ドラマに戻ります。皇太子の座は空位である。第四皇子は自重して政務から身を引いている。陛下は、第十四皇子に声を掛け、政務の見解を問う場面が多くなってきた。第十四皇子は、第四皇子と母を同じくする実の兄弟である。
西域に遠征して狩猟を行う行事があり、その帰路に宴会が催された。第八皇子は、母の命日と重なって一足早く帰京していて、宴会への出席が叶わなくなった。そこでお祝いの贈り物を届けることにした。
贈り物は蒙古の“海東青(ハヤブサ)”にした。宴会場では、満座が注目する中、籠の覆いが捲られます。陛下の笑顔が、見る見る憤怒の表情に変わり、遂には鳥かごを蹴飛ばす状況に。籠の中のハヤブサは瀕死の状態にあった。皇帝への呪いを意味しています。
第八皇子は、釈明の機会もなく、蟄居の身となります。何者かの策謀によるものに違いないが、その詳細は不明である。仲間内の第十四皇子か?と囁く声がある。“八賢王”と呼ばれた第八皇子の野望は完全に潰えたことになります。
新年の祝賀会のあと、康熙帝は若曦を執務室に招き、「“命知らずの十三妹”も、分をわきまえるようになった。…縁談をと思いながら、名残り惜しくて手放せなかった。歳も近く、気心が知れている第十四皇子なら良い縁談になる」と。
呆然とする若曦は、大監に促されて、「感謝致します。私は…私はこの縁談を….お受けできません。ご辞退申し上げます」と。「罰が怖くないのか!不届き者が!」と怒る陛下は、「棒打ち20回、衣を洗う浣衣局に送れ」と断を降しました。
帝の勅令に背けば、“九族斬首”の掟ながら、棒打ちと浣衣局送りとは、寛大な処置であろう と、若曦はやはり陛下の寛大さを思う。周りの人々が、体罰の理由を問うが、それは誰にも明かせない。ただ、第四皇子には正直に答えた。
浣衣局での仕事は、字義通り衣類の洗濯である。洗剤を使うこともなく、盥に水を満たし、洗濯板にぶっつけつつ衣類を洗う。手指の節々が、赤く節くれだって来る。“洗濯機が有ったら….”と呟きつつ仕事を進める毎日である。
若曦が浣衣局に携帯した大事な品々は、モクレンの簪、鼻煙壺と弓矢の3種で、前2品は第四皇子からの贈り物である。赤い布袋に収められた、先鋭な穂先の弓矢は、若曦に第四皇子の深い“愛”を実感させた一品と言える。
それはある良く晴れた日の昼下がり、広大な山苑で、第四皇子の子息が飛ぶ鳥を弓で射る遊びに興じていた時の事である。偶然にも、同苑では若曦と明玉、第四と十皇子の2組も散策を楽しんでいた。
子息の放った矢は、的を外れて落下するかに見えた….その瞬間、第四と十皇子が飛んできて、それぞれ、若曦及び明玉に飛び掛かり押し倒した。矢は、第四皇子の左肩を掠めて、地に落ちた。矢の穂先は血に染まっていた。
肩の傷口を押さえたまま、無言の第四皇子に 若曦が「なぜ助けたの?」と問うと、第四皇子は「君を守るため」と一声発して、立ち去った。若曦が、心底、第四皇子の“愛”を感じ取った時であったと言える。
帝は今や老いて、暢春園で養生している。侍医は薬以外でも食事で体力を付けるよう進言するが、「食欲がなく、箸が進まない」と言う。さらに「久しく茶菓子を食べていない、もう何年もな!」と漏らした。
大監が、意を察して、そっと下の者に指図して、急ぎ浣衣局から若曦を呼び寄せ、茶菓子を用意させた。帝はその茶菓子をゆっくりと味わいつつ、「玉檀が作ったものではないな!すぐ此処へ!」と言われた。若曦が招き入れられて、ともに感無量の再会となった。
浣衣局から乾清宮へ向かう車中で、若曦は、“今年は康熙61年、康熙帝の崩御は、康熙61年11月、….”と、ふと漏らして、目を伏せた。
皇位継承争いは、第四・十四の皇子兄弟に絞られたことになる。第四皇子は、最近、政務への復帰が叶っている。第十四皇子は、夷族叛乱の鎮定のため、“大将軍王”として西域へ遠征中である。“大将軍王”は、皇太子への一歩手前の位と言われており、“次期皇太子は第十四皇子”との下馬評は高くなっていく。
国都の南郊には“天壇”と呼ばれる祭壇があり、冬至の日に天子が天帝を祭る祭祀を執り行なう場所である。帝は、第四皇子に、自分の代理として天壇に赴き、祭祀を執り行うよう頼む。通常、代役は皇太子に任される役目である。
天壇に向かう日に至っても、第四皇子は発つ気配がない。夫人が気を揉み、出立を促すが、「今は此処を離れられない」、「今は待つのみ!」として、立ち尽くしている。手には大筆を持ち、机上には“静”と大書した一枚の紙がある。
病状が悪化した帝は、寝台の傍に第四皇子を呼び、「….話しておきたいことがある….」、「すでに詔書の準備はさせてある」、「一つ頼まれてほしいことがある。」と咳き込みながら、途切れ途切れに話した。
幾日か経って、死期を悟った帝は、隆科多(ロンコド)を枕元に呼び、「第十四皇子を帰還させる。また出征させることはしないので、代理の指揮官を吟味したい」と指示し、「すでに後継者は決めた」と述べた。隆科多は第四皇子の腹心の一人である。
侍医の表情から、“その時”の来たことが悟られた。隆科多の命で、乾清宮を兵に包囲させ、9門をすべて閉鎖させる。皇子と言えども入れてはならないと。また大監は“仕えていた者は、ここを離れてはならぬ」と厳命する。
自室に待機していた第四皇子は、先に寝宮で帝が言われたお言葉を思い出していた。「既に詔書は準備させてある。皇位は第十四皇子が継承、そちはしっかりと補佐してやってくれ」と。「離騒」の引用から推測したように、帝の意中の本命は、やはり第十四皇子のようであった。
臨終の報せを受けた第四皇子は、「ついに行動を起こす時がきた!長年の足固めもこの瞬間のため、皇宮へ…」と向かう。机上には、“動”と大書された一枚の紙があった。
寝宮では、重臣たちも集まっている。侍医が崩御を宣告。隆科多が皇帝の最後の言葉として告げる:「先ほど皇帝は第四皇子に皇位を譲ると言われ、その後、突然、意識を….」と(涙)。その時、第四皇子が入ってきて、寝台の前に跪く。
すかさず隆科多が、皇帝の遺詔を告げた:「人格に優れ孝行者の第四皇子に大業を引き継がせる。直ちに皇帝として即位すること」と。次いで第四皇子に拝礼して、「皇帝陛下にご挨拶を」と促した。皆が口々に「皇帝陛下!」と唱えて、拝跪する。
ドラマで見る第四皇子の生きざまは、これまで、まさに「行きて“水の窮まる処”に到り、座して“雲の起こる時”を待つ長い寡黙の行路であった。“雲の起こる”を見るや、電光石火、天頂を極めたのである。寡黙にして、腹心の隆科多を陛下の傍に潜り込ませた智謀・策謀は見事と言えよう。
以後、城の包囲、厳しい規制も解かれ、不都合な分子は粛清されて、新秩序も生まれ、紫禁城内もやや安定を取り戻していく。新皇帝は、昼夜を分かたず政務に追われて、休息の時も得難いが、若曦とともに過ごすわずかな時間に最も安寧を感じている風である。
ある夜、新皇帝は、疲れ切った身体で若曦と抱き合い、「別れの後、再会を願い、何度、夢に見たことか。今こうして会えても、それも夢ではないか、と何度も灯りで確認する」と切々に語る。なおこれらの言葉は、末尾に示した晏幾道の詞に拠る。(第22、23、24、25、26話から)
晏幾道(1030?~1106?)は、北宋の詩(詞)人、撫州臨川(現・江西省撫州市)の人。華麗で感傷的な詞を作る。代表的詞集に『小山詞』がある。
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鷓鴣天 晏(アン) 幾道(キドウ)
從別後,憶相逢, 別れて後(ノチ)從(ヨ)り,相逢(メグリアイ)しを憶(オモイオコ)し,
幾回魂夢與君同。 幾回(イクタビ)か魂夢(ユメ)に君與(ト)同(トモ)にす。
今宵賸把銀釭照, 今宵は 銀釭(ギンコウ)を把(ト)って照らすばかり,
猶恐相逢是夢中。 猶(ナオ)恐(オソ)る 相逢も是(コ)れ夢の中かと。
・註] 鷓鴣天:詩牌の名で詩の内容とは直接関係はない
・・・相逢:思いがけずめぐり合う
・・・魂夢:ゆめ、夢の中に現れる魂
・・・銀釭:銀の燭台(の灯り)
・・・賸:(=剩)…するばかりである
<現代語訳>
鷓鴣天
別れて以来、巡り合えたことを思い起こして、
幾度 君と逢い一緒にできた夢を見たことであろうか。
今宵はやっと逢えて、銀の燭台を取って照らして、見入るばかり、
でもこのめぐり逢いもまた夢ではないかと恐れるのである。
西域に遠征して狩猟を行う行事があり、その帰路に宴会が催された。第八皇子は、母の命日と重なって一足早く帰京していて、宴会への出席が叶わなくなった。そこでお祝いの贈り物を届けることにした。
贈り物は蒙古の“海東青(ハヤブサ)”にした。宴会場では、満座が注目する中、籠の覆いが捲られます。陛下の笑顔が、見る見る憤怒の表情に変わり、遂には鳥かごを蹴飛ばす状況に。籠の中のハヤブサは瀕死の状態にあった。皇帝への呪いを意味しています。
第八皇子は、釈明の機会もなく、蟄居の身となります。何者かの策謀によるものに違いないが、その詳細は不明である。仲間内の第十四皇子か?と囁く声がある。“八賢王”と呼ばれた第八皇子の野望は完全に潰えたことになります。
新年の祝賀会のあと、康熙帝は若曦を執務室に招き、「“命知らずの十三妹”も、分をわきまえるようになった。…縁談をと思いながら、名残り惜しくて手放せなかった。歳も近く、気心が知れている第十四皇子なら良い縁談になる」と。
呆然とする若曦は、大監に促されて、「感謝致します。私は…私はこの縁談を….お受けできません。ご辞退申し上げます」と。「罰が怖くないのか!不届き者が!」と怒る陛下は、「棒打ち20回、衣を洗う浣衣局に送れ」と断を降しました。
帝の勅令に背けば、“九族斬首”の掟ながら、棒打ちと浣衣局送りとは、寛大な処置であろう と、若曦はやはり陛下の寛大さを思う。周りの人々が、体罰の理由を問うが、それは誰にも明かせない。ただ、第四皇子には正直に答えた。
浣衣局での仕事は、字義通り衣類の洗濯である。洗剤を使うこともなく、盥に水を満たし、洗濯板にぶっつけつつ衣類を洗う。手指の節々が、赤く節くれだって来る。“洗濯機が有ったら….”と呟きつつ仕事を進める毎日である。
若曦が浣衣局に携帯した大事な品々は、モクレンの簪、鼻煙壺と弓矢の3種で、前2品は第四皇子からの贈り物である。赤い布袋に収められた、先鋭な穂先の弓矢は、若曦に第四皇子の深い“愛”を実感させた一品と言える。
それはある良く晴れた日の昼下がり、広大な山苑で、第四皇子の子息が飛ぶ鳥を弓で射る遊びに興じていた時の事である。偶然にも、同苑では若曦と明玉、第四と十皇子の2組も散策を楽しんでいた。
子息の放った矢は、的を外れて落下するかに見えた….その瞬間、第四と十皇子が飛んできて、それぞれ、若曦及び明玉に飛び掛かり押し倒した。矢は、第四皇子の左肩を掠めて、地に落ちた。矢の穂先は血に染まっていた。
肩の傷口を押さえたまま、無言の第四皇子に 若曦が「なぜ助けたの?」と問うと、第四皇子は「君を守るため」と一声発して、立ち去った。若曦が、心底、第四皇子の“愛”を感じ取った時であったと言える。
帝は今や老いて、暢春園で養生している。侍医は薬以外でも食事で体力を付けるよう進言するが、「食欲がなく、箸が進まない」と言う。さらに「久しく茶菓子を食べていない、もう何年もな!」と漏らした。
大監が、意を察して、そっと下の者に指図して、急ぎ浣衣局から若曦を呼び寄せ、茶菓子を用意させた。帝はその茶菓子をゆっくりと味わいつつ、「玉檀が作ったものではないな!すぐ此処へ!」と言われた。若曦が招き入れられて、ともに感無量の再会となった。
浣衣局から乾清宮へ向かう車中で、若曦は、“今年は康熙61年、康熙帝の崩御は、康熙61年11月、….”と、ふと漏らして、目を伏せた。
皇位継承争いは、第四・十四の皇子兄弟に絞られたことになる。第四皇子は、最近、政務への復帰が叶っている。第十四皇子は、夷族叛乱の鎮定のため、“大将軍王”として西域へ遠征中である。“大将軍王”は、皇太子への一歩手前の位と言われており、“次期皇太子は第十四皇子”との下馬評は高くなっていく。
国都の南郊には“天壇”と呼ばれる祭壇があり、冬至の日に天子が天帝を祭る祭祀を執り行なう場所である。帝は、第四皇子に、自分の代理として天壇に赴き、祭祀を執り行うよう頼む。通常、代役は皇太子に任される役目である。
天壇に向かう日に至っても、第四皇子は発つ気配がない。夫人が気を揉み、出立を促すが、「今は此処を離れられない」、「今は待つのみ!」として、立ち尽くしている。手には大筆を持ち、机上には“静”と大書した一枚の紙がある。
病状が悪化した帝は、寝台の傍に第四皇子を呼び、「….話しておきたいことがある….」、「すでに詔書の準備はさせてある」、「一つ頼まれてほしいことがある。」と咳き込みながら、途切れ途切れに話した。
幾日か経って、死期を悟った帝は、隆科多(ロンコド)を枕元に呼び、「第十四皇子を帰還させる。また出征させることはしないので、代理の指揮官を吟味したい」と指示し、「すでに後継者は決めた」と述べた。隆科多は第四皇子の腹心の一人である。
侍医の表情から、“その時”の来たことが悟られた。隆科多の命で、乾清宮を兵に包囲させ、9門をすべて閉鎖させる。皇子と言えども入れてはならないと。また大監は“仕えていた者は、ここを離れてはならぬ」と厳命する。
自室に待機していた第四皇子は、先に寝宮で帝が言われたお言葉を思い出していた。「既に詔書は準備させてある。皇位は第十四皇子が継承、そちはしっかりと補佐してやってくれ」と。「離騒」の引用から推測したように、帝の意中の本命は、やはり第十四皇子のようであった。
臨終の報せを受けた第四皇子は、「ついに行動を起こす時がきた!長年の足固めもこの瞬間のため、皇宮へ…」と向かう。机上には、“動”と大書された一枚の紙があった。
寝宮では、重臣たちも集まっている。侍医が崩御を宣告。隆科多が皇帝の最後の言葉として告げる:「先ほど皇帝は第四皇子に皇位を譲ると言われ、その後、突然、意識を….」と(涙)。その時、第四皇子が入ってきて、寝台の前に跪く。
すかさず隆科多が、皇帝の遺詔を告げた:「人格に優れ孝行者の第四皇子に大業を引き継がせる。直ちに皇帝として即位すること」と。次いで第四皇子に拝礼して、「皇帝陛下にご挨拶を」と促した。皆が口々に「皇帝陛下!」と唱えて、拝跪する。
ドラマで見る第四皇子の生きざまは、これまで、まさに「行きて“水の窮まる処”に到り、座して“雲の起こる時”を待つ長い寡黙の行路であった。“雲の起こる”を見るや、電光石火、天頂を極めたのである。寡黙にして、腹心の隆科多を陛下の傍に潜り込ませた智謀・策謀は見事と言えよう。
以後、城の包囲、厳しい規制も解かれ、不都合な分子は粛清されて、新秩序も生まれ、紫禁城内もやや安定を取り戻していく。新皇帝は、昼夜を分かたず政務に追われて、休息の時も得難いが、若曦とともに過ごすわずかな時間に最も安寧を感じている風である。
ある夜、新皇帝は、疲れ切った身体で若曦と抱き合い、「別れの後、再会を願い、何度、夢に見たことか。今こうして会えても、それも夢ではないか、と何度も灯りで確認する」と切々に語る。なおこれらの言葉は、末尾に示した晏幾道の詞に拠る。(第22、23、24、25、26話から)
晏幾道(1030?~1106?)は、北宋の詩(詞)人、撫州臨川(現・江西省撫州市)の人。華麗で感傷的な詞を作る。代表的詞集に『小山詞』がある。
xxxxxxxxxx
鷓鴣天 晏(アン) 幾道(キドウ)
從別後,憶相逢, 別れて後(ノチ)從(ヨ)り,相逢(メグリアイ)しを憶(オモイオコ)し,
幾回魂夢與君同。 幾回(イクタビ)か魂夢(ユメ)に君與(ト)同(トモ)にす。
今宵賸把銀釭照, 今宵は 銀釭(ギンコウ)を把(ト)って照らすばかり,
猶恐相逢是夢中。 猶(ナオ)恐(オソ)る 相逢も是(コ)れ夢の中かと。
・註] 鷓鴣天:詩牌の名で詩の内容とは直接関係はない
・・・相逢:思いがけずめぐり合う
・・・魂夢:ゆめ、夢の中に現れる魂
・・・銀釭:銀の燭台(の灯り)
・・・賸:(=剩)…するばかりである
<現代語訳>
鷓鴣天
別れて以来、巡り合えたことを思い起こして、
幾度 君と逢い一緒にできた夢を見たことであろうか。
今宵はやっと逢えて、銀の燭台を取って照らして、見入るばかり、
でもこのめぐり逢いもまた夢ではないかと恐れるのである。