天空に広がる真っ赤な夕焼け空の情景を目にして、この夕焼けの色こそ、紅の深染めの絹衣の色であるのだ、と感嘆の想いを詠っています。絹衣から無辺の天空に思いを馳せ、真っ赤な夕焼け空の情景を直截に歌にして、読者に迫る力は、実朝の真骨頂と言えよう。
“技”を凝らした歌より、眼前の“情景”あるいは、 “想い”を直截に詠んだ歌が、やはりよい。五言絶句の漢詩にしました。
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詞書] 山の端に日の入るを見てよみ侍りける
紅の 千入(チシホ)のまふり 山の端に
日の入るときの 空にぞありける (源実朝 金塊和歌集・雑・633)
(大意) 紅に繰り返し染めて深染めされた色、それは日が山の端に沈んだと
きに見られる夕焼けの空の色であるのだなあ。
註] 〇千入:幾度も染料に浸して染めること、“入”は染める度合いを
いう語; 〇まふり:色を水に振り出して染めること。
<漢詩>
美麗紅染衣 美麗(ウルワシ)き紅染(クレナイゾメ)の衣(コロモ) [下平声六麻韻]
屢次染紅紗, 屢次(ルジ) 染められし紅(クレナイ)の紗(ウスギヌ),
娟娟彩自誇。 娟娟(ケンケン)として 彩(イロドリ)自(オノズカラ)誇る。
弈弈何所似, 弈弈(エキエキ)たる 何に似たる所ぞ,
正是映晚霞。 正(マサ)に是(コ)れ 夕陽に映える晚霞(バンカ)の色。
註] ○屢次:何度も、しばしば; 〇紅染:紅花により染色する染色法;
○紗:薄手に織られた絹織物、但し歌では特定されていない; 〇娟娟:清
らかで美しいさま; ○弈弈:非常に美しいさま、光り輝くさま; ○映:反映する、光を受けて照り輝く; 〇晚霞:夕焼け。
<現代語訳>
美しい紅染めの衣
幾度も繰り返し深染めされ、紅に染まる薄絹の色、
清らかで美しく映える彩は、これ見よがしに自ら誇示するが如くに見える。
その美しく輝くさまは、何に譬えられようか、
これは正に山の端に日が沈む頃の、この真っ赤な夕焼けの空の色なのだ。
<簡体字およびピンイン>
美丽红染衣 Měilì hóng rǎn yī
屡次染红纱, Lǚcì rǎn hóng shā,
娟娟彩自誇。 juān juān cǎi zì kuā.
弈弈何所似, Yì yì hé suǒ sì,
正是映晚霞。 zhèng shì yìng wǎn xiá.
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歌人・源実朝の誕生 (11)
「§1章 実朝の歌人としての天分・DNA」は、父・頼朝譲りであることを見てきました。文武両道に秀でた頼朝の才のうち、“武”の面については、嫡男・頼家(第2代将軍)が勝れていたことは、よく語られることである。
向後、実朝の“文才のDNA”が如何に育まれていったか、すなわち、「§2章 教育環境、特に和歌の指導に関わった師や協力者」について、諸資料を参考にしつゝ、触れていきたいと思います。
先に(2回)に、「実朝に和歌を学ばせるために、母・政子は、歌人・源光行(1163~1244)を師に当て、……」、「……光行は、教材として『蒙求(モウギュウ)和歌』や『百詠和歌』を用意した」ことに触れました。
まず、「実朝の“和歌の師”」としての“源光行”は避けて通れないお人である。その出自は、頼朝および光行ともに清和源氏の祖・源経基の十代(?)末の裔であり、頼朝は経基嫡男・満政の、一方、光行は次男・満仲の流れである。
但し、源平合戦において、光行の父・光季および叔父・飯富季貞は平家方にあった。戦後、1183年、京都にいた光行および従兄弟の源宗季は、鎌倉に下向して、頼朝に、父および叔父の謝罪と助命を願った。
その結果は不明であるが、光行は、その才能を頼朝に認められて、鎌倉幕府が成立すると、政所の初代別当となり、朝廷と幕府との関係を円滑に運ぶために、鎌倉・京都間を往復した。1191(建久2)年3月3日、京都で頼朝の政治を称える『若宮社歌合』が開催されたが、その企画者とされている。
後の代になるが、北条泰時の命で、光行は、和歌所・学問所などを設置している。歌については、光行は藤原俊成に師事しており、『新古今集』に「[詞書] 題しらす」で、次の一首撰されている:
心ある 人のみ秋の 月を見ば
なにをうき身の おもひでにせむ (新古今集 巻第十六 雑上・1541)
(大意) 秋の月を見るのは、風情を解する人だけであるとしたら、
辛いことの多い身にとっては 何を思い出の縁にしたものか
以上、政治家、歌人としての光行を見てきたが、文学者としても、その子・親行とともに後世に貴重な業績を残している。すなわち、『源氏物語』の写本『河内本』およびその注釈書『水原抄』の著述である。
印刷技術のなかった当時、『源氏物語』などの著述は、写本として人々の間に広がり、読まれていった。特にbest-sellerであった『源氏物語』は、その写本は“万”とあったようである。当然、“書き写す”間に、誤字、誤記等々紛れ込んでいったはずである。
光行・親行親子は、協力して、当時伝来していた21部の『源氏物語』古写本を集め、突き合わしていき、「多くの疑問点を解消できた」としている。光行によって1236年2月3日に始められ、光行の没後、親行によって1255年7月7日に一旦完成させたとされる。光行・親行ともに河内守を歴任しているため、この写本は『河内本』の名称が冠せられ、伝えられている。
一方、親行は、藤原俊成(1114~1204)、徳大寺実定(1139~1192)、藤原定家(1162~1241)および久我通光(1187~1248)等と共同で、『河内本』の注釈書『水原抄』を著している。『源氏物語』の“源”を、偏(サンズイ・シ、水)と旁(ツクリ、原)に分割して命名したとされている。
光行には、特に実朝の教育に必要な教本として、『蒙求和歌』、『百詠和歌』および『新楽府和歌』の3部作を用意した。それらについては、次回以後に触れるつもりである。