めぐり逢いて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部
<訳> めぐり逢ったのかどうか、それすらわからないうちに、雲隠れした夜中の月のように、あの人もあっという間に帰ってしまったことです。(板野博行)
平安中期、宮廷女流文学の一朶の大華・紫式部の歌である。“ひらがな”の表記法が定着して、思いを自由に表現できるような時代となり、長編小説『源氏物語』も現れており、その著者でもある。
眼前に“ソッと”現れ、久しぶりに巡り会えたかな….と思いきや、誰だか見定めることもできぬ間に、姿を消した人。男性であろうか、女性であろうか?如何なる関係のある人であろうか?下に漢詩を示しました。
xxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>
秋夜幻想 秋夜の幻想 (下平声七陽韻)
院子紅楓有浅霜、 院子(ニワ)では 紅楓(コウフウ) 浅霜(ウスシモ)降りてあり、
曾談彼此下星光。 曾(カツ)て 星光(ホシアカリ)の下(モト) 彼此(カレコレ)と談(カタッ)た。
来人忽去識不定、 人来たるも忽(タチマ)ち去る 識(ミ)定(サダ)め得ぬまま、
如夜半月雲隠藏。 夜半(ヨワ)の月が雲に隠藏(カク)るるが如くに。
註]
院子:庭; 彼此:あれやこれや、お互い;
星光:星の輝き、星明り; 識不定:見定めることができない;
<簡体字およびピンイン>
秋夜幻想 Qiū yè huànxiǎng
院子红枫有浅霜、 Yuànzi hóngfēng yǒu qiǎn shuāng,
曾谈彼此下星光。 céng tán bǐcǐ xià xīngguāng.
来人忽去识不定、 Lái rén hū qù shíbúdìng,
如夜半月云隐藏。 rú yèbàn yuè yún yǐncáng.
<現代語訳>
秋の夜の幻想
庭のモミジの葉にはうっすらと霜が降りている。
曽ては,輝く星のもと ここで仲間たちと互いに色々と語り合っていた。
仲間と思しき人が来たが、誰だか見定め得ぬまま、すぐに去っていった、
ちょうど夜半の月が雲に隠れるが如くに。
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この歌の詞書(コトバガキ)には、「幼な女友達に、数年も経って偶然に逢えたように思えた。しかし、誰か見定める間もなく、目の前から姿を消した。(旧暦)7月10日頃の事である」との趣旨の記載がある。
但し、『新日本古典文学大系』・『新古今和歌集』の巻の注釈で、「“家集”によれば7月10日ではなく、10月10日である」との記載がある。“家集”とは、『紫式部集』を指すものと思われ、後者の方が、実際の歌の背景であろうと推測される。
すなわち暑い夏、七夕の頃ではなく、晩秋、紅葉に霜が降りて、色づいた葉っぱも散りかける頃。幼友達と、手毬遊びなどもしたであろう、あれこれと談笑もしたことでしょう。このような情景を念頭に、漢詩を書き起こしました。
紫式部について、少し触れておきます。平安中期、970年から978年の間に生まれ、1019年までは生存していたことは判明しているようですが、生没年の詳細は不明のようです。
学問・詩歌に優れた家系の出で、幼少のころから優れた才能を示し、漢文を読みこなしていた と。兄が読んでいた中国の歴史書『史記』をたちまち暗記していて、兄の間違いを指摘したほどだという逸話もあるようです。
父方の曾祖父に三条右大臣・藤原定方、提中納言・藤原兼輔がおり、ともに百人一首に歌が取り上げられている。父・藤原為時は、花山天皇に漢学を教えた漢詩人・歌人であった。紫式部には、一女(大弐三位)がおり、大弐三位の歌も百人一首に含まれている。
紫式部は、藤原宣孝に嫁ぎ、一女をもうけるが、夫は結婚3年後(1001)に亡くなります。そのころから54帖の大作・『源氏物語』の執筆が始まったとされています。中宮・彰子に仕えている間に完成されたようですが、その年代は不明である。
中宮・彰子に仕えていた時の宮中の様子を書いた『紫式部日記』や、子供時代から晩年に至る間に自らが詠んだ歌を選び収めた『紫式部集』が残されている。歌人紫式部は、中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人である。
もう少し詳細に、次回、ライバル(?)清少納言と対比しながら、見ていくつもりにしています。
雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部
<訳> めぐり逢ったのかどうか、それすらわからないうちに、雲隠れした夜中の月のように、あの人もあっという間に帰ってしまったことです。(板野博行)
平安中期、宮廷女流文学の一朶の大華・紫式部の歌である。“ひらがな”の表記法が定着して、思いを自由に表現できるような時代となり、長編小説『源氏物語』も現れており、その著者でもある。
眼前に“ソッと”現れ、久しぶりに巡り会えたかな….と思いきや、誰だか見定めることもできぬ間に、姿を消した人。男性であろうか、女性であろうか?如何なる関係のある人であろうか?下に漢詩を示しました。
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<漢詩原文および読み下し文>
秋夜幻想 秋夜の幻想 (下平声七陽韻)
院子紅楓有浅霜、 院子(ニワ)では 紅楓(コウフウ) 浅霜(ウスシモ)降りてあり、
曾談彼此下星光。 曾(カツ)て 星光(ホシアカリ)の下(モト) 彼此(カレコレ)と談(カタッ)た。
来人忽去識不定、 人来たるも忽(タチマ)ち去る 識(ミ)定(サダ)め得ぬまま、
如夜半月雲隠藏。 夜半(ヨワ)の月が雲に隠藏(カク)るるが如くに。
註]
院子:庭; 彼此:あれやこれや、お互い;
星光:星の輝き、星明り; 識不定:見定めることができない;
<簡体字およびピンイン>
秋夜幻想 Qiū yè huànxiǎng
院子红枫有浅霜、 Yuànzi hóngfēng yǒu qiǎn shuāng,
曾谈彼此下星光。 céng tán bǐcǐ xià xīngguāng.
来人忽去识不定、 Lái rén hū qù shíbúdìng,
如夜半月云隐藏。 rú yèbàn yuè yún yǐncáng.
<現代語訳>
秋の夜の幻想
庭のモミジの葉にはうっすらと霜が降りている。
曽ては,輝く星のもと ここで仲間たちと互いに色々と語り合っていた。
仲間と思しき人が来たが、誰だか見定め得ぬまま、すぐに去っていった、
ちょうど夜半の月が雲に隠れるが如くに。
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この歌の詞書(コトバガキ)には、「幼な女友達に、数年も経って偶然に逢えたように思えた。しかし、誰か見定める間もなく、目の前から姿を消した。(旧暦)7月10日頃の事である」との趣旨の記載がある。
但し、『新日本古典文学大系』・『新古今和歌集』の巻の注釈で、「“家集”によれば7月10日ではなく、10月10日である」との記載がある。“家集”とは、『紫式部集』を指すものと思われ、後者の方が、実際の歌の背景であろうと推測される。
すなわち暑い夏、七夕の頃ではなく、晩秋、紅葉に霜が降りて、色づいた葉っぱも散りかける頃。幼友達と、手毬遊びなどもしたであろう、あれこれと談笑もしたことでしょう。このような情景を念頭に、漢詩を書き起こしました。
紫式部について、少し触れておきます。平安中期、970年から978年の間に生まれ、1019年までは生存していたことは判明しているようですが、生没年の詳細は不明のようです。
学問・詩歌に優れた家系の出で、幼少のころから優れた才能を示し、漢文を読みこなしていた と。兄が読んでいた中国の歴史書『史記』をたちまち暗記していて、兄の間違いを指摘したほどだという逸話もあるようです。
父方の曾祖父に三条右大臣・藤原定方、提中納言・藤原兼輔がおり、ともに百人一首に歌が取り上げられている。父・藤原為時は、花山天皇に漢学を教えた漢詩人・歌人であった。紫式部には、一女(大弐三位)がおり、大弐三位の歌も百人一首に含まれている。
紫式部は、藤原宣孝に嫁ぎ、一女をもうけるが、夫は結婚3年後(1001)に亡くなります。そのころから54帖の大作・『源氏物語』の執筆が始まったとされています。中宮・彰子に仕えている間に完成されたようですが、その年代は不明である。
中宮・彰子に仕えていた時の宮中の様子を書いた『紫式部日記』や、子供時代から晩年に至る間に自らが詠んだ歌を選び収めた『紫式部集』が残されている。歌人紫式部は、中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人である。
もう少し詳細に、次回、ライバル(?)清少納言と対比しながら、見ていくつもりにしています。