(87番)村雨(ムラサメ)の 露もまだひぬ 槇(マキ)の葉に
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
寂蓮法師『新古今和歌集』秋・491
<訳> にわか雨が通り過ぎていった後、まだその滴も乾いていない杉や檜の葉の茂りから、霧が白く沸き上がっている秋の夕暮れ時である。(小倉山荘氏)
ooooooooooooo
にわか雨が通り過ぎたあと、谷間に霧が濛濛と立ちこめて、真木の梢が墨絵のように浮いて見える。幻想的な秋の夕暮れの情景である。あるいは仙人が棲んでいるのでは との思いも湧くように思える。
前回、『新古今和歌集』の中で「三夕の歌」と世に讃えられる歌3首を、寂蓮法師の歌も含めて紹介しました。今回の歌も、同集に撰されている“秋の夕暮れ”を詠った一首です。庵を出ると眼前に谷間の山が広がっているのでしょう。
このような情景を想像しながら、五言絶句の漢詩にしてみました。何の飾りもなしに、情景そのままを淡白に と心がけて翻訳しました。
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<漢詩原文および読み下し文> [去声七遇韻]
山中秋薄暮 山中 秋の薄暮(ユウグレ゙)
驟雨沾嘉樹, 驟雨(シュウウ) 嘉樹(カジュ)を沾(ウルオ)し,
未干葉清露。 葉の清露(セイロ) 未だ干(カワ)かず。
茂林濛濛起, 茂林(モリン)に濛濛(モウモウ)として起り,
雰満秋薄暮。 雰(キリ)が満(ミ)つる 秋の薄暮(ハクボ)。
註]
驟雨:にわか雨、村雨。 嘉樹:よい木材になる木、真木。
清露:清く澄んだ水滴。 濛濛:霧が立ち込めるさま。
<現代語訳>
山中 秋の夕暮れ時
にわか雨が通り過ぎて、木々が潤っており、
木々の葉に着いた水滴はまだ乾いていない。
林の葉陰から濛濛と起こっている、
霧が視界に満ちている秋の夕暮れである。
<簡体字およびピンイン>
山中秋薄暮 Shān zhōng qiū bómù
骤雨沾嘉树, Zhòuyǔ zhān jiāshù,
未干叶清露。 wèi gān yè qīnglù.
茂林蒙蒙起, Màolín méngméng qǐ,
雰满秋薄暮。 fēn mǎn qiū bómù.
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作者・寂蓮法師(1139~1202)は、俗名・藤原定長。藤原俊成(1114~1204、百人一首83番)の弟である阿闍梨俊海の息子ですが、12歳の頃、俊海の出家を機に子供のなかった俊成の養子となった。
後に俊成に子供・定家(1162~1241、同97番)が誕生したため、俊成の元を離れた。30歳過ぎに出家し、山籠もりの修行や全国行脚を続けたのちに、嵯峨野に庵を結んで住み着いた。今回および前回紹介した歌ともに、この庵の周囲の情景でしょう。
後々の話題の理解を助けるために、ここで寂蓮法師を取り巻く当時の歌壇の状況を簡単に整理しておきます。
寂蓮の血は藤原道長に遡り、道長から5代目に当たるようだ。寂蓮の叔父(義理父)の俊成は、和歌に“幽玄”の、また従弟(義理弟)の定家は“有心(ウシン)”の理念を注いで、革新的な歌を目指した。
俊成の曽祖父・長家(道長の息子)は、醍醐天皇の皇子・兼明親王から「御子佐第(ミコサテイ)」を譲り受けて住した。以後、俊成・定家・寂蓮に繫がる血筋は「御子佐家(ミコサケ)」と称され、彼らを中心とする一大歌人集団が形成されていく。
一方、藤原顕輔(1090~1155、同79番)およびその息子・清輔(1104~1177、同84番)を中心とする有力な歌人集団があった。顕輔の父・修理大夫藤原顕季が六条烏丸に住していたことから、「六条家」流と称されている。彼らの作風は“保守的”であったとされている。
俗な表現をするなら、歌壇にあって、当初は「六条家」の勢力が優勢であったらしいが、「御子佐家」の勢いは、俊成のころ拮抗し、定家のころ逆転して優勢に転じた と。革新的な、いわゆる“新古今調” の歌風が世に受け入れられていったようである。
最後(第八)の勅撰和歌集となる『新古今和歌集』は後鳥羽院(1180~1239、天皇在位1183~1198)の院宣により撰され、1205年に完成した。寂蓮も撰者に命じられましたが、途中病没したため、撰者として名は連ねられていない。
後鳥羽院は寂蓮について、「真実堪能(カンノウ)」(対象から詩情を引き出すのに熟達している)と称賛しており、高く評価していたようである。寂蓮は嵯峨野に隠棲後も度々後鳥羽院主催の歌合に参加しており、話題の「村雨の」の歌もその際に紹介された一首である と。
寂蓮は、旺盛な“遊び心”の持ち主でもあったという一面を示す歌を紹介して本稿の結びとします。ある秋の台風で、嵯峨野の庵の檜皮葺(ヒワダブキ)屋根が吹き飛ばされるという災難にあって、友人の慈円(同95番)に宛てた手紙に添えられていた という。
わが庵(イホ)は 都の戌亥(イヌイ) 住み詫びぬ
憂き世のさがと 思いなせども(拾玉集 巻第五)
[わたしの草庵は都の西南にあって住みにくい、屋根が飛ばされたのも憂き世のさが(=宿命/嵯峨)だと思うのですが](小倉山荘氏)
この歌は、先に紹介した喜撰法師(同8番、閑話休題149参照)の次の歌をもじった、“本歌取り”の歌と言えます。
わが庵は 都の辰巳(タツミ) しかぞすむ
世をうじ山と 人はいふなり
[わたしの草庵は都の東南にあって 鹿の棲むようなところ、こうしてちゃんと暮らしているのに他人は世を憂いと思って宇治山に住むというようですな]
霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
寂蓮法師『新古今和歌集』秋・491
<訳> にわか雨が通り過ぎていった後、まだその滴も乾いていない杉や檜の葉の茂りから、霧が白く沸き上がっている秋の夕暮れ時である。(小倉山荘氏)
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にわか雨が通り過ぎたあと、谷間に霧が濛濛と立ちこめて、真木の梢が墨絵のように浮いて見える。幻想的な秋の夕暮れの情景である。あるいは仙人が棲んでいるのでは との思いも湧くように思える。
前回、『新古今和歌集』の中で「三夕の歌」と世に讃えられる歌3首を、寂蓮法師の歌も含めて紹介しました。今回の歌も、同集に撰されている“秋の夕暮れ”を詠った一首です。庵を出ると眼前に谷間の山が広がっているのでしょう。
このような情景を想像しながら、五言絶句の漢詩にしてみました。何の飾りもなしに、情景そのままを淡白に と心がけて翻訳しました。
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<漢詩原文および読み下し文> [去声七遇韻]
山中秋薄暮 山中 秋の薄暮(ユウグレ゙)
驟雨沾嘉樹, 驟雨(シュウウ) 嘉樹(カジュ)を沾(ウルオ)し,
未干葉清露。 葉の清露(セイロ) 未だ干(カワ)かず。
茂林濛濛起, 茂林(モリン)に濛濛(モウモウ)として起り,
雰満秋薄暮。 雰(キリ)が満(ミ)つる 秋の薄暮(ハクボ)。
註]
驟雨:にわか雨、村雨。 嘉樹:よい木材になる木、真木。
清露:清く澄んだ水滴。 濛濛:霧が立ち込めるさま。
<現代語訳>
山中 秋の夕暮れ時
にわか雨が通り過ぎて、木々が潤っており、
木々の葉に着いた水滴はまだ乾いていない。
林の葉陰から濛濛と起こっている、
霧が視界に満ちている秋の夕暮れである。
<簡体字およびピンイン>
山中秋薄暮 Shān zhōng qiū bómù
骤雨沾嘉树, Zhòuyǔ zhān jiāshù,
未干叶清露。 wèi gān yè qīnglù.
茂林蒙蒙起, Màolín méngméng qǐ,
雰满秋薄暮。 fēn mǎn qiū bómù.
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作者・寂蓮法師(1139~1202)は、俗名・藤原定長。藤原俊成(1114~1204、百人一首83番)の弟である阿闍梨俊海の息子ですが、12歳の頃、俊海の出家を機に子供のなかった俊成の養子となった。
後に俊成に子供・定家(1162~1241、同97番)が誕生したため、俊成の元を離れた。30歳過ぎに出家し、山籠もりの修行や全国行脚を続けたのちに、嵯峨野に庵を結んで住み着いた。今回および前回紹介した歌ともに、この庵の周囲の情景でしょう。
後々の話題の理解を助けるために、ここで寂蓮法師を取り巻く当時の歌壇の状況を簡単に整理しておきます。
寂蓮の血は藤原道長に遡り、道長から5代目に当たるようだ。寂蓮の叔父(義理父)の俊成は、和歌に“幽玄”の、また従弟(義理弟)の定家は“有心(ウシン)”の理念を注いで、革新的な歌を目指した。
俊成の曽祖父・長家(道長の息子)は、醍醐天皇の皇子・兼明親王から「御子佐第(ミコサテイ)」を譲り受けて住した。以後、俊成・定家・寂蓮に繫がる血筋は「御子佐家(ミコサケ)」と称され、彼らを中心とする一大歌人集団が形成されていく。
一方、藤原顕輔(1090~1155、同79番)およびその息子・清輔(1104~1177、同84番)を中心とする有力な歌人集団があった。顕輔の父・修理大夫藤原顕季が六条烏丸に住していたことから、「六条家」流と称されている。彼らの作風は“保守的”であったとされている。
俗な表現をするなら、歌壇にあって、当初は「六条家」の勢力が優勢であったらしいが、「御子佐家」の勢いは、俊成のころ拮抗し、定家のころ逆転して優勢に転じた と。革新的な、いわゆる“新古今調” の歌風が世に受け入れられていったようである。
最後(第八)の勅撰和歌集となる『新古今和歌集』は後鳥羽院(1180~1239、天皇在位1183~1198)の院宣により撰され、1205年に完成した。寂蓮も撰者に命じられましたが、途中病没したため、撰者として名は連ねられていない。
後鳥羽院は寂蓮について、「真実堪能(カンノウ)」(対象から詩情を引き出すのに熟達している)と称賛しており、高く評価していたようである。寂蓮は嵯峨野に隠棲後も度々後鳥羽院主催の歌合に参加しており、話題の「村雨の」の歌もその際に紹介された一首である と。
寂蓮は、旺盛な“遊び心”の持ち主でもあったという一面を示す歌を紹介して本稿の結びとします。ある秋の台風で、嵯峨野の庵の檜皮葺(ヒワダブキ)屋根が吹き飛ばされるという災難にあって、友人の慈円(同95番)に宛てた手紙に添えられていた という。
わが庵(イホ)は 都の戌亥(イヌイ) 住み詫びぬ
憂き世のさがと 思いなせども(拾玉集 巻第五)
[わたしの草庵は都の西南にあって住みにくい、屋根が飛ばされたのも憂き世のさが(=宿命/嵯峨)だと思うのですが](小倉山荘氏)
この歌は、先に紹介した喜撰法師(同8番、閑話休題149参照)の次の歌をもじった、“本歌取り”の歌と言えます。
わが庵は 都の辰巳(タツミ) しかぞすむ
世をうじ山と 人はいふなり
[わたしの草庵は都の東南にあって 鹿の棲むようなところ、こうしてちゃんと暮らしているのに他人は世を憂いと思って宇治山に住むというようですな]