愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 287 飛蓬-158 大海の磯もとどろに 源実朝

2022-10-31 15:34:33 | 漢詩を読む

 “割れて、砕けて、裂けて、波しぶきとなって散りゆく”、次々と打ち寄せる大波の 巌にぶつかり、畳みかけるように砕けていく変化のさま。スクリーン一杯に広がる、スロウモーション動画の趣きです。源実朝(1192~1219)の歌である。漢詩・五言絶句にピッタリの内容に思えた。

 

大海(オオウミ)の 磯もとどろに 寄する波 

   割れて砕けて 裂けて散るかも 

     (鎌倉第三代将軍 源実朝 『金槐和歌集』雑・641) 

 

xxxxxxxxxxx

 対巌碰砕波  巌に対し碰砕(ポンサイ)する波   [去声十五翰]   

大海洶洶乱, 大海 洶洶(キョウキョウ)として乱れ,

波涛滾来岸。 波涛 岸に滾来(コンライ)しあり。

轟轟沖撃巌,  轟轟(ゴウゴウ)たり 波涛 巌に沖撃(チュウゲキ)し,

割砕裂終散。 割れて砕(クダ)けて 裂(サ)けて終(ツイ)には散らんか。

 註] ○碰砕:砕け散る; 〇洶洶:波が逆巻くさま; 〇波涛:大波、波涛; 

  ○滚来:寄せ来る; ○轟轟:激しい波の音が激しく響く音; 〇沖撃:(波など 

  が物に)ぶるかる。 

<現代語訳> 

 巌に砕け散る波 

大海は波が逆巻き大いに乱れ、

大波が荒磯の岸に次々と打ち寄せて来る。

逆巻く大波は巌にぶつかり 轟轟たる波音を発し、

割れて 砕けて 裂けて 終には散っていることよ。

<簡体字およびピンイン> 

 对岩碰碎波   Duì yán pèng suì bō 

大海汹汹乱, Dàhǎi xiōng xiōng luàn, 

波涛滚来岸。 bō tāo gǔn lái àn. 

轰轰冲击岩, Hōng hōng chōngjí yán, 

割碎裂终散。 gē suì liè zhōng sàn. 

ooooooooo

 

掲題の歌は、「荒磯に波の寄るを見て詠める」と詞書にある源実朝の歌である。風景を詠っているが、“静”ではなく、迫力を覚える“動”の風景である。その心根は、都の“雅”ではなく、坂東武者の“雄々しさ”であるように思える。

 

ただ、源氏の棟梁・実朝を巡る当時の状況を“歴史”の一コマとして振り返って見る立場としては、岩にぶつかり、“割れて、砕けて、裂けて、散りゆく”大波のダイナミズムが 実朝の“胸の内に渦巻く何らかの葛藤”の表現であるように読めるのであるが如何だろうか。

 

実朝のそれぞれの歌には、感動を覚え、魅せられる。ここで、実朝の“歌人”としての成長の軌跡を追っておきます。実朝は“天才”には違いなかろうが、彼を育み、花開くに至らしめた“師”についての疑問、また歌人・実朝を理解する上での疑問点を挙げて、向後の話題展開の参考にしたいと思います。 

 

先ず、手元にある資料を参考にしつつ、実朝と歌の関りを纏めてみます。1205年(実朝14歳) 4月、「和歌12首詠む」と『吾妻鑑』に記載があるという。14歳で既に記録される歌を詠んでいます。同年京都では『新古今和歌集』が成立しているが、実朝は、9月に同集を入手している。また1208年には、『古今和歌集』も入手している。京都との情報交流は密のようである。

 

1209年(18歳)、歌20首を住吉社に奉納し、さらに30首を京都在住の藤原定家(1162~1241)に送っている。一方、定家から『近代秀歌』ほか和歌の文書が献上されている。ここで初めて定家と和歌の遣り取りが行われており、恐らく推敲を依頼されたと想像され、京都在住の定家と師弟の絆の結ばれた時点であるように思えるが、両者の交流はこの時点で初めてであろうか?

 

1213年(22歳)、『万葉集』を入手。後年、実朝については万葉風の秀歌が注目されていることを考えると、今ごろ『万葉集』入手?との思いも湧くが、すでに万葉歌については良き指導者を得て学習されていたものと推察される。さらに翌年(1214)に『後鳥羽院秋十首歌合』、翌翌年(1215)には『後鳥羽上皇四十五番歌合』を入手している。

 

1213年の12月には、自らの家集『金塊和歌集』の成立を見ている。今日、『金塊和歌集』には、「定家所伝本」と「貞享本」が伝わっているということである。ここで注目したいのは、収められている歌数で、前者663首、後者719首と、その数の多さである。

 

22歳の若さで、斯くも多くの歌を詠み、家集を編んでいることに驚かされる。それにしても、直接に定家に接するのは、18歳である(?)。幼少期から18歳に至る間、歌の指導に当たった人は誰であろうか? 最も気に掛かる疑問点である。

 

NHKドラマ『鎌倉殿の13人』では、実朝幼少期、母親の北条政子が、実朝のために紙と筆を揃えるよう 周りの者に指図する場面がありました。また実朝少年期に、三善康信が「タタタタタ タタタタタタタ タタタタタ ……、歌はこのようなリズムで……」と、実朝に講釈する場面がありました。実際に三善康信が指導を続けていたのであろうか?

 

実朝は、1219年(28歳)に没しているが、『金塊和歌集』の成立後、没するまでの間、作歌活動はどうであったか? 等々、興味は尽きないが、以後、実朝の歌を鑑賞しつゝ、解き明かすべく務めたいものと 目論んでおります。

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閑話休題286 書籍-3 国内旅1 朝来竹田城

2022-10-30 09:08:56 | 漢詩を読む

 遊在朝来竹田城     [上平声一東韻]  

  朝来(アサゴ)竹田城に遊ぶ     

比返照紅、

 鳞次(リンジ)櫛比(シッピ)して 返照(ヘンショウ)红なり、  

蕭蕭松籟梵王

 蕭蕭(ショウショウ)たり松籟(ショウライ) 梵王宮(ボンオウキュウ)。  

天空城迹泛雲海,

 天空の城迹 雲海に泛び,  

肯定人幻夢中

 肯定(カナラズヤ) 人を幻夢の中(ウチ)に誘わん。

 註] 〇鱗次櫛比:甍がずらりと並んださま; 〇返照:

  照り返し; 〇蕭蕭:木の枝葉が風に鳴って寂しげな 

 さま; 〇松籟:松の梢に吹く風; 〇梵王宮:お寺。  

<現代語訳> 

 朝来竹田城に遊ぶ

歴史を感じさせる佇まいの家々の甍が夕陽に映えて紅に染まって、お寺に面した並木の松が風に鳴って、静寂の雰囲気を醸す。早朝、天空の城の石垣積みが一際雲海に浮き、知らず知らずに人を夢幻の内に誘っていくのである。

<簡体字表記>

  游朝来竹田城 

鳞次栉比返照紅,萧萧松籁梵王宫。

天空城迹泛云海,肯定诱人幻梦中,

<記> 

 2017/5/23~24 兵庫県朝来竹田(アサゴタケダ)城を訪ねる。金婚記念として、娘たちの好意により実現した旅行である。 

 

 

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閑話休題285 書籍‐2 特‐2 縄文女神回顧

2022-10-26 10:03:25 | 漢詩を読む

 山形県の縄文遺跡で発掘された土偶像・“縄文の女神”である。美しい、しなやかな姿態を揺らして、舞台の袖を練り歩く現代のファッションモデルを思わせます。

 

縄文の女神

 

<原文 と 読み下し文>

  縄文女神回顧   縄文の女神の回想  

土片埋砂万歲移,

  土片 砂に埋(ウマ)って万年も時移り,  

掘出粘成凜佳姿。

  掘出(ホリダ)され、粘(ハ)りあわされて、凜(リン)とした佳き姿と成る。  

新奇優体奪魂気,

  新奇(モダン)な優体は人の魂気(コンキ)を奪う,   

古遠麗人懐往時。

  古遠の麗人(レイジン)は往時(スギシトキ)を懐(ナツカシ)く思い返すのである。  

前望舒拉銀漢度,

  前には望舒が月を拉(ハコ)び 銀漢(ギンガ)を度(ワタ)り,   

後飛廉促太空馳。

  後には風の神・飛廉(ヒレン)が促して 太空(タイクウ)を馳(ハ)せる。  

六龍不頓忘時過,

  六龍(ロクリュウ)は頓(トドマ)ることなく 時の過ぎるを忘れ,   

天上無爭仙境宜。

  天上に爭い無く 仙境(センキョウ)宜(ヨロ)し。  

 註] 〇凜:(姿などが)厳かなさま; 〇新奇:モダンな; 〇優体:均整の取れた 

   美しい体形; 〇魂気:魂; 〇古遠:古代の、遥か昔の; 〇望舒:月の車を

   ひく御者。月は馬車に乗って夜空を回るという伝承から; 〇銀漢:銀河、天の川;

   〇飛廉:風の神; 〇太空:宇宙; 〇六龍:太陽を載せた車を引く六頭の龍、

   時間を言う。郭璞(カクハク) 《遊仙詩七首其四》 「六龍(ロクリュウ)安(イズ)くんぞ頓(トド)む

   可(ベ)けんや」に拠る; 〇仙境:別天地。   

< 現代語訳> 

  縄文の女神の回想  

 土片のまま土砂に埋まって幾世紀を経たろうか、片々が貼り合わされて八頭身の美人の姿を現した。そのモダンな姿は見る人の魂を奪い、この古代の麗人は在りし日のことを懐う。望舒が御する馬車に乗ってお月さまと一緒に銀河を渡り、風の神・飛廉は後ろから風を送って、宇宙を馳せ、地球をめぐる。太陽の進行は止まることなく時は流れ、天上界に遊んで時間の過ぎるのを忘れる、なんら争いのない天上界は 素晴らしい別天地であった。

<簡体字表記> 

  绳文女神回顾  

土片埋砂万岁移,挖出粘成凛佳姿。

新奇优体夺魂气,古远丽人懐往时。

前望舒拉银汉度,后飞廉促太空驰。

六龙不顿忘时过,天上无争仙境宜。

<記> 

 「縄文の女神」には2017年10月、京都国立博物館で開催された国宝展でお目に掛かり、すっかり魅了され、ファンタジイの世界へと招き入れられました。

 この土偶は、山形県西ノ前遺跡(BC3,000~BC2,000年)で、土器などが大量に廃棄された土坑から破片の状態で発見された。それらの破片を接着剤で張り合わせて復元された姿(高さ:約45 cm)であった。 

 “破片から完全な姿で復元できた例は極めて珍しく、特別な意味を込めて埋められたとみられる” とのコメントあり。どのような人をモデルにして、どのような人が作成したのか?折角できた像を何ゆえに壊し、埋めるに際して“込めた特別な意味”とは何だったろうか? 

 モデルの人は、日本海側の遺跡から発掘されたこと、また服装や姿態から推して、大陸から流れ着いた渡来人であり、作成者は、土器加工に秀でた西ノ前住人であろうか。 

 破片の欠損がなく、土偶が完全復元されたことから推して、他所で破壊して、破片を集めて運んだのではない。態々土偶を土坑まで持ってきて壊したものと推定される。やはり後ろ髪を惹かれるような思いで壊し、埋めたのであろう。 

 さて、土偶は、土中での長い眠りの後、再び人間界に戻り、“縄文の女神”としてお目見えすることになった。眠りの間に見た夢は、天上界で遊ぶ夢でした。天上界へは、望舒が先導し、後ろから風の神の飛廉が後押ししてくれた。 

 天上界では、何らの争いもなく、まさに桃源郷で、お月様と一緒に地球を巡り、青く美しい地球を眺めながら過ごし、時の経つのを忘れていた。 

 実は、「縄文の女神」は、素晴らしい才能を持つ土偶作者の閃きを通して創造された天上界の仙女の姿であるやも知れない。本稿では生身の人間に重ねて想像を巡らしましたが。 

 

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閑話休題 284 飛蓬-157 箱根路を過ぎる 第3代征夷大将軍 源実朝 

2022-10-25 09:27:23 | 漢詩を読む

鎌倉三代将軍 源実朝(1192~1219)の歌「箱根路を……」(下記)を漢詩に翻訳してみました。実朝の歌の中でも、万葉調の代表的な歌として絶賛されている歌です。伊豆・箱根権現の二所詣(ニショモウデ)の帰路、箱根路を通り過ぎようとした折に作られている。

 

 [詞書] 箱根の山を打ち出でてみれば、波の寄る小島あり。共(トモ)の者、この海の名

  は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍(ハベ)りしを聞きて、箱根に

  詣づとて  

箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 

  沖の小島に 波の寄るみゆ 

     [金槐和歌集・雑・639; 続後撰和歌集・羇旅・1312] 

(大意:伊豆・箱根権現参詣の二所詣での帰路、箱根路を通ってくると 遥か彼方 眼下 

 に伊豆の海が広がっており、沖の小島に波が寄せては砕けた白波が見えるよ) 

xxxxxxxxxxxxx

 過箱根路  第三代将軍源実朝      [上声十七篠韻-上声十九皓韻]  

西仰霊峰東天杳, 西に霊峰を仰ぎ 東に天(テン)杳(ヨウ)たり,

欲吾越過箱根道。 吾れ箱根の道を越過(コ)えんと欲す。

迢迢遼闊伊豆海, 迢迢(チョウチョウ)として遼闊(リョウカツ)たり伊豆の海,

只看波寄沖小島。 只だ看る 沖の小島に波の寄るを。

 註] 〇霊峰:富士山; 〇杳:はるかに遠いさま; 〇迢迢:道が遠いさま; 

  〇遼闊:果てしなく広い; 〇伊豆海:伊豆半島東部に広がる相模灘; 

  〇沖の小島:相模湾の初島。   

<現代語訳> 

 箱根路を過(ヨ)ぎる

西に霊峰・富士を仰ぎ見 東に杳杳たる青空を見つつ、

今 わたしは箱根路を行き過ぎようとしている。

眼下、遥か遠く、茫漠とした伊豆の海に、

只 沖の小島に波が寄せるのが見えるだけである。

<簡体字およびピンイン> 

西仰灵峰东天杳, xī yǎng líng fēng dōng tiān yǎo. 

欲吾越过箱根道。 yù wú yuè guò xiānggēn dào,  

迢迢辽阔伊豆海, Tiáo tiáo liáokuò yīdòu hǎi, 

只看波寄冲小岛。 zhǐ kàn bō jì chōng xiǎo dǎo

oooooooooooooooo

 

源実朝の歌については、「小倉百人一首」に撰された「93番 世の中は常にもがもな渚漕ぐ海女の小舟の綱手かなしも」(注1)、さらに「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨止めたまえ」(注2)の両歌に関しては、既に漢詩として紹介しました。 

 

これら両歌ともに、実朝が目を向けているのは“庶民”です。かの年代、労働者、“租税”の対象者としてだけではなく、“生活者・庶民”に意を注がれた為政者はいたであろうか? という思いもあり、人間・実朝に心惹かれて、彼の遺した歌に関心を寄せております。

 

実朝は、武士の家系に生まれ育ち、遠く雅な都・京都から離れた“東夷”の地で、坂東武者の中に育ち、京都在住の藤原定家を師として、今でいう“通信教育法”により “和歌”を学び、詠んでいます。かの正岡子規が「万葉歌人・柿本人麻呂や山部赤人に匹敵する優れた歌詠みである」と絶賛する歌人に成長しています。

 

父・頼朝は、勅撰和歌集『新古今和歌集』に二首撰されており、実朝はこの事実を知り、刺激を受けて歌作を志す一因ともなったようである。定家という当代の最先端をいく素晴らしい“師”に恵まれたことも幸運であったとすべきでしょう。

 

当時、“国の政(マツリゴト)”を京都に替わって、鎌倉で執り行おうとする大きな流れが出来つつある時代であった。実朝は、征夷大将軍として“国を守る”役割を担わされていたばかりではなく、成長に伴い、自ら“政”に関わる“為政者”としての一面も自覚していったのではないでしょうか。

 

しかしその面では、北条氏の存在が大きく、実朝は、自ら携わることが叶わない状況に追いやられていた。かかる状況下、実際に進められている“政”を客観的に観察する機会とし、 “政”のあるべき理想像を自ら描き、その中で“庶民”の存在、位置づけも構築していたと想像されます。歌に見るように、“庶民”にも目を向けていた実朝でした。

 

さて掲題の歌は、詞書にあるように、伊豆・箱根権現の二所詣からの帰路の折に詠まれた歌である。伊豆・箱根権現は、父頼朝の信仰が熱く、頼朝はしばしば詣でていたという。実朝は、将軍として16歳から22歳の間に8回二所詣を行っており、掲題の歌は、その最後の詣での折(1213)であると、考証されています。

 

伊豆・箱根権現に何を“願掛け”し、眼前に広がる伊勢の大海原、そこに浮かぶ沖の小島を眼にして、何を思っていたのでしょう? 

 

実朝年譜によれば、1213年には、藤原定家より『万葉集』や種々の歌会、歌絵巻などの文書が贈られている。また12月には実朝の歌集・『金塊和歌集』が成立している。一方、5月に和田合戦があり、和田義盛が戦死するという未だ定まらぬ世でした。

 

目下、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送中で、最近は、実朝の動向が注目される展開である。

 

[参考]

 注1:『心の詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』& 閑話休題154 (’20. 07. 10) 

 注2:閑話休題268 (‘22. 06. 27) 

 

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閑話休題283 書籍-1 特1 縄文杉を訪ねる

2022-10-21 17:02:17 | 漢詩を読む

 屋久島・縄文杉を訪ねる。3,000年超もの風雪に耐え、神々しく立つ姿は圧巻である。その麓に着いた瞬間、人々は自然と胸元に両手を合わせて頭を垂れ、また仰ぎ見た。

 

< 原文 と 読み下し文> 

   訪繩文杉     繩文杉を訪ねる [上平声十五刪韻]

昔聞屋久岳、昔聞く 屋久の岳、

崎嶇覚難攀。崎嶇(キク)たりて 攀(ヨ)じ難きを覚ゆ。

嶄嶄神霊木、嶄嶄(サンサン)たり神霊(シンレイ)の木、

峩峩古代杉。峩峩(ガガ)たり古代の杉。

洋海東南坼、洋海 東南に坼(サ)け、 

風雪天地艱。風雪(フウセツ) 天地ともに艱(カン)ならん。

黙祷向尊樹,尊樹(ソンジュ)に向かいて黙祷(モクトウ)するに,

杳如心自閑。杳(ヨウ)として 心(ココロ)自(オノズ)から閑(カン)なるが如し。

 註] ○崎嶇:山道がでこぼこであるさま; 〇嶄嶄:高く、威儀が立派なさま; 〇峩峩:高

  く聳え立つさま; 〇洋海:太平洋と東シナ海; 〇坼:裂ける; 〇艱:困難、難しい。 

<現代語訳> 

 屋久島の縄文杉を尋ねる 

昔から聞いていた屋久島の峰、

デコボコの山道で、登るのが難儀なことを実感した。

威厳に満ちた神霊の木、

高く聳える古代の縄文杉。

太平洋と東シナ海を東南に分けて、

幾千年の風雪 天地ともに厳しい中に耐えてきたのだ。

その縄文杉に向かって暫し黙祷を捧げると、

自然と心が洗われて敬虔の念を感じずにはおられない。 

<簡体字> 

 访绳文杉     

昔聞屋久岳、崎岖覚難攀。

崭崭神灵木、峩峩古代杉。

洋海东南坼,风雪天地艰。

默祷向尊树, 杳如心自闲。

 縄文杉 

 

<記>

 2017/5/28~5/30屋久島、縄文杉を訪ねる。幹周囲16.4m、樹高30m、ドッシリと、しかもシャンとした樹姿体、木肌の様相は印象的である。

 行程は、荒川登山口からトロッコ道を徒歩で約9 km行くと大株歩道入口に至り、さらに約2.5kmの難路・大株歩道の登山道を行く。

 この登山道は、山の斜面で大小の岩石や地上に露わになった木の根っこなど凸凹道、時に馬の背を思わせる急な上り・下りの箇所に出くわす。

 要した時間は、荒川登山口~大株歩道入口(トロッコ道):約9kmを130分、大株歩道入口~縄文杉(大株歩道):約2.5kmを115分であった。

 当日の行動記録は、往復約23 kmを、途中昼食及び休憩時間を含めて、約11時間かけて踏破した。同行者の歩数計の記録では37,000歩であった由。

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