愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 259 飛蓬-149   西行南柯梦 次韵李白《山中与幽人对酌》

2022-04-25 09:56:26 | 漢詩を読む

時節柄、「一杯一杯 復(マ)た一杯」で知られる李白の詩《山中幽人と对酌す》に“韻”を借り(次韻し)た詩を試みました。春・花・一杯(宴)……、と想いを巡らしている内に、『願わくは 花の下にて 春死なん……』と詠った西行法師(1118~1190)に思い至った次第。ともに“気の向くまま”の生涯を送っています。

 

西行は、その願い通りに『その如月(キサラギ)の 望月のころ』、陰暦2月16日、釈尊涅槃(ネハン)の日に入寂した と。しかしすでに亡くなったとは言え、筆者の脳髄の中には生きていて、歌を読むごとに蘇ってきます。「花の下で休んでいて、佳い夢を見ているのだ と」。

 

コロナ下、満開の花の下で、“ワアワアの騒ぎ”はなく、小人数のグループがチラホラと、盃を交わしながら会話を楽しんでいる、却って風情の有る、良い情景と見ました。

 

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<漢詩と読み下し文>  

 次韻 李白《山中與幽人対酌》  李白《山中幽人と対酌す》に次韻  

  西行南柯夢   西行(サイギョウ) 南柯(ナンカ)の夢      [上平声十灰韻] 

碧空傍晚花盛開, 碧空 傍晚(ボウバン) 花 盛開(セイカイ),

花下少団相敬杯。 花の下 宴会の団(クミ)少なく 相(タガイ)に杯を敬(スス)める。

西行応做南柯夢, 西行(サイギョウ) 応(マサ)に南柯(ナンカ)の夢 做(ミ)ているべし,

望月山端亦上来。 望月 山端(ヤマノハ)に亦(マ)た上って来よう。

 註] 〇傍晚:夕暮れ; 〇盛開:満開である; 〇少団:幾組かの少数グループ; 

  〇西行:西行法師、平安後期の歌人、僧; 〇应:推量を表す、たぶん…であろう; 

  〇南柯夢:唐の淳于棼(ジュンウフン)は酒に酔って邸内の槐(エンジュ)の木の下で眠り、 

  槐安国(カイアンコク)に招かれて国王の娘と結ばれた。南郡の郡主に任じられて栄華を 

  極めた20年を過ごす夢を見た という故事。唐・李公佐『南柯太守伝』に拠る。 

<現代訳> 

  西行法師 南柯の夢 

初春如月の頃、澄み渡る青空の下、夕暮れ時、桜の花は満開、

花の下でちらほら幾組かのグループが杯を交わしている。

西行法師は、きっと花の下で休み、悦楽の夢を見ているに違いない、

満円い望月が、東の山の端にまた上って来るころ。

<簡体字およびピンイン> 

 次韵 李白《山中与幽人对酌》 Cìyùn LǐBái 《shānzhōng yǔ yōu rén duì zhuó》 

  西行南柯梦    Xīxíng nán kē mèng  

碧空傍晚花盛开, Bìkōng bàngwǎn huā shèng kāi,  

花下少团相敬杯。 huā xià shiǎo tuán xiāng jìng bēi

西行应做南柯梦, Xīxíng yīng zuò nán kē mèng,  

望月山端亦上来。 wàng yuè shān duān yì shàng lái

 

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<李白の詩> 

  山中與幽人対酌  山中 幽人と対酌す     [上平声十灰韻] 

両人対酌山花開、 両人(リョウニン)対酌(タイシャク)すれば 山花(サンカ)開く、 

一杯一杯復一杯。 一杯一杯 復(マ)た一杯。 

我酔欲眠卿且去、 我酔うて眠らんと欲す 卿(キミ)且(シバラ)く去れ、 

明朝有意抱琴来。 明朝 意(イ)有らば 琴を抱(イダ)いて来(キ)たれ。 

  註] 〇幽人:隠者; 〇対酌:向き合って酒を酌み交わす; 〇卿:きみ。二人称、

    同輩や目下の者に使う。“XX卿”と、爵位を持つ人の氏名につけるとき尊称を表す。  

<現代語訳> 

二人で酒を酌み交わすかたわらに、山の花が咲いている、

一杯、一杯、さらにまた一杯。

私は酔って眠くなった、君は、一先ず帰ってくれ、

明日の朝もまた、よかったら、琴をかかえておいでよ。

                                [白雪梅 『詩境悠遊』に拠る]                                   

<簡体字およびピンイン>  

    山中与幽人対酌、 Shān zhōng yǔ yōu rén duì zhuó,   

両人対酌山花开、 Liǎng rén duì zhuó shān huā kāi,  

一杯一杯复一杯。 yī bēi yī bēi fù yī bēi. 

我醉欲眠卿且去、  Wǒ zuì yù mián qīng qiě qù,

明朝有意抱琴来。  míng zhāo yǒu yì bào qín lái.

ooooooooooooo 

 

李白は、美しく花の咲く山中で、隠者とお酒を飲みながら、気ままに語らい、自由を謳歌しています。“君は、お帰りなさい”と、いかにも無遠慮に言い放つのですが、心底には“今日は最高に楽しかったよ、だから明日もぜひ琴を持っておいでください。今日の酒宴の続きを愉しもう!”(白雪梅・『詩境悠遊』に拠る)。

 

“一杯一杯 復(マ)た一杯”と、存分に杯を重ねて語らう雰囲気がよく解説されており、『詩境悠遊』からその部分を拝借させてもらいました。なお、李白の生涯については、次回“句題和歌”シリーズ・「長恨歌」の稿で概観するつもりです。

 

西行法師(1118~1190)は、俗名・佐藤義清(ノリキヨ)。曽祖父の代より代々衛府に仕える武人の家で、義清は、18歳で左兵衛尉に任じられ、鳥羽院の下北面武士として奉仕した。23歳の若さで出家して “西行”と号した。出家の原因・理由は不明である。 

 

出家後は京都・東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んでいる。32歳時、高野山に入り約30年間、そこを拠点にして吉野や大峰に入っている。63歳時、伊勢二見浦に移住、数年住まった後、河内国・現河内郡南町弘川(ヒロカワ)・弘川寺に庵居し、1190年この地で入寂したとされる。その間、都への往来、また奥州、四国など諸所を行脚している。

 

自由な境地で諸国を巡り和歌を作る、僧と作歌の二足の草鞋を履いた生涯で、約2,300首の和歌が遺されている と。特に花・月を詠った歌が多く、家集の『山家集』中、最も多く、また質的にも歌人・西行の特質を表す主題となっている と。

 

平安後期、院政期における新古今調の新風形成に、後鳥羽院、崇徳院、藤原俊成、藤原定家らと中心的な役割を果たしたと評されている。但し当時、都の歌壇で屡々催された歌合(ウタアワセ)に参加することはなく、距離を置いていたようでは ある。

 

1187年、自作の歌を集め、左右に分けて争わせる自歌合『御裳裾(ミモスソ)歌合』(72首、36番)および『宮河(ミヤガワ)歌合』(74首、37番)を作り、それぞれ、藤原俊成および定家に判詞を書いてもらい、伊勢神宮の内宮(ナイクウ)および外宮(ゲクウ)に奉納している。

 

藤原定家が撰した『百人一首』には、次の歌が採られている(漢詩化:閑話休題114参照)。『千載集』での詞書(コトバガキ)には、「月前恋(ゲツゼンノコイ)といえる心をよめる」とあり、出家の一因 失恋かな? 

 

  (86番) 歎けとて 月やはものを 思はする   

             かこち顔なる わが涙かな (西行法師『千載集』恋5・929)

             (大意) 歎くがよい と月が私に仕向けているのか、月のせいにしてまた新

         たに涙をこぼす 

 

 

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閑話休題40 漢詩を読む 漢詩『縄文杉を拝す』

2022-04-21 17:20:10 | 漢詩を読む

5/28 (日)~5/30 (火)、H交通社のツアーに参加して、屋久島、縄文杉を訪ねる旅に出ました。「ドラマの中の漢詩」については一休みして、この旅の様子を記します。

この旅の印象が非常に強烈であったこともあり、縄文杉を訪ねた模様について自ら漢詩を作ってみました。最後に触れます。

縄文杉については、広く喧伝されており、今更の感がないでもありませんが、漢詩と併せて観るなら、一味違ってくるのでは?と。まず写真1をご覧ください。

写真1:縄文杉

縄文杉の、神々しいほどのドッシリと、且つシャンとした樹姿体と、幾千年もの風雪に耐えた木肌の様相は実に印象的です。その麓に辿り着いた瞬間、多くの人が自然と胸元に両手を合わせて頭を垂れ、また仰ぎ見ていました。難路を経た疲れも吹っ飛んだ瞬間です。

当日(5/29)は、好天に恵まれて、縄文杉の全容を見ることが出来たことは幸いであった。ただ、同杉の保護のため、人や鹿などが近づけないよう柵が設けられていて、周囲には草木が繁茂している。今日、古い写真に見るような姿はみられない。

なお、縄文杉(固有名詞である)は別格にして、樹齢1,000年を超す杉を“屋久杉”、1,000年未満を“小杉”と称しているようである。

縄文杉に到る間の登山道の各所に、諸々の姿の屋久杉や杉の株跡が目を楽しませてくれることも特筆に値する。写真2はその一つ、“ウイルソン株”と呼ばれている古木の切り株の風化が進んだ跡である。

写真2:ウイルソン株の内部空洞

この杉株は、豊臣秀吉がほぼ天下を手中に収めたころ、1589年、方広寺大仏殿(京都)の造営のために伐採された古杉の跡であるとのこと。なお秀吉の命を受けて、実際に伐採に従事したのは、薩摩藩の島津氏であった由。

切り株跡は、風化が進み、木の樹皮側に近い部分を残して内部は空洞になっています。空洞は、写真に見るように大勢の人を収容できるほどに、相当に広く、また天井部は天を仰ぎ見ることができる天窓になっています。

内壁部は、燃え盛る炎の“ひだ”を思わせます。天窓部は、ある角度で天を仰いだ時、いわゆるハート型を呈します(写真3)。写真3は、急いで撮ったためやや歪んだ“ハート”となっていますが。

写真3:ウイルソン株のハート型天窓から天を仰ぐ

縄文杉に到る行程について少し触れておきます(写真地図4)。安房(屋久島東南海岸部)から荒川林道(写真右下)をバスで約1時間走って荒川登山口(地図P)、トロッコ道の始点に至ります。この点からトロッコ道を徒歩で約9 km行くと、大株歩道入口(地図中心上部WC)に至ります。


写真4:縄文杉にいたる行路;濃緑表示部は世界遺産登録地域

大株歩道入口から北方向に縄文杉まで約2.5kmの登山道となります。この地点で往路のほぼ8割がた過ぎたものと安堵したものであるが、実は、これからが難路。1丁目、2丁目、3丁目と特に岩場の難所が、これでもか!これでもか!と続いた。

大株歩道の様子は、写真5に見る通りで、山の斜面で大小の岩石や地上に露わになった木の根っこなど凸凹道です。特に馬の背のような、急な上り・下りの箇所では、厚い杉板で約40~50 cm幅の階段が設けられている。

写真5:山の斜面を行く大株歩道

路上には木の太い根っこが地上に浮いた形で露出していて歩行を妨げている。また人の身長ほどの大岩を大木の太い根が抱きかかえていて、岩の上に木が生えたように見える。これらは長年にわたる頻回の大雨により地表部の土砂が流されていった結果である由。

走行距離と走行時間の比例関係が全く狂わされた状態は次の標識(写真6)から窺えます。トロッコ道の途中にある標識です。この表示から算出すると、荒川登山口~大株歩道入口(トロッコ道):約9kmを130分、一方、大株歩道入口~縄文杉(大株歩道):約2.5kmを115分と算出できます。大株歩道が並みでない登山道であることが容易に想像できます。

写真6:標識
左:大株歩道入口まで60分;縄文杉まで175分;右:荒川登山口まで70分

トロッコ道についてちょっと触れておきましょう。トロッコ道は写真7に見るように、枕木の上に板を2または3枚付けた部分と板のない部分が約半々。板のない部分では、不規則に並べられた枕木を踏み台に歩くことになる。

写真7:トロッコ道、ガードのない橋
下は10 mを越す深さの岩場で、岩間を清水が流れている

因みに、当日の行動記録は、往復約23 kmの距離を、途中昼食及び休憩時間を含めて、約11時間かけて踏破した。同行者の歩数計の記録では37,000歩であった由。

さて、筆者は、古木を訪ねて写真に収めることを愉しみの一つにしています。但し、わざわざ古木を訪ねて旅することはなく、何らかの旅行の折に、少し足を延ばして、ついでに古木を訪ねることがすべてであった。

今回は、縄文杉の姿を写真に収めることを主眼に、わざわざ屋久島を訪ねた次第です。実際に縄文杉を目にし、また行路の各場面で目に止まった古木の諸々の姿を目にするにつけて、格別に感興が湧いて、漢詩を作る気を起こした次第です。


   訪繩文杉    繩文杉を訪ねる      [上平声十五刪韻]

昔聞屋久島、 昔聞く 屋久の島、

今対悟難攀。 今対して 攀(ヨ)じ難(ガタ)きを悟(サト)る。

嶄嶄神霊木、 嶄嶄(サンサン)たり神霊(シンレイ)の木、

峩峩古代杉。 峩峩(ガガ)たり古代の杉。

洋海東南坼、 洋海 東南に坼(サ)け、 

風雪天地間。 風雪(フウセツ) 天地の間(カン)。

黙祷向尊樹, 尊樹(ソンジュ)に向かいて黙祷(モクトウ)するに,

杳如心自閑。 杳(ヨウ)として 心(ココロ)自(オノズ)から閑(カン)なるが如し。

 註] 〇嶄嶄:高く、威儀が立派なさま; 〇峩峩:高く聳え立つさま; 〇洋海:太平洋と東シナ海; 〇坼:裂ける。

<現代語訳> 

 屋久島の縄文杉を尋ねる 

昔から聞いていた屋久島、

今対してみると、登るのが難儀なことが実感できた。

威厳に満ちた神霊の木、

高く聳える古代の縄文杉。

太平洋と東シナ海を東南に分けて、

天地の間に幾千年の風雪に耐えてきた。

その木に向かって暫し黙祷を捧げると、

自然と心が洗われて安静になるように思われた。

 

<簡体字およびピンイン> 

 访绳文杉       Fǎng shéngwén shān 

昔聞屋久岛、 Xī wén wūjiǔdǎo,

今対悟難攀。 jīn duì wù nán pān.

崭崭神灵木、 Zhǎn zhǎn shén líng mù,  

峩峩古代杉。 é é gǔdài shān.  

洋海东南坼, Yáng hǎi dōng nán chè,

风雪天地间。 fēng xuě tiān dì jiān.

默祷向尊树, Mòdǎo xiàng zūn shù,

杳如心自闲。 yǎo rú xīn zì xián.  

 



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閑話休題258 句題和歌 14  白楽天・長恨歌(8)

2022-04-18 09:43:34 | 漢詩を読む

玄宗皇帝は、馬嵬(バカイ)から蜀に向かい、一先ず蜀に落ち着いた。皇太子・李亨(リリョウ)は、安禄山に対抗すべく残り、霊武(現寧夏寧夏回族自治区銀川)に向かい、宦官・李輔国の建言を容れて皇帝に即位した(粛宗)。態勢を整えて鳳翔(ホウショウ、現宝鶏)に親征し反撃に転じる。

 

757年、安禄山が息子・安慶緒に殺されると、粛宗は、長男・李俶(次代の皇帝・代宗)や次男・李係らと共働して長安や洛陽を奪還した。粛宗は10月、玄宗は12月に長安に帰還した。今回の長恨歌は、長安への帰路途中、馬嵬で足を止めた際の情景である。

 

詩人・杜甫も安史の乱で難儀を強いられました。杜甫は、長安脱出に失敗、反乱軍に捕縛され、長安に幽閉された。ただ無名人故に、長安城内に留め置かれただけで、捕虜としての扱いはなかったようである。757年4月、城を脱出、鳳翔の粛宗の下へ奔っている。

 

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<白居易の詩> 

  長恨歌 第三段 一の1    

51 天旋日転廻龍馭  天旋(テンメグ)り日転(ヒテン)じて 龍馭(リュウギョ)を廻(メグ)らし 

52 到此躊躇不能去  此(ココ)に到りて躊躇(チュウショ)して去る能(アタ)はず 

53 馬嵬坡下泥土中  馬嵬(バカイ)坡下(ハカ) 泥土(デイド)の中(ウチ)  

54 不見玉顏空死処  玉顔(ギョクガン)を見ず 空しく死せし処 

55 君臣相顧尽霑衣  君臣相顧(アイカエリ)みて 尽(コトゴトク)く衣(コロモ)を霑(ウルオ)し 

56 東望都門信馬歸  東のかた都門(トモン)を望み馬に信(マカセ)て帰る 

   註] 〇天旋日轉:時が移り、世がかわる。安史の乱の終息を示す; 〇龍馭:天子

        の車; 〇馬嵬坡:長安から西へ100km足らず、楊貴妃の亡くなった地。

        “坡”は坂道、傾斜面; 〇信馬:馬の歩みのままに。“信”はまかせる。 

<現代語訳> 

51 やがて天下の情勢が一変して、皇帝も長安に帰ることになったが、

52 この場所に至って、足はためらい、立ち去ることができない。

53 ここ馬嵬の堤の下、泥土の中に埋められ、 

54 楊貴妃の美しい顔はもう見られず、空しく殺された場所だけが残っている。

55 君臣ともに、振り返りつつ、みな涙で衣を濡らし、

56 東の方の都の城門をめざして、馬の歩みにまかせて帰って行った。

                        [石川忠久監修 「NHK新漢詩紀行ガイド」] 

<簡体字およびピンイン>  

天旋日转迴龙驭  Tiān xuán rì zhuǎn huí lóng     [去声六御韻]

到此踌躇不能去  dào cǐ chóuchú bù néng  

马嵬坡下泥土中  Mǎ wéi pō xià ní tǔ zhōng  

不见玉颜空死处  bùjiàn yù yán kōng sǐ chù    

君臣相顾尽沾衣  Jūn chén xiāng gù jǐn zhān     [上平声五微韻] 

东望都门信马归  dōng wàng dū mén xìn mǎ guī  

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杜甫(712~770)は、中国文学史上群を抜く盛唐時詩人のひとりで、李白・詩仙、王維・詩仏に対し杜甫・詩聖と称されている。特に絶句を得意とした李白と対照的に、律詩の表現を大成させ、“李絶杜律”と、2大詩人の特徴を簡潔に評した表現で語られる。

 

杜甫の先祖には『晋書・杜預(トヨ)伝』という一書が建てられるほどの武将・“杜預”がいる。三国~晋代に活躍し「破竹の勢い」の故事を遺している。魏・呉の戦で、「竹に割れ目が入れば、後は簡単に割ることができること」の譬え:譬如破竹(ヒジョハチク)」のとおり、「破竹の勢い」で攻勢、呉に勝利したという。

 

杜甫の祖父・杜審言(トシンゲン)は、初唐、則天武后(在位 690~705)の代に宮廷詩人として活躍した。特に五言律詩に優れ、詩40首が伝わっており、『唐詩選』に8首収められていると。李嶠(リキョウ)、崔融(サイユウ)、蘇味道(ソミドウ)らとともに“文章四友”と呼ばれた。

 

杜甫は、「先祖の杜預以来、儒者の伝統を継ぎ、士官の家として11代、杜審言に至り文学を以て世に知られるようになった。先祖の偉業を継いで、40年も経とうとしているのに……、願うらくは天子の憐れみを賜らんことを,……」と、しばしば賦頌を奉り、就職活動を行っていた。 

 

ことほど左様に、社会的な面では必ずしも才能に相応しい安寧な生涯を送ったとは言い難いようである。その生涯を振り返ってみたいと思います。712年、河南省鞏県(現河南省鄭州市鞏義市)で生まれる。少年時代から詩をよくした と。

 

20代の前半は江蘇、浙江の辺、30代半ばには河南、山東に放浪生活を送る。24歳時、科挙の進士を受験したが落第。また36歳時、一芸に通じる者の為の試験を受けたが落第している。後者の場合は、文学の士の政治批判を恐れた宰相・李林甫の指金によるようだ。

 

以後、杜甫は、高官、貴顕の門に出入りして、詩を献ずる就職活動を行っていく。それが功を奏し、44歳(755年)、右衛率府兵曹参軍に任じられる。しかしこの年“安史の乱”勃発、翌年長安は陥落した。粛宗が即位したことを知り、家族を鄜州(フシュウ)に残して、粛宗の許を目指すが、反乱軍に捕まり、長安城中に幽閉される。

 

翌757年4月金光門から脱出して鳳翔の粛宗の下に奔った。その功により、左拾遺の位を授かった。ところが任官早々、失脚の宰相房琯(ボウカン)の罪を弁護して粛宗の怒りに触れ、左遷された。義侠心が裏目に出たようだ。

 

759年(48歳)暮れ、家族を連れて、蜀道の険を越えて成都に赴く。一先ず寺に身を寄せるが、760年、浣花渓(カンカケイ)のほとりに草堂(杜甫草堂)を建てる。そこに5年ほど留まっており、この時期、もっとも安寧の内に過ごすことができた時であったろう。

 

765年(54歳)、長江を下り襄陽を経て、故郷・洛陽さらに長安を目指して漂流の旅に出ます。翌年夔州(キシュウ、現重慶市北東部)に滞在、近傍の白帝城、武侯廟、ほか夔州の名勝を訪ねる。57歳、白帝城の下から舟を出し、江陵に向かう。

 

北方はまだ荒れた状態である事を知り、江陵から長江をさらに下り、洞庭湖の北、岳州(現湖南省岳陽市)に至った。770年(59歳)、潭州(タンシュウ、現湖南省長沙市)から湘江を南に遡り、衡州(コウシュウ、現湖南省衡陽市)に入ったところで、杜甫は高熱に苦しむ。

 

更に南下して耒陽(ライヨウ、現湖南省衡陽市)まで来て洪水に遭い、5日間食事を摂らず漂っていた と。その前後は記録がなく不明であるが、此処湘江の舟中で客死した と。後世、耒陽の県令にもらった肉と白酒を摂り過ぎ亡くなった との伝説が語られている。なお、遺体は近傍で仮葬されていたが、のちに孫によって現在地(鞏義)に移葬された由。

 

詩人としての杜甫は、生前は評価されることなく、没後数十年経て中唐期以後、正当に評価されるようになったようである。杜甫の詩の特徴は大きく4期に分けて捉えられると。I期:社会・政治の矛盾を積極的に取りあげた時期(~44歳)、II期:安史の乱の体験(~48歳)、III期:成都時代(~54歳)および IV期:夔州滞在以後(~59歳)。

 

[句題和歌] 

長恨歌の第54句 《不見玉顏空死処》に想いを得た和歌を紹介します(千人万首、asahi-net.or.jpに拠る)。作者・源道済(ミナモトノミチナリ)は、平安中期に活躍した光孝源氏の貴人、歌人。漢詩文にも秀でた人で、『拾遺和歌集』の撰集にも関っている。中古三十六歌仙の一人。

 

思ひかね 別れし野辺を 来てみれば  

  浅茅が原に 秋風ぞ吹く(源道済『詞花和歌集』337) 

 (大意) 恋しさに耐え切れず、死に別れた場所に来てみると すっかり荒れ果てて

    おり 秋風が吹くばかりである。 

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閑話休題 257 飛蓬-148 京都嵐山三絶 其一

2022-04-11 09:52:57 | 漢詩を読む

蘇軾(1037~1101)の官僚として最初の任地は、鳳翔(ホウショウ、現陝西省宝鶏)であった。そこで3年間の任を終えたのち、玄宗皇帝と楊貴妃のロマンで名高い華清宮が造営されていた驪山を訪れている。その折の印象を連作・「驪山三絶句」として詠っています。新進気鋭の若手官僚としての気概が感じられる三首です。 

 

蘇軾の《驪山三絶句》の韻を借り(和韻し)て、京都嵐山の印象を「京都嵐山三絶句」として詩作に挑戦してみます。とはいえ、肩肘張らず、率直に想いを表現できれば……と、取り掛かりました。まず、其一、“嵐山”の名称に拘りました。 

 

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<漢詩と読み下し文>  

 次韻 蘇軾《驪山三絶句 其一》 

  京都嵐山三絶句 其一            [下平声八庚韻]    

錦楓幽境秋氣盈、 錦楓(キンプウ)幽境(ユウキョウ) 秋氣盈(ミ)つ、 

保津映容川面平。 保津(ホズ)(川) 山の容(スガタ)を映(ウツ)して 川面 平(タイラカ)なり。 

不負名人難靠近、 名に負(ソム)かざれば 人 靠近(チカヅキ) 難(ガタ)かろうに、 

山中棋戦下音清。 山中の棋戦(キセン)  石を下(ウ)つ音清(キヨ)し。 

 註] 〇錦楓:紅葉した美しいカエデ; 〇幽境:世俗を離れた静かなところ; 

   〇保津:保津川; 〇不得:…できない; 〇靠近:近寄る;

   〇棋戦:囲碁の対戦; 〇下:囲碁の石を打つこと。 

<現代語訳> 

 蘇軾《驪山三絶句 其一》に次韻す 

  京都嵐山三絶句 其一    

楓はすっかり紅葉して山は静まり返り、秋の気配が満ちており、

保津川の川面は波静かで静かな佇まいの嵐山の姿を映している。

嵐山という名の通りであるなら、この山には人は近づき難かろうに、 

この山中で囲碁を打つと パシッと澄んだ石音が樹々の間をぬけて消えていく。 

<簡体字およびピンイン> 

 次韻《蘇軾驪山三絶句 其一》 Cìyùn SūShì 《 lí shān sān juéjù  qí yī》 

  京都岚山三絶句  其一   Jīngdū lánshān sān juéjù  qí yī   

锦枫幽境秋气盈、  Jǐn fēng yōu jìng qiū qì yíng,  

保津映容川面平。  bǎojīn yìng róng chuān miàn píng.  

不负名人难靠近、  Bù fù míng shéi nán kàojìn,   

山中棋战下音清。  Shān zhōng qí zhàn xià yīn qīng.  

 

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<蘇軾の詩> 

 驪山三絶句 其一   [下平声八庚韻]  

功成惟欲善持盈、 功成って惟(タ)だ欲す 善く盈(エイ)を持(ジ)するを、  

可歎前王恃太平。 歎ずべし 前王の太平を恃(タノ)むを。  

辛苦驪山山下土、 辛苦す 驪山(リザン)山下の土、  

阿房纔廃又華清。 阿房(アボウ) 纔(ワズ)かに廃(ハイ)すれば又(マ)た華清。  

 註] 〇驪山:陝西省臨潼(リンドウ)県東南の山。秦の始皇帝の陵がある。唐の玄宗は 

  ここに華清宮という離宮を作った; 〇持盈:最高の状態を持続させる; 

  〇恃:頼りにする; 〇前王:先立つ時代の天子。秦の始皇帝や唐の玄宗を指す; 

  〇阿房:秦の始皇帝が造った宮殿の名。楚の項羽によって火を放たれ全焼した; 

  〇纔:たったいま…したばかり、動作や行為が起こったばかりである意; 

  〇華清:華清宮、唐の玄宗が722年に建立、初名「温泉宮」、のちに「華清宮」と 

   改名した。  

<現代語訳> 

功業が成就したならば、ひとえにその最善の状態を保つように努力すべきであるのに、

前代の天子たちが太平の中で用心を忘れたのはまことに嘆かわしい。

ご苦労なことだ、驪山の麓の土地は、

秦の阿房宮が焼けて無くなったと思ったら、唐代にはまた華清宮が建てられた。

          [石川忠久「NHK文化セミナー 漢詩を読む 蘇東坡」に拠る]                        

<簡体字およびピンイン> 

 骊山三绝句 其一  Líshān sān juéjù  qí yī   

功成惟欲善持盈、  Gōng chéng wéi yù shàn chí yíng, 

可叹前王恃太平。  kě tàn qián wáng shì tàipíng. 

辛苦骊山山下土、  Xīnkǔ líshān shānxià tǔ, 

阿房才廃又华清。   āfáng cái fèi yòu huáqīng.  

ooooooooooooo 

 

1056年、蘇軾(22歳)は、父・蘇洵(ジュン)、弟・蘇轍(テツ)と連れ立って開封に向かい、科挙を受験、兄弟揃って合格。翌年正月、皇帝自ら行う「殿試」に合格して晴れて進士となり、官僚の第一歩を踏み出した。しかし4月母が亡くなり、帰郷して二年間喪に服しています。

 

1061年(26歳)、母の喪が明けて上京し、蘇軾は、初めての職務として鳳翔府簽判(センバン)(高級事務官)に任命されます。宋代では、新たに進士に及第した者は、職務見習いとして3年ほど地方に出されることになっていたようである。 

 

蘇軾は、鳳翔府で3年間務めた後、一旦官職を解かれて、故郷の蜀に帰っていますが、帰郷の前に長安に寄り、驪山を訪ね、本稿主題の《驪山三絶句》を書いたものと思われます。本稿の《其一》でも若手官僚としての意気盛んな風が感じられます。

 

“嵐山”は、名勝の名称としては、やや場違いな感がないでもありません。名称の由来として、直感的には、“風吹き荒れて花を散らせる山”ということが思い浮かびます。『百人一首』22番に取り上げられた文屋康秀の歌(閑話休題127)が的確に物語ってくれます。

 

(22番) 吹くからに 秋の草木の しをるれば 

      むべ山風を 嵐といふらむ  (『古今和歌集』秋下・249) 

    (大意)秋の“野分の風”が吹くと、山の草木がしおれてしまう。山から吹き 

       下ろす荒々しい風を“嵐”と言うのも宜なるかなであるよ。 

 

しかしそれでは夢がありません。調べてみると『日本書紀』まで遡る夢の物語(?)がありました。天照大神(アマテラスオオミカミ、太陽神)の弟で、農耕・漁猟歴を司るため月齢を数える月の神・月読尊(ツクヨミノミコト)がいて、そのご神託で宇田荒洲田(ウダアラスダ)の地が(日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に?)奉られた とされている。

 

宇田荒洲田とは、「宇(良い)田(地)の荒洲(あらす、中洲)にできた田(地)」の意、すなわち保津川/桂川の土砂が堆積してできた肥沃な土地を意味している と。そこにある山なので「あらす山」とされ、さらに「あらし山」となり、“嵐”の字が当てられた と。つまり、行きがかり上“嵐”の山になったようであるが、これ以上深く追及することは止そう。 

 

嵐山は京都を代表する観光スポットの一つで、特に観光シーズンともなれば、観光客の往来で騒々しい所である。しかし山中に入ると、“嵐山”の字面とは違い、木漏れ日が射す非常に静寂な雰囲気に包まれます。

 

幾昔か前に、嵐山の山中で碁盤を囲んだことがあるが、石を打ち下ろすパシッという澄んだ音が、樹々の間を抜けていって消える。静寂な空気感で、心が洗われる思いであった。「驪山三絶句」の“脚韻”に思いを凝らしている間に、昔の想いが蘇り、掲詩となった次第である。 

 

       

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閑話休題256 句題和歌 13  白楽天・長恨歌(7) 

2022-04-04 09:16:43 | 漢詩を読む

安史の乱から逃れ、長安を脱出した玄宗一行は、馬嵬(バカイ)で楊貴妃ら楊一族を殺害し、蜀(現四川省成都)へ向かいます。曽て諸葛亮(ショカツリョウ)が石を穿ち飛閣を作ったとされる難所・剣門関を通過、一行、如何ばかりの難儀を強いられたか、想像だにできない。

 

蜀は、霊山・蛾眉山の麓、四川の一つ岷江の支流錦水のほとりにあり、緑豊かな別天地である。しかし一行の意気は沈みがちで、特に玄宗は、貴妃への思慕が尽きない。月光にも心を痛め、鈴の音にも貴妃を偲ぶという毎日夜であった。

 

玄宗の治世初期の “開元の治(713~741)”にあっては、政治改革が図られ、国内の活性化が進み、長安は世界有数の国際都市となった。文化の面でも大きく発展し、特に“唐詩“の興隆は著しかった。主な唐詩人たちについて振り返り、整理しておきたいと思います。

 

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<白居易の詩> 

   第二段 二  長恨歌 (7)  

43 黄埃散漫風蕭索、  黄挨(コウアイ)は散漫として風は薫索(ショウサク)、

44 雲棧縈紆登劍閣。  雲桟(ウンサン)縈紆(エイウ)して剣閣を登る。 

45 峨嵋山下少行人、  峨嵋山下に行く人少なく、 

46 旌旗無光日色薄。  旌旗に光無く日色薄し。 

47 蜀江水碧蜀山靑、  蜀江は水碧(ミドリ)にして蜀山青く、 

48 聖主朝朝暮暮情。  聖主朝朝(チョウチョウ)暮暮(ボボ)の情。 

49 行宮見月傷心色、  行宮(アングウ)に月を見れば傷心の色、 

50 夜雨聞鈴斷腸聲。  夜雨に鈴を聞けば断腸の声。 

   註] 〇蕭索:風が物寂しく吹くさま; 〇雲棧:雲たなびく高所にかかる桟道、

    “棧”は切り立った崖に差し渡した通路、蜀の山道に特有; 〇縈紆:まといつく 

    ように取り巻く; 〇劍閣:大剣山・小剣山に挟まれた長安から蜀へ到る 

    道の難所; 〇峨嵋山:成都の西南に位置し、蜀を代表する高山; 〇旌旗: 

    天子の一行のしるしの旗; 〇日色薄:もともと蜀の地は日が射すことが少なく 

    「蜀犬 日に吠ゆ」とも言われるが、その風土に重ねて玄宗の暗澹たる心情を 

    あらわす; 〇48句:暗に楚の懐王の故事を響かせる。懐王は夢の中で巫山の 

    神女と交わり、別れに際して神女は「旦(アシタ)には朝雲と為り、暮れには行雨 

    (通り雨)と為らん。朝朝暮暮、陽台の下にあり」と告げた(宋玉「高唐の賦」序); 

    〇行宮:仮の宮殿。49句は、月を見ることによってかって共に見た人の 

    不在を思い悲傷する; 〇鈴:玄宗の寝所に入る際に鳴らす鈴。50句は、 

    鈴の音を聞いて楊貴妃の来訪かと思えば、その人は、今は亡いことに気づいて 

    傷心する、の意。

<現代語訳>

43 黄色い土埃が立ち込め、風はさわさわと寂しげに吹く中、

44 雲まで続く桟道は折り曲がりつつ剣閣山(注:蜀の北門をなす難所)を登ってゆく。

45 蛾嵋山麓の成都には道ゆく人も少なく、 

46 天子の御旗は光を失い、陽光も色褪せる。 

47 蜀江の水は紺碧で、蜀の山々は青々としている。 

48 朝な夕に思慕止まぬ天子のこころ。 

49 仮宮にあって月の光を仰いでは心を傷め、 

50 夜の雨に駅馬の鈴の音を聞けば、貴妃の訪れが偲ばれて、断腸の思いがする。 

           [川合康三 編訳 新編『中国名詩選』]             

<簡体字およびピンイン>  

43  黄埃散漫风萧索  Huáng āi sànmàn fēng xiāosuǒ   [入声十薬]

44  云栈萦纡登剑阁  yún zhàn yíng yū dēng jiàn 

45  峨嵋山下少行人  Éméi shān xià shǎo xíngrén 

46  旌旗无光日色薄  jīngqí wú guāng rì sè  

47  蜀江水碧蜀山青  Shǔ jiāng shuǐ bì shǔshān qīng     [下平声八庚]

48  聖主朝朝暮暮情  shèng zhǔ zhāo zhāo mù mù qíng 

49  行宫见月伤心色  Xínggōng jiàn yuè shāng xīn sè 

50  夜雨闻铃断肠声  yè yǔ wén líng duàn cháng shēng 

xxxxxxxxxxxxxxx 

 

300年近く続いた唐時代は、便宜的に初唐(618~709)、盛唐(710~765)、中唐(766~835)および晩唐(836~907)に分けて語られます。玄宗の“開元の治”は盛唐に当たる。盛唐時、大先輩詩人には、賀知章(ガチショウ、659~744)、張説(チョウエツ、667~730)および張九齢(チョウキュウレイ、678~740)等挙げることができようか。

 

次世代の著名な詩人として王維(詩仏、701~761)、李白(詩仙、701~762)および杜甫(詩聖、712~770)が挙げられます。順次、これら3詩人について触れるつもりです。なお遣唐使として唐に渡り、玄宗の下で活躍した阿倍仲麻呂(698~770)は同時代の人である。

 

王維の詩は、過去に本稿別シリーズで数回(末尾[追記]参照)取りあげており、その都度詩人・王維についても断片的に触れてきました。ここで整理しておきます。王維は15歳のころ長安に遊学、その美貌に加え、詩、画、書、音楽等の多才ぶりを発揮、王族や貴顕から厚く遇され、盛名を馳せていた。 

 

719年進士に及第し、大楽丞になるが、翌年微罪を得て左遷され、必ずしも幸運な滑り出しではなかった。726年頃官をやめて長安に帰る。731年、結婚2年の妻を亡くし、以後独身を通した。その頃、終南山の輞川(モウセン)に別荘を構えて、隠棲する。程なく多くの士人の推薦により、中央に復帰、734年宰相・張九齢の抜擢により、右拾遺に就任する。

 

官途に就きつつ、折を見て輞川に籠り、あるいは輞川に仲間と集い、詩作を楽しむという半官半隠の生活を送っている。王維の詩の本文は自然の美を詠う自然詩であり、輞川別荘の周りの自然を詠った優れた詩が多い。母が敬虔な仏教信者で、その影響を強く受け、高潔清雅な詩風から“詩仏”と称されている。 

 

画の面では水墨画に優れ、その筆致は「天機」によるもので、学んで及ぶものではないと評価されるほどであり、後に南宗画(南画、文人画)の祖とされている。蘇軾は、王維の作品について、「詩中に画あり、画中に詩あり」と評している。

 

安史の乱では、逃げ遅れて安禄山の軍に捕らわれ洛陽に移されて、安禄山政権に強要され、仕えた。洛陽が唐軍に奪還された際に帰順するが、政権を継いでいた粛宗に、安禄山に仕えたことが厳しく問われた。しかし弟・王縉(シン)らの取りなしと、洛陽にいた折の詩の内容が吟味され、降格だけで許された。以後粛宗、代宗の代に累進を重ねていく。

 

[句題和歌]: 長恨歌の<49句> “行宮見月傷心色”に想いを得た、前大僧正慈円(1155~1225)の歌を紹介します(千人万首、asahi-net.or.jp に拠る)。慈円は、関白忠通の子、九条兼実の弟。百人一首95番の作者(追記ご参照)である。

 

いかにせん 慰むやとて 見る月の

  やがて涙に くもるべしやは (慈円『拾玉集』) 

 [大意:どうしたものか、自らを慰めようと思い、月を見るのであるが、やがて 

  涙で曇ってしまうのではなかろうか]  

 

[追記] 王維の紹介済み漢詩:「送刘司直赴安西」(閑話休題35、投稿170411、以下同)、「入山寄城中故人」(51、170925; 52、171005)、「田園楽七首 其六」(63、180112)、「送秘書晁監日本国」(120、191008); 慈円:百人一首95番(153、200703)。

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