36番 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづこに 月宿るらむ (『古今和歌集』夏 166)
清原深養父(フカヤブ)
<訳> 夏の夜は(とても短いので)まだ宵の時分だなあと思っていたら、もう明けてしまった。月も(西の山かげに隠れる暇もなくて)いったい雲のどこのあたりに宿をとっているのだろうか。(小倉山荘氏)
oooooooooooo
夏の夜の短いことを大仰に詠っていますが、月を擬人化して詠いこんでいるのが面白い。今様に理解する(?)なら、地球の運行に月が追随できず、取り残された月は雲のどっかで宿をとって、休んでいるのであろうか と。
清原深養父は、平安中期の歌人・貴族。生没年(10世紀前後)未詳。存命中は高い評価を受けていたようであるが、藤原公任(966~1041)の『三十六人撰』(いわゆる三十六歌仙)に漏れていた。後に藤原俊成(1114~1204)らにより再評価され中古三十六歌仙に選ばれている。
上の歌は、「夏の夜の感慨」と題して、五言絶句としました。歌の月の擬人化に呼応して、「月は馬車に乗って夜空を回る」という中国の古い言い伝えの“馬車の御者”にも登場してもらいました。
xxxxxxxxxxxx
<漢字原文および読み下し文> [上声十七篠韻]
夏夜感慨 夏の夜の感慨
夏夜一何短, 夏の夜 一(イツ)に何ぞ短き,
覚宵就払暁。 宵と覚(オボ)ゆるに就(ジキ)に払暁(フツギョウ)となる。
望舒追不上, 望舒(ボウジョ)は追(オ)いあたわず,
月宿雲杳杳。 月 雲の杳杳(ヨウヨウ)たるに宿(ヤド)るらん。
註]
払暁:明け方。
望舒:月を乗せる馬車の御者。『楚辞』中の屈原作・長編詩「離騒」:
「望舒を前に先駆せしめ」に依った。
杳杳:影も見えないほど遠いさま。
<現代語訳>
夏の夜の感慨
夏の夜はなんと短いことか、
宵のうちと思っていたら、直に夜が明けた。
月の御者望舒は、運行の速さに追ていけず、
月は遥か彼方の雲のどこかで宿を取っているのであろう。
<簡体字およびピンイン>
夏夜感慨 Xià yè gǎnkǎi
夏夜一何短, Xià yè yì hé duǎn,
觉宵就拂晓。 jué xiāo jiù fúxiǎo.
望舒追不上, Wàngshū zhuībushàng,
月宿云杳杳。 yuè sù yún yǎoyǎo.
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清原深養父は、天武天皇の末孫に当たる。日本書紀編纂を主宰した舎人親王(676~735)の裔に当たる豊前介・清原房則の子息、歌人・清原元輔(百人一首42番、閑話休題-139)の祖父、清少納言(同62番、閑話休題-123)の曽祖父である。
60代醍醐天皇(885~930)治世下、内匠少允(908)、内蔵大允(923)等を歴任、従五位下叙位(930)と官位は低かったが、歌人として聞こえていた。『古今集』(17首)以下の勅撰和歌集に42首入集されている。家集に『深養父集』があり、その巻1が宮内庁書陵部に伝わっている と。
藤原公任(966~1041、同55番、閑話休題-148)撰による三十六歌仙に漏れていたこともあって、平安末期まで秀歌の扱いを受けていなかったようである。後に藤原俊成(1114~1204、同83番、閑話休題-155)や藤原清輔(1104~1177、同84番)らにより再評価され中古三十六歌仙に選ばれている。
深養父の歌風は、いわゆる古今風で主観的、観念的であるとされている。上掲の歌は、技巧的でアイデアに富んだ歌で、夏の夜空を仰ぎ見つつ、自然の姿をファンタジックに詠っています。漢詩では、つい中国の古い幻想の世界を重ねてみたくなりました。
深養父は、琴の名手であったと伝えられている。『後撰和歌集』(951成立)には、深養父の琴を聴きながら、藤原兼輔(同27番)と紀貫之(同35番、閑話休題-140)が詠んだという歌が収められています。
藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒等の歌人たちと親しく交流し、宇多-醍醐朝の和歌隆盛期を支えた一人と言えよう。晩年は、京都・洛北・市原野に補陀落寺(ブダラクジ)を建立し、隠棲したという。
『後撰和歌集』中、深養父の琴を聴きながら詠われたという藤原兼輔の歌を読んで、本項の締めとします。松の名所、播磨国・高砂の峰の松風に喩えて、深養父の琴の音を讃美した歌である。
夏の夜、深養父が琴ひくをききて
みじか夜の 更けゆくままに 高砂の
峰の松風 吹くかと聞く (『後撰和歌集』夏 167、 藤原兼輔)
[夏の短い夜が更けていくにつれて、琴の音が、あたかも高砂の峰の松に
吹き付ける風が音を立てているかのように聞こえてくる]
雲のいづこに 月宿るらむ (『古今和歌集』夏 166)
清原深養父(フカヤブ)
<訳> 夏の夜は(とても短いので)まだ宵の時分だなあと思っていたら、もう明けてしまった。月も(西の山かげに隠れる暇もなくて)いったい雲のどこのあたりに宿をとっているのだろうか。(小倉山荘氏)
oooooooooooo
夏の夜の短いことを大仰に詠っていますが、月を擬人化して詠いこんでいるのが面白い。今様に理解する(?)なら、地球の運行に月が追随できず、取り残された月は雲のどっかで宿をとって、休んでいるのであろうか と。
清原深養父は、平安中期の歌人・貴族。生没年(10世紀前後)未詳。存命中は高い評価を受けていたようであるが、藤原公任(966~1041)の『三十六人撰』(いわゆる三十六歌仙)に漏れていた。後に藤原俊成(1114~1204)らにより再評価され中古三十六歌仙に選ばれている。
上の歌は、「夏の夜の感慨」と題して、五言絶句としました。歌の月の擬人化に呼応して、「月は馬車に乗って夜空を回る」という中国の古い言い伝えの“馬車の御者”にも登場してもらいました。
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<漢字原文および読み下し文> [上声十七篠韻]
夏夜感慨 夏の夜の感慨
夏夜一何短, 夏の夜 一(イツ)に何ぞ短き,
覚宵就払暁。 宵と覚(オボ)ゆるに就(ジキ)に払暁(フツギョウ)となる。
望舒追不上, 望舒(ボウジョ)は追(オ)いあたわず,
月宿雲杳杳。 月 雲の杳杳(ヨウヨウ)たるに宿(ヤド)るらん。
註]
払暁:明け方。
望舒:月を乗せる馬車の御者。『楚辞』中の屈原作・長編詩「離騒」:
「望舒を前に先駆せしめ」に依った。
杳杳:影も見えないほど遠いさま。
<現代語訳>
夏の夜の感慨
夏の夜はなんと短いことか、
宵のうちと思っていたら、直に夜が明けた。
月の御者望舒は、運行の速さに追ていけず、
月は遥か彼方の雲のどこかで宿を取っているのであろう。
<簡体字およびピンイン>
夏夜感慨 Xià yè gǎnkǎi
夏夜一何短, Xià yè yì hé duǎn,
觉宵就拂晓。 jué xiāo jiù fúxiǎo.
望舒追不上, Wàngshū zhuībushàng,
月宿云杳杳。 yuè sù yún yǎoyǎo.
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清原深養父は、天武天皇の末孫に当たる。日本書紀編纂を主宰した舎人親王(676~735)の裔に当たる豊前介・清原房則の子息、歌人・清原元輔(百人一首42番、閑話休題-139)の祖父、清少納言(同62番、閑話休題-123)の曽祖父である。
60代醍醐天皇(885~930)治世下、内匠少允(908)、内蔵大允(923)等を歴任、従五位下叙位(930)と官位は低かったが、歌人として聞こえていた。『古今集』(17首)以下の勅撰和歌集に42首入集されている。家集に『深養父集』があり、その巻1が宮内庁書陵部に伝わっている と。
藤原公任(966~1041、同55番、閑話休題-148)撰による三十六歌仙に漏れていたこともあって、平安末期まで秀歌の扱いを受けていなかったようである。後に藤原俊成(1114~1204、同83番、閑話休題-155)や藤原清輔(1104~1177、同84番)らにより再評価され中古三十六歌仙に選ばれている。
深養父の歌風は、いわゆる古今風で主観的、観念的であるとされている。上掲の歌は、技巧的でアイデアに富んだ歌で、夏の夜空を仰ぎ見つつ、自然の姿をファンタジックに詠っています。漢詩では、つい中国の古い幻想の世界を重ねてみたくなりました。
深養父は、琴の名手であったと伝えられている。『後撰和歌集』(951成立)には、深養父の琴を聴きながら、藤原兼輔(同27番)と紀貫之(同35番、閑話休題-140)が詠んだという歌が収められています。
藤原兼輔、紀貫之、凡河内躬恒等の歌人たちと親しく交流し、宇多-醍醐朝の和歌隆盛期を支えた一人と言えよう。晩年は、京都・洛北・市原野に補陀落寺(ブダラクジ)を建立し、隠棲したという。
『後撰和歌集』中、深養父の琴を聴きながら詠われたという藤原兼輔の歌を読んで、本項の締めとします。松の名所、播磨国・高砂の峰の松風に喩えて、深養父の琴の音を讃美した歌である。
夏の夜、深養父が琴ひくをききて
みじか夜の 更けゆくままに 高砂の
峰の松風 吹くかと聞く (『後撰和歌集』夏 167、 藤原兼輔)
[夏の短い夜が更けていくにつれて、琴の音が、あたかも高砂の峰の松に
吹き付ける風が音を立てているかのように聞こえてくる]