愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題312  書籍-20 コロナ-1 コロナ禍の春日

2022-12-31 10:47:40 | 漢詩を読む

   冠状春日     冠状(カンジョウ)の春日      [下平声八庚韻]

公園無孩子, 公園に孩子(コドモ)無く、

球賽無打鉦。 球賽(キュウサイ)に鉦(ショウ)を打つ無し。

国際無来往, 国際の来往(ライオウ)無く,

只聞遥遠鶯。 只だ聞くは 遥か遠くに鶯のみ。

 註]○冠状:コロナ・ウイルス; 〇球賽:球技大会; 〇鉦:しょう、

  応援団の鐘太鼓。

 ※ 鶯の鳴き声は“ホ・ホケキョ(法華経)”と、コロナを鎮めてくれと仏に祈っ

  ているように聞こえる。 

<現代語訳> 

 コロナ禍の春の日 

公園には元気に遊び廻り騒ぐ子供たちの姿はない、無観客のプロ球技場では応援団の打ち鳴らす鐘の音もない。世界各国で人の行き来はご法度、巷で外国人の話し声は聞かれない、唯だ 聞こえるのは、裏山で鳴くウグイスの一声のみ、“ホ・ホケキョ”と。

<簡体字およびピンイン> 

   冠状春日   

公园无孩子,球赛无打钲。

国际无来往,只闻遥远莺。

 

<記>

地球一円コロナの猛威に晒されている。所によっては豪雨水害に見舞われており、まさに“禍不単行(禍は単独では来ない)”の諺通りの状況に苦しめられている。“祈る”以外に手立てを持たない身が情けない。生活周囲のあらゆる音は消えて,“3無”の異様な状況なのである。(blog 200725から) 

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閑話休題 311 飛蓬-165  紅の 千入(チシホ)のまふり…… 三代将軍源実朝

2022-12-26 10:03:09 | 漢詩を読む

『金槐和歌集』の雑部に収められた一首です。山の端に広がる真っ赤に染まった夕焼け空に接し、一気に詠んだように思える。感動を直截に歌にしています。一気に詠み切った実朝の歌は、漢詩では五言絶句にピッタリです。

 

 [詞書] 山の端に日の入るを見て詠める 

紅の 千入(チシホ)のまふり 山の端に 

   日の入るときの 空にぞありける  (源実朝 『金塊和歌集』雑・633) 

  註] 〇千入:幾度も染料に浸して染めること; 〇まふり:色を水に振り

   出して染めること。 

 (大意) 水に浸した紅花に繰り返し染めて深染めされた色、それは日が山の

   端に沈んだときに見られる夕焼けの空の色であるのだなあ。 

    

xxxxxxxxxx

  美麗紅染衣   美麗(ウルワシ)き紅染(クレナイゾメ)の衣(コロモ)   [下平声六麻韻]

重複染紅紗, 重複(クリカエシ) 染められし紅(クレナイ)の紗(ウスギヌ), 

娟娟彩自誇。 娟娟(ケンケン)として 彩(イロドリ)自(オノズカラ)誇る。 

美観何所似, 美観 何に似たる所ぞ, 

正是映晚霞。 正(マサ)に是(コ)れ 夕陽に映える晚霞(バンカ)の色。 

 註] 〇紅染:紅花により染色する染色法; ○紗:薄手に織られた絹織物、

  但し歌では特定されていない; 〇娟娟:清らかで美しいさま;  

  ○映:反映する、光を受けて照り輝く; 〇晚霞:夕焼け。 

<現代語訳> 

 美しい紅染めの衣 

幾度も繰り返し深染めされ、紅に染まる薄絹の色、

清らかで美しく映える彩は、これ見よがしに自ら誇示するが如くに見える。

その美しさは、何に譬えられようか、

これは正に山の端に日が沈む頃の、真っ赤な夕焼けの空の色なのだよ。

<簡体字およびピンイン> 

 美丽红染衣   Měilì hóng rǎn yī  

重复染红纱, Chóng fù rǎn hóng shā 

娟娟彩自誇。 juān juān cǎi zì kuā.  

美观何所似, Měi guān hé suǒ sì,  

正是映晚霞。 zhèng shì yìng wǎn xiá.  

xxxxxxxxx

 

実朝の歌は、その詞書から推して、真っ赤な夕焼けの空に直面して、それから起こる感動を歌にしたことは明らかであろう。その感動は、“真っ赤な夕焼けの空の色”から“紅染の衣”に収斂していったように読める。この歌の主題は“紅染の衣の色”であろう。

 

すなわち、歌の1および2句で、これまでの経験を通して、“何と美しい色であろうか!”と記憶に焼き付いていた“紅の深染の衣”の色、3以下の句で、この“紅色”は、眼前の“真っ赤な夕焼けの空の色”であるのだ!と。このような主旨で漢詩を書きました。

 

実朝の歌には、為世者としては珍しく(?)、庶民に目を向けた歌が多い。この歌においても、作歌の心底には、単に紅染の美麗な色というだけでなく、美しい紅染の染色工程、さらには染色に携わる人々への思い遣りの心が潜んでいたのではないでしょうか。

 

歌人・源実朝の誕生 (6) 

 

『金槐和歌集』について簡単に整理しておきます。先ず書名について、誰が名付けたかは不明です。時に『鎌倉右大臣家集』とも呼ばれるようです。“金塊”の名称は、“鎌倉右大臣”を唐風に洒落て言ったのであろう とされている。

 

すなわち、佐佐木信綱(1872~1963)の説に従えば、“金”は、鎌倉の“鎌”の字の偏、“槐”は、唐風で“大臣”の異称で、“金塊”の二字で、“鎌倉の大臣”の意となります。『鎌倉右大臣家集』を誰の発案で、何時から『金槐和歌集』と呼ぶようになったか不明である。またその写本は以下2系統知られているが、その原本は知られていない。 

 

『金槐和歌集』には、“定家所伝本”と“貞享(ジョウキョウ)四年板本”の大きく2系統あり、部立てや収載歌数など内容に違いがある。前者では春夏秋冬賀恋旅雑の部立てで、歌数663首、後者では春夏秋冬雑の部立てで、歌数716首が収められている。後者の実収載歌数は719首であるが、3首は実朝以外の作者による歌 とのことである。

 

“定家所伝本”は、1929(昭和4)年5月、佐佐木信綱により発見され、その奥書に「建暦三年十二月十八日」の記載がある と。実朝自身が編纂し、藤原定家に贈り、定家が写して自家に留めて置いたものと考えられている。実は、建歴三年は、十二月六日に改元せられていることから、この奥書にも細かい点で疑問が残っているようである。 

 

一方、同集の最後を「太上天皇の御書 下し預かりし時の歌」3首で締めていることから、後鳥羽上皇に献上されたのちに、定家が写して留めていたのではないか とも考えられている。また巻頭は定家が書いていることもあり、同集の編纂は定家が行ったのではないか等々、その成立事情、時期ともに定かではない。 

 

一方、“貞享四年本”は、「柳営亜槐なる人 改編」の奥書があることから、「柳営亜槐本」と呼ばれることもある。“柳営”とは“将軍”、“亜槐”とは“大納言”の異称である。そこで最も相応しい人物として、鎌倉幕府の第4代征夷大将軍・藤原頼経(フジワラノヨリツネ)が擬せられていた。

 

後に1968年、益田宗(?)が室町幕府第八代将軍・足利義政(1436―1490)であろうと提唱、定説となっているようであるが、最近(2013)、小川剛生(1971~)は、義政次代の義尚(1473~1489)が1483(文明15)年前後に編纂した と論証している。ただし未だ定説には至っていないという。筆者は、これらの最新資料には未だ直接接していない。

 

“貞享四年本”には、“定家所伝本”に含まれない、主に“定家所伝本”の成立後に詠われた歌であろうとされる歌が追加収載されている。また追加歌の検討から、実朝没(1199)後、『続後拾遺和歌集』成立(1326年)以前に、鎌倉で編纂されたであろう とされており、上述の最新の論述と齟齬をきたしている。なお、両系統間で、必ずしも歌番号の一致はない。

 

後世、歌人としての実朝は、当初は“万葉調”歌人として世に喧伝されて来たが、『金槐和歌集』中、 むしろ“新古今調”の歌数の方が多数であること等から、今日、実朝は『新古今集』の影響をより大きく受けた歌人である とされてきている。

 

最後に『金槐和歌集』の特徴をもう一点。同集に含まれる歌には、同一の題で幾通りにも作られた、また同一の構想を幾通りにも作り変えてみた、と想像させる複数の歌が並んで載せられている、すなわち、歌の“習作集”であるという一面があるようである。

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閑話休題310  書籍-19 故郷-6 ガジュマルの木 

2022-12-25 11:39:33 | 漢詩を読む

 対榕樹鞦韆図有懐   [去声4寘韻] 

  榕樹鞦韆図に対して懐い有り 

離別郷里経幾

 郷里(キョウリ)離れて幾季(イクトキ)か 経る,

榕樹鞦韆催酌

 榕樹(ヨウジュ)鞦韆(シュウセン)酌意(シャクイ)を催おす。

飛網如今世界狭,

 飛網(ヒモウ) の如今(ジョコン) 世界は狭し,

故郷在墳

 故郷 照旧(モトヨリ) 墳地に在り。

 註] 〇榕樹:ガジュマルの木; 〇鞦韆:ブランコ;   〇飛網:飛行機(漢語:飛機)とインターネット(漢語:  網絡); 〇如今:今日; 〇照旧:依然として;  〇墳地:墳墓の地。

<現代語訳> 

故郷を離れて幾年月か過ぎた、ガジュマルの木に掛かるブランコの図を見ると、自ずと酒盃に手が行く。飛行機とインターネットのある今日、地球は狭くなった、青山を他所に求めることはない、墳墓の地が有るのだ。

<簡体字表記> 

 对榕树鞦韆图有怀 

离别乡里经几季,榕树鞦韆催酌意。

飞网如今世界狭,故乡照旧在墳地。

 

<記> 

  釈月性は、《将に東遊せん……》で、「骨を埋むるに… 人間(ジンカン)到る処 青山有り」と詠んだ。

  一方、白楽天は、《香炉峰下 新たに山居……》で、左 遷されて一時廬山の麓に居た折、都長安を想いつつ、「故郷 何ぞ独り長安にのみ在らんや」と詠んで、嘯いている。

  作者は、「飛行機やインタイネット等、交通・通信が発達した今、わが故郷が墳墓の地である」と主張している。

  子供がガジュマルの枝に掛けたブランコで遊ぶ写真を見ると、つい、故郷を懐い、お酒に手が行くのである。

  ガジュマルの横に伸びた枝はブランコを掛けるのにちょうどよく、曾て子供たちは藁縄のブランコを掛けて遊んだものである。

 年季の行ったガジュマルは、枝は傘状に八方に広がり、枝から出た気根が見かけの幹を構成して、見事な姿をみせる。

南島喜界島に自生したガジュマルの木

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閑話休題309 書籍-18 故郷-5 南島花鳥風月

2022-12-22 09:40:17 | 漢詩を読む

 令和改元 詠故郷      [下平声9青-8庚韻]  

玲瓏令月洗心霊、

 玲瓏(レイロウ)な令月(レイゲツ) 心霊(ココロ)を洗う、

拂臉和風鴴嚶嚶。

 臉(カオ)を拂(ナ)でる和な風 鴴(ハマチドリ) 嚶嚶(サエズ)る。

扶桑炎赫赫紛、

 扶桑(フソウ)炎の花 赫赫(カクカク)として紛(フン)たり、

溪澗翠嗖嗖行。

 溪涧(ケイカン)の翠鳥(カワセミ) 嗖嗖(ソウソウ)として飛び行く。

天機代謝年運徂、  

 天機(テンキ) 代謝(タイシャ)して 年は運(ウツ)り徂(ユ)き、

沙渚無鴴湾海鳴。 

 沙渚(シャショ)に鴴は無く湾の海鳴(ウミナリ)を聴く。

惟有月輝如往昔、

 惟(タ)だ月のみ有って 独り往昔(オウセキ)の如し、

挙頭遙望故園情。

 頭を挙げて遙かに望めば 故郷が偲ばれる。

 註] 〇玲瓏:透き通るように美しいさま;  〇鴴:浜千鳥; ○嚶嚶:鳥が仲よく

   さえずり合うさま; 〇扶桑:ハイビスカス; 〇赫赫:赤々と照り輝くさま;

   〇紛:咲き誇る;  〇溪涧:谷川; 〇嗖嗖:すいすいと; 

   〇天機:天地自然; 〇代謝:世が代わる; 〇沙渚:沙洲、渚; 

  〇海鳴:海鳴り; 〇故園:生まれ故郷。  

<現代語訳>

  令和改元の折り 故郷を詠む

透き通る玉のような美しい月 心が洗われる思いである、頬を撫でる穏やかな海風に ハマチドリの鳴き交わす声が乗って来る。此処彼処にハイビスカスの燃えるような花が真っ赤に咲き乱れており、谷川の流れに沿ってはカワセミがすいすいと飛び去って行く。世は代わり、時は流れ去り、渚の沙洲では、浜千鳥は姿を消し海鳴の音だけが耳に届く。月は往時のままに光り輝いており、頭を挙げて遥かを望めば、故郷を想う情がわき起こるのである。

<簡体字表記> 

 令和改元 詠故乡 

玲珑令月洗心霊、 拂脸和风鸻嘤嘤。

扶桑炎赫赫纷、 溪涧翠嗖嗖行。

天机代谢年運徂、 沙渚无鸻湾海鸣。

犹有月辉如往昔、 挙头遥望故园情。  

 

<記> 

2019年5月1日、“令和”元年として、令和の世が始まった。この改元を機に、“令和”の字を組み込んだ詩を書いてみてはどうか、とつい遊び心を起こしてできたのがこの七言律詩である。

 

非常に明るい雰囲気の中での代継ぎで、その前後の日々はまさに“黄金”というに相応しい時期であったように思われた。偶々帰省して、故郷の今の姿に接する機会があって、その折りの“花鳥風月への懐い”も含めた。

 

新しい時代が幕を上げようとして、期待が大きく膨らんでいく一方で、ある面、“昔は良かったな!”と感傷の念も湧き、少々複雑な気分ではある。すべてではないが、時と共に失われた面もある。

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閑話休題 308 飛蓬-164  今朝みれば 山も霞て…… 三代将軍源実朝

2022-12-19 09:55:06 | 漢詩を読む

『金槐和歌集』の巻頭を飾る一首である。霞は春の象徴で、野や里はもちろん山にも霞が掛かっている と新しい春を迎えた喜びを感慨深く詠っています。勅撰和歌集の配列に従って、春の到来を告げる本歌を集の冒頭に置いています。

 

この歌を取り上げるには、時期的に少々早いですが、安寧の佳き新年を迎えられますよう祈念の意を込めて、実朝の春到来の歌を鑑賞します。 

 

  (詞書) 正月一日 詠む 

今朝みれば 山も霞(カスミ)て 久方の 

   天の原より 春は来にけり    (金槐和歌集  春・1) 

  註] 〇久方の:天に関わる語にかかる枕詞。

 (大意) 元旦の今朝、眺めてみると空も山も霞がかかっている。春は大空からやってきたのだなあ。 

xxxxxxxxxxxxxxxx

<漢詩> 

 元旦 詠      元旦に詠む     [上平声十一真韻]

盈盈淑氣入佳辰, 盈盈(エイエイ)たり 淑気(シュクキ) 佳辰(カシン)に入る, 

知是今朝万象新。 知る是(コレ) 今朝 万象(バンショウ)新たなるを。 

一望瑞霞滿山面, 一望すれば瑞霞(ズイカ) 山面に滿つ, 

從天空到翠煙春。 翠煙の春は 天空從(ヨ)り到るか。 

 註] 〇盈盈:気の立ち上るさま; 〇淑氣:新春のめでたく和やかな雰囲気; 

    〇佳辰:佳き時; 〇翠煙:青みを帯びた水蒸気、もや。

<現代語訳> 

 元旦に詠む 

新春の和やかな気が満ちて 良き時節を迎えた、

今朝 すべての事柄が装いを新たにしている。

山を望めば 春霞が一面に棚引いており、

青みを帯びた霞の春は 天空からやってきたのだ。 

<簡体字およびピンイン> 

   元旦 咏         Yuándàn yǒng   

盈盈淑气入佳辰, Yíng yíng shū qì rù jiā chén,  

知是今朝万象新。 zhī shì jīnzhāo wànxiàng xīn.  

一望瑞霞满山面, Yīwàng ruì xiá mǎn shān miàn,  

从天空到翠烟春。 cóng tiānkōng dào cuì yān chūn

xxxxxxxxxxxxxxxx

 

実朝は、1205年に『新古今集』を入手しており、その翌年(15歳)から本格的に和歌を作り始めたとされています。『新古今集』の巻頭歌は、摂政太政大臣藤原良経(ヨシツネ) (1169~1206)の次の歌である:

 

み吉野は 山もかすみて 白雪の 

 ふりにし里に 春はきにけり (摂政太政大臣藤原良経『新古今和歌集』 春・1)

  (大意) 吉野の山も霞んでおり、これまで雪が降っていた吉野の里にも 春がきたのだなあ。

 

掲題歌と良経の歌とを対比した時、後者の「…… 山もかすみて …… 春はきにけり」の部分を借りていることがわかります。掲題歌は、良経の歌を“本歌”とした“本歌取り”の歌と言える。このような作歌法は、実朝の作歌の大きな特徴の一つである。同様の例は、先に読んだ「もののふの……」でもみられた(閑話休題299)。

 

『新古今集』の巻頭・良経の歌を“本歌取り”とした自らの歌を『金塊集』の巻頭に置いた事実は、『新古今集』に対する実朝の並々ならぬ傾倒ぶりを物語っていよう。実朝の歌を鑑賞するに当たって、大いに参考となるように思われる。 

 

なお、藤原良経は、官位ばかりか、和歌、漢詩、書道、……と、万能の才の持ち主で、『新古今集』の仮名序も書いている。後鳥羽上皇(在位1183~1198)は、「……あまりに佳い歌が多く、平凡な歌がないことが良経の欠点だ」と漏らすほどの歌詠みである。

 

良経の歌は『百人一首』にも取り上げられている(91番、下記)。この歌の背景および漢詩訳は、拙著『こころの詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』(文芸社、2022.09刊)をご参照下さい。

 

91番 きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 

      衣かたしき ひとりかも寝む (『新古今和歌集』 秋下・518) 

 

歌人・源実朝の誕生 (5)  

 

1213(建歴三)年(実朝22歳)、元旦、鶴岡八幡宮参拝、法華経供養に始まり、恒例の諸行事が執り行われた。正月22~26日にかけて、北条義時、時房らの供揃えで二所詣を実施、当回の二所詣では、夕刻から俄かに降り出した激しい風雨に難渋したようである。 

 

2月1日には御所で「梅花万春を契る」の題で歌会が催され、平穏裏に年が進むかに見えた。しかし5月初め、和田義盛の合戦が勃発、一時、鎌倉は大混乱に陥っている。焼失した御所が新築され、実朝が移転したのは8月末であった。そんな中、7月7日、大江広元邸で、義時、泰時らが加わり、歌会が実施されている。

 

8月17日、藤原定家から、飛鳥井雅経を介して、和歌に関する書物が献上されたようであるが、詳細は不明である。11月23日には、やはり雅経を介して、定家から相伝の私本『万葉集』が献上されている。実朝は、「何物にも勝る重宝である」と喜ばれている。

 

『万葉集』の献上に当たっては、心改まる裏話がある。定家は、自分のある所領で地頭による不法な収奪に遭っていて、世上に疎く、人知れず悩んでいた。そんな折、鎌倉の大江広元から「何か手助けできることがあるなら……」と書状を貰った。

 

定家は、農民への気遣いから、これ幸いと 実情を広元に報せた。結果、直ちに所領の件、不法停止の処置が採られた。一方、定家は、かねて雅経を介して、実朝が『万葉集』を欲しがっていることを聞いていた。そこで、定家は、所領の一件 解決への返しとして、相伝の『万葉集』を実朝に献上した と。和歌を巡る一佳話として記されている。

 

この年、特筆すべきは、定家の許で『金塊和歌集』編纂が終了したことである。すなわち、いわゆる定家所伝の同集の奥書に“建歴三年十二月十八日”とある と。これまでに実朝から定家の元に届けられた和歌663首が収められている。

 

『金塊和歌集』には、2系列の伝本があり、定家所伝の通称『定家本(テイカボン)』、今一つは『貞享(ジョウキョウ)四年板本』、通称『貞享本』で実朝の歌716首が収められている。『金塊集』については稿を改めます。 

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