愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 180 飛蓬-87 ウイズコロナ 令和2年季秋

2020-11-27 14:15:26 | 漢詩を読む
コロナが治まらない。我国では第3波の高まりが予断を許さない状況にあり、全地球で猛威を振るう感染状況には脅威を覚える。偏に予防策・コロナワクチンの開発が待たれるところであり、神頼みならぬ、人智に期待するところ大である。

With CoronaVの生活を余儀なくされ、右往左往のこの秋の社会の様子の一面を七言絶句の漢詩に書いてみました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声一先韻] 
 跟冠状病毒生活  冠状病毒(コロナウイルス)とともの生活 
遠山紅葉何粲粲, 遠山の紅葉 何ぞ粲粲(サンサン)たる,
黃昏促織鳴壁前。 黃昏(タソガレ) 促織(ソクショク) 壁前に鳴く。
冠狀還栄乱城氣, 冠狀(コロナ) 還(サラ)に栄えて城(マチ)の氣を乱(ミダ)し,
全家怎麼可団円。 全家(ゼンカ) 怎麼(イカデカ) 団円(ダンエン)す可(ベ)けんや。
 註]
粲粲: 彩などの鮮やかで美しいさま。 
  促織:コオロギ、古詩十九首 其七 「促織鳴東壁」に倣う。
  全家:家族一同。     団円:(離散した家族が)団らんする。

<現代語訳> 
 ウイズ コロナ (With CoronaV)
遥かな山を望めば 青空の下 何と紅葉の彩の美しいことか、 
黄昏て 壁の向こうではコオロギの鳴くのが聞こえてくる。 
コロナ感染が一層広がって 街の気配を乱し、
一家だんらんの場も簡単には持てそうにない。

<簡体字およピンイン> 
 跟冠状病毒生活 Gēn guānzhuàng bìngdú shēnghuó
远山红叶何粲粲, Yuǎn shān hóngyè hé càn càn,
黄昏促织鸣壁前。 huánghūn cùzhī míng bì qián.
冠状还荣乱城气, Guānzhuàng hái róng luàn chéng qì,
全家怎么可团圆。 quán jiā zěnme kě tuán yuán.
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今更詮無いことを愚痴る日々である。時の巡りは例年と変わらずに爽やかな秋は訪れている。だが人の営みは、その様相を全く一変された状況に追いやられており、一家団欒の機会さえ失われつゝある。一にコロナの蔓延によるものである。

このコロナ感染に如何に対応するか、個人、あるいは大小各種団体、家庭から政府、さらに国々に至る各レベルの組織体それぞれの立場で、世の中は文字通り喧々諤々の状態にある。

ことは正に人の生命に関わる事なのだが、直接コロナをトッチメる手立てのない今日、医療環境を睨みつゝ、靴の下から足の痒みを掻く間接的方策を採らざるを得ない現状ではある。

幸いと言うべきか、この年初から蓄積されてきた多方面の経験・研究を基に、その感染症の治療法を含めて、コロナの性質が随分と明らかになっており、その対策もいくつか提案されている。

大事なことは、コロナ感染を抑えるには、3密、社会的距離、換気等を念頭に「人は動くな、ジッとしておれ」(ブレーキ)ということのようである。その反面、人が動かないと、生命を支える「経済活動」が立ち行かなくなる故に「大いに動け」(アクセル) と。

これらブレーキ/アクセルという間接的方策(力)の均衡を保ちつゝ、コロナ感染を抑え込みたい というのが、今日の世界人類全員の願いと言えようか。

但し、両方向の力が均衡の取れた状態では、“抑え込み”どころか、現状維持さへ不可能であろうことは自明の理である。コロナ感染はある比率で進む傾向にある事を考慮するなら、現状を維持するだけでも、その分相応にブレーキ力を逐次増し続けていく必要があろう。 

難題に直面している今日、人智を結集した一層のコロナ研究、更にはブレーキまたはアクセルのいずれかの方向へ均衡を破る政治的英断が必要な段階に至るか、あるいはワクチンの一日も早い現実的応用を期待しつゝ、現状への我慢を決め込む か。

コロナ社会での身の回りの状況を、「コロナ禍の春日」(春、閑話休題-157)、「令和2年盂蘭盆会」(夏、同-163)に続き、今回の秋季と、人の営みを漢詩に切り取ってきました。次はコロナ撲滅の明るい話題となることを念じている次第ではある。

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閑話休題 179 飛蓬-86 小倉百人一首:(権中納言敦忠)逢い見ての

2020-11-26 16:13:05 | 漢詩を読む
(43番) 逢い見ての 後の心に くらぶれば
       昔はものを 思わざりけり(『拾遺和歌集』恋二・710)
              権中納言敦忠(アツタダ)
<訳> あなたに逢って契りを結んだあとの、今の私のこの切ない気持ちに比べれば、お逢いする以前の恋煩いなど、取るに足りないものでしたよ。(板野博行)

ooooooooooooooo
率直な思い、感想が詠われている歌と言えようか。なお歌に出てくる古語の“逢う”は、今日、日常に使われている“面会する”または“偶然に逢う”とは意味合いが異なり、“逢いみて、契りを結ぶ”という付加された意味を持っています。

作者・権中納言敦忠(906~943)は藤原敦忠、時の左大臣・藤原時忠(871~909)の3男。母方から在原業平の血を引く“女殺し”のイケメンであった と。三十六歌仙の一人。琵琶の芸も優れていて、“琵琶大納言”とも呼ばれていた 由。

作者の胸の内は、甘酸っぱく、切ない想いであった かと。漢詩の詩題としました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>    [下平声八庚韻]
 甜蜜苦悶的懐念  甜蜜(カンミ)たる苦悶の想い
領会相思二三更, 相思(ソウシ) 領会(リンカイ)して二三更(コウ),
越来越熱我恋情。 越来越(マスマス)熱くなる我が恋情(レンジョウ)。
比今苦悶斯心緒, 今 苦悶(クモン)する斯(コ)の心緒(シンショ)に比(クラベ)れば,
昔日懐念不値評。 昔日(セキジツ)の懐念(カイネン) 評(ヒョウ)するに値(アタイ)せず。
 註]
  懐念:想い、恋しく思う。   領会:了解する、通じる。
  相思:慕いあう。       二三更:夜半、夜更け。
越来越:ますます。      心緒:気持ち、心持ち。    

<現代語訳>
 甘くせつない想い
お互い思い通じて語りあい夜半に至る、
以来ますます募る私の恋心。
今苦悶しているこの心持ちに比べれば、
以前の恋い慕っていた想いなど語るに値しないほどであるよ。

<簡体字およびピンイン>
 甜蜜苦闷的怀念  Tiánmì kǔmèn de huáiniàn
领会相思二三更, Lǐnghuì xiāngsī èr sān gēng,
越来越热我恋请。 yuè lái yuè rè wǒ liànqíng.
比今苦闷斯心绪, Bǐ jīn kǔmèn sī xīnxù,
昔日怀念不值评。 xīrì huáiniàn bù zhí píng.
xxxxxxxxxxxxxxx

藤原敦忠は、蔵人頭・参議から従三位権中納言に至った公家のエリートと言える。歌才に恵まれ三十六歌仙の一人に挙げられている。また他の技芸にも優れていて、琵琶は時の名手・源博雅を凌ぐほどの実力で、琵琶中納言とも呼ばれていた。

敦忠は38歳の若さで夭逝しています。父の左大臣・時平も39歳で亡くなっている。時平とは、あの右大臣・菅原道真を大宰府へ左遷するのに主役を演じた人である。時平親子の夭逝は、道真の怨霊の祟りであろうと語られている(閑話休題-162参照)。

敦忠は、母が在原業平(百人一首-17番、閑話休題-135)の長男・棟梁(ムネハリ)の娘で、業平のひ孫にあたる。業平の血をしっかりと受け継ぎ、歌才もさることながら、イケメンで多くの女性たちを虜にしたようである。

『後撰和歌集』(951)(10首)以下の勅撰和歌集に30首入集されており、家集に『敦忠集』がある。恋歌に優れていて、多くの女流歌人との恋の贈答歌を残しており、これらを通して恋の遍歴を知ることができる。

華やかな恋の遍歴を持つ女流歌人の一人右近が、失恋の辛い思いをさせられたことを想像させるような歌を残している(同-38番、閑話休題-136参照)。敦忠は、非情にも右近を振っている(?)のである。

38番 忘らるる 身をば思わず 誓いてし 人の命の 惜しくもあるかな(右近)

家集『敦忠集』の中核をなしているのは、60代醍醐天皇(在位897~930)の皇女・雅子内親王との情熱的な恋の贈答歌であるという。しかし雅子内親王は、伊勢神宮の斎宮となったために別れざるを得なかった。そこで敦忠は次の歌を榊の枝に挿して贈っている。

伊勢の海の 千尋の浜に 拾ふとも 
   今は何てふ かいかあるべき 
  [伊勢の海の広い浜に行って拾おうとしても 今はどのような貝(甲斐)が
  あろうか(今や何の甲斐(貝、手立て)もない)]
  
神事に用いる常緑の榊は、いつまでも心変わりのないことを暗示しているか。貝(甲斐)という掛詞の技巧が用いられているとは言え、上掲の主題の歌と同じく素直に読んで行ける歌であると言えます。貴公子の人柄でしょうか。

夭逝の敦忠には次のような逸話が語られている。最愛の北の方に、ある時自分は短命で間もなく死ぬであろうこと、および死後には、北の方と自分に仕える藤原文範が夫婦になるであろうことを予言した。事実その通りになった と。

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閑話休題 178 飛蓬-85 小倉百人一首:(壬生忠岑)有明の

2020-11-20 10:03:50 | 漢詩を読む
30番 有明の つれなく見えし 別れより
暁(アカツキ)ばかり 憂(ウ)きものはなし (『古今和歌集』恋・625) 
壬生忠岑(ミブノタダミネ) 

<訳> 有明の月はひややかでそっけなく見えた。相手の女にも冷たく帰りをせかされた。その時から私には、夜明け前の暁ほど憂欝でつらく感じる時はないのだ。(小倉山荘氏)

ooooooooooooooo 
時節は今頃でしょうか。冴えた暁の空に残る月も寒々と感じられる。語らう時もなく追ったてられて、トボトボと家路に着いているようです。それがトラウマとなり、暁の頃は憂鬱でつらい と。なんともわびしい歌ではある。

作者・壬生忠岑は、生没年未詳ですが、平安前期に活躍した歌人である。三十六歌仙の一人で、『古今和歌集』の撰者の一人でもある。特記すべきは、上掲の歌は、後世、藤原定家や家隆が“『古今集』中最もすぐれた歌”と評したと伝えられていることである。

漢詩では、「元気なく打ちしおれている男性」という趣旨の」詩題をつけました。

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<漢字原文および読み下し文>  [下平声十一尤韻] 
 没精打采的男子 没精打采(ムセイダサイ)な男子  
季秋寂寂四山幽, 季秋(キシュウ) 寂寂(セキセキ)として四山は幽(ユウ)なり,
催促辞别步池頭。 辞别(ジベツ)を催促(サイソク)されて池の頭(ホトリ)を步む。
黎明残月同冷淡, 黎明(レイメイ)の残月 同じく冷淡なり,
後没比暁更憂愁。 後は暁に比して更に憂愁なるものなし。 
 註] 
  没精打采:(成語) 打ちしおれて元気がない。 
  寂寂:物寂しいさま。     四山:周り四方の山々。 
  辞别:別れを告げる、いとまごい。 
  黎明(的)残月:有明の月。   憂愁:気がふさぐ、憂欝である。 

<現代語訳> 
 元気なく打ちしおれている男性 
晩秋の季節、もの寂しく四方の山々はひっそりとしている、 
(訪ねた女性からは)つれなく追い返されて、庭園の池のほとりを歩む。 
(見上げれば)有明の月も同じく白々と冷たくそっけなし、 
それ以来、暁ほど物憂く感じられる時はないのだ。 

<簡体字およびピンイン> 
 没精打采的男子 Méijīng dǎcǎi de nánzǐ 
季秋寂寂四山幽, Jìqiū jì jì sì shān yōu,  
催促辞别步池头。 cuīcù cíbié bù chí tóu. 
黎明残月同冷淡, Límíng cányuè tóng lěngdàn, 
后没比晓更忧愁。 hòu méi bǐ xiǎo gèng yōuchóu. 
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作者・壬生忠岑は、身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と評されている。三十六歌仙の一人であり、『古今和歌集』の撰者の一人でもある。後鳥羽院(院1198~1239)に『古今集』中、最も優れた歌は?と問われて、藤原定家(百人一首 97番、閑話休題-156)は上掲の忠岑の歌を挙げたという。

また同様に問われた藤原家隆(同 98番)も、奇しくも上掲の歌を挙げたという。勿論、定家と家隆が示し合わせて答えたわけではない と。壬生忠岑の歌の素晴らしさを示す例証として語られている逸話の一つと言えよう。

更に藤原公任(同 55番、閑話休題-148)は、和歌を九段階にランク付けした『和歌九品(クホン)』を著しているが、その中に上品上(ジョウボンジョウ)、つまり最高位の歌の例証として忠岑の歌を挙げている。

加わるに、忠岑の歌が第三の勅撰和歌集・『拾遺和歌集』(撰者不詳、1005~07頃)の巻頭歌に撰ばれている と。勅撰和歌集の巻頭歌には、天皇や皇族の歌を置いて儀礼的意義を高めるのが通例であるというが。彼の歌の評価が非常に高かった証でもあろう。

忠岑の歌は、『古今和歌集』(34首)以下の勅撰和歌集に81首入集されており、家集に『忠岑集』が残されている。子息には先に紹介した壬生忠見(同 41番、閑話休題-133)がおり、父子揃って三十六歌仙に撰ばれている。

忠岑の官位について定かなことは知られていないようである。また直系のご先祖についても推測はなされているが、『三十六歌仙伝』では「先祖不見」とあるようで、直系の先祖は不明とするのが穏当とされている。

壬生氏は、律令制の成立以前、皇子の養育料を負担するために置かれた壬生部から生じた氏族とのこと。後世、その庶流は臣(オミ)、連(ムラジ)、公(キミ)、直(アタイ)、等々の姓(カバネ)を得て、それぞれ諸国に広く広がっている。

忠岑は甲斐国造(クニノミヤツコ)家の壬生直の一族との記載も見える。一方、畿内の壬生氏の末裔であることも想像に難くはない。畿内でも壬生臣、壬生部公などの記録が見え、また宮城門の一つ“美福門(ビフクモン)”は、以前は“壬生門”と称されており、壬生氏が守衛の任に当たっていたことを示している。

忠岑は、宮中の警護に当たる左近衛府(サコンエフ)の番長を務めていた折、曽て宮城を守る精鋭であった氏族の子孫である自分が長官職に就けず、長官に随身する下級幹部である事に不満を抱いていた。

さらに、内裏の天皇の御座所まわりを担当する左近衛府から、外側を警護する兵衛府(ヒョウエフ)、中でも最も外側を担当する衛門府(エモンフ)に転任させられている。忠岑にとっては、こもごも不満を抱える状況にあったようである。

紀貫之(同35番、閑話休題-140)は、ともに『古今和歌集』の編者ということもあり、忠岑と深い交わりを持っていた。忠岑の不満の訴えに、貫之は、今は不遇なまま時は経ったけれど これが過ぎればよいことがあるだろう と忠岑を励ます下記の歌を残している。

降りぬとて いたくな侘びそ 春雨の 
  ただに止むべき ものならなくに(『後撰和歌集』春 紀貫之) 
 [降ったからといってひどく思い悩みなさるな 春雨はただ止むものでは 
 ないのだから(止んでからはよいことがあるだろうさ)(小倉山荘氏) 
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閑話休題 177 飛蓬-84 小倉百人一首:(凡河内躬恒)心あてに 

2020-11-14 10:32:57 | 漢詩を読む
(29番)心あてに 折らばや折らむ 初霜の  
       おきまどはせる 白菊の花 
         凡河内躬恒(オオシコウチノミツネ)『古今和歌集』秋下・277 

<訳> あて推量に、折るならば折ってみようか。初霜が降りた中、その白さと菊の白さとが紛らわしく、見分けがつかなくなっている白菊の花を。(板野博行)

ooooooooooooooo
初霜が降りて辺り一面真っ白で、白菊の花が背景と見分けがつかず、花を摘もうと思うが思うに任せない と、かなり誇張した表現ではある。清らかながら、何かしら冷たい感じがしないでもない歌である。

作者・凡河内躬恒は、9~10世紀初頭に活躍した人であるが、その生没年は不詳である。歌才に優れ、当時紀貫之と並ぶ代表的歌人で、三十六歌仙の一人である。初めての勅撰和歌集である『古今和歌集』の撰者でもある。

歌に負けず、漢詩化するにあたっても情景を誇張して表現しました。下記ご参照ください。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声六麻韻] 
 初霜下埋着白菊花 初霜の下に埋まった白菊の花 
天亮初霜被草葩, 天亮(テンリョウ) 初霜 草(クサ)葩(ハナ)を被(オオ)い、
眼前一片是銀華。 眼前の一片(イッペン) 是(コ)れ銀の華(カガヤキ)。
不能辨認従背景, 背景(ハイケイ)従(ヨ)り辨認(ベンニン)し能(アタ)わずも,
嘗試胡折白菊花。 胡折(コセキ)を嘗試(ショウシ)せん 白菊の花。 
 註] 
  天亮:夜が明ける。      葩:花。 
  一片:辺り一面。       銀華:白銀の輝き。
  辨認:見分ける。       嘗試:試してみる。 
  胡折:当てずっぽうに折る。 

<現代語訳> 
 初霜に埋まった白菊の花 
夜が明けてみると、初霜が降りて草花を覆っていて、 
眼の前は一面、白銀の世界である。 
白一色の地上の背景からは見分けが付かなくなっており、 
折れるかどうか知らないが、試しに当てずっぽうに白菊の花を折ってみようか。 

<簡体字およびピンイン> 
 初霜下埋着白菊花 Chū shuāng xià máizhe bái júhuā 
天亮初霜被草葩, Tiānliàng chū shuāng bèi cǎo ,  
眼前一片是银华。 yǎn qián yīpiàn shì yín huá. 
不能辨认从背景, Bù néng biànrèn cóng bèijǐng, 
尝试胡折白菊花。 chángshì hú zhé bái júhuā. 
xxxxxxxxxxxxxxxx

歌の作者・凡河内躬恒は、生没年不詳で、59代宇多(在位887~897)および60代醍醐天皇(在位897~930)のころ活躍した下級役人、歌人である。地方官として甲斐少目(ショウサカン)、和泉大掾(ダイジョウ)、淡路権掾(ゴンノジョウ)などの職に就いている。

歌才に優れ、紀貫之と並ぶ当時の代表的歌人で、三十六歌仙の一人として、また貫之らとともに最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の編纂に携わっといる。天皇や上皇の行幸に随う歌人として、また歌合せ、歌会への参加、屏風絵に添える歌など多くの歌が残されている。家集に『躬恒集』がある。

貫之と躬恒は、古くから友人として深い繋がりがあったようである。貴族に属する紀貫之は、天皇の側近の人々とも親しい交流があることから、躬恒の就職に当たっても、紹介の便宜を図っていたことが、残された歌から読み取れるようである。

躬恒の上掲の歌に対し、明治時代の正岡子規は痛烈な批判をなしている。「…初霜が降りたくらいで、白菊が見えなくなることなどあり得ないことだ、嘘の趣向だよ、趣きもヘチマもあったものではない…」(『歌よみに与ふる書』)と。

“写実に走らず、理智的、観念的な内容で、優美・繊細な詠みぶり”を旨とする、いわゆる、“古今調”の範疇に入る歌と言えようか。“うっすら”と草花を覆う初霜を、“白菊の花と見分けが付かないほど真っ白な”と詠む程度の誇張は、許容の範囲なのでしょう。

梅、桜、菊、蘭……等々、詩歌の世界では定番の花々と言えようか。菊の花について、日本では『古今集』以後、歌の主題として多く出てきているが、157種もの植物が登場するという『万葉集』で菊花を歌いこんだ歌は皆無であるということである。

但し『万葉集』に先立って著されている漢詩集『懐風藻』(751頃)では登場しているという。したがって万葉の頃は、中国文化で愛でられていた菊について漢籍を通じて知識としてあった程度で、実物の渡来は未だなかったと考えられている。

菊は中国の原産植物でその歴史は3000年以上前に遡るという。日本への渡来は、遣隋使・遣唐使が派遣されていた奈良時代のころなのでしょうか。日・中を問わず、菊は、その香りや見た美しさもさることながら、不老長寿の“くすり”としての意義にもっとも関心が高かったのではないかと想像されます。

中国最古の薬物学書『神農本草経』(後漢から三国の頃)に健康長寿に効果があると記載され、また『列仙伝』(後漢)や『芸文類聚』(624唐代)には菊に纏わる伝説が語られている と。これら伝説はいずれも菊のエキスを飲用していた人が齢百を超す長寿を全うしたというものである。

日本の奈良・平安期の貴族たちはこれら菊水伝説に強い憧れを抱いたようです。平安遷都間もなく宮中で催された曲水宴(797)で50代桓武天皇(在位781~806)が菊を主題に歌を詠っている(下記)。日本で最初に菊を主題にした歌のようである。

以後、唐文化に傾倒し菊を愛した52代嵯峨天皇(在位809~823)、また菊の花の意匠を好んだ後鳥羽上皇(院1198~1239)などの菊愛好の歴史を経て、明治元年、菊の紋章が皇室専用の“家紋”となる。併せて香り、色・形を賞する対象として、広く人々に愛好されてきている。

此のごろの 時雨の雨に 菊の花
散りぞしぬべき あたらその香を(桓武天皇 『類聚国史』)
[此の頃のしぐれ出した雨に 菊の花よ 散って欲しくないものだ
その香りの失われるのが 何とも勿体なく、惜しいのだ]
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閑話休題 176 飛蓬-83 小倉百人一首:(大江千里)月見れば

2020-11-08 09:55:15 | 漢詩を読む
(23番) 月見れば 千千にものこそ 悲しけれ
      わが身一つの 秋にはあらねど
          大江千里(オオエノチサト)(『古今和歌集』秋上・193)

<訳> 月を見ると、あれこれきりもなく物事が悲しく思われる。私一人だけに訪れた秋ではないのだけれど。(小倉山荘氏)

oooooooooooo
「秋は 悲しい」との想いは、風の音に、夕暮れ時に、落ちる木の葉に、……と、諸々の事象に触発されるようです。多くの和歌や漢詩で“月”は主役を演じており、大江千里は、月を見ればなおさら悲しい思いが増す と詠っています。

作者・大江千里は、漢学者の父の影響を受け、父の跡を継いで学者になった。漢詩人としても優れていた。特に漢詩を翻案して和歌を詠む“句題和歌”の技術に長けていて、上の歌も、白居易(ハクキョイ)の漢詩を基に作られた とされています。

五言絶句の漢詩としました。なお歌にある“千”と“一”の対は、“万”と“一”として活かしました。下記ご参照ください。                                                                                   

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<漢詩原文および読み下し文>
 対秋月有懐  秋月に対して懐(オモイ)有り  [上平声十一真韻]
皎潔松樹上, 皎潔(コウケツ)として松の樹の上にあり、
対月万悲辛。 月に対するに万(ヨロズ) 悲辛(ヒシン)たり。
知道秋来是, 知道(シ)る、秋(アキ)来たるは是(コレ),
不只為一人。 われ一人の為(タメ)只(バカリ)にあらず。
 註]
  皎潔:(月が)白く光って明るいさま。 悲辛:悲しくて心がうずく。
  不只:…ばかりでない。
  結句「…秋来是,不只为一人」:白居易「燕子楼三首 其一」中の結句
   「秋来只為一人長」に借りた。白詩中、“一人”は“孤独な私”という意味か?

<現代語訳>
 秋月に対するに懐い有り
松の木のかなたに皓皓と輝いている秋の月が目に入る、
その月を見ているとあれやこれやと悲しみが湧いてくる。
秋のおとずれが、悲しく感じられるのは、
私一人のためだけではないことは、承知しているのだが。

<簡体字およびピンイン>
对秋月有怀 Duì qiūyuè yǒu huái
皎洁松树上, Jiǎojié sōng shù shàng,
对月万悲辛。 duì yuè wàn bēixīn.
知道秋来是, Zhīdào qiū lái shì,
不只为一人。 bùzhǐ wèi yīrén.
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作者・大江千里の生没年は不詳である。59代宇多天皇(在位887~897)の代に活躍した歌人、学者である。父・音人(オトンド)は阿保(アボ)親王の落胤ではないかとされている。千里は、在原行平・業平の甥に当たる。官は三位従六位(897)、兵部大丞(903)に至っている。

歌人としては、中古三十六歌仙の一人に数えられ、『古今和歌集』(10首)以下勅撰和歌集に31首入集されている。一方、漢詩人としても優れていると評価されている。
千里の最も得意とする歌作は、漢詩を翻案して和歌を詠む“句題和歌”であるようだ。

宇多天皇の命(894)を受けて、漢詩を基に作られた和歌を集めた『大江千里集』(一名『句題和歌』とも)を編纂して献上している(897)。同集の全126首中116首が漢詩を翻案した歌であり、その多くが唐詩人・白居易(楽天)の漢詩に依るという。

なおそれに先立って、菅原道真(845~903)が、逆に和歌を基に作られた漢詩(七言絶句)を編集した『新撰万葉集』を天皇に献上していました(893)。同集の存在については、先に触れました(閑話休題-137)が、その内容は機会を改めて紹介したく、現在抱卵中。

同時代に活躍した千里と道真は、元は同族の土師(ハジ)氏で、ともに文章道(モンジョウドウ)の家柄。千里の『大江千里集』の編纂に当たっては、道真には負けられないとの強い思いが後押しした面も否めないのではないでしょうか。

上掲の和歌は、白楽天(ハクラクテン)の名でよく知られた白居易の『白氏文集(ハクシモンジュウ)』に収められた「燕子楼(エンシロウ)三首」を翻案した歌とされています。参考のため和歌と関連のある「燕子楼三首 其一」について触れておきます(漢詩は下記)。

白居易の漢詩作詩の背景:白居易の若かりし頃、知遇を得たある妓女について、十二年後に知人からその後の彼女の消息が知らされる。主人の没後残された妓女は、主人の旧愛が忘れられず、主人の旧邸にあった燕子楼に十余年一人で暮らしているのだ と。 

知人は、この話を基に作った漢詩「燕子楼三首」を白居易に贈った。さらに知人の漢詩に次韻(ジイン)して白居易が作ったのが、同名の「燕子楼三首」であり、またこの漢詩に依って千里が詠ったのが上の和歌ということである。なお次韻とは、他人の詩に同じ韻字を同じ順序で用いて詩作することである。

白居易の漢詩は、妓女になりかわって作った、主人没後の寡居の境遇を悲しむ詩と言える。本詩の結句が、和歌の下の句に、また筆者作の漢詩中の転句・結句に対応しています。

白居易の漢詩の結句は、作詞の背景を考慮すれば、「愛しい人は傍に無く、孤独故に秋の夜が長く感じられる」と詠っているように思える。対して、千里が、「いやいや、独り故というだけでなく、諸々(千々)の事象に悲しさを感じさせられるのだよ」と応じているように思われてならない。和歌の<訳>とはやゝ意味合いが異なりますが。

 燕子楼(エンシロウ)三首 其一  唐・白居易
滿窓明月滿簾霜 
 満窓(マンソウ)の明月 満簾(マンレン)の霜 
被冷灯残払臥床 
 被(フトン)冷ややかに灯残して臥床(ガショウ)を払う 
燕子楼中霜月夜 
 燕子楼中 霜月の夜 
秋来只為一人長 
 秋来(シュウライ) 只だ一人の為(タメ)に長(ナガシ)し 

<現代語訳>
窓には月の光が差し込み、簾には霜が満ちている、
ふとんは冷えて灯火は細り、寝床を払って起き上がる。
燕子楼の中で過ごす霜の降る夜、
秋がやってきたけれど、私一人だけに夜はこんなにも長いのです。
(下定雅弘に依る)
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