愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題100 酒に対す-22;劉邦:大風の歌 

2019-02-23 09:55:02 | 漢詩を読む
この一句:
大風 起こりて 雲 飛揚す

“諸国に割拠していた豪傑たちを打ち払い、ここに天下統一を成し遂げた”と、胸の内の高揚を示す一句でしょうか。

劉邦が、“垓下の戦”で,最後にして最強の項羽を降し、さらに諸豪族を沈めて、故郷に帰った際に詠ったとされる詩(下記を参照)の第一句です。BC202年、ほぼ7年間にわたる乱世に終止符が打たれ、漢(前漢)王朝が成立しました。
 
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大風歌  劉邦
大風起兮雲飛揚   大風 起こりて 雲 飛揚(ヒヨウ)す
威加海内兮帰故郷  威(イ) 海内(カイダイ)に加わり 故郷に帰る
安得猛士兮守四方  安(イズ)くんぞ猛士(モウシ)を得て 四方を守らん
註]
海内:四海の内、天下

<現代語訳>
大風の歌
大風が吹いて、雲が乱れ飛びちりぢりになった。
私の威(イ)は国中に及ぶようになり、こうして故郷に帰ってきた。
なんとか勇猛な士を探し求めて、国を守っていきたいものだ。
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「狡兎(コウト)死して走狗(ソウク)烹(ニ)られ、高鳥(コウチョウ)尽きて、良弓(リョウキュウ)蔵(カク)さる」。(黄石公:『三略』)=すばしこい兎が死ぬと、猟犬は御用済みとなり烹られる。鳥がいなくなれば、良弓も用がなくなり、奥深く仕舞われる。

“垓下の戦”で項羽の最強軍団が潰えて、天下はやっと定まってきました。劉邦は、かつて項羽が楚の懐王から最初に封じられた土地、魯(現山東省泰山の南)において、項羽の葬儀を執り行った。

また項羽の一族を赦し、鴻門の会で危急を救った項羽の叔父・項伯を射陽侯に封じた。これらの行いは、‘礼儀を守り、節義を重んじる土地柄’の魯の人々ばかりでなく、世の人々を心服させずには置かなかったのではないでしょうか。

BC202年、漢(前漢)王朝の建国を宣言し、劉邦は初代皇帝に即位する(諡号:高祖)。都を洛陽としたが、数か月後、関中・秦の都・咸陽の近くに定め、長安と命名した(BC200)。なお、長安城が完成するのはBC190年である。

劉邦は、即位後、功臣に対する人事を行った。主だったものを見ると、張良:留侯へ、簫何:鄭侯から丞相へ、韓信:斉王から楚王へ移封、彭越:梁王、黥布:淮南王留任。なお、前三者は、特に“三傑”と称される功臣たちである。

天下を統一し、そのあるじとなった皇帝・劉邦は、再び動乱の世に戻してはならないという強い思いがあったでしょう。そのためには諸王国が中央に深く繋がった中央集権制こそ理想であると考えた。

しかし完全な中央集権制を敷いた秦が短期で崩壊した史実を教訓に、地方の諸侯にも、中央から遠ざかることはなく、かつ領国を統治しうる程度の軍事力をもつ形での中央集権制を考え、着々と実現が図られた。

すなわち諸侯の支配領域、ひいては軍事力が強大とならないように図る。さらに諸王国を中央に向かわせるべく、異姓の諸侯王を廃し、同姓(=劉姓)の侯王のみ存続させるという血縁に拠った方策が採られた。

韓信は、これらの基準から離れた所にあり、力を削ぐ第一の標的となっていた。ただ「韓信を殺してはなりませぬ!…諸臣の動揺を招き、天下が乱れる因となる、…」との張良の強い助言があり、その線に沿った方策が練られていた。

韓信、さすが三傑の一人、情報は仔細に蒐集検討されていて、中央の息使いを察知していた。“ならば割拠してしまおう”と内心決めていたようで、長安からお召しがあっても、理由を付けて参内しないのである。

劉邦は、「韓信め!」と怒り心頭である。“参内しないこと”に加えて、韓信が、かつて項羽の武将であった鍾離昩(ショウリバツ)を匿っていて、逮捕を命じても、梨の礫であったことである。

劉邦は、楚の近くに巡幸することにした。韓信とはいえ、出迎えざるを得ない。“罠かもしれない…」と危惧しながらも、一縷の望みを胸に、「劉邦の喜びそうな手土産を持って行こう”と鍾離昩の首級を携えて、劉邦の前に出向いた。

「鍾離昩を誅殺いたしました。ご検分を」と首桶を差し出す。劉邦は、「…誰かある。楚王を縛り上げよ!」と。結局、縛られて、洛陽へ向かった。途中、韓信は、「…狡兎死して走狗烹らる、…」と聞こえよがしに言い放った と。

洛陽に着くと、造反の証拠は見当たらず、やがて釈放された。しかし爵は“王”から“侯”に降格され淮陰侯となり、封土が減じられた。一方、楚の国は二分され、劉邦の従兄・劉買と弟の劉交に与えられ、それぞれ荊王、楚王と称した。

BC196年春、劉邦が対匈奴戦に親征して留守の間に、韓信は、関中で謀反を企てた。しかし密告者があって露見、簡単に捉えられて斬られた。凱旋した劉邦は、韓信の処刑を聴かされたが、心境は複雑であったのではなかろうか。

この年の夏、梁王・彭越も韓信と同様、造反の汚名を着せられて殺害された。韓信、彭越がともに誅殺されたいま、黥布は、「おれは大丈夫かな?」と、不安げに自分の首を撫でていた。

秋に、黥布は、兵を挙げて華々しく戦いを挑んだ。淮南の都・六(現安徽省六安県の北)から荊に進撃して、荊王・劉買を敗死させた。さらに淮水を渡り、徐州で楚軍と戦い、楚王・劉交を敗走させた。さすがに黥布軍は精強であった。

劉邦は、遂に親征に踏み切った。しかしたやすく勝てないことが判り、庸城(ヨウジョウ、徐州の南約70 km)に砦を築き、対峙することにした。終に劉邦は、出撃を命じ、激戦が繰り広げられた。

黥布軍は敗れ、黥布は、淮水を渡って江南に逃れ、妻の兄の長沙王・呉臣を頼った。しかし長沙王の家臣たちの一人として彼を助けようとする意見はなく、謀計にあい、命を落とした。

劉邦は、庸城での戦闘で流れ矢を受けた。命に別状はなかったが、大事を取って、陣を離れて長安に帰ることにした。その途中、久しぶりに故郷の沛に立ち寄った。故郷に錦を飾ったのである。

大宴会が催された。その席で、父老の代表から、「次世代子供たちに、ご訓戒を垂れて頂きたい」と所望された。劉邦は、「わしに教えるものは何もない」と断るが、父老たちは、「是非賜りたく」と恭しく頭を下げた。

「わしは若い頃、筑(チク、打楽器の一種)を撃っては、自分勝手に歌詞を作って歌ったものだ。教えるとすれば、歌以外にない。沛の子供たち、八歳から十四歳までの子供たち、全部集めるがよい。歌を教えてやろう」と。

たちまち120人の少年が集められた。「みんな可愛い子じゃな。わしの作った歌を筑にあわせてみんなで合唱せい。」沛の少年合唱隊は、繰り返し繰り返し練習して、みごとに歌った。その歌とは、上に挙げた「大風の歌」であった と。
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閑話休題99 酒に対す-21;杜牧:烏江亭に題す

2019-02-09 09:48:33 | 漢詩を読む
この二句:
江東の子弟 才俊 多し,
巻土重来 未だ知るべからず

漢兵に追われている項羽は、長江北岸の烏江(ウコウ)に至り、死を決し、最後の戦に臨みます。その折に、烏江亭の亭長が、「江東には優れた若者が多い、用意した船で河を渡り、江東で再起を期してください」と、項羽に促していました。

一千年余の後、晩唐の詩人・杜牧は、「もしも項羽が亭長の勧めに従って出直していたなら、捲土重来、その結果はどうであったろうか」と詩「烏江亭に題す」で詠っています(下記参照)。

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題烏江亭     杜牧

勝敗兵家事不期,勝敗は 兵家(ヘイカ)も 事(コト)期せず,
包羞忍恥是男児。羞(ハジ)を包み 恥(ハジ)を忍ぶは是(コ)れ男児。
江東子弟多才俊,江東の子弟 才俊(サイシュン)多し,
巻土重来未可知。巻土重来(ケンドチョウライ) 未(イマタ)だ知るべからず。
註]
兵家:兵法家
包羞忍恥:恥辱(チジョク)に耐えること、“羞”:はずかしくて人に顔向けできないこと、“恥”:他者に対して面目ないと思うこころ
江東:現江蘇省南部一帯、項羽の本拠地である
巻土重来:土煙を巻き上げて、再び立ちあがる、“巻土”は“捲土”に同じで、土を巻く。
未可知:(結果は)今もって知ることはできない

<現代語訳>
烏江亭に題す
戦の勝敗は、兵法家であっても予測することはできないものだ、
肩身の狭い思いは胸の奥にしまい、恥を忍び、再起を計ってこそ真の男子だ。
江東の若者たちには優れた人材が多いのであるから、
勢いを盛り返して再び立ち上がっていたなら、結果はどうであったろうか。
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垓下での最後の宴の後、項羽は、「騅(スイ)をひいて参れ」と命じた。「いざ、囲みを破って南へ向かおう。江東に戻り、兵を休めて再起をはかろうではないか!」 と。「はっ、われらも出陣の用意をいたしまする」と、家臣らも心得ている。

項羽は、垓下を抜け出すに当たっても、「垓下の歌」で歌ったように、“時に利非ず。天がわれを亡ぼすのであって、この項羽が弱いからではない”と信じ、拘って止まなかった。

項羽は、駿馬の騅(スイ)に跨った。深夜、親衛隊の中から選ばれた精鋭800騎とともに、闇を衝いて垓下を抜け出して、南に向かった。垓下は、淮河(ワイガ)の北、現安徽省霊璧(リンピー)県にあり、古巣の呉は、垓下の東南方向に当たる。

漢軍が、項羽の脱走を知ったのは、夜が明けてからであった。劉邦は、騎将(騎兵連隊長)灌嬰(カンエイ)に5,000騎を授けて項羽の後を追わせた。騎兵隊の追跡は急であり、また項羽らの逃亡も一刻を争う状況である。

項羽の一行は、選抜された精鋭とは言え、駿馬の騅が脚も折れよとばかりに駆ける速さには及ばない。一騎、また一騎と脱落して、淮河を渡った時は、100騎ほどしか残っていなかったという。

陰陵県(現九江郡、淮南市東南、垓下から直線距離約100 km)の辺りで道に迷った。農夫に「長江に行くには?」と問うと、「左へ」と。しかし左に行くと、沼沢地帯に出て、先に進むことができず、引き返して東に向かった。

この道草のため、漢の騎兵隊に距離を縮められる結果となる。この状況を、曾鞏は、「虞美人草」の中で「陰陵に道を失うは 天の亡すには非ず」と指摘して (閑話休題94 参照)、項羽の想いに異を唱えている。

項羽一行は、東城県(現安徽省滁州(ジョシュウ)市定遠県)に至ったが、その時は項羽に従う者はわずか28騎となっていた。漢軍は未だ千騎単位の兵がいたはずである。項羽一行は漢兵に取り囲まれる結果となった。

項羽は、28騎の壮丁に向かって言った「……70余戦、わしは敗北を知らず、常勝軍団であった。……この期に及んで、こう苦しむのは、天がわしを亡ぼそうとしているのである、わしが戦に弱いからではない。……」と。

続けて、「……わしは死を決した。わしは諸君のため漢の包囲陣を潰し、将を斬り、旗をなぎ倒して見せよう。それで、天がわしを亡ぼすのであって、わしが弱いのではないことが証明できよう。……」と。

項羽は、疾風のように漢軍目がけて馳せた。そのすさまじい勢いに漢軍はあわてて逃げ、道が開けた。漢軍は将校一人と兵約100騎を失ったが、項羽側は2騎を失っただけであった。「どうだ、わしの申したとおりであろう」と。

項羽一行26騎は長江北岸の烏江に至る。東城県から約100km南方、現南京市の20数km上流の辺りである。ここまで来れば、項羽にとっては、人々はみんな身内と言える。そこの亭長は、対岸へ渡すための船を用意してある。

亭長は、「江東の王となってもよろしいではありませんか。どうか急いで渡って下さい。船を持っているのは私だけですよ。漢軍が追ってきたって、渡れるものではありません。……」と、再起を促し、渡江を急かせる。

項羽は、「わしは、8年前、江東の子弟八千をひきつれ江を渡って西に向かった。今一人として生きて帰る者はいない。江東の父兄が憐れんでわしを王にしても、何の面目あって……、いや、わしが心に愧じないでいられると思うか……」。

項羽には珍しく、穏やかな笑いを浮かべていた。やがて居住まいを改めて、亭長に向かって、「……なんのお礼も出来ぬのが残念じゃ。……この名馬をむざむざ殺すには忍びない。どうか受け取られよ」と。「大王さま…」と言うなり、亭長は絶句した。

項羽は、部下に「お前たちも馬から降りろ。刀で戦おう。……」と、大声ながら、いつもの命令調ではなく、言った。一行は、来るべき戦いのため休息していたが、まもなく前方に土煙が見え始めた。漢兵である。白兵戦となった。

項羽は、漢兵の中に顔に見覚えのある者を見つけた。昔、項羽に仕え、今、漢軍の騎兵将校になっている呂馬童という男であった。馬童は尻込みしつつ、後ろにいた王翳(オウエイ)に、「これが項王ですぞ」と教えた。

項羽は、馬童に向かって吼えるような大声で言った「旧知の誼に、お前に手柄を立てさせてやろう。……さあ、この首をくれてやる。ちゃんと受け取るんだぞ」と。言うなり、自決の作法に従って、自らの命を絶った。

項羽は、わずか24歳で挙兵し、天下争いの最終戦に臨んだ時は30歳を過ぎたばかりに過ぎない。その間、70余戦常勝であった。まさに最後の一戦で敗北を喫したことになる。

項羽の首は、王翳が拾っていった。項羽の首には、黄金千金と一万戸の領地の懸賞が掛けられていたのである。後に王翳は、杜衍(トエン)侯に封じられた。杜衍は地名である。
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