(4) 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の
富士の高嶺に 雪は降りつつ
山辺赤人
訳] 田子の浦に出て雄大な風景を眺めてみると、真っ白な富士の高嶺に今まさに雪が降り続いていることよ。(板野博行)
上の歌は、『新古今和歌集』(1205年成立)から選ばれたものである。その元歌は『万葉集』(759?完)に収載されており、その一部が変更(改作)されて収録されるという、少々ややこしい経緯を持っている。その経緯については後述します。
漢詩化するに当たっては、“万葉歌”を念頭に進め、七言絶句の形にしました(下記)。この辺りの筆者の“念い”については、後に述べますが、ご批判頂けると有難いです。
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<漢字原文および読み下し文>
田子浦賞富士山 田子の浦にて富士山を賞す (上半声七虞韻)
東臨滄海駿河浦, 東のかた滄海(ソウカイ)を臨(ノゾ)む駿河の浦,
秀嶺西遥天一隅。 西のかた遥(ハルカ) 天の一隅(イチグウ)に秀嶺(シュウレイ)あり。
戴雪高峰如紈素, 雪を戴(イタダ)く高峰(コウホウ) 紈素(ガンソ)の如く,
穿雲倒扇霊岳孤。 雲を穿つ倒扇(トウセン) 霊岳(レイガク)孤(コ)なり。
註]
駿河浦:田子の浦を指す。『万葉集』で本歌に添えられた長歌に拠る。
紈素:白い生絹(キギヌ)。“如紈素”は、石川丈山の絶句「富士山」に拠った。
倒扇:扇をさかさまにした姿。石川丈山の絶句「富士山」に拠った。
<簡体字とピンイン>
田子浦赏富士山 Tiánzǐpǔ shǎng Fùshìshān
东临沧海骏河浦, Dōng lín cānghǎi jùnhé pǔ,
秀岭西遥天一隅。 xiù lǐng xī yáo tiān yì yú。
戴雪高峰如纨素, Dài xuě gāofēng rú wánsù,
穿云倒扇灵岳孤。 chuān yún dào shàn língyuè gū。
<現代語訳>
田子の浦にて富士山を賞する
東は太平洋の滄海に連なる田子の浦、
西の方を振り返りみれば、遥か天の原の一隅に秀麗な姿の嶺が見える。
嶺の頂きには真っ白な雪を戴いており、生絹を羽織っているようであり、
さかしまにした扇の如き霊峰は雲を穿って聳え、並ぶものはない。
[参考] 『万葉集』の短歌に添えられた長歌
天地(アメツチ)の分(ワカ)れしときゆ 神(カム)さびて 高く貴き駿河なる布士(フジ)の高嶺を 天(アマ)の原 振(フ)り放(サ)け見れば 渡る日の影(カゲ)も隠(カク)らい 照る月の光も見えず 白雲もい行きはばかり 時じくぞ雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 不尽(フジ)の高嶺は。
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読者の皆さんは、“富士山” の話題を耳にした時、富士山の情景を如何様に想像いたしますか? 筆者の“念い”は:
先ず、澄み渡る碧天を背景にくっきりと聳える、扇を逆さまにした姿。7,8合目辺りから上部にはまさに雪白(セッパク)の雪を頂き、雪面には幾筋か薄墨の山襞が線を描き、奥行きを感じさせる。万葉の頃には頂上から煙がくゆっていたのではないでしょうか。
山裾は、なだらかな曲線を描いてどこまでも広がっていく。時には、薄雲が7,8合目に軽く棚引くこともある。……。
『万葉集』に収載された歌は、次のようである:
田子の浦ゆ うち出でてみれば、真白にそ
富士の高嶺に 雪は降りける
上記の百人一首の歌では、三ケ所が変更されていて、随分と趣が異なった歌となっています。“万葉調”と“新古今調”との歌調の違いを端的に示している例と言えるようです。『新古今和歌集』に収載される際に、時代の歌風を反映する形に変更されたということでしょうか。
すなわち前回(閑話休題114)触れたように、『万葉集』版では、富士山を目にした時の感動が直接、素朴に表現されている。一方、『新古今和歌集』版では、都会的で繊細に、幻想的な絵を見るような風に表現されている と。
ふんわりと絹の衣をまとった(白妙の)、また現在、雪が降り続いている(降りつつ)……、確かに“新古今調”か と頷づけます。しかし、“歌(詩)から一枚の絵”を思い描いてみると、この表現は同時に、背景が碧空ではなく、どんよりとした重たい雪空の情景を想像させます。
さらに歌の主題(感動を覚えた対象)が、『万葉集』版では、“富士山”自体であると言える。一方、『新古今和歌集』版では、むしろ“ふんわりと置かれた雪”・“雪が降っている情景”が主題であり、“富士山”は、“雪を語るための場”を提供しているに過ぎないと思えてならない。
というわけで、漢詩を書くに当たっては、先に述べた霊岳“富士山”についての“念い”を頭において進めており、“万葉歌”寄りの内容の詩となったか と思っています。なお上掲の[参考]も大いに参考としました。
作者の山部赤人について触れます。生没年は不詳で、736年ごろ没したとも言われている。奈良時代初期の宮廷歌人で、天皇の行幸などに同行して歌を捧げていたようである。後年、柿本人麻呂と並ぶ「歌聖」として讃えられ、「山柿」と称されているようです。
自然の美しさや清さを詠む叙景歌を得意としていて、『万葉集』には50首(長歌13、短歌37)、勅撰和歌集に49首収録されている と。