(ヒモト)け散りし玉 耀(カガヤ)くこと何ぞ潔(キヨラカ)なる。
 註]
  疾風:秋に吹く野分(ノワ)きのこと。  吹跑:風で吹き飛ばす。
  解縄:紐をほどく。         玉:真珠、白玉

<現代語訳>
  秋の風物詩
遥かに望む山々は紅や黄などいろいろな彩(イロドリ)に染まり始め、
野原の草々の葉には白露が結ばれるようになった。
秋の野分きが吹くごとに白露は吹き飛ばされ、
紐を解かれ、飛び散った真珠のごとく、キラキラ輝くさまは何と清らかなことか。

<簡体字およびピンイン>
  秋天的风物诗 Qiūtiān de fēngwù shī
遥望山山纵发彩,Yáo wàng shān shān zòng fā cǎi,
秋原百草露凝结。qiū yuán bǎicǎo lù níngjié.
每阵疾风吹跑露,Měi zhèn jífēng chuī pǎo lù,
解绳散玉耀何洁。jiě shéng sàn yù càn hé jié.
xxxxxxxxxxxxxxxx

風で宙に舞う露滴を真珠に見立てて、その美しさを詠った歌です。宝飾品としての真珠は、すでに奈良時代には広く利用されていたようである。万葉集に集められた歌4500余首中、真珠を読み込んだ歌が56首あるという。平安時代になると、真珠の首飾りが好まれていたようです。

和服に髪を文金高島田に結った女性で、襟元に後れ毛が乱れて残る後ろ姿の方が、びっちりと整った髪よりも、より艶っぽく見えます(?)。整った首飾りの真珠も美しい。が 想像するに、宙を舞う真珠もまた動的でなお一層美しさを感じます。「美は乱調にあり」と言われる通り か。

この歌の作者・文屋朝康は、先に紹介した(閑話休題127)百人一首27番の作者・文屋康秀の子息である。27番の歌とは:「吹くからに 秋の草木の しをるれば、むべ山風を 嵐といふらむ」。親子の両歌を並べて読み比べてみると、面白いことに気づかされます。

まず、いずれも季節が“秋”であること。さらに、ともに“野分き”によってもたらされた“動的な乱”の状態を表す情景であること。ただ目の向く焦点は、一方は、“(草木を萎れさせる)嵐”であり、他方は、“(宙に舞う)真珠”であるという違いはありますが。

この両歌に見られる発想の類似性は、偶然であろうか、あるいはDNAによるのでしょうか。選者の藤原定家が、ほとんど似た発想の両歌を選んだことからみると、選者は、この秋の“動的な”情景が非常に気に入っていたことを想像させます。

文屋朝康は、平安時代中期の歌人で、生没年ともに不詳です。駿河掾(ジョウ)、大舎人大允(オオトネリノダイジョウ)に任じられたことが伝わる程度で、伝記・経歴については不詳であるという。しかし歌の才能は広く認められており、多くの歌会に参加した記録があるようです。

文屋朝康の歌は、勅撰和歌集について見れば、『古今和歌集』に一首、『後選和歌集』に二首が収められており、さして多くはない。ただ父・康秀の歌の幾つかは、朝康の作ではないかと言われているようで、だとすると、中々の歌人ということでしょう。ただしその真偽は不明である。

参考] 勅撰和歌集について

勅撰和歌集とは、天皇、上皇または法皇の命によって編纂された和歌集を言い、“二十一代集”がある。そのうち平安初期から鎌倉初期の選集は“八大集”と呼ばれていて、下記の集が含まれる。他の13集は、鎌倉・室町時代にできた集である。

古今和歌集(成立905年;醍醐天皇)、後選和歌集(951;村上天皇)、拾遺和歌集(1005~07;花山法皇?)、後拾遺和歌集(1075;白河天皇)、金葉和歌集(1127;白河法皇)、詞花和歌集(1151;崇徳院)、千載和歌集(1188;後白河院)、新古今和歌集(1205;後鳥羽院)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 130 酒に対す-31 陸游 甲子歳元日

2020-01-08 17:26:29 | 漢詩を読む
この一対の句:
  屠蘇の酒を飲み罷(オ)え、
   真(マコト)に八十翁と為(ナ)る。

お屠蘇の詩を読んで、新しい年、2020(令和二)年を言祝ぎ、スタートとします。

上掲の句は、陸游(1125~1210)が80歳の元日を迎えた折の感慨を詠った五言律詩(下記参照)の出だし(首聯)の二句です。官界から引退し、故郷で悠々自適な生活を送っている様子が読み取れる詩です。

金(キン)に追われて、臨安(現杭州)に都を建てた南宋にあって、常に祖国の復活を夢見ていた。対金強固論を唱え、講和派との政争のただ中にあって、主客が目まぐるしく変る官界での活動であったと言えようか。

xxxxxxxxxxxxxxxx
甲子歳元日   甲子(コウシ)の歳(トシ)の元日
飲罷屠蘇酒、 屠蘇の酒を飲み罷え、
真為八十翁。 真(マコト)に八十翁と為(ナ)る。
本憂縁直死、 本(モト) 直(チョク)に縁(ヨ)りて死せんことを憂い、
却喜坐詩窮。 却(カエ)って詩に坐(ヨ)りて窮するを喜ぶ。
米賎知無盗、 米(コメ)賎(ヤス)くして盗(トウ)無きを知り、
雲陰又主豊。 雲 陰(クモ)りて又た豊(ホウ)を主(キザ)す。
一簞那復慮、 一簞(イッタン) 那(ナン)ぞ復た慮(オモンバカ)らんや、
嬉笑伴児童。 嬉笑(キショウ)して児童に伴(トモナ)はん
 註]
  甲子歳:嘉泰四年(1204)に当たる。  屠蘇酒:元旦に飲む薬酒。
  直:金への抗戦を頑強に主張した態度をいう。
  坐詩窮:詩人は困窮から免れないものとされた。“坐”は理由をあらわす。
  主豊:豊作を予兆する。“主”は前触れとなるの意がある。元旦に薄曇りで雨が降らない年は豊作という。
  陰:参照した書物ではWindows辞書で現れない難字であった(“雨”の下に“立”偏に“今”旁)。ここでは“くもる”の意で通ずる字“陰”を用いた。
  一簞:飯を盛る椀一杯、わずかな量をいう。
  嬉笑:喜び笑うこと。

<現代語訳>
 甲子の歳の元日
屠蘇のお酒を戴いて、名実共に八十の老翁となった。
生来直情ゆえに、戦で命を落とすであろうと危惧していたが、
 却って、詩のおかげでこの貧乏暮らし。
米は値が安いので、盗賊にあう心配はない、
 雲が陰っているところは、今年も豊作の兆しである。
一膳の飯を得るのに何の苦慮することもない、
  さあ子供たちに交じって、喜び遊ぶとしよう。
xxxxxxxxxxxxxxxx

陸游は、今日中国の漢詩界で、李白や杜甫に劣らぬ、非常に人気の高い詩人であるという。南宋が異民族・金の圧迫を受けていた時代に、一貫して対金強固論を唱え、祖国復興を訴えていた愛国心が、漢民族の琴線に触れるのでしょう。

しかし、政治的な硬派の反面、非常に人間的な情愛に満ちた側面をも持つ。一線を退き、帰郷ののちには故郷の生活に溶け込み、上の詩に見えるように、愉しんでいる。陶淵明を思わせるのだが、肩ひじを張ることはない。非常に魅力的な詩人と言えよう。

陸游は、父の転勤に伴う移動中、舟の中で誕生したという(1125)。その翌年、金が宋の都・卞京(ベンケイ、現開封)に侵攻、(北)宋が滅びます(靖康の変)。高宗は南京に南宋を興す(1127)が、さらに金に追われて、臨安(現杭州)に遷都します(1129)。

陸游29歳の時、科挙の第一段階の試験に首席で合格します。しかし講和派の宰相・秦檜(シンカイ、1090~1155)の横やりで不合格とされる。そればかりか以後の上級試験の受験資格も抹消されることになった。陸游の将来に決定的な痛手を与えたと言っても過言ではないでしょう。

実は、次席の成績を上げたのが秦檜の孫・秦塤(シンケン)でした。秦塤が首席合格とされたことは言うまでもない。五年後、秦檜が没したのち、孝宗の計らいで、進士の資格を賜ったが、周囲の見る目は厳しかったようである。

以後、仕官はするが、中央で重用されることはなかった。現重慶市奉節県の準知事、さらに蜀地方各地(四川省)の知事代理、厳州の知事等々の歴任 と、地方を転々としたようである。なお以後、陸游と秦塤の間は、決して不仲であったということではなかったようですが。

20歳に母方の従姉妹・唐琬(トウエン)と結婚し、仲睦まじい生活を送っていたが、2年後に離婚します。嫁姑の不仲で、母に勧められたともされるが、唐琬に病弱な面があったようでもある。

離婚の10年後、沈(シン)氏の庭園での春の園遊会で偶然に再会します。その折、情の赴くままに詠った詞(歌詞)「釵頭鳳(サイトウホウ)」があり、以後も沈園に纏わる詩が多く残されている。再会後間もなく唐琬は亡くなるが、唐琬に対する思いは非常に深いものがあったようである。

陸游の人間性を示す官界での逸話の一つに次のようなことが語り継がれている。55歳の時、専売品の茶・塩の監督官として撫州に赴任していた。そこで不幸にも大規模な洪水があった。陸游は、自分の一存で官有米を住民の救済に当てたという。

勿論その責任を問われ、免職となり、郷里に帰っています。この回以外にも、対金強固論を貫く陸游は、講和派と衝突、何らかの理由で弾劾されることがあり、合わせて4回の弾劾を受け、左遷、または免職を強いられています。

65歳で正式に引退し、86歳で亡くなるまで故郷での晴耕雨読の田園生活を愉しんでいます。故郷は、越州山陰県(現浙江省紹興市)。典型的な官僚地主の家で、学者肌の家系であるという。特に、漢方の心得があり、一層、庶民との繋がりが深くなったように思われる。

詩人としては、非常に多作で、現役時代に3,000余首、引退後に6,000余首、生涯9,200首が残されているという。その詩風は、現役時代の愛国的な詩と故郷での郷土愛、日々の田園生活の機微を詠った二つの側面に分けられるようである。

南宋の代表的詩人で、范成大(ハンセイダイ)・楊万里(ヨウワンリ)・尤袤(ユウボウ)らとともに南宋四大家の一人とされる。特に蜀地方に在任中に范成大の部下となり、身分差を越えて親しく詩を通じて交流を深めたこともあり、「范陸」と並称されていた。

46歳、蜀地方への赴任時に5か月かけて長江を遡った。その折の紀行詩文『入蜀記』や62歳に詩集『剣南詩稿』20巻(後に正続を合わせて85巻)の刊行、その他随筆集、文集、歴史書などの著作があるようである。

詩数といい、著作物といい、驚異に値する詩人と言えようか。最後に、陸游の名と字(アザナ、務観)は、母が彼を身ごもっていたとき夢にみたという北宋の詩人・秦観(字は少游)に因んだ と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする