愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 255 飛蓬-147 次韻 蘇軾《次韻楊公濟奉議梅花》  誰喜戦争 

2022-03-28 09:43:45 | 漢詩を読む

本稿を書き進める間に、わが国東北地方で強い地震が発生した。同地方にあっては相当の被害を被ったようである。東欧では、ロシアのウクライナ進攻が一月を越える期間に及ぼうとしている。ウクライナでの甚大な被害も刻々伝えられており、胸が痛む思いである。 

 

既に2年余に渡るコロナ流行も波状に全人類を苦境に陥れている。まず、これら天災・人災の被害に遭われた地域の人々にお見舞い申し上げますとともに、ウクライナ侵攻の停止、又それぞれの被害からの一日も早い復興を心より祈念いたしております。 

 

特に心痛むのは、ウクライナでの人災である。“戦争”を収めるべく、国際的枠組みで世界の英知を糾合して話し合っているように見えるが、埒は明かないようだ!!この戦争、誰か喜ぶ人がいるのであろうか?その思いを、蘇軾の“梅花”についての詩から韻を借りて書いた。戦と梅花と、皮肉な取り合わせではある。 

 

xxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩と読み下し文>  

 次韻 蘇軾《次韻楊公濟奉議梅花十首 其一》 

  誰喜戦争     誰か戦争を喜ばん      [下平声五歌韻] 

厩戸為律貴以和、 厩戸(ウマヤド)は律を為(ナ)して 和を以(モッ)て贵(トウト)しとす、 

蝸牛角上尙争多。 蝸牛(カギュウ)の角上(カクジョウ) 尙(ナオ)争(イクサ)多し。 

汎流行病讓人苦, 汎流行病(ハンリュウコウビョウ) 人を讓(シ)て苦しめておるも, 

六合賢明無奈何。 六合(リクゴウ)の賢明(ケンミン) 奈何(イカン)ともする無し。 

 註] 〇厩戸:聖徳太子(574~622)、33代推古天皇の摂政として内政・外交に尽力、

  憲法十七条を制定して集権的官僚国家の基礎を作る; 〇貴以和:聖徳太子が 

  定めた憲法の第一条、「和を以(モッ)て贵(トウト)しとなす」を指す; 〇蝸牛角: 

  カタツムリの角、広大無辺の宇宙に比べ、人間世界の微小であることのたとえ; 

  〇汎流行病:ここでは、コロナの世界規模の大流行、pandemic; 〇六合:天地 

  東西南北の六つの空間、天下、全世界; 〇賢明:賢くて道理に明るいさま、また 

  その人; 〇無奈何:どうすることもできない。 

<現代語訳> 

  誰か戦争を喜んでいるのであろうか 

昔、聖徳太子は、「和をもって貴しとなす」を憲法第一条に定めた、 

然るにこの小さな星の上で戦争が絶えず、彼方では現に戦争が続いている。 

折しも、世界各地でコロナの大流行が起こっており、人々は苦しんでいるというのに、 

全世界の英知を糾合しても、戦争を止める手立てを探しあぐねている。 

<簡体字およびピンイン> 

 次韵《次韵杨公济奉议梅花》 Cìyùn “cìyùn yánggōngjì fèngyì méihuā” 

  谁喜战争            Shéi xǐ zhànzhēng 

厩戸为律贵以和、 Jiùhù wéi lǜ guì yǐ ,   

蜗牛角上尙争多。 wō niú jiǎo shàng shàng zhēng duō

泛流行病让人苦, Fàn liúxíng bìng ràng rén kǔ,  

六合贤明无奈何。 liùhé xiánmíng wú nài .   

xxxxxxxxxxxxxxx 

        

<蘇軾の詩> 

 次韻楊公濟奉議梅花 十首 其一 蘇軾      [下平声五歌韻] 

梅梢春色弄微和、 梅梢(バイショウ)の春色 微和(ビワ)を弄(ロウ)す、

作意南枝剪刻多。 作意(サクイ)南枝(ナンシ) 剪刻(センゴク)多し。

月黒林間逢縞袂、 月黒くして 林間 縞袂(クベイ)に逢(ア)う、

覇陵酔尉誤誰何。 覇陵(ハリョウ)の酔尉(スイイ) 誤(アヤマッ)て誰何(スイカ)す。

 註] 〇楊公濟:当時の杭州通判、楊蟠のこと、公濟は字、1046年の進士で、章安 

  (浙江省臨海県)の人; 〇奉議:官名、奉議郎; 〇微和:ほのかな暖かさ; 

  〇作意:心をこめる; 〇剪刻:彫り作る; 〇縞袂:白ぎぬの衣、ここでは梅の 

  花の化身となった神女のこと; 〇覇陵酔尉:漢の将軍李広が将軍を辞してのち、 

  田舎家で酒をのみ、帰りに覇陵の亭を通ろうとすると、そこの尉が酔って出てきて 

  誰何し、李広が「元の将軍だ」と答えても、「今の将軍さへ通さないのに、元の 

  将軍など通すわけにはいかない」と答え、李広をその亭に止めたという故事に基 

  づく; 〇誰何:だれだ、と姓名をただす。 

 ※“縞袂”については、柳宗元の『龍城録』に見える話に基づいている。その話とは、

  隋の開皇年間に、趙師雄という人が羅浮山に遊び、寒い日暮れ松林の中の酒店に 

  休むと、白い服の美女が現れ、その美女と盃を重ねるうち、師雄は眠ってしまい、 

  目を覚ますと大きな梅の木の下に寝ていたというものである。“梅の精”という擬人 

  化でしょうか。 

<現代語訳> 

梅の梢の花は春のよそおい、仄かな暖かさをもてあそび、 

ことに南側の枝には、心を籠めて彫られた美しい花が多い。 

月のない森の中で白い衣の梅の花の精に出会えば、 

かの覇陵の酔った尉が人間と間違えて誰何するだろう。 

            [石川忠久 NHK漢詩を読む「蘇東坡」1990に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

  次韵杨公济奉议梅花  Cìyùn yánggōngjì fèng yì méihuā 

梅梢春色弄微和、 Méi shāo chūn sè nòng wēi , 

作意南枝剪刻多。 zuò yì nán zhī jiǎn kè duō. 

月黒林间逢缟袂、 Yuè hēi lín jiān féng gǎo mèi, 

霸陵醉尉误谁何。 bà líng zuì wèi wù shéi .  

ooooooooooooo 

 

人類が生存する環境は、“和”(愛・援)と“争”(憎・殺・乱)との間で揺れる脆弱な状態にあるようだ。“争”は、生物の、“他者”を駆逐し、“自らの生命”を維持したいとする“欲”の発現様態で、“霊長類”の世界とは言え、本質的に内在する自然な姿ではあるのだろう。 

 

ただ、人類には、“和”を尊び、他者を含めて、生活環境構成員すべてが共存できる“社会”を夢見、またそれを実現する技術を磨く“智”が備わっているはずである。だからこそ自らを“霊長類”と定義して憚らない、“選ばれた存在”である と、一般には信じられている。

 

当然、質と程度によっては許容可の“争”はあろうが、今日、東欧で展開されている“争”は、将に人類滅亡を予見させる、信じ難い様相を呈している。嘆かわしく、且つ悲しいのは、AIを駆使した “進んだ” 文明の利器を手に、“智”の欠片(カケラ)も見えぬ、幾世紀も昔の発想・戦法で、只市民の殺傷に夢中である という、チグハグな現実の発見である。

 

猿は、望見して手を打って笑い転げ、もんどりうって木から落ち、腸を散り散りに寸断しているであろう。進歩した文明を誇っている21世紀の人類の姿なのである。 “和”の方向へ向ける“智”の力の何とひ弱なことか、無奈何!! 「馬鹿は死ななきゃ治らない」か。 

 

満開の梅が芳香を漂わせる中、夢で白い衣を着た美女・“梅の花の精”に出会うという、麗らかな初春の快い気分の蘇軾の詩です。「巫山の夢」や「南柯の夢」等を連想させますが、この詩では逆に、曽ての成功者が酔った門番からとっちめられるという夢物語でした。 

 

いずれにせよ“和”の世界である。対して、その詩に次韻した掲詩は、“争”の世界そのもので、“智”を巡らす避難場所も見当たらない世界となった。両詩の皮肉な対照は、「このような世界であってはならない」という抗議の気が強く働いたことによる と寛容にお汲み取り頂きたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題254 句題和歌 12  白楽天・長恨歌(6)

2022-03-14 10:02:01 | 漢詩を読む

安禄山の反乱軍は、756年6月には首都・長安を陥れました。そこで楊国忠の進言に従い、蜀に避難することにして、玄宗皇帝以下の官臣は、天子直属の軍隊に守られながら、西へ向けて長安を脱出した。

 

馬嵬(バカイ)に至って、楊国忠に不満を抱いていた護衛の兵士たちは、反乱の原因は楊国忠にありとして楊国忠を殺害した。更に兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃を殺すよう迫ります。玄宗は、「反乱とは無関係だ」と楊貴妃をかばいましたが、兵士たちは納得しない。

 

やむなく玄宗は同意し、楊貴妃は、玄宗側近の宦官・高力士によって縊死(イシ)させられた と。逃避行とは言え、楊貴妃は、衣裳、髪飾り等々、盛装されていたはずです。その模様は、白楽天の詩をご参照ください。

 

xxxxxxxxxxxxxxxx 

<白居易の詩>

      長恨歌 (6)      第二段 一

33 九重城闕煙塵生、  九重(キュウチョウ)の城闕(ジョウケツ) 煙塵(エンジン)生じ、 

34 千乗万騎西南行。  千乗(センジョウ)万騎(バンキ) 西南に行く。 

35 翠華搖搖行復止、  翠華(スイカ) 揺揺として 行きて復た止(トド)まり、 

36 西出都門百餘里。  西のかた都門(トモン)を出づること 百余里。 

37 六軍不発無奈何、  六軍(リクグン)発せず  奈何(イカン)ともする無く、 

38 宛転娥眉馬前死。  宛転(エンテン)たる娥眉 (ガビ) 馬前(バゼン)に死す。 

39 花鈿委地無人収、  花鈿(カデン)は地に委(ス)てられて 人の収(オサ)むる無し、 

40 翠翹金雀玉掻頭。  翠翹 (スイギョウ) 金雀 (キンジャク) 玉掻頭(ギョクソウトウ)。 

41 君王掩眼救不得、  君王 面(オモテ)を掩(オオ)いて 救ひ得ず、 

42 迴看涙血相和流。  迴(カエ)り看て 涙血(ルイケツ) 相和(アイワ)して流る。 

  註] ・城闕:城門にある物見やぐら、また宮城; ・千乘万騎:天子の行幸の隊列、

   “乗”は4頭の馬と一台の車を一組とする単位。実際には玄宗はわずかな兵士に

   守られて都を離れた; ・翠華:翡翠の羽を飾った天子の旗; ・搖搖:揺れ動く

   さま、気持ちの動揺も表す; ・六軍:天子直属の軍隊; ・無奈何:どうする

   こともできない; ・宛転:眉が美しい曲線を描くさま; ・花鈿:螺鈿で飾り

   つけた花かんざし; ・翠翹:翡翠の尾の羽の形をした髪飾り;・金雀:雀を

   かたどった黄金のかんざし; ・掻頭:頭をかく、髪をなでる、かんざし。    

 

<現代語訳>

33 皇帝のおられる宮城も戦火の煙と塵が巻き上がり、

34 皇帝の一行は長安を棄てて、西南の蜀へ落ちのびて行く。

35 皇帝の旗は、ゆらゆらと進んでは止まり、のろのろと行く、

36 長安の城門から西へ百余里に至る。

37 そこで近衛軍は進発を拒み、なすすべもなく、

38 ゆるやかに弧を描く眉の佳人は、帝の馬前で息絶えた。 

39 華の髪飾りは地に捨てられ、拾う人もない、

40 翡翠の羽飾りや、黄金の孔雀の形の髪飾りも、玉のかんざしも無残にちらばっている。

41 帝は手で顔を覆うばかりで、妃を救うすべもなく、 

42 振り返り見ては、血の涙を流した。 

           [石川忠久監修 『NHK新漢詩紀行 ガイド 』に拠った]

 

<簡体字およびピンイン> 

33九重城阙烟尘生 Jiǔ chóng chéng què yān chén shēng  [下平声八庚]

34千乘万骑西南行 qiān chéng wàn qí xī nán xíng      

35翠华摇摇行复止 Cuì huá yáo yáo xíng fù zhǐ          [上声四紙]

36西出都门百余里  xī chū dū mén bǎi yú  

37六军不発无奈何  Liù jūn bù fā wú nài hé 

38宛転娥眉马前死  wǎn zhuǎn é méi mǎ qián

39花钿委地无人收  Huā diàn wěi dì wú rén shōu          [下平声十一尤] 

40翠翘金雀玉掻头  cuì qiáo jīn què yù sāo tóu

41君王掩眼救不得  Jūn wáng yǎn yǎn jiù bù dé

42回看涙血相和流  huí kàn lèi xuè xiāng hé liú   

xxxxxxxxxxxxxxx 

 

玄宗皇帝(李隆基)について振り返ってみます。李隆基は、睿宗の第3子で、睿宗の兄・李弘の養子となっており、本来、帝位には距離のある存在であった。しかし隆基の気骨ぶりに祖母・則天武后が気に入って、遠ざけられることはなく、後に中宗を毒殺した后・韋皇后と安楽公主を排斥し、父・睿宗の復位に功績を上げた。 

 

そこで隆起は皇太子となり、張説(チョウエツ)が侍読を務めた。復位した睿宗は政治には興味がなく、張説の提案を受けて、隆起に譲位した(712)、玄宗皇帝の誕生である。しかし政治の実権は睿宗の妹・太平公主が握っていた。太平公主は則天武后の秘書とも言われるほど有能な人物であった。玄宗にとっては脅威の存在で、憂慮の種であった。

 

重臣のほとんどが太平公主の側にあり、また数少ない味方の一人張説(チョウエツ)は洛陽に配置換えされていた。張説は、ひそかに玄宗に使者を送り、佩刀を献上した。クーデターの勧めである。玄宗は、713年、太平公主派の宰相を誅殺、政治権力の奪取を果たし、開元の世となる。

 

先に則天武后は、科挙試験の門戸を貴族に限らず、庶民、いわゆる“寒門”にも開くという画期的な制度を定めていた。「上品に寒門なく下品に勢族なし」と言われるように、少数の貴族が政治を支配してきたが、その潮の流れを変えたのである。

 

張説は、則天武后の治世下に22歳で科挙に首席で合格し、武后に重用された“寒門”出身の逸物である。玄宗の治世にあっても宰相として活躍し、“開元の治”と讃えられる一時代を築いた役者の一人である。また“寒門”出身の張九齢も則天武后の治世下、702年に進士に及第、後に宰相の張説にひきたてられ、玄宗の信任を得た。

 

“開元の治”(713~741)にあっては、2代大宗の“貞観の治”(627~649)に倣いながら、時代に即した諸社会制度を改・構築して、唐を泰平の富国へと導いた。門閥貴族vs. “寒門”出とせめぎ合いながらも、多くの優れた宰相・賢臣が活躍した時代と言える。

 

開元の最盛時、韓休という硬骨の宰相がいて、玄宗の些細な過ちにも諫言を呈していた。当時、玄宗は傍目にも痩せが目立ち、周囲が気遣い、「あの頑固おやじをやめさせては…」と進言した。玄宗は「わしがやせても、天下が肥えればそれでよい…」と、答えた と。玄宗は、泰平の世を築くという“志”に燃えて、政治と向き合っていたのである。

 

“開元の治”の華の時代に活躍した宰相の一人に長九齢がいる。長九齢は、安禄山の「狼子野心」を見抜き、玄宗に「誅を下して後患を断つ」よう諫言したことがある と。開元24年、玄宗の誕生日祝いに群臣は皆、宝の鏡を献上したが、張九齢は、前代の盛衰興亡について研究した『千秋金鑑録(キンカンロク)』を献上し、諫官(カンカン)の誠意を示した。

 

玄宗は、開元末頃になると下臣の諫言に耳を傾けることなく、張九齢も、ただわずらわしい存在になっていたようである。長九齢は、李林甫の謀略に遭い、荊州に左遷され、続く李林甫・楊国忠宰相と時代は転換し、安史の乱(755)を迎えることになった。張九齢は、「開元最後の賢相」として名声が高い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題253 句題和歌 11  白楽天・長恨歌(5)

2022-03-07 09:42:57 | 漢詩を読む
当初、“開元の治”と讃えられる革新的な治政を敷いた玄宗でしたが、楊貴妃を傍に雅な日常に堕して、政治への関心を失ってしまったようです。政治は宰相・楊国忠を中心にした官僚に任せて、本人は朝廷に出なくなりました。

辺境防衛の司令官・節度使・安禄山は、やはり玄宗・楊貴妃に取り入り、重宝がられていた。宰相・楊国忠にとって、安禄山は邪魔な存在で、その排斥を謀ります。両者の対立は激しくなり、安禄山は、遂に部下の史思明と共に挙兵しました(755)。安史の乱である。

驪山の麓に設けられた壮麗な離宮の佇まい、“霓裳(ゲイショウ)羽衣(ウイ)の曲”で代表される管弦の調べと華やかな舞の饗宴、見飽きることなく、尽きることなく……。突如として、東北の方から鼙鼓の響きが。“安史の乱”の勃発である (下記漢詩の概要) 。

xxxxxxxxxxxxxxxx 
<白楽天の詩> 
 長恨歌 (5)   
27驪宮高処入靑雲  驪宮(リキュウウ高き処 青雲(セイウン)に入り、 
28仙楽風飄処処聞  仙楽 (センガク) 風に飄(ヒルガエ)りて処処(ショショ)に聞こゆ。 
29緩歌慢舞凝糸竹  緩歌(カンカ)慢舞(マンブ) 糸竹(シチク)を凝(コ)らし、 
30尽日君王看不足  尽日(ジンジツ)君王 看(ミ)れども足らず。
31漁陽鼙鼓動地來  漁陽(ギョヨウ)の鼙鼓 (ヘイコ) 地を動(ドヨ)もして来り、 
32驚破霓裳羽衣曲  驚かし破る 霓裳(ゲイショウ)羽衣(ウイ)の曲。 
 註] 驪宮:驪山の山懐に点在した華清宮;  凝:ゆっくり音を引き延ばして
  奏すること;  糸竹:弦楽器(琴)と管楽器(笛);  漁陽:天津市薊県; 
  鼙鼓:(昔軍隊で用いた軍鼓);  霓裳羽衣曲:玄宗の宮廷音楽を代表する、 
  西域伝来の舞曲の名。 
 ※ 安禄山の蜂起が太平の世を破壊したことを 勇ましい軍楽が宮中の優美な楽曲を
  駆逐したという、音楽の衝突で表現する。 

<現代語訳>
 長恨歌 (5)  
27驪山に高くそびえる離宮は青空に届き、 
28仙界の楽の音が風に舞ってあちこちに漂う。 
29ゆるやかな歌、のびやかな舞い、思いを籠めて引き延ばす琴や笛の音、 
30帝は 終日(ヒネモス) 倦(ウ)まず愛でられた。 
31そこへ突如、漁陽の軍楽が大地を響(ドヨ)もして襲い掛かり、 
32雅(ミヤビ)な霓裳(ゲイショウ)羽衣の曲を蹴散らせた。 
                  [川合康三 編訳 『中国名詩選』に拠る] 
 
<簡体字およびピンイン>  
長恨歌
27 骊宫高处入靑云、 Lí gōng gāo chù rù qīng yún  [上平声十二文韻]
28 仙乐风飘处处闻。 xiān yuè fēng piāo chùchù wén 
29 缓歌慢舞凝丝竹、 Huǎn gē màn wǔ níng sī zhú  [入声二沃韻]
30尽日君王看不足。 jǐn rì jūnwáng kàn bù  
31渔阳鼙鼓动地来、 Yú yáng pí gǔ dòng dì lái 
32惊破霓裳羽衣曲。 jīng pò níshang yǔyī    
xxxxxxxxxxxxxxx 

安禄山は、イラン系ソグド人で、716年頃一族と共に唐側に亡命、営州柳城(現遼寧省朝陽県)に落ち着いた。営州は、諸民族が集まる唐の東北前進基地で、禄山は6種の言葉を操り、貿易仲買人を務めていた と。

やがて幽州節度使・張守珪(チョウシュケイ)の部下となり、対契丹戦に活躍、また諸族の鎮撫に手腕を発揮する。一方、中央から派遣された使臣に賄賂を贈り、伝手を得て、玄宗の信任を得、また楊貴妃の“養子”となるなど楊貴妃に取り入り、宮廷に食い込んでいった。

742年、平盧(ヘイロ、遼寧省朝陽県)節度使に抜擢され、続いて范陽(現北京市)(744)、河東(現山西省太原)(751)と3節度使を兼ねるに及んだ。まさに唐の全辺境防衛軍の3分の1に近く、10万以上と称される大兵力を持つに至ったのである。なお節度使とは、辺境防衛に当たるのが任務であるが、当時は軍事力に加え、地域の行政権をも与えられていた。

中央の宰相・楊国忠は、安禄山の力に恐れを抱くようになり、「安禄山には謀反の意」有りとしきりに玄宗に対して讒言を繰り返します。遂には安禄山の謀反心を掻き立てるように、安禄山派の武部侍郎・吉温(キツオン)を左遷した上で殺害した。それを知った安禄山は、武力蜂起を決意します。

755年11月、部下の史思明と共に蜂起、ひと月で洛陽を落とし、燕の建国を宣言、自ら大燕皇帝を称して唐朝と対峙します。兵力差もさることながら、長年平和が続いたことによる軍の弛みもあろう、さらに不意を突かれたことにより、朝軍は一溜まりもなく屈したようである。翌756年6月には、長安も陥落した。

しかし安禄山は、楊国忠を倒す目的が達成されたばかりか、燕の建国に満足して、歓楽に堕したようだ。安禄山自身の体調不良も重篤さを増してきたようであるが、民や兵の不満、仲間内の内紛等々、結局身内により殺害された(757)。55歳の生涯であった。

[句題和歌]

藤原高遠(閑話休題247)は、長恨歌をしっかりと読んでいるようで、長恨歌の句に思いを得た句題和歌を多く詠んでいます。今回は、長恨歌・第30句「尽日君王看不足」に関わる和歌を紹介します。

見ても猶 あかぬこころの こころをば
  こころのいかに 思ふこころぞ (藤原高遠『大弐高遠集』) 

  [注] 少々混み入って、“こころ”が戸惑う“こころ”の歌です。未熟な解説では 
   却って混乱を来すと思われます。歌意の解釈・解説は、読者諸氏の各自に
   お任せ致します。おいしいお茶をすすりながらでも、ゆっくりと、どうぞ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする