愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 191 飛蓬-98 小倉百人一首:(清原深養父)夏の夜は

2021-01-25 10:14:09 | 漢詩を読む
36番 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 
     雲のいづこに 月宿るらむ (『古今和歌集』夏 166) 
           清原深養父(フカヤブ) 
<訳> 夏の夜は(とても短いので)まだ宵の時分だなあと思っていたら、もう明けてしまった。月も(西の山かげに隠れる暇もなくて)いったい雲のどこのあたりに宿をとっているのだろうか。(小倉山荘氏) 

oooooooooooo 
夏の夜の短いことを大仰に詠っていますが、月を擬人化して詠いこんでいるのが面白い。今様に理解する(?)なら、地球の運行に月が追随できず、取り残された月は雲のどっかで宿をとって、休んでいるのであろうか と。

清原深養父は、平安中期の歌人・貴族。生没年(10世紀前後)未詳。存命中は高い評価を受けていたようであるが、藤原公任(966~1041)の『三十六人撰』(いわゆる三十六歌仙)に漏れていた。後に藤原俊成(1114~1204)らにより再評価され中古三十六歌仙に選ばれている。

上の歌は、「夏の夜の感慨」と題して、五言絶句としました。歌の月の擬人化に呼応して、「月は馬車に乗って夜空を回る」という中国の古い言い伝えの“馬車の御者”にも登場してもらいました。

xxxxxxxxxxxx 
<漢字原文および読み下し文> [上声十七篠韻]
 夏夜感慨 夏の夜の感慨   
夏夜一何短, 夏の夜 一(イツ)に何ぞ短き,
覚宵就払暁。 宵と覚(オボ)ゆるに就(ジキ)に払暁(フツギョウ)となる。 
望舒追不上, 望舒(ボウジョ)は追(オ)いあたわず, 
月宿雲杳杳。 月 雲の杳杳(ヨウヨウ)たるに宿(ヤド)るらん。 
 註] 
  払暁:明け方。 
  望舒:月を乗せる馬車の御者。『楚辞』中の屈原作・長編詩「離騒」: 
   「望舒を前に先駆せしめ」に依った。 
  杳杳:影も見えないほど遠いさま。 

<現代語訳> 
 夏の夜の感慨  
夏の夜はなんと短いことか、 
宵のうちと思っていたら、直に夜が明けた。 
月の御者望舒は、運行の速さに追ていけず、 
月は遥か彼方の雲のどこかで宿を取っているのであろう。 

<簡体字およびピンイン> 
 夏夜感慨 Xià yè gǎnkǎi 
夏夜一何短, Xià yè yì hé duǎn, 
觉宵就拂晓。 jué xiāo jiù fúxiǎo.  
望舒追不上, Wàngshū zhuībushàng, 
月宿云杳杳。 yuè sù yún yǎoyǎo.  
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清原深養父は、天武天皇の末孫に当たる。日本書紀編纂を主宰した舎人親王(676~735)の裔に当たる豊前介・清原房則の子息、歌人・清原元輔(百人一首42番、閑話休題-139)の祖父、清少納言(同62番、閑話休題-123)の曽祖父である。

60代醍醐天皇(885~930)治世下、内匠少允(908)、内蔵大允(923)等を歴任、従五位下叙位(930)と官位は低かったが、歌人として聞こえていた。『古今集』(17首)以下の勅撰和歌集に42首入集されている。家集に『深養父集』があり、その巻1が宮内庁書陵部に伝わっている と。

藤原公任(966~1041、同55番、閑話休題-148)撰による三十六歌仙に漏れていたこともあって、平安末期まで秀歌の扱いを受けていなかったようである。後に藤原俊成(1114~1204、同83番、閑話休題-155)や藤原清輔(1104~1177、同84番)らにより再評価され中古三十六歌仙に選ばれている。

深養父の歌風は、いわゆる古今風で主観的、観念的であるとされている。上掲の歌は、技巧的でアイデアに富んだ歌で、夏の夜空を仰ぎ見つつ、自然の姿をファンタジックに詠っています。漢詩では、つい中国の古い幻想の世界を重ねてみたくなりました。

深養父は、琴の名手であったと伝えられている。『後撰和歌集』(951成立)には、深養父の琴を聴きながら、藤原兼輔(同27番)と紀貫之(同35番、閑話休題-140)が詠んだという歌が収められています。

藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒等の歌人たちと親しく交流し、宇多-醍醐朝の和歌隆盛期を支えた一人と言えよう。晩年は、京都・洛北・市原野に補陀落寺(ブダラクジ)を建立し、隠棲したという。

『後撰和歌集』中、深養父の琴を聴きながら詠われたという藤原兼輔の歌を読んで、本項の締めとします。松の名所、播磨国・高砂の峰の松風に喩えて、深養父の琴の音を讃美した歌である。 

 夏の夜、深養父が琴ひくをききて 
みじか夜の 更けゆくままに 高砂の 
   峰の松風 吹くかと聞く (『後撰和歌集』夏 167、 藤原兼輔) 
  [夏の短い夜が更けていくにつれて、琴の音が、あたかも高砂の峰の松に 
  吹き付ける風が音を立てているかのように聞こえてくる] 
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閑話休題 190 飛蓬-97 小倉百人一首:(坂上是則)朝ぼらけ 

2021-01-18 10:34:12 | 漢詩を読む
31番 朝ぼらけ 有明の月と みるまでに  
      吉野の里に ふれる白雪  
          坂上是則『古今集』冬・332 
<訳> ほのぼのと夜が明けるころ、空に残っている有明の月の光が降り注いでいるかと思うばかりに、吉野の里に降り積もっている白雪よ。(板野博行) 

oooooooooooooo 
ふと目を覚ますと周囲が明るい。残月の月明りかと思いきや、一面雪化粧による雪明りであった。以前、権中納言定頼の、宇治川で徐々に途切れゆく川霧の切れ間に、次第に姿を現していく網代木の情景を読みました。ともに冬の“朝ぼらけ”、名勝地

作者・坂上是則は、かつての征夷代将軍・坂上田村麻呂から5代目の子孫で、貴族・歌人。官位は従五位下・加賀介に至った。三十六歌仙の一人。子息の望城も歌に優れていて、“梨壷の五人”のうちの一人である。

是則の歌は、李白:<<静夜思>>:「疑是地上霜 [地上に降りた霜による明るさかと思った] ら、月明かりであった」と、雪と霜の違いはあるが、全く逆の展開である。七言絶句にしました。承句は、李白に倣った。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声七陽韻] 
 吉野郷里雪光 吉野の郷(サト)の雪光(ユキアカリ)  
払暁明明違往常, 払暁(フツギョウ) 明明(メイメイ)として往常(イツモ)と違(タガ)い, 
使人疑惑是月光。 人をして是(コ)れ月光ならんと疑惑(ギワク)せ使(シ)む。 
但没天亮那残月、 但(タダ) 天亮(ヨアケ)の那(カ)の残月はなく、 
一片白雪吉野郷。 一片(イチメン) 白雪の吉野の郷。 
 註] 
  雪光:雪明り。       払暁:あかつき、あけぼの。
  明明:たいそう明るいさま。 往常:ふだん、いつも。
  疑惑:疑わしく思う。    天亮:夜が明ける。
  吉野郷:奈良県中部、桜の名所。 

<現代語訳> 
 吉野の郷の雪明り 
あかつきの頃 いつもと違うほどに明るく、 
有明の月の光が降り注いでいるものとばかり思っていた。 
ところが想像していたあの残月はなく、 
辺り一面雪化粧した銀世界の吉野の郷である。 

<簡体字およびピンイン> 
 吉野乡里雪光 Jíyě xiānglǐ xuě guāng   
拂晓明明违往常, Fúxiǎo míngmíng wéi wǎngcháng, 
使人疑惑是月光。 shǐ rén yíhuò shì yuèguāng.  
但没天亮那残月、 Dàn méi tiānliàng nà cányuè, 
一片白雪吉野乡。 yīpiàn báixuě Jíyě xiāng.   
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坂上是則は、平安時代前期から中期にかけて活躍した貴族、歌人。その生年は不詳、930年(?)没。かの征夷大将軍・坂上田村麻呂の五代後の子孫である。父・好蔭(ヨシカゲ)も、陸奥権介の任にあって蝦夷の乱の鎮圧に貢献している(元慶の乱、879)。

当時、内政面では承和の変(842、閑話休題-189)に続く3、40年、やはり皇位継承に混乱が見られた。その混乱を契機に、藤原良房の後を継いだ基経(836~891)が台頭し、摂政・関白の新役職を設けて政務に口出しできる道を開き、権力構造を確立した(同-170)。

是則が仕えた59代宇多天皇(在位887~897)および60代醍醐天皇(在位897~930)の頃は、それぞれ、“寛平の治”および“延喜の治”として比較的に安定していた時代であった。紀貫之や凡河内躬恒らによる第一代勅撰和歌集『古今和歌集』が撰された頃である。

是則は、901年3月3日に紀貫之邸の庭で催された曲水の宴・歌会で詠進して、歌壇デビューの機会となったということである。参加者は8人で、凡河内躬恒・藤原伊衡・紀友則・藤原興風・大江千里・坂上是則・壬生忠岑・紀貫之の順で出詠した と。その折の詠歌は、家集「紀師匠曲水宴和歌」として残されている。

『古今和歌集』の撰に関わった紀貫之らに次ぐ優れた歌人であったと評価されている。上掲の歌でもそうであるが、是則のおおらかで、伸び伸びとした趣きの歌は、平穏であった時代を反映したものと理解されています。

是則は、908年大和権少掾、次いで大和大掾に任じられ、912年少監物に転じ、帰京後、少内記、大内記を経て、従五位下加賀介(924)と栄進している。大和の自然は熟知しているのでしょう、大和を主題にした歌が多いと。上記の歌は、大和権少掾に任じられて大和を訪れた折の作とされています。

当時の多くの歌合にも出詠するなど歌人としての活躍も活発であったようで、『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に39首入集され、家集に『是則集』がある。後に三十六歌仙の一人に選ばれている。

特筆すべき逸話に蹴鞠に秀でていたことが挙げられる。醍醐天皇の御前で行われた蹴鞠で206回、一度も落とさず蹴り続けて、天皇の賞賛を受け、褒美に絹を下賜されたという。田村麻呂の血を承けて(?)運動神経がよく発達していたのでしょう。

子息の望城(?~980)も和歌に優れていた。62代村上天皇(在位946~967)の命により設けられた和歌所の寄人(御書所預)となり、いわゆる“梨壷の五人”の一人として、『万葉集』の訓読や第2代勅撰和歌集・『後撰和歌集』の撰集に当たっている。

同じく“朝ぼらけ”で始まる百人一首の歌に、権中納言定頼作の歌(百人一首64番)があり、本シリーズですでに読んでいます(同-147)。是則の歌が“静止画”であるのに対して、定頼の歌は刻々と情景が変わりゆく“動画”と言えようか。比較参照の為、再掲します。

64番 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに 
     あらわれわたる 瀬々の網代木(権中納言定頼『千載集』冬・419) 
    [明け方、あたりが徐々に明るくなってくる頃、宇治川の川面にかかる 
    朝霧も薄らいできた。その霧が切れてきたところから現れてきたのが、 
    川瀬に打ち込まれた網代木だよ。](小倉山荘氏) 
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閑話休題 189 飛蓬-96 小倉百人一首:(中納言行平)たち別れ

2021-01-11 09:44:18 | 漢詩を読む
16番  たち別れ いなばの山の 峰に生ふる  
      まつとし聞かば 今帰り来む 
         中納言行平『古今集』離別・365 
<訳> お別れして、因幡の国へ行く私ですが、因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待つと聞いたなら、すぐに戻ってまいりましょう。(小倉山荘氏) 

ooooooooooooo 
因幡の国への赴任に際し、後ろ髪を引かれる思いを因幡山の松の木に事寄せて詠っています。京から遠く離れた任地に赴くに当たって、名残惜しい想いに駆られて、事と次第によっては、……と言わんばかりの気負いが感じられる歌である。

作者・中納言行平(818~893)は、51代平城(ヘイゼイ)天皇(在位806~809)の第一皇子・阿保(アボ)親王の次(?三)男、異母弟に在原業平(825~880)がいる。業平とは異なり、有能な官吏で順調に昇進して、正三位・中納言に至っている。

上の歌は、五言絶句の漢詩にしてみました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十五刪韻] 
 当赴因幡国 因幡(イナバ)の国に赴くに当って 
别赴因幡地, 别れて因幡の地に赴く, 
有松稻羽山。 稻羽(イナバ)の山には松有り。 
聞君等余返, 余が返(カエ)りを君等(マ)つと聞かば, 
我就要回還。 我は就(ジキ)に回還(カイカン)を要せん。 
 註] 
  因幡:現鳥取県。       稻羽山:因幡の国庁近くにある山。 
  回還:もとの場所に戻る。
 ※ 赴(赴任して行く=往(イ)なば)と因幡、松と等(まつ)は、
   それぞれ、和歌中の掛詞に対応。 

<現代語訳>  
 因幡の国に赴任するに当たって  
私は君と別れて因幡の土地に赴任します、 
稲羽山の峰には松の木が生えている。 
その松に似て、私の帰りを君が待っている と聞いたなら、 
私は直ちに帰ってくることにしますよ。 

<簡体字およびピンイン> 
 当赴因幡国 Dāng fù Yīnfān guó 
别赴因幡地,Bié fù Yīnfān dì, 
有松稻羽山。yǒu sōng Dàoyǔ shān. 
闻君等余返,Wén jūn děng yú fǎn,  
我就要回还。wǒ jiù yào huíhuán. 
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行平は、異母弟・業平ともに、父・阿保親王の奏請により、在原朝臣(アソン)姓を賜与され、臣籍降下した(826)。順調に昇進し、特に民政に才を発揮したようである。855年(38歳)、従四位下に叙せられると同時に因幡守に任じられた。上の歌は任国に赴く際に作られたものである。

地方赴任2年余で兵部大輔として京官に復し帰京する(857)。理由は定かでないが、55代文徳天皇(在位850~858)の時、須磨に蟄居を余儀なくされており、それが「源氏物語」の“須磨”の巻のモデルであるとされている。

また当時の国家的教育機関・大学寮の付属機関・別曹(学生寮)として、奨学院を創設し(881)、大学寮を目指す在原氏および他の王士の子弟の修学の便を計った。当時は藤原氏の勧学院と並んで著名であった由。

歌人としての行平は、『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に11首入集されている。また880年代中頃に民部卿行平歌合(在民部卿家歌合)を主催しており、これは現存する最古の歌合とされている。

行平の活躍した平安時代の初期は、皇位継承の混乱に乗じ、政治的陰謀による藤原氏の他氏排斥が進み、藤原氏北家の繁栄の基礎が築かれた時期と言える。華麗な王朝文化が花開くその陰で、権謀術数が横行していた。その辺の事情を垣間見てみます。

時は50代桓武天皇(在位781~806)の平城京から平安京への遷都(794)後間もない頃である。第一皇子・平城帝が病弱で、第二皇子・嵯峨天皇(52代、在位809~823)に譲位された。平城帝の尚侍(ショウジ)・藤原薬子(クスコ)とその兄・参議・仲成(藤原式家系)はそれに不服で、平城上皇の復位を策する。

810年1月、上皇は平城京に移り、平安/平城の“二所朝廷”の不安定な状況となる。9月6日、上皇は平城京遷都の詔勅を発する。10日、嵯峨帝は拒否を決断、臨戦態勢を敷き、11日、仲成を逮捕、死刑に処し、薬子の官位を略奪。12日、上皇は剃髪して出家。この通称“薬子の変”は、3日で終結した。

この変を機に、藤原氏式家系は脱落、かねて嵯峨帝の信任厚かった藤原冬嗣(北家、775~826)の台頭が著しく、北家繁栄の端緒が開かれたことになる。時経て、冬嗣の第2子・良房(804~872)が嵯峨上皇および檀林皇太后の信任を得て台頭していた。

皇位は嵯峨から、弟の淳和(53代、在位823~833)に、次いで皇子・仁明帝(54代、在位833~850)へと継がれていき、仁明帝時の皇太子に恒貞親王(825~884)が立てられた。恒貞親王は淳和帝の第2皇子で、母は嵯峨上皇の内親王正子である。 

一方、仁明帝には道康親王(827~858)がおり、母は良房の妹・順子で、同親王は良房にとっては甥に当たる。良房は道康親王の皇位継承を望んでいた。その意を汲んで、淳和帝および恒貞親王は嵯峨上皇に皇太子辞退を奏請するが、上皇に慰留されていた。

840年淳和上皇が崩御、842年(承和9年)7月、嵯峨上皇が病に伏す。皇太子・恒貞親王に仕える春宮坊帯刀(タテワキ)舎人・伴健岑(コワミネ)とその盟友・但馬権守・橘逸勢(ハヤナリ)は危機感を覚え、皇太子を東国へ移すよう画策する。

7月15日、嵯峨上皇が崩御。2日後の17日、仁明帝は、伴健岑、橘逸勢一味を逮捕するに至る。伴健岑らの画策は、相談を受けた阿保親王が密告したことから発覚したようである。恒貞親王は廃太子、伴健岑は隠岐(後に出雲)へ、橘逸勢は伊豆に流罪(途中遠江国板築で没)とされた。

結果、道康親王は皇太子に、後の文徳天皇(55代、在位850~858)である。良房は大納言に、さらに人臣最初の摂政・太政大臣へと昇進した。後に “承和の変”と称されるこの事変を通して、大伴や橘氏ら他有力氏族が排斥されるとともに、北家藤原氏繁栄の基礎が築かれたのである。

蛇足ながら、須磨に蟄居中に宮廷内にいる人に贈ったとされる、行平の歌を読んで本項の締めとします。

わくらばに 問う人あらば 須磨の浦に 
   藻塩垂れつつ わぶとこたえよ (古今和歌集 雑 在原行平朝臣) 
  [偶然にでもわたしの消息を尋ねる人があったなら 須磨の浦で藻塩に 
  海水をかけ(涙を流して)思い悩んでいると答えてくれ](小倉山荘氏) 
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閑話休題 188 飛蓬-95 令和三年 静かなお正月

2021-01-06 15:07:04 | 漢詩を読む
コロナ感染拡大が治まらない……。科学的に、否、常識的に考えても、何らかの手立てを施さない限り、感染の拡大は当然の結果-感染者増-を招くはずである。手を拱いて様子を窺う時期はとうに過ぎていよう……に。

経済活性化 vs. 感染抑制。両者のバランスを取る難しさ、想像に難くない。ただ第一波、第二波の経験を踏まえながらも、強烈な第三波に喘いでいる今日、国民の学習能力の拙劣さが案じられる。

指数関数的に増えているように見える感染状況から推察するに、経済/感染のバランスを取る舵取り役の関心が経済面に偏っていたことが想像されてならない。残念ながら、基本的には以後もこの傾向が変わることは期待薄と思われる。

とは言え、彼らとて心の奥底では感染拡大が治まることを念じておられる筈だ。コロナよ、どうか舵取り役のその“念い”に忖度して、感染の拡大を自ら控えてくれ!せめてワクチンに手が届くまでは……。

との想いを七言絶句の漢詩としました。辛丑の歳、元旦の所感である。

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<漢詩原文および読み下し文> [上平声十一真韻] 
 辛丑平靜的元旦 
  辛丑(シンチュウ) 平靜(シズカ)な元旦 
欲朝拜廟夕歓会,
 朝(アシタ)に廟(ビョウ)を拜(ハイ)し 夕(ユウ)に歓会(カンカイ)せんと欲するも,
日夜城中少生民。
 日夜 城中に生民(セイミン) 少し。 
冠狀若懐情義気,
 冠狀(コロナ)よ 若(モ)し情義の気を懐(イダ)くなら,
請忖度対那些人。  
 請う 那些(アレラ)の人びとに対し忖度するを。 

 註] 
  拜廟:初詣。神社・仏閣への元朝参り。 生民:ひとびと。 
  冠狀:コロナウイルス。        情義:人情と義理。
  那些人:あの何人かの人たち、一部の国高官を指す。 

<現代語訳> 
 令和三年 静かな元旦
例年の如くに、朝に初詣を済ませて、夕には友や家族と集まりを持とうとしても、
昼も夜も街に出歩く人は少なく、終日巣ごもりのお正月である。
コロナよ、情義心を持ち合わせているならば、
どうか国の高官に忖度して治まってくれ。

<簡体字およびピンイン> 
 辛丑平静的元旦 Xīn chǒu píngjìng de Yuándàn 
欲朝拜庙夕欢会, Yù zhāo bài miào xī huān huì,
日夜城中少生民。 rìyè chéngzhōng shǎo shēng mín.
冠状若怀情义气, Guānzhuàng ruò huái qíngyì qì,
请忖度对那些人。 qǐng cǔnduó duì nàxiē rén.
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最新の情報では、正月7日より、首都圏で“緊急事態宣言”を発出するとのことである。どの程度のブレーキとなるか不明ではあるが、感染拡大の抑制に繫がることを多いに期待する。遅きに失した思いはあるが、やっと“政治的英断”が下される気配である。

“1”を超える“実効再生産数”の状況下では、自明の理ながら、感染状況の現状を維持するだけでも、小出しにブレーキを強めていく必要がある。ましてや感染黙滅を計るためには、それなりの覚悟を要しよう。

過去1年間の苦い経験を通して、知識はかなり蓄積されたように想像される。“緊急事態宣言”の時期、強さ、期間、範囲等々、納得のいく“メリハリ”の利いた臨機応変の“英断”を以て、先手、先手で対応されることを、舵取り役高官に切に望むのである。
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