愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題234 菅原道真『新撰万葉集』1

2021-10-25 09:53:18 | 漢詩を読む
<上巻秋1> 
秋風に ほころびぬらし 藤袴 
    つづりさせとて きりぎりすなく 
         在原棟梁(ムネヤナ) (古今集 19) 
 <訳>秋風に吹かれて藤の袴が綻(ホコロ)んだようだ、(はしたないから) 
  “綴(ツヅ)らせよ(縫い合わさせよ)”とキリギリスが鳴いているよ。 

<万葉仮名表記> 

 秋(あき)風(かぜ)丹(に)綻(ほころび)沼(ぬ)良(ら)芝(し)藤袴(ふじばかま) 
    綴(つづり)刺(さ)世(せ)砥(と)手(て)蛬(きりぎりす)鳴(なく)  
    
ooooooooooooo 
藤袴は秋の七草のひとつ。ある日、川岸で藤色の袴を穿いた可愛い少女を見かけた。翌朝、その少女が立っていた所にはきれいな花が咲いていた。その花を“藤袴”と呼ぶようになった との伝説があるようです。中国語では“蘭草”・“香草“。

菅原道真編『新撰万葉集』、上巻秋の部 一番目の歌である。季節柄 最も相応しい歌と言えようか。『新撰万葉集』では、万葉仮名表記の歌と七言絶句の漢詩(下記)が併記されています。向後、折に触れ、同書の漢詩を取りあげ、読み解き・鑑賞していくつもりです。

xxxxxxxxxxxxxxx  
<漢詩>    [下平声8庚韻] 
商颷颯颯葉軽軽、 商颷(ショウヒョウ)颯颯(サツサツ)として葉 軽軽(カルガル)し、 
壁蛬流音数処鳴。 壁 蛬(キリギリス)の流音 数処に鳴く。 
暁露鹿鳴花始発、 暁露(ギョウロ) 鹿鳴いて 花始めて発き、 
百般攀折一枝情。 百般 攀(テビ)きて折る一枝の情。
  註] 
  商颷:秋風; 颯颯:風の吹き寄せる音; 蛬:こおろぎ、キリギリス。古代に 
  “キリギリス”と言っていたのは、今日の“コオロギ”、両者は生物学的には異なる;
  百般:あれこれ; 攀:手で引く。  
<漢詩の現代語訳> 
 秋風が さアッさアッと吹きわたり 木の葉が揺れて、 
 外のあちこちでキリギリスが鳴いている。 
 朝露が降り、鹿が友を求めて鳴き、花が咲き始めた、 
 どの花と言わず、枝を引き寄せ、ひと枝手折りたくなるよ。  

<簡体字およびピンイン>  
  商颷飒飒叶轻轻, Shāng biāo sà sà yè qīng qīng. 
  壁蛬流音数处鸣。 bì qióng liú yīn shù chǔ míng.  
  暁露鹿鸣花始発、 Xiǎo lù lù míng huā shǐ fā, 
  百般攀折一枝情。 bǎibān pān zhé yīzhī qíng. 
xxxxxxxxxxxxxxxx  

歌の作者・在原棟簗(ムネヤナ/ムネハリ、850?~898)は、在原業平(百人一首17番、閑話休題135)の長男である。中古三十六歌仙の一人。古今集に4首、後撰集に2首、続後拾遺集に1首入集されていると。最終官位は従五位上・左衛門佐。

当歌について:初秋、真っ青に澄み切った空の下、日差しは肌に刺すようで痛く、まだ汗ばむ。黄昏のころになると、秋風に揺れる木の葉に合わせて、チリリリリ…チイチイ と草むらのあちこちから蟋蟀がハモル。まだ多くの虫たちの合唱は聞けない。

棟簗は、蟋蟀の鳴き声を“綴(ツヅ)らせよ(=縫い合わさせよ)”と言っているように聞きとって、“みっともなく袴が綻んでいるのだろう”と、詠んでいる。“きりぎりす”の鳴き声から人が着る “袴”、さらに秋の花“藤袴”へと想像が広がる。この歌の妙味と言えよう。ある種“遊び”であるが “袴”を掛詞として歌の物語世界を広げています。

ところで、万葉仮名表記中、“蛬”に“きりぎりす”の振り仮名が付されている。漢和辞書によれば、“蛬(キョウ)”の意は“こおろぎ”とある。同様に“蟋蟀(シッシュツ)”も“こおろぎ”の意である。万葉時代にあっては、今日の“こおろぎ”を“きりぎりす”と呼んでいた と。

中国で“こおろぎ”の別名に、秋に鳴く声が、“冬着の機織りを促すように聞こえる”ところから“促織(ソクショク)”とも呼ばれる。この意を汲めば、蛬の鳴き声から“やがて冬を迎える故、その準備に綻んだ袴をしっかり縫い整えておけよ”と謳っているように聞いたともとれる。

道真漢詩について:<現代語訳>から明らかなように、秋の情景の種々相を挙げ、咲き始めた花に感興を催し、一枝手折りたいものだとその“情”を詠っている。和歌との関連で推察するなら、“一枝手折りたい”花は藤袴であろうか。

『和名抄』に、萩の花は、雄鹿が妻を求めて鳴く頃に開き始めることから、萩を一名“鹿鳴草”という と。漢詩中、承句”鹿鸣花始発”から、“一枝手折りたい”花は、萩の花である可能性が高い。漢詩の“こころ”は、“咲き始めた萩の花”を愛でるところにあるようである。

和歌の世界では、後年、平安末・新古今調のころ、盛んに“本歌取り”の作歌法が応用され、名歌が生まれた。すなわち、古歌など既存の歌の語句や趣向を取り入れて、新しい歌を作ることである。道真漢詩は、棟梁和歌を元歌にした“本歌取り”の詩に思える。

『新撰万葉集』について:『菅家萬葉集』とも称される、菅原道真撰によるとされる私撰和歌集である。上・下の2巻からなり、上巻は893年、下巻は913年成立。各巻とも春・夏・秋・冬・恋の五部からなる。歌毎に万葉仮名表記の和歌とともに七言絶句の漢詩が添えられている。

和歌は、主に宇多朝(887~897)時の「寛平御時后宮歌合(カンピョウノオントキキサイノミヤウタアワセ)」(成立893年以前)や「是貞親王歌合(コレサダノミコノイエノウタアワセ)など大規模な歌合を資料として撰されている と。『萬葉集』以来初めての和歌の撰集とされる。

本集中、和歌と漢詩と併記されていることから、直感的に漢詩は和歌の漢訳であろうと想像れる。事実、本集のある解説書では「和歌の“訳詩”」と記載されている。筆者は、道真漢詩は、和歌で言う“本歌取り”の詩であろうとの感触を持っているが。

『新撰万葉集』には、上巻119首、下巻134首、計253首が収められています。向後、道真漢詩が“訳詩”または“本歌取り”のいずれ?の点も念頭に置きながら、『新撰万葉集』の歌・漢詩を拾い読み、鑑賞していこうと心積もりしております。

本シリーズ「菅原道真-新撰万葉集」を書き進めるに当たって、主に次の2書を参考としています。
・『新撰万葉集』 (京都大学蔵) 臨川書店、1979刊
・高野平『新撰万葉集に関する基礎的研究』風間書房、1970刊

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 233 飛蓬-140 コロナ 治まるか?

2021-10-18 16:15:36 | 漢詩を読む
コロナ感染状況に明るい兆しが見えているように思われますが、錯覚であろうか?異常に拡大した感染第5波により、日常生活のあらゆる面に緊縮を強いられてきたが、心なしか明るく感じられるこの頃である。道端の草花に、草陰で鳴く虫にも、快い気分にされます。

4次緊急事態宣言解除3週間経って、なお感染拡大の兆候が見られない現況をみてホッとしているのだが、即断は許されまい。ワクチン接種の好影響に拠る面が大きいのでしょうが、海外の国々の状況からみて、必ずしも全幅の楽観には程遠いように思える。

‘19年暮以来、コロナ故に仲間や親族との団欒の場を失い、明るい兆しがあるとは言え、この秋から暮れ・正月にかけてもなお集まりを見合わすことにした。かかる状況下、想いを漢詩に留めた。”With-コロナ”下9篇目となるが、次回は“without-”となることを念じて止まない。

xxxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十一真韻] 
 喜辛丑孟秋似乎稳静着冠状 
          辛丑(シンチュウ)孟秋 冠状(コロナ)の穏静着(オサマリツツ)あるを喜ぶ 
微風楚楚虞美人, 微風 楚楚(ソソ)たり虞美人(グビジン),
蟋蟀唧唧独嘅呻。 蟋蟀(シッシュツ) 唧唧(チチ) 独り嘅(ガイ)して呻(ウタ)う。
杜絶団園秋両次, 杜絶(トゼツ)せし団園(ダンエン) 秋 両次,
有如冠状解至仁。 冠状 至仁(シジン)を解するが如し。
 註] 
  似乎:…のようである; 穏静:おさまる; 楚楚:可憐で美しいさま; 
  虞美人:ひなげし; 蟋蟀:コオロギ; 唧唧:(虫の鳴く声)ジイジイ; 
  嘅:深く心に感じる; 団園:団欒; 至仁:最高の仁徳。 
  
<現代語訳> 
 ‘21年初秋 コロナ感染が治まりつゝあるのを喜ぶ   
そよ風にそよとしてしなやかに揺れる虞美人草、
日が傾くと、虫の合唱はまだ聞けないが、コオロギはひとり快く鳴いている。
親戚や仲間との集まりの途絶えは、今秋含めて2度の秋にわたるが、
コロナも仁徳を心得つゝあるのではないかと思えてくるこの頃である。

<簡体字およびピンイン> 
 喜辛丑孟秋似乎稳静着冠状 
          Xǐ xīnchǒu mèng qiū sìhū wěnjìngzhe guānzhuàng 
微风楚楚虞美人, Wéifēng chǔchǔ yúměirén,  
蟋蟀唧唧独嘅呻。 xīshuài jījī dú kǎi shēn.
杜绝团圆秋两次, Dùjué tuányuán qiū liǎng cì,
有如冠状解至仁。 Yǒu rú guānzhuàng jiě zhìrén.  
xxxxxxxxxxxxxxx 

第5波のコロナ感染は格別強烈であった。4次緊急事態宣言は適用地域の拡大、期間の延長など、市民生活、活動に大きな制約を課す結果となり、多大の影響を来した。その間、オリンピック・パラリンピックは開催され、無事終了できたことは幸いであった。

これまでのコロナ感染の経過を概観すると、第1波から5波までは3,4ケ月の間をおいて感染拡大のピークが周期的に現れているように読める。またコロナ感染症では、感染後ほぼ2週間経って症状が発現するようだ。これらの知見を踏まえれば、楽観は許されないようである。

ただ近時、4次緊急事態宣言の解除(9/30)後、ほぼ3週間経って、感染数増加の兆しはなく、むしろ減少傾向にある。それ故に「終息かな!」と楽観的に捉えたいのは、人情というものであろう。ワクチン2回接種率が国民のほぼ60数%に達したという事実も後押ししてくれる。

世界を見渡すと、ワクチン2回接種率がより高い、複数の国で感染の広がり-break-through-が伝えられており、ワクチン接種に基礎を置く考えに100%乗ることはできそうにない。今後の研究に期待を膨らましているところである。

筆者は、コロナが「人類の苦境を知り、“仁(思い遣り、慈しみ)”を理解し、実践している」のでは と空想しています。“仁”の中には、“コロナウイルスの特性として、増殖を繰り返すうちに、弱毒化するとか寿命が短くなって死滅していく”などの自然摂理の可能性および期待をも含めて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 232 飛蓬-139 小倉百人一首:(順徳院)百敷(モモシキ)や

2021-10-11 09:07:35 | 漢詩を読む
100番 百敷(モモシキ)や 古き軒端の しのぶにも
      なほあまりある 昔なりけり 
           順徳院(『続後撰和歌集』雑下・1205) 
<訳> この宮廷の荒れた古い軒端に生えている忍草を見るにつけても、やはりいくら偲んでも偲びきれない、栄えていた昔のよき御世であるなあ。(板野博行)

ooooooooooooo 
手入れが行き届かず、宮殿の軒端にはシノブ草が繁り、宮殿の鮮やかさも色あせている今日である。その様子を眼にするたびに、親政が敷かれていた昔が偲ばれて、日夜懐旧の念は脳裏に巡り、止むことがない と。

権威・権力が鎌倉に移り、武士の世になりつゝある頃、順徳院20歳時の歌である。5年後、順徳院は、後鳥羽院に賛同して幕府討伐の兵を興す(承久の乱、1221)が、多勢に無勢、戦に敗れて佐渡島へ配流の身となった。

百人一首トリの歌である。七言絶句の漢詩としました。

xxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文> [下平声八庚韻] 
 不勝今昔之感 今昔の感に勝(タエ)ず 
宮殿檐端瓦韋生, 宮殿の檐端(ノキバ)に瓦韋(ノキシノブ)生じ,
心中眷恋冠带榮。 心中 眷恋(ケンレン)す冠带(カンタイ)榮(サカ)えるを。
感今念古以長嘆, 今に感じ古(イニシエ)を念(オモ)い以(モッ)て長嘆(チョウタン)し,
日夜緬懐無已縈。 日夜 緬懐し縈(カラミツク)ことの已(ヤ)む無し。 
 註] 
  檐端:軒端。        瓦韋:ノキシノブ草。 
  眷恋:懐かしく思う。    緬懐:過ぎた事柄を偲ぶ。 
  縈:絡みつく、巡る。
 ※ “瓦韋(ノキシノブ草)”と“緬懐(過ぎた事柄をシノブ)”は歌中掛詞を活かした。 

<現代語訳>
 今昔の感に堪えず 
宮殿の古びた軒端にはノキシノブ草が生え、
心中、昔の冠帯の華やかな頃が懐かしく思われる。
今に感じ、昔を思って長嘆息して、
日夜 昔を偲ぶことが纏わりついて止むことがない。

<簡体字およびピンイン> 
 不胜今昔之感  Bùshèng jīnxī zhī gǎn   
宫殿檐端瓦韦生, Gōngdiàn yán duān wǎwéi shēng, 
心中眷恋冠带荣。 xīnzhōng juànliàn guāndài róng.  
感今念古以长叹, Gǎn jīn niàn gǔ yǐ chángtàn,
日夜缅怀无已萦。 rìyè miǎnhuái wú yǐ yíng. 
xxxxxxxxxxxxx 

順徳天皇(1197~1242、在位1210~1221)は、後鳥羽帝(百-99番)の第3皇子、兄・土御門帝の譲位をうけて14歳で即位し、第84代天皇となった。温和な兄とは対照的に、気性が激しく、却って後鳥羽院から大きな期待が寄せられていたようである。

後鳥羽院の討幕計画を知ると、それに備えるために皇位を子・懐成親王(仲恭天皇)に譲って上皇の立場に退き、父の計画に参画した。幕府打倒には、父上皇以上に積極的であったとされている。討幕に立ち上がった(承久の乱)が、敗戦、配流の身となった。

後鳥羽上皇の院政下、直接政務に与ることのなかった順徳帝は、王朝時代の有職故実の研究に力を注いでいた。幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的があったのでしょう。その成果は『禁秘抄』として著されており、天皇自身に関わる故実作法についての書物として後世珍重されたと。

父の影響で和歌や詩にも熱心で、和歌については定家(百-97番、閑休-156)の師事を受けている。家集に『順徳院御集』があり、当時の歌論を集大成した歌論書『八雲御集』がある。『続後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に159首入集されていると。

当歌は、即位数年後、承久の乱五年前に詠まれた歌である。嘗て親政が敷かれていて聖代と言われる醍醐~村上帝(10世紀前半)のころを夢見て、権威・権力を取り戻し、朝廷の世を再興させたいとする思いは強かったように思われる。

定家は、後堀河帝(1212~1234、在位1221~1232)の命(1232)により『新勅撰和歌集』を編纂している(1235年成立)。しかし当歌は、同集には撰されていないと。幕府への配慮からでしょうか。定家は、当歌を百人一首の100番―トリ―に配しました。

定家の脳裏には、皇族と藤原氏の両輪で回した公卿の世から、武家の世・実力の世界への歴史的大展開の姿がくっきりと描かれていたに違いない。その底流に和歌を置いて、藤原氏が栄えた良き時代があったことを、順徳帝に語らせているようにも思われる。

順徳院は、佐渡島に配流されたのちも和歌は続けられ、在島中の詠作として『順徳院御百集』(1232)が遺されている。配流生活21年の後、佐渡で崩御した(1242)。なお、次の辞世の歌を遺しています:

思いきや 雲の上をば 余所にみて、
  真野の入江にて 朽ち果てむとは (pixiv 辞世歌 百人一首)
 [思いも寄らないことであったよ かつて住まっていた雲の上を 今 手の届かない 
 彼方の雲の上に想像しつゝ 佐渡は真野の入り江で 朽ち果ててしまうとは]。 

[追記]
百人一首 全100首の漢詩への翻訳 完結しました、“一応”と添え書きして。というのは、“古歌の漢詩化”という不慣れな難“作業”で、必ずしも満足な漢詩に仕上がった とは言えぬまゝにblogに書き続けてきました。目下推敲を重ねているところです。

翻訳“作業”は、敢えて百人一首の順番に従うことなく、アトランダムに採って進めました。歌の内容、詠われた時代、男女等々、偏りを避ける為です。改めて推敲なった漢詩を、順番に随って読み見直してみたいと心積もりしております。 

総じて百人一首では、喜・怒・愛・楽・恨み・辛み……、百人百様の“こころ”/“おもい”が主張されているように思われる。それぞれの漢詩で作者の“こころ”が翻訳・表現できたであろうか?心細い限りではある。  
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閑話休題 231 飛蓬-138 小倉百人一首:(後鳥羽院)人もをし

2021-10-04 09:43:20 | 漢詩を読む
99番 人もをし 人も恨(ウラ)めし あぢきなく  
     世を思ふ故(ゆえ)に もの思ふ身は 
          後鳥羽院(『続後撰和歌集』雑・1199) 
<訳> あるときは人をいとしく思い、またあるときは恨めしく思う。つまらないこの世を思うがゆえに、あれこれと思い悩むことが多いわが身は。(板野博行) 

ooooooooooooo 
人が愛おしく思われることもあれば、また恨めしく思われることもある。この世の中は何ともつまらなく、儘ならない状態にある。しかし良い方向に仕向けたいとの思いがある故に、一人で思い悩むのである。 

トップの座にあって、孤独の感に苛まれる、苦悩の後鳥羽院の歌である。公卿から武家の世へ、また鎌倉でも源氏から北条氏へと力が移りつゝある激動の時代、遂には爆発する(承久の乱)が、マグマでエネルギーが蓄えられている頃の歌に読める。 

後鳥羽院33歳の時の歌で、承久の乱の9年前の作である。七言絶句としました。 

xxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文> [上平声九佳・四支韻] 
考慮世上的苦悩 世上(セジョウ)を考慮コウリョ)する苦悩 
載愛載恨対人懐,時には愛(イト)おしく、時には恨(ウラ)めしく、人に対する懐い、 
一何没趣世上姿。 一(イツ)に何ぞ没趣(ツマラ)ぬ世上の姿よ。 
煢煢对此抱希望, 煢煢(ケイケイ)として此(コレ)に对するに希望を抱き, 
苦悩紛紛多所思。 苦悩紛紛(フンプン)として思う所多し。 
 註] 
  載~載~:~することもあれば、~することもある。 
  没趣:つまらない。    此:前に述べたこと、ここでは、つまらぬ世上姿。 
  煢煢:孤独で頼るところのないさま。 紛紛:ごたごたと忙しないさま。 

<現代語訳> 
  世の中を思うが故の苦悩 
時には人を愛おしく思い、また時には恨めしく思うことがあり、
何とつまらぬこの世の中の状況か。 
孤独の中でこの世の中の状況を良くしたいとの思いがある故に、 
苦悩が多く、あれこれ思い悩むのである。 

<簡体字およびピンイン> 
考虑世上的苦恼 Kǎolǜ shìshang de kǔnǎo 
载爱载恨对人怀,Zài ài zài hèn duì rén huái,
一何没趣世上姿。 yī hé méiqù shìshàng .  
茕茕对此抱希望,Qióng qióng duì cǐ bào xīwàng,
苦恼纷纷多所思。kǔnǎo fēnfēn duō suǒ .
xxxxxxxxxxxxx  

後鳥羽帝(1180~1239、在位1183~1198)は、高倉帝の第4皇子、異母兄の第一皇子は先帝・安徳帝で、後白河帝の孫に当たる。源平の争いが始まった年、治承4年の誕生である。平氏に擁された安徳帝が都を逃れている間、4歳の時に践祚された。

安徳帝が壇ノ浦で入水・薨御するまでの2年間、2帝が並立していた。皇位の象徴 “三種の神器”がない状態での即位である。安徳帝の入水後も“神器”の一つ“剣”は失われたままであった。癒しようのない傷として、後々胸の奥に沈殿していたであろうことは想像に難くない。

1198年土御門帝に譲位して以後、土御門、順徳、仲恭と、3代23年間、上皇として院政を敷いた。上皇になると、院政機構の改革を行うなど積極的政策を採り、また公事の再興、故実の整備に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。

一方、頼朝没後、力が北条氏へと移りつゝあった鎌倉から、子のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎える「宮将軍」の構想が提示され、朝幕関係は安定するかに見えた。しかし実朝が暗殺された(1219)ことから、上皇は「宮将軍」を拒絶し、良好な関係に終止符が打たれた。

上皇は、討幕の意を固め、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内、近国の兵を招集して幕府に挑んだ、「承久の乱」(1221)である。しかし多勢に無勢、準備不足もあって、ほぼ一カ月の戦闘で大敗を喫した。上皇は、隠岐島に配流された。

歌人としては、土御門帝への譲位(1198)の頃以後、和歌に興味をもち始めたようである。当時、世上「新儀非拠達磨歌」(新しい、前例のない、わけのわからない歌)と半ば揶揄されていた定家(百-97番)の歌に、特に興味を持ったようである。

1199年以後、歌会や歌合を盛んに主催しており、中でも「正治初度百首和歌」(1200. 7)では、式子内親王、九条良経、俊成、慈円、寂蓮、定家、家隆等々、九条家歌壇の御子左家の歌人に詠進を求めている。

この百首歌を機に、上皇は俊成に師事し、定家の作風の影響を受け、歌作は急速に進歩していったようである。この頃新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせ、これら新人は、後に新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となっていく。

同年(1200. 8)、飛鳥井雅経、院宮内卿、鴨長明、源具親など、近臣を中心とした新人を対象に「正治後度百首和歌」を主催している。両度の百首歌を経験して、和歌への想いを深くして、勅撰集の撰進を思い立ち、和歌所を再興した (1201)。

一方で、当代の主要歌人30人に百首歌を求めて二組に分け、歌合形式で判詞を加える、未曾有の大規模な歌合「千五百番歌合」を主宰した。新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長など、文学史上大きな価値のある催しであったと評されている。

それらの企画を経て1201年11月、定家、有家、家隆、雅経、寂蓮、源通具の6人に勅撰集編集の命を下し、『新古今和歌集』の撰進が開始された。「千五百番歌合」がその主な資料となり、その中から90首が入集されていると。

隠岐への配流後も歌作は衰えることはなく、また多くの歌合を催している。都での華やかな新古今歌風に対し、隠岐では懐旧の念による切実な望郷の心情の歌が多いと。配流地での18年間のわびしい生活ののち、同地で崩御された。「顕徳院」の諡号が贈られたが、後に「後鳥羽院」の追号に変更された。

後鳥羽院は、文武に亘って多芸多才で、歌人としては当代一流で、『新古今和歌集』の撰には自ら深く関与した。家集に『後鳥羽院御集』『遠島御百集』、歌学書として『後鳥羽院御口伝』がある。日記「後鳥羽院宸記」がある。

   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする