愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 122 飛蓬-34 小倉百人一首:(紫式部) めぐりあいて

2019-10-29 16:05:53 | 漢詩を読む
 めぐり逢いて 見しやそれとも わかぬ間に
     雲がくれにし 夜半の月かな
                 紫式部
<訳> めぐり逢ったのかどうか、それすらわからないうちに、雲隠れした夜中の月のように、あの人もあっという間に帰ってしまったことです。(板野博行)

平安中期、宮廷女流文学の一朶の大華・紫式部の歌である。“ひらがな”の表記法が定着して、思いを自由に表現できるような時代となり、長編小説『源氏物語』も現れており、その著者でもある。

眼前に“ソッと”現れ、久しぶりに巡り会えたかな….と思いきや、誰だか見定めることもできぬ間に、姿を消した人。男性であろうか、女性であろうか?如何なる関係のある人であろうか?下に漢詩を示しました。

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<漢詩原文および読み下し文>
 秋夜幻想     秋夜の幻想 (下平声七陽韻)
院子紅楓有浅霜、 院子(ニワ)では 紅楓(コウフウ) 浅霜(ウスシモ)降りてあり、
曾談彼此下星光。 曾(カツ)て 星光(ホシアカリ)の下(モト) 彼此(カレコレ)と談(カタッ)た。
来人忽去識不定、 人来たるも忽(タチマ)ち去る 識(ミ)定(サダ)め得ぬまま、
如夜半月雲隠藏。 夜半(ヨワ)の月が雲に隠藏(カク)るるが如くに。  
 註]
  院子:庭; 彼此:あれやこれや、お互い;
  星光:星の輝き、星明り; 識不定:見定めることができない;

<簡体字およびピンイン>
 秋夜幻想      Qiū yè huànxiǎng
院子红枫有浅霜、 Yuànzi hóngfēng yǒu qiǎn shuāng,
曾谈彼此下星光。 céng tán bǐcǐ xià xīngguāng.
来人忽去识不定、 Lái rén hū qù shíbúdìng,
如夜半月云隐藏。 rú yèbàn yuè yún yǐncáng.

<現代語訳>
 秋の夜の幻想
庭のモミジの葉にはうっすらと霜が降りている。
曽ては,輝く星のもと ここで仲間たちと互いに色々と語り合っていた。
仲間と思しき人が来たが、誰だか見定め得ぬまま、すぐに去っていった、
ちょうど夜半の月が雲に隠れるが如くに。
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この歌の詞書(コトバガキ)には、「幼な女友達に、数年も経って偶然に逢えたように思えた。しかし、誰か見定める間もなく、目の前から姿を消した。(旧暦)7月10日頃の事である」との趣旨の記載がある。

但し、『新日本古典文学大系』・『新古今和歌集』の巻の注釈で、「“家集”によれば7月10日ではなく、10月10日である」との記載がある。“家集”とは、『紫式部集』を指すものと思われ、後者の方が、実際の歌の背景であろうと推測される。

すなわち暑い夏、七夕の頃ではなく、晩秋、紅葉に霜が降りて、色づいた葉っぱも散りかける頃。幼友達と、手毬遊びなどもしたであろう、あれこれと談笑もしたことでしょう。このような情景を念頭に、漢詩を書き起こしました。

紫式部について、少し触れておきます。平安中期、970年から978年の間に生まれ、1019年までは生存していたことは判明しているようですが、生没年の詳細は不明のようです。

学問・詩歌に優れた家系の出で、幼少のころから優れた才能を示し、漢文を読みこなしていた と。兄が読んでいた中国の歴史書『史記』をたちまち暗記していて、兄の間違いを指摘したほどだという逸話もあるようです。

父方の曾祖父に三条右大臣・藤原定方、提中納言・藤原兼輔がおり、ともに百人一首に歌が取り上げられている。父・藤原為時は、花山天皇に漢学を教えた漢詩人・歌人であった。紫式部には、一女(大弐三位)がおり、大弐三位の歌も百人一首に含まれている。

紫式部は、藤原宣孝に嫁ぎ、一女をもうけるが、夫は結婚3年後(1001)に亡くなります。そのころから54帖の大作・『源氏物語』の執筆が始まったとされています。中宮・彰子に仕えている間に完成されたようですが、その年代は不明である。

中宮・彰子に仕えていた時の宮中の様子を書いた『紫式部日記』や、子供時代から晩年に至る間に自らが詠んだ歌を選び収めた『紫式部集』が残されている。歌人紫式部は、中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人である。

もう少し詳細に、次回、ライバル(?)清少納言と対比しながら、見ていくつもりにしています。
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閑話休題 121 旅-4、 李白 晁卿衡を哭す

2019-10-20 15:15:41 | 漢詩を読む
この一対の句:

   明月帰らず 碧海(ヘキカイ)に沈み,
     白雲 愁色 蒼梧(ソウゴ)に満つ。

阿倍仲麻呂は、帰国の途上、海難に遭いました。李白は、その情報を得て、仲麻呂は亡くなったものと思い、それを悼んで書いた詩(下記)の一部です。実際は、仲麻呂は安南に漂着して無事でしたが、李白は最後までその事実を知らなかったようです。

仲麻呂に対する李白の深い心情が読み取れる詩と言えます。仲麻呂と李白が宮中でともに過ごしたのは2年に過ぎないが、王維を含めた御三方は、ほとんど同時代に生きています。その交流の程を想像すると感慨尽きない思いがします。

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<漢詩原文および読み下し文>
哭晁卿衡     晁卿(チョウケイ)衡(コウ)を哭(コク)す
日本晁卿辞帝都, 日本の晁卿 帝都を辞し,
征帆一片遶蓬壷。 征帆(セイハン)一片 蓬壷(ホウコ)を遶(メグ)る。
明月不帰沈碧海, 明月帰らず 碧海(ヘキカイ)に沈み,
白雲愁色満蒼梧。 白雲 愁色(シュウショク) 蒼梧(ソウゴ)に満つ。
 註]
  哭:(声を出して)泣く。
  晁卿衡:晁衡(朝衡とも)は、阿倍仲麻呂の漢姓と名、姓名の間に漢職名“卿”を入れて呼ぶ。
  征帆:往く船。
  蓬壷:東方海上にあり、不老不死の薬を持つ仙人が棲むと考えられていた島、蓬莱山の異称。ここでは日本の意。
  蒼梧:伝説上の五帝の舜が南方を巡幸中に亡くなったとされる地、現湖南省・洞庭湖辺りの原野。ともに旅の途中で亡くなったことに思いは及ぶ。

<現代語訳>
  晁卿衡を哭す
日本の晁衡は、都長安を去り、
遠く往く一ひらの船で蓬莱の島をめぐり、日本に向かっていた。
清らかな月のような彼は、青い海に沈み、帰らぬ人となり、
白雲が悲しみを帯びて、南方の空に満ちている。
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作者李白については、度々触れており、ここでは割愛します。

先に“飛蓬”シリーズ(閑話休題-119)で取り挙げた仲麻呂の歌:
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
について、補足します。

この歌については、下に示したように、五言絶句の形で詠われた詩があります。ネット上で見る限り、この漢詩の作(翻訳)者が仲麻呂自身か否か、またこの詩の収載書籍は?など、検討を要することが多々あります。

翔首望東天、 首(コウベ)を翔(ア)げて東天を望めば、
神馳奈良辺。 神(ココロ)は馳(ハ)す奈良の辺。
三笠山頂上、 三笠山頂の上、
思又皎月圆。 思う又 皎月圆(マド)かなるを。

王維たちが設けた送別の宴では、「天の原 ……」の歌は、“日本語”で詠われた とされています。同宴で中国人参列者に解るよう、仲麻呂自身が漢詩に同時翻訳をした と考えるのが、もっとも自然ではある。

それにしても、ネット上、その収載書籍の所在が不明で戸惑っている次第である。仲麻呂が、帰国時に書いたとされる12句からなる排律(近体詩の一体)「命(メイ)を銜(フク)み国に還るの作」は、『全唐詩』巻732に収録されている由であるが。

上記の詩が仲麻呂作ならば、一つ確かに言えることがある。第2句に“奈良辺”とあることから推して、「天の原 ……」の歌は、遣唐使として九州を出発する際に作られたのではなく、長安での別れの宴での作である と言えよう。

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閑話休題 120 旅-3、 王維 祕書晁監の日本國に還るを送る

2019-10-08 16:13:26 | 漢詩を読む
この一対の句:

   オオウミガメの背中は、黒々と天に映えて、
魚の目は波を射抜いて赤々と光る。

異様な光景の描写です。前回“飛蓬”シリーズで触れた、阿部仲麻呂を送る宴会 で作られたとされる王維の詩の一部です。大陸と日本を隔てている海について、唐代の一知識人が持つイメージと言ってよいでしょうか。

どこまでも陸が広がる中国にあっては、“海”は、おどろおどろしい不気味な、天の果て…というイメージの世界であったのでしょう。“詩仏”と謳われる王維でさえ と驚きではある。

詩は下に示しました。長く、難しそうな詩ですが、四句ずつ区切って読んで頂くと、解りよいように思われる。
 
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<原文および読み下し文>
送祕書晁監還日本國  祕書晁監の日本國に還るを 送る  
積水不可極, 積水 極む可(ベ)からず,
安知滄海東。 安(イズク)んぞ 滄海の東を知らん。
九州何處遠, 九州 何れの處か遠き,
萬里若乘空。 萬里 空(クウ)に乘ずるが若(ゴト)し。
向国惟看日, 国に向いて 惟(タ)だ日を看,
帰帆但信風。 帰帆 但だ風に信(マカ)す。
鰲身映天黑, 鰲身(ゴウシン) 天に映じて黑く, 
魚眼射波紅。 魚眼 波を射て紅なり。
鄕樹扶桑外, 鄕樹 扶桑の外,
主人孤島中。 主人 孤島の中。
別離方異域, 別離 方(マサ)に域を異にし,
音信若為通。 音信 若爲(イカ)に通ぜん。
 註]
積水:海。 滄海:青い海。
九州:本来は、中国全土を指すが、ここでは天下、全世界の意。
鰲:海中に住むといわれる伝説上のオオウミガメ。
扶桑:太陽が昇る所にある木。日本を指すこともある。
主人:送別の宴の主賓、晁衡を指す。 若為:どのようにして。

<現代語訳>
  秘書監の晁衡が日本国へ還るのを送る
海の果てを極めることはできないし、
青海原の東の方など如何に知り得ようか。
世界中で最も遠いのはどこであろうか(あなたの国であろう)、
万里の旅は、天空を渡っているかのようなものであろう。
国に向かってただただ太陽を見つつ、帰国の船は風任せ。
オオウミガメの背中は、黒々と天に映えて、
魚の目は波を射抜いて赤々と光る。
貴君の故郷の木々は、扶桑の木のさらに先、貴君は海上に浮く孤島の中。
ここで別れてしまえば、まさに別世界、便りはいかに伝えようか。
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作者・王維については、閑話休題52で触れました。太原(山西省)出身で、博学多芸、17歳時に長安に遊学、21歳に進士に合格している。母の影響下、仏教に帰依し、“詩仏”と称されている。

上の詩を3段に分けて読んでいくと、王維のもつ“日本国”についてのイメージがいかほどのものであるか 解るように思える。簡単に、

初めの4句(第一段):果てのない大海原の東にあって、想像を超えるはるかに遠い所。行けども行けどもいつ行き着くかわからず、天空を浮遊しているようなものである。

中の4句(第2段):太陽を見つつ方角を定め、船は、ひたすら故国をめざして、風任せに進んでいく。その大海原には、名も知らぬ不気味な生き物が棲んでいて、異世界の状況である。

最後の4句(第3段):貴君のふるさとは、扶桑のさらに先にあり、絶海の孤島にある。ここで別れて、異界に行かれたのち、便りはいかに遣り取りしたものか。

滄海の先にある“日本国”/“異域”の“孤島”の内情については一言も触れられていません。“晁衡”という優秀な人物が現れている事実と、不気味な生き物が棲む大海原の先にあるということとの整合に戸惑いを感じておられるのであろうか。

この“旅シリーズ”は、主として、漢詩を通して名所旧跡を探る“旅”を目指しています。とは言え、本稿のように、故郷を離れた所に関する種々の出来事、情景も“旅”の一つの姿として、機に応じて今後も取り上げるつもりです。

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閑話休題 119 飛蓬-33: 小倉百人一首 (7番) あまのはら

2019-10-03 15:30:24 | 漢詩を読む

 天の原 振りさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
 阿倍仲麻呂
<訳> はてしない広さの大空を振り仰いでみると、美しい月が出ている。あの月は、故国の日本で見た春日の三笠の山に出ていた月と、同じものなのだなあ。(板野博行)

阿倍仲麻呂(698~770)は、717年、第9次遣唐使として唐の都・長安に留学する。唐名を晁衡(チョウコウ)と称し、唐朝で科挙に及第して諸官を歴任、高官に登っていた。唐では玄宗皇帝(在位712~756)の頃である。

唐では、王維(701?~761)や李白(701~761)たちと交流を結んでいたようである。上の歌は、仲麻呂が、官職を終えて帰国が許され、王維らによる送別の宴が催された折に、日本語で詠われた歌とされています。上の歌を七言絶句に作りました(下記参照)。

実際は、帰国の途上、暴風雨に遭い、乗っていた船は、安南(現ベトナム)に漂着した。再び長安に戻り、復職している。結局日本への帰国は叶わず、唐で客死した。

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<漢字原文および読み下し文>
 懐故国 故国を懐(オモ)う  (下平声一先韻)
迢迢顧望東昊天, 迢迢(チョウチョウ)たる 東の昊天(コウテン)を顧望(コボウ)すれば,
皎皎嫦娥亦寂然。 皎皎(コウコウ)たる嫦娥(ジョウガ) 亦た寂然(セキゼン)たり。
緬想扶桑春日地, 緬想(メンソウ)す 扶桑(フソウ)春日の地,
三笠山上月同円。 三笠山上 月 同じく円(マドカ)なるを。
 註]
迢迢:はるかに遠いさま,皎皎:白く光り輝くさま;後漢「古詩十九首 其の十 迢迢牽牛星」(作者不明)に拠った。
昊天:広い空。
嫦娥:中国古代の伝説上の人物で、月に住む仙女。転じて“月”の異称。
緬想:思いを馳せる。 扶桑:日の出る東海の土地、日本の異称。

<簡体字およびピンイン>
 怀故国 Huái gùguó
迢迢顾望东昊天, Tiáotiáo gùwàng dōng hào tiān,
皎皎嫦娥亦寂然。 jiǎojiǎo Cháng'É yì jìrán.
缅想扶桑春日地, Miǎnxiǎng fúsāng chūnrì dì,
三笠山上月同圆。 Sānlìshān shàng yuè tóng yuán.

<現代語訳>
 故国を偲ぶ
振り返って、遥かに遠く東の大空に目をやれば、
月が明るく光り輝いて見え、また一抹の寂しさを覚える。
想いは、日本の奈良・春日の地、
三笠山の山上に見た月も同じく真ん丸であったことに及ぶのである。
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歌の作者・阿部仲麻呂は、大和の国で貴族の家に生まれ、若くしてその学才を認められた。18歳で遣唐使に推薦されて、翌年(717)、19歳に第9次遣唐使として唐の都・長安に留学する。

唐の官吏養成のための最高学府・太学で学び科挙に合格、玄宗に仕える。725年(28歳)、洛陽の司経局校書として任官し、以後諸官職を重ねていく。主に文学畑の役職を務めたことから、李白など多くの詩人とも親交を持っていたようである。

753年(56歳)、在唐36年を経ていた仲麻呂は、第12次遣唐使一行の来唐を機に帰国を願い出て、秘書監・衛尉卿を授けられて帰国が許されます。その折、王維は、送別の宴を催すとともに、別離の詩「秘書晁監の日本国へ還るを送る」を残しています。

この宴会の席上、仲麻呂は、上掲の歌を日本語で詠った とされています。一方、日本を発ち、遣唐使船の上で遠ざかる日本を振り返って詠ったとの説もある。漢詩化は、前者の情景を念頭に進めました。

しかし帰国の途上、仲麻呂らの乗った船は、暴風雨に遭い、帰国は叶いませんでした。すでに朝廷を追われた李白は、流浪の旅の空で仲麻呂遭難の報を知り、亡くなったものと思い込み、弔いの詩「晁卿衡を哭す」を残しています。

実際は、仲麻呂らの乗船は、南方、安南・驩州(カンシュウ、現ベトナム中部ヴィン)に漂着し、755年、長安に帰着しました。別のルートで帰国を図るが、その年に起こった“安史の乱”のため、帰国は許されず、帰国を断念します。“安史の乱”の混乱の中、如何に難を避けて過ごされたかは、不明である。

仲麻呂は、再び官途に就き、760年以降、ベトナムに赴いた。6年間(761~767)、ハノイの安南都護府に在任、安南節度使等を務め、最後は潞州(ロシュウ)大都督(従二品)を贈られている。結局、日本への帰国は叶えられず、770年73歳の生涯を閉ざした。

王維「秘書晁監の日本国へ還るを送る」および李白「晁卿衡を哭す」については、続けて、別の “旅”シリーズの稿で読むつもりにしています。特に王維の詩では、当時の中原の知識人が日本をどのように見ていたか その一端を伺えるように思えます。
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