愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

ビデオ紀行6 「カナダハイライト8日間」6 Rockies(3)

2015-07-30 15:35:11 | こむら返り

土地が変われば品も変わる。旅の楽しみはやはり未経験の事象に遭遇することである。このカナダ旅行では、ナイアガラの滝、アイスワイン、ロッキーの山々など、想像以上の感動を覚えたが、それらに劣らず感動的であったのは、カナデイアン ロッキーの麓に点在する湖の美しさである。まず写真1および2、両湖の湖水の色を見て頂きたい。

写真1(氷河を映すモレーン湖)
写真2(どこまでも美しいボウ湖)

モレーン湖(Moraine Lake)(Rockies(2)の地図写真を参照)は、最初に訪ねた湖であることにもよるのであろうか、特に印象的であった。バス駐車場から岩場の遊歩道を登ってロッジポウルパイン(?)の木々の間に垣間見えた湖面、早速最も高い岩に上がってパチリ と(写真1)。表現の仕様のない、柔らかい色合いのターコイズ ブルー(turquoise blue)。この湖の背には、さきに紹介したテン ピークスの峰々が連なっているのである。写真右には背の山の氷河が影を映している。湖面の色・バックの氷河の残る山々、絶景である。ブリテイッシュ コロンビア州、ヨホ国立公園(British Columbia, Yoho National Park)内にある。

モレーン湖は、山々の谷間にある比較的小さな(面積0.5km2)湖であるが、バンフ国立公園内のボウ湖(写真2)は、長径3.2kmの長く伸びた大きな(面積3.2km2)湖で、一望の中には入らない。空の青よりもっと深いターコイズ ブルー。左(西北)から右(東南)のほぼ全長に亘って写真2に見るような眺望なのである。ボウ川の源流は、その西北の山にあるボウ氷河で、そこで融解した水がボウ湖に流れ込み、そこを流れ出てボウ川となってバンフ近傍を流れていく。ボウ川としては全長623kmとのことであるが、さらに名を変えてハドソン湾に注ぐ、大陸をほぼ横断している川の源流である。前々回のRockies(1)の写真2は、“多分ルイーズ湖”と紹介しましたが、ボウ湖の誤りでした。

ペイト湖(写真3)。ボウ湖につづいて訪れたのはペイト湖(Peyto Lake)で、ボウ湖展望台からの眺めである。開拓初期のころの猟師でガイドであったBill Peytoに因んで名づけられたとのことである。やはり近くのペイト氷河が融解して流れこんだ湖である由。モレーン湖やボウ湖に比較して、湖水の色がやゝ乳白色がかっている。

写真3(ペイト湖)

バンフの街から高速道ですぐのルイーズ湖という名の村。そこから西に入ったところに本当の湖、ルイーズ湖(Lake Louise)がある(写真4)。ビクトリア女王(Queen Victoria)の4女、カナダ総督ジョン キャンベル(John Campbell)夫人であるルイーズ キャロライン アルバータ(Louis Caroline Alberta)に因んで名づけられた由。なお通常の湖の名称は”xxx Lake”であるが、ルイーズ湖に関しては“Lake Louise”である。写真4で真正面奥の氷河の残った山はビクトリア山である。さほど大きな湖ではない(0.5km2)が、この湖水の色はやゝ淡いグリーンであり、これまでの湖とは異なるようである。物の本ではエメラルド グリーン(emerald green)としている。

写真4(ルイーズ湖)

最後にヨホ国立公園にあるエメラルド湖(Emerald Lake)を訪ねた(写真5)(Rockies(2)の地図写真4も参照)。湖名の如くにエメラルド グリーンであった。ルイーズ湖よりやゝ緑が濃いようである。この湖で非常に印象的であったのは、向かいの山々を湖面に映しこんでいる情景である(写真6)。湖の周辺では、高山植物が色とりどりの花をつけていたことも忘れられない。

写真5(エメラルド湖)
写真6(向かいの山を映すエメラルド湖)

通常、湖面の景色のイメージとしては、冷たく、吸い込むような青色がまず思い浮かぶ。ロッキー山脈の麓で見る湖面はターコイズ ブルーと呼ばれる柔らかい青緑色、または淡いエメラルド グリーンであった。幸いにこの旅行では好天に恵まれ、各湖の個性を充分に観賞することができたように思う。ただ、これら湖面の色は、太陽光線の具合により、また見る時間・方向・角度によっても異なるという。このような美しい色を演出している本体は、氷河の流れで砕かれた岩屑が、さらに微粉化された岩粉(rock-flour)であるという。岩粉が、氷河の融解水に溶け込んで湖に流れ込み、水中に浮遊していて、太陽光線を反射して独特の色として目に映る と。これら湖が“氷河湖”と呼ばれている所以であり、氷河の存在とは切り離せないのである。

この旅行のいま一つの目玉は、“氷河”に接することである。バンフの北に位置するジャスパ国立公園(Jasper National Park)内にあって、高速道のそばにあるアサバスカ氷河(Athabasca Glacier)(写真7)の上に立つことができた。写真正面の谷間を覆う白い広がりがアサバスカ氷河、その奥、峠の向こうはブリテイッシュ コロンビア州に属していて、コロンビア大氷原。コロンビア大氷原は、北極を除いて最大の氷原である由。アサバスカ氷河の下流部、平坦な個所まで雪上車で運んでくれるのである。

写真7(アサバスカ氷河)

アサバスカ氷河に降り立った場所は、上流側より2m近く一段と低くなった、一見平坦な広場である(写真8)。この段差は、本来滝であったのか、あるいは下流表面を削り、平坦にして観光に便となるようにした結果なのか?いずれにせよ、強い日差しの下、やゝ和らいだ表面は、砕けた氷粒の層で、歩くたびにザクザクと靴音がするかと思うと、デコボコ表面で滑って転びそうになる、オッカナビックリする所である。風が強いと寒いということで、観光者は皆防寒の装いであったが、幸いに風は弱く、寒さを感ずることはなかった。

写真8(氷河の上)

写真8で、滝状の上流側氷河の下層が淡い青緑色に見える。“この色がグレイシア ブルーと言われる色です”とガイドさんが紹介したように思う。やはり氷河の中に含まれる岩粉に反射された結果であろう。また街の土産物店で‘グレイシア クリーム’と表示した化粧品を見たように思うが、これは登山者、特に雪山に登る登山者が必要とする紫外線除けの肌クリームとのこと。それらの名称は、glacier(氷河)に由来するようである。

氷河に案内してくれるバスは、特別仕立ての大型バスであり、特にその車輪が特徴的である(写真9)。ヒトの身丈ほどの大車輪6個を備えていて、滑り止めの役目とともに、氷河へのダメージを少なくすることを狙っている と。特注品であるため、かなり高価であったようだが、金額は聞き漏らした。

写真9(雪上車)

この雪上車は3代目に当たるとのこと。初代はバスの発着場に展示されており、車輪(?)は、戦車を思わせるキャタピラ仕様である(写真9)。キャタピラでの走行は、地面や氷河表面に少なからぬダメージを与えるであろうことが想像される。

写真10(初代の雪上車)

このアサバスカ氷河は、全長6km、面積6km2の広さで、厚み(深さ)は300mに及ぶ所もあり、1日数cmの速さで流れている と。このような超低速で流れながら、岩を砕き、微粉の岩粉を生成しているわけである。ただ、氷は徐々に融解していき、氷河の末端が毎年2~3m宛、後退しているとのことである。

本稿の締めくくりに街中のお土産店を覗いてみます。目を引きつけたのは、巻貝の形をした、赤・緑など虹色の鮮やかな、直径約20cmのアンモライト(ammolite)(写真10)。アンモナイト(ammonite)の化石の一種である。写真11ではC$21,000.-(カナダ$)の値札があり、日本円にして210万円相当である。かなり高価である。

写真11(アンモライト)

アンモライトとアンモナイト、‘ラ’(‘l’)と‘ナ’(‘n’)だけの違いであるが、少々説明が要る。お土産店に展示されたアンモナイトの模型を写真12に示した。イカに似て、頭から6本足が伸びている軟体動物である。ちょっと調べてみると、アンモナイトは、巻貝の一種で、地球上には約4億年前に出現した地質時代の海中生物である。陸上での大型恐竜の出現が約2億年前であるから、ナントカザウルスより遥か以前に現れている。それ以後、両者ともに大繁盛したのち約6,500万年前にそろって絶滅している。

写真12(アンモナイトの模型)

ロッキー山脈の中の若い山ができたのが、約6,500万年から1億年前のようですから、そのころ海中で死滅したアンモナイトは、海底地下に埋まっていた。造山活動の結果、その地殻が陸上に現れ、今に至ってアンモナイトが化石として発掘されているのであろう。

アンモナイトの化石は、地球上至るところで産出するが、写真11に見るような色鮮やかな虹色の化石は、アルバータ州で始めて発見された。そこでアンモライトと名付けて区別していた。1981年、国際貴金属宝飾連盟において、一宝石としての固有名詞“アンモライト”が公式に認定されるに至っている。ロッキー山脈の東斜面では他の地域でも産出されているが、アルバータ州産出が最も良質であると言われている。化石化が進む過程で表層部に蓄積する無機物質が他所とは違っていて、鮮やかな虹色を呈するようになっているらしい。なお“アンモライト”は、2004年に同州の“州の石”に指定されている。(Rockiesの稿 完)

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ビデオ紀行 5 「カナダハイライト8日間」-5 Rockies(2)

2015-07-24 17:38:07 | 旅行

今回の旅行で最も印象深かったことの一つは、バンフ国立公園内での野生動物との共生の在り方についての公民共々の取り組みようである。交通量の増加に伴って、高速道の拡幅に迫られたが、その折、野生動物の生活への影響を最小限にし、また動物‐車の衝突を抑えるにはどうすべきかを、交通関係者及び科学者を含めて真剣に検討を重ねたようである。そこで高速道の両脇にフェンスを設け高速道へ動物が入るのを阻止するとともに、高速道を跨いで上または下に動物専用の通路を設け、動物が道路の両側を自由に行き来できるよう徹底した対応がなされていた。

山中ばかりでなく、街中でも野生動物にはお目にかかれる。写真1は、バンフ街中のホテルの側、花壇の中で休息中の鹿で、角と耳だけが見える。人が近くに寄っても動ずることはない。写真2は、日中お昼前、高速道の側を練り歩いている熊に出逢った。車内から目撃の声が上がると、バスの運転手が気を利かせてバスを停めてくれた。グリズリー熊(grizzly bear、灰色熊)とのこと、まだ小熊のようです。成獣では300-500kgに達するらしい。朝夕の涼しい間にはよく彷徨するが、日中気温が上がって見かけることは珍しい由。この写真で、道路わきにフェンスが設けられているのがよく判る。

写真1(街中ホテルの側で;鹿の角と耳)
写真2(高速道沿い、彷徨するグリズリー熊)

写真3は、高速道を跨ぐ動物専用の陸橋アニマル オーバーパス(animal overpass)の一つである。このような通路は、ヒトの匂いが残ると動物が警戒して避ける可能性があるから ということでヒトが通ることは禁じられている由。今日、バンフ国立公園内では、フェンスの設置が高速道82kmに及び、また動物専用の横断通路が44か所(陸橋6、地下道38)設けられているとのことである。これらの横断路では、常時監視が続けられていて、今後の対応に役立てるべくデータの蓄積がなされているとのこと。

写真3(高速道を跨ぐアニマル オーバーパス)

バンフから高速道に沿ってルイーズ湖(写真4右上)を経由、エメラルド(Emerald Lake)湖(同左上)に行く途中に、キッキング ホース峠(Kicking Horse Pass)とスパイラル トンネル(Spiral tunnel)という観光スポットを通った。いずれも意味ありげな名称であり、興味を引いた。

写真4(スパイラル トンネル周辺の略地図)

キッキング ホース峠は、アルバータ/ブリテイッシュ コロンビア両州の境(写真4赤の縦曲線)にある峠(標高1627 m)である。前回、英国探検隊員の隊長で、キャッスル山の命名者Sir James Hectorに触れましたが、その彼がこのあたりを探検していた折(1858)、荷物運搬用の駄馬に胸を蹴られた所ということで、そう名づけられている と。またヨホ国立公園内の高速道沿いの谷間を流れる川はキッキング ホース川である。なお、1884年にこの峠を跨いで大陸横断のカナダ太平洋鉄道が開通したことから、キッキング ホース峠はカナダ史跡の地(National Historic Site of Canada)として指定されたようである。

偶々、キッキング ホース峠近くで、カナダ太平洋鉄道の車両がバスと反対方向に進んでいくのが車窓から見えた(写真5)。2-30輌編成であるという。山のすそ野をゆっくりと進んでいるようで、のどかな風景に見えた。実際は、この路線は、ロッキーの急斜面に施設するという地理的に非常に困難を極めた挑戦で、今日の如く安全に運航するにはかなりの工夫と努力がなされており、その象徴としてスパイラル トンネルがある と。それが完成したのは1909年のことであった。

写真5(車窓から見たカナダ太平洋鉄道の列車)

スパイラル トンネルについては少々説明がいる。キッキング ホース峠のヨホ国立公園側では谷の両側ではかなり傾斜が急である。その傾斜を吸収するため、トンネルを設けて8の字のらせん型に走行するようにしたわけである。写真4で走行の模様を想像してみる。フィールド(Field)側から徐々に斜面を登り高速道の下を潜ったのちにトンネル(Lower tunnel)に入る。左周りでトンネル内を891m進んでトンネルを出る。写真6ではトンネルに入る列車(下)とトンネルを出る列車(上)が見える。このトンネルを潜ってのちには傾斜を15 m登ることになる。このトンネルを出たのち一旦逆方向に進み高速道を潜って次のトンネル(Upper tunnel)に入り、右回りでトンネル内を991m進んでトンネルを出る。ここで17 m高度を上げる。以後ルイーズ湖に向かって高速道とほぼ並行して走る。

写真6(下方トンネルを入出する列車;Parks Canada, www.pc.gc.caから)

トンネルを設けた結果、この線路は最大2.2%の勾配に抑えられて効率的かつ安全な運行が可能となったようである。当初、急な傾斜のため脱線事故もあり、また改良して傾斜を4.5%に設定して進めたが、それでも下りは車両の重みで加速され、また登りには後押しの追加の動力や人手が必要であり、効率的とは言えなかった。またスウィッチ式も試みられたが、1909年にトンネルが開設されて今日に至っている と。

キッキング ホース川を下ってフィールドの近くにナチュラル ブリッジ(Natural bridge)と言われる観光スポットがあった(写真7)。これも滝の一つである。上流(右奥)からの流れは、ナチュラル ブリッジと言われている岩の割れ目の前で大きな渦を巻いて岩間に入り、そこを流れ下り、下流で濁流となって流れ出る。岩間の上側に向き合って突き出た岩が見えるが、そこは歩いて渡れるようで、ブリッジと呼ばれている。以前には繋がった“橋”であったと思われるが、詳細は不明である。

写真7(ナチュラル ブリッジ)

バンフの街は、1883年カナダ太平洋鉄道の労働者3人がサルファ山(Sulfur Mt.、バンフの南)の麓で温泉を発見したことに始まり、鉄道の開通とともに発展していったようです。1885年に「ロッキー国立公園」(1930年バンフ国立公園に改名)に指定され、また1888年には同山の麓にバンフ スプリング ホテル(Banff Spring Hotel)ができ(写真8)、観光客の誘致にも力を入れてきた。一方、自然保護に力を入れ、自然との共生にかなりの意が注がれていて、1984年UNESCO世界遺産に指定されている。バンフの街の西から南にかけてはボウ川(Bow river)が流れており、街のすぐ南、バンフ スプリングホテルの麓にはボウ滝(Bow Fall)(写真9)が掛かっている。滝周辺は市民の憩いの場でもあり、また観光スポットの一つともなっている。

写真8(バンフ スプリング ホテル)
写真9(ボウ滝)

写真10は、ボウ滝の右岸(上流に向かって左側)の岩肌である。板状の岩が斜めに走り、その端々はシャープなままである。また岩上に生えた木の根も斜めに走り、それらの異様さに注意が引かれた。さほど昔でない時期に、地盤が盛り上がったのち、開裂してボウ川ができた事を思わせる。その左側は、展望台に通ずる登り口となっている。ボウ滝の流れは、水が落ちているというより、岩に砕け、泡立ち、乱流となって水しぶきを上げながら斜面を這い下っているように見える(写真9)。水量が多く、岩は見えないが、滝の流路は写真10に見るようなかなり不規則な岩の斜面になっていることが想像される。

写真10(ボウ滝右岸の岩)

再びマリリン モンロー。モンローの主演映画『帰らざる河、River of No Return』に、マリリン モンロー、ロバートミッチャム(Robert Mitchum)と子供の3人で筏に乗って川を下る場面がある。その一場面で筏が滝を下るが、それはまさにこのボウ滝であった。映画では水嵩は写真9よりも増しており、荒れ狂うように流れる乱流であった。その滝半ばで、筏が真横になって乱流に巻き込まれながら見え隠れする、息を飲む場面があった。同映画は、1954年作であるから、『ナイアガラ、Niagara』の一年後である。『ナイアガラ』では、モンローはあどけなさが残る、かわゆい顔立ちであったが、『帰らざる河』では大人びた女性になっていた。

[蛇足] 筆者は、バンフには1980年前後に、ある国際会合に出席するために一度3、4日間ほど滞在したことがある。確か会合は、バンフ スプリング ホテルのコンベンション センターであったと思う。日中は終日缶詰の会合があって、街並みを含め、当時の記憶はほとんどない。唯一、同会合のソシャル プログラムの一つにボートでの川下りがあって、ボートの上から仰ぎ見たロッキーの山々の記憶だけが鮮明に、総天然色で残っている。今思うに、ボウ川の川下りであったか と回想している。当時撮った8mm映像はあるのだが、残念ながら今日上映できないでいる。(つづく)
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ビデオ紀行 4 「カナダ ハイライト8日間」4 Rockies(1)

2015-07-19 17:37:05 | 旅行
[3日目] カナダ東部トロント(Toronto)から西部カルガリー(Calgary)へ一つ飛び、と言っても4時間の飛行時間である。時差が2時間あり、広い国土を実感する。空港から高速道をバスに揺られてバンフ(Banff)に向かう。バンフ国立公園圏内に入ると、カナデイアン ロッキーの山並みが車窓遥かに目に入ってきた。これから4日目、5日目と足掛け3日間ロッキーの山々、また湖をめぐる観光が組まれていた。

本稿では、旅程に従って旅の模様を紹介することはやめて、この観光スポットの目玉である山、川、湖およびそれらにまつわる事象をそれぞれにまとめて紹介することにします。

まずは山。カナデイアン ロッキーのスケールの大きさは言うに及ばず、連なる山々の諸相もまた注目である。これから紹介する山々の山容、姿は、バスが走行中に車窓から撮ったものがほとんどでピントは甘いが、その点大目に見て頂いて、山々の姿の諸相に注目して戴きたい。

車窓に見える山々の姿は、いくつかに類別できるようである:(1) 尖塔(ピーク)型、(2) 城塞型、(3) 絶壁型、(4) うねり型、(5) 広裾野型 など。それぞれが、地質の違い、造山・浸食過程の違い等によって今日の姿になったのであろうが、その詳細は筆者の想像をはるかに超える。素直に山々の姿を観賞することにします。三日間に及ぶ当地の観光に当たって、「山の天気は変わりやすく…..」とはガイドさんの口癖であったが、毎日が終日晴天に恵まれ、青空の下、山の稜線がくっきりと見えたことは幸いであった。なお、ガイドさんは、その都度山名やその名づけの謂れ等、話しておられたが、次々と変わる景色に、記憶が追いつかず、以下不確かな部分が多い。

[山容]
(1) 尖塔型: 峰が1個の山、また複数で鋸歯状に連なる峰すじなどがみられた。まずバンフの街中から見たカスケイド(Cascade)山(写真1)。壁が段状に見えるから、“カスケイド”と呼ばれているかも知れないが、街中からは単峰に見える。写真2では、3(または4)峰が連なって見える。下車して撮ったもので、多分手前はルイーズ(Louise)湖、その向こう3峰の中の一つがルイーズ山のはずである。明らかに大、中、小の3峰が並んだ山に“3姉妹山(Three-Sisters Mt.、3修道女の意)”と呼ばれる山があったが、シャッター チャンスを失し、残念ながら紹介できない。

写真1
写真2

ピークがさらに増え、10個のピークが連なるテン ピークス山(Ten Peaks Mt.)(写真3)。モレーン(Moraine)湖の背景となる山々で、ピークがさらに右奥に連なっていくのである。残念ながらワンショットのスチル写真ではその全容は表せない。この山は、かつて20カナダ$紙幣の絵柄になっていたらしい。ピークが無数と思える嶺は写真4。崖の頂上に尖塔状やドーム状の山々が連なって見える。

写真3
写真4

(2) 城塞型:まさにお城を思わせる山が、その名もキャッスル山(Castle Mt.)(写真5)。探検家のJames Hectorが、1858年に発見した折、第1印象でそう命名した由である。なお、第2次世界大戦後の一時期(1946~1979)、アイゼンハワー(Eisenhower)連合軍最高司令官の功を讃えて(?)、アイゼンハワー山と呼ばれていたらしいが、民衆の圧力で元の名称に復したようである。ただ、同山の手前のピークは、Eisenhower Towerと称されている と。写真6および7では、崖の上に建造物らしきものが見え、特に写真6では、手前の城壁(?)上及び右奥の城壁(?)上に白壁の物見櫓と思しき建造物(?)が見える。

写真5
写真6
写真7

(3) 絶壁型:かなりの距離続く絶壁の真下をバスで走る(写真8)。圧倒されるというより吸い込まれるような錯覚を覚える空間であった。バンフからヨーホー国立公園のあたりは北緯51度前後で、2,100m高がおよそ植物生育の限界に当たるとのことである。写真の崖の上縁には植物の生育が見られることから、さほど高い所ではなさそうである。

写真8

(4) うねり型:山の頂および谷間が緩やかで、“うねり”のように連なっている山容である(写真9 & 10)。

写真9
写真10

(5) 広裾野型:山の頂の形というより、緩やかな裾野の広がりが大きい(写真11 & 12)。写真11 & 12では特に植生の様子がよく判るので提示した。

写真11
写真12

カナデイアン ロッキーの、実際に目に入った山々を総攬すると、その姿ばかりでなく、いくつかの特徴を拾い上げることができる。その特徴を以下に挙げます。

先ず山の肌色について。幸いに毎日好天気に恵まれて、日差しが強い毎日であった。その中で、山々を見ると、山肌が、白い個所:写真4 & 6;やゝ黒い個所:写真2, 5, 9 & 10;淡い土色の個所:写真1、3、6、7、8、11 & 12 と区別できる。日当たりの有無ではなく、地質によるもののようである。

山の層状構造について。どの山を見ても大体層状の構造となっている。層の段状になった所で植物が生育している、または白雪が残っている。

植生について。車窓から見て、常に手前に展開する針葉樹は、ロッキー山系の自生植物で、ロッジポールパイン(lodge-pole pine、学名Pinus Contorta)とよばれていて、カナダ アルバータ(Alberta)州の“州の木”とのこと。常緑で、成長は遅く、見えている木々は、100年以上経ているだろうとのこと。群生する所では下部の枝は自然に枯れていき、直な木材が得られ、原住民が、小屋の柱として使用していたことから名づけられた とか。

マツの一種で、その種子は、いわゆる“マツカサ”の中に保護されていて、45~60℃の温度下ではじめて“カサ”が開き、“カサ”から外に出て、発芽することができるようになる。山火事がなければ、寿命ゆえに絶えていくことになるが、時に起こる山火事のおかげで、その群生は絶えることがない、また山火事の後、一斉に発芽して群生するに至るので、樹高が大体一様になっている と。自然の営みの面白さである。

ロッジポール パインの向こう、山裾や段状の山襞に見える緑は、先に触れたように、高度2,100m辺りが植生の限界で、その高度に至る間、高くなるにつれて背の低い植物相となっていることがわかる。しかしどのような植物種が生育しているかは、筆者は不明である。

残雪および氷河について。多くの山で、頂上付近では雪または氷河が残っている。街中では日中の気温は26、7℃かと思えるが、当地では真夏に当たるとのこと。空気が澄んでいる精でもあろう日差しが強い。山の観光スポットでは気温は街中に比して低く、山上ではさらに低いのであろう。山襞には真っ白い模様が描かれている。よく見ると厚みのある個所があるが、このような個所は氷河であるとのことである。(つづく)
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ビデオ紀行 3 Niagara (3)

2015-07-14 09:22:10 | 旅行

二日目最後は、バスに小一時間揺られて、ブドウ酒醸造所シャトー・デ・シャルム(Chateau des Charmes)を訪ね、ワインの楽しみ方を聞き、また試飲するツアーである。

筆者は、北米大陸でワインと聞けば、カリフォルニア ワインを思い浮かべる程度の知識しかない。この旅行でカナダも名産地の一つであり、特にアイスワイン(icewine)は欧州のワイン品評会で数々の賞を受けており、世界的に有名であると知り、思いを新たにした次第である。旅はいろいろと教えてくれる。実際、このワイナリー訪問は、オプショナルツアーであり、強いて訪ねることもなかろうと避けていたのであったが、さる都合により参加する機会を得たのであった。

ここで話の都合上、カナダ ワインの歴史についてちょっと触れておきます。

カナダで本格的に商品としてのワインの生産体勢がとられ始めたのは、1960年代後半あたりと、カリフォルニアにおけるより3、40年遅れていて、歴史は浅いと言える。勿論、それ以前に原住民がワインを楽しんでいたとも言われており、また開拓が進むにつれて、キリスト教の布教師も来るようになり、神に捧げる程度の小規模生産はしていたようでもある。しかし1960年頃以降、フランス、ドイツやイタリアの醸造家が入植して、ブドウの栽培および醸造を本格的にはじめ、以後、ブドウ品種の改良、醸造技術の研究など、競って進められ、ワインの品質がよくなっていった。1990年代に至って、カナダ ワインの独特な香り・風味が世に認められるようになった と。

オンタリオ州は、カナダのワイン生産量の85%を占めているとのことであるが、特にナイアガラ半島やナイアガラ‐オン‐ザ‐レイク(Niagara-on-the-Lake)は、氷河に削られた地形・土壌、エリーおよびオンタリオ両湖の存在、及び北緯41‐45度の間に位置することによる気候・風土が、ブドウ栽培・ワイン醸造、特にアイスワインの生産に最適な環境にあり、カナダ独特の風味のあるワインを造り出す基になっているとの由である。因みにブドウ栽培・ワイン生産に関わる気候や土壌を「テロワール(terroir、フランス語)」と一言で表現するらしい。

ツアーで訪ねたワイナリー(winery、ブドウ酒醸造所)は、シャトー・デ・シャルムであった。見渡す限りの平原の中にあり、その佇まいはまさにシャトー(Chateau、フランスのお城または館)である(写真1)。建物正面前の、樹冠が丸みを帯びた数本の木は桑の木であったように思う。建物の中には、ブドウを絞る機械装置や発酵タンクが並んでいた。

写真1(社のHPから)

建物の裏に行くと、広大なブドウ園である(写真2)。写真の奥に見える建物は、写真1の醸造所である。また右に見える柱は風車で、真夏の暑い時期に風を起こして、熱が地面、ブドウの木の根っこに籠るのを防ぐのだという。

写真2(社のHPから)

ブドウ園と言えば、ブドウの木の枝を2m前後の高さの棚に這わせて、ブドウの房が棚からぶら下がっている情景、または屋根の高さに大きく伸びたブドウの木の枝が広がり、枝にブドウの房がぶら下がっている情景をまず思い浮かべる。しかしシャトー・デ・シャルムのブドウ園では写真で見るように1m前後の高さの小木が畝に沿って育っているのである。解説者の説明に依ると、収穫後の木は幹が刈られて冬を越す。春に出た新芽は2枝ほどを残すようにして、一株で7、8個のブドウの房を実らせる ということである。冬場のブドウの木の保護と機械化作業による効率化のためのようである。耕作および収穫はトラクターにより作業を行う(写真3 & 4)。なお写真3は畝間を耕し、畝の盛り土を行っている状況のようである。写真4はいかなる作業か不明。

写真3(社のHPから)
写真4(社のHPから)

このブドウ園で現在進められている研究の一端が紹介された。それは意外な内容であった。目前の農園で、普通と思える畝間と かなり狭い畝間の区域があったが、曰く、“畝間を狭くすることにより、各ブドウの木同志が、地からの栄養物吸収を競い合うことから、結実の風味がよくなるのではないか、その仮説を実証するための実験である”と。発想の転換ということでしょうか。“結論を得るには10数年を要します” と。ことほど左様に、より良い品質のワインを作り出すためにはなお研究・努力がなされているということである。

一通り工場、農園を見て回った後、楽しみの試飲である。見学コースの案内に当たったスタッフは、若い日本人女性で、その後の試飲を含めてワインの楽しみ方をも伝授してくれた。かなりプロの域にあるように思えた。グラスの持ち方から始めて、ワインの色、香りを確かめて、それから味わう。白・赤ワインと味わった。その美味たること!!醸造所で頂く酒類は、大体“旨い”と感じるものではあるが、時差ボケによる寝不足、さらに早朝から観光して回った疲れも手伝っていたか、このツアーに参加してよかった との感を強くした。

白楽天の詩「卯時の酒」に次のような句がある:

一杯 掌上に置き [一杯を手に持って]
三嚥腹内に入れば [三口飲んで腸にいたれば]
煦(く)たること春の腸を貫くがごとく [内臓を春が通りぬけるように暖まり]
喧(けん)なること日の背をあぶるがごとし [日の光が背をあぶるようにほてってくる]
  <石川忠久 監修 『新漢詩紀行ガイド2 (NHK)』から抜粋>

カナダに渡って、まさに白楽天の境地を経験したのであった。なお「卯時の酒」とは、起き掛けの朝酒のことであるが。

試飲の締めは、アイスワインである。それがまた実に旨い、その芳香、口に含んだときの濃厚な舌触り、味…表現の仕様はなく、実際に飲んで実感して下さいという他ない。その旨さとスタッフの口車(?)に乗って、早速購入することにした(写真5)。ただ、量を楽しむ酒ではない。庶民としては、お猪口の半杯くらい、食後に頂くとよいかな と思っている。

写真5

ここでアイスワインについて触れておこう。高級ワインの一つとして“貴腐ワイン”は、時に耳にするが、誕生秘話は、似たものではなかろうか?アイスワインの誕生地はカナダではなく、ドイツのようです。一説によると、今から200年ほど前、ドイツのフランコニアという土地のある農場で誕生した由。ある年、同地方は突然の霜に襲われ、ワイン用のブドウがすべて凍ってしまった。処分することにしたのだが、やはり多分に、“もったいない”ということで一部の凍ったブドウを使ってワインを造ってみた。結果、実においしいワインができた と。これがアイスワインの始まりで、まさに偶然の産物ということである。厳寒の下、凍らせることにより、ブドウの水分含量が減り、濃厚なブドウ汁となり、それを原料にしたワインがアイスワインということである。

カナダでのアイスワイン造りは1980頃から始まり、オンタリオ州、中でもナイアガラ地方は冬に厳寒なためアイスワインの生産に最適なテロワールであるとのことである。ブドウの収穫は、通常、秋であるが、アイスワイン用には12月から2月に収穫されるとのこと。気温零下8度以下が3日以上続いたのち収穫したブドウを原料としたということが、カナダ アイスワインの品質保証条件の一つである由。歴史が浅いとはいえ、今日、カナダでも欧州の産地同様、しっかりと統一された品質基準が設けられていて、品質については信頼がおける状況のようである。容器に表示された略号VQA (Vintners Quality Associationの略)が品質を保証するものだという。因みに写真5のワインには確かにその表示があった。

シャトー・デ・シャルムの創業者は、フランスのブドウ酒産地であるブルガンデイー(Burgundy)から1960年代にナイアガラに入植し、1978年に創業している。現在、社の会長を務め、社長は2世が担当。やはりカナダ ワインは若いのである。カナダ ワイン界の今日の課題の一つは、アジアへの浸透である由。想像するに、若い日本人女性のスタッフが観光ツアーの応対を担当していた事実は、アジア(日本)対策の一環を示すものであろう。

最後にシャトー・デ・シャルムの農場について。近郊に4農場を所有し、総面積は280エーカー(1,133,104 m2)とのこと。概算、東京ド-ム24個に相当し、平均1農場面積は東京ドーム6個分の広さになる。但し、筆者は東京ドームに足を運んだ経験がなく、実感としてその広さを認識できませんが。(二日目 Niagara完)

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ビデオ紀行 2 Niagara (2)

2015-07-11 11:36:49 | 旅行

ナイアガラの滝から約5km下流に、北上する川筋が東に直角に曲がる個所がある、ナイアガラ ワールプール(Niagara Whirlpool)である(写真1)。川は右手前から直角に折れて、東に向きを変えており、また川の流れがかなり急であることがよくわかる。エリー湖‐ナイアガラ川‐オンタリオ湖にわたって、それらの中央がカナダ‐アメリカの国境となっており、右の丘はアメリカ領である。

写真1

カナダ領内で、川を挟んで両岸にケーブルが張られていてゴンドラが宙吊りにされている(写真2)。乗り場から約1km離れた対岸にかすかに岩らしきものが見えるが、写真3に見るように岩の間にしっかりとしたコンクリ造りの駅が設けられている。その屋上は展望台になっているようである。観客はゴンドラ(写真4)に乗って、十数分間川の流れを眺め、楽しむ仕掛けである。

写真2 (Wikipediaから)
写真3
写真4 (Wikipeediaから)

この特徴的な造りのゴンドラは、スペインの技師たちの発案・工事で設置され、1916年から稼働を始めた由。そこで当初はスパニッシュ アエロカー(Spanish Aerocar)と呼ばれていたようであるが、現在ワールプール アエロカー(Whirlpool Aerocar)またはワールプール スパニッシュ アエロカーと呼ばれている。百年近い長い年月にわたって親しまれてきたようだ。

この直角に折れた川筋では、川の流れが急であることも手伝って、北上した流れがその先で川岸にぶつかり、岩を砕き、長年にわたって入江状の湾を形作る結果となったようである(写真2および4)。そこで今日、流れはこの湾内を反時計方向に回ってのちに東流することになるが、湾に入る流れと湾を巡ったのちの東への流れが喧嘩して、渦を作ることになる。ゴンドラが中流に差し掛かるあたりでは流れが渦巻いているのが直下に観察できる(写真5;写真2 & 4も参照)。このあたりが、ワールプール(渦巻き、Whirlpool)と呼ばれている所以のようである。

写真5

再び、映画‘Niagara’に戻って、殺人事件の遺体が発見された場所は、ゴンドラ乗り場の対岸、駅の直下よりやゝ北側あたりの川岸であったように思われる。

この旅行の第1歩のここで、ビデオカメラの電池を完全に消耗してしまった。残念ながら、当日のその後の足取りは、ネット上で得た資料で話を進めざるを得なくなった次第である。

バスは、木々の間にナイアガラ川の流れを垣間見ながら、川沿いをさらに下り、川がオンタリオ湖に灌ぐ地区、ナイアガラ-オン-ザ-レイク(Niagara-on-the Lake)に到着(写真6)。写真はカナダ発行の切手ですが、写真上部で帆を降ろした帆船が描かれている個所が、ナイアガラ川がオンタリオ湖に灌ぐ河口である。ナイアガラの滝から40kmほどの下流でしょうか。ツアーは、帆船の下(南)側のカナダ領湖岸に位置するナイアガラ-オン-ザ-レイクの街および川岸を自由に散策する時間が設けられていた。

写真6(Wikipediaから)

写真で川向う陸地が飛び出たところがナイアガラ砦(Fort Niagara)でNew York州に属するアメリカ領、手前の川岸にはジョージ砦(Fort George)がありカナダ領。両砦は、1812年に勃発したという英米戦争で取りつ取られつを繰り返して、現在の形に落ち着いたのは1814年頃のようである。今日、対岸の砦はレンガ造り(?)の建設物が遠くかすかに見え、一方、手前カナダ領では砦あとの木柵が残されており、また中型の大砲が対岸に口を向けていて、かつての戦争の名残をとどめていた。

映画‘Niagara’で、ジーン ピーターズの夫の勤め先の経営者(?)が、「….米国・カナダはよう戦った、今は大の友人です…..」という主旨のセリフを言う場面もある。

ナイアガラ川の河口付近からオンタリオ湖に開けるあたりで、数隻のヨットが水面を悠々と滑っている情景が目に入った。国境線は川および湖の中央にあるとのことであることから、ヨットが川の中央を越え、国境を侵すことは十分にありうる。問題にならないのか、時節柄、気になった。対岸の陸地に上がらなければ不問である とのガイドさんの説明であった。

川岸からやゝ丘を登った内陸部、徒歩数分のあたりがナイアガラ-オン-ザ-レイクの市街地(写真7)である。端から端まで徒歩10数分ほどで尽きる、約200mの目抜き通りクイーン通り(Queen Street)を挟んで、その両側は賑やかなビクトリア様式の街並みの商店街。その通りの真ん中あたりに時計台があり、方向音痴の筆者にとっては有難い存在であった。この時計台は、第一次世界大戦で亡くなった当地出身の兵士を悼んで建てられた由。また時計台の近く、キング通りとの交差点の角には、交通事故でなくなられた英国のダイアナ妃が来加の折に泊まられたというプリンス‐オブ‐ウェールズ ホテルがある。

写真7

この目抜き通りを外れたあたり、またこの通りと直角に交わる道路の両脇は住宅街である。このあたりは、いわゆるメープル街道(*)の圏内にあり、どの道路にも年を経た大木の楓の木が街路樹として並んでいる。まだ緑の濃い状態であったが、紅葉の頃はやはり見栄えのある情景となるのであろう。楓の木々の根っこの周りには、緑色で未熟の2枚の羽根をつけた楓の種が散っていた。

*注)
「メープル街道」とは、ナイアガラ フォールズをスタート地点にして、ナイアガラ川岸‐オンタリオ湖岸を通って、さらにトロント‐モントリオール‐ケベックに至る街道をいう由。但し、「メープル街道」の用語は日本語であり、現地では通じないと聞いた。このあたりの地域はアッパーカナダと呼ばれていて、英・仏人が入植して以来の歴史が刻まれた場所で、史跡が多く、現地ではHeritage Road(史跡街道?)と呼んでいるとのことである。

錯覚2つ:
1) CPホテル10階から眺めた情景では、手前のナイアガラ川は右から左に流れていて、両滝は手前に向かって落ちている。一見して、両滝はアメリカ側の川岸の崖を並んで落ちているように思え、「カナダ滝」という名称が不思議に思えた。錯覚である。両滝が川の流れに直角に掛かっている という情景を思い描くのにかなりの時間を要した。種を明かせば、ナイアガラ川は、滝が落ちた個所で直角に北(左)へ流れを変えているということである。何万年か後に、滝がもっと上流に移動した際には、手前カナダ領に入江が形成されて渦巻きが見られるようになるのかも知れない。

2)  ナイアガラ ワールプールで、ゴンドラ乗り場から眺めた時、一見、ゴンドラを吊るしたケーブルは、対岸のアメリカ領との間に張ってあるように思われた。やはり錯覚である。錯覚1)も含めて、川の対岸はアメリカ領であるという固定観念ができていたからである。ゴンドラで流れの半ばに乗り出して行き、右手にアメリカ領の丘を見て初めて、ケーブルはカナダ領内の両岸に張られていることが了解された。

このゴンドラのケーブルについて、錯覚を起こしたのは筆者のみではないようである。ネット上、カナダ観光についての口コミ記事の中で、「…対岸アメリカ領との間に張られた….云々」という記事が確かにありました。(つづく)
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