(90番)見せばやな 雄島(ヲジマ)の蜑(アマ)の 袖だにも
濡れにぞ濡れし 色は変はらず
殷富門院大輔(インプモンインノタイフ)(『千載和歌集』恋・884)
<訳> 私の袖をお見せしたいわ。雄島の漁師の袖でさえ、いくら濡れても色が変わったりしないのに、私の袖は血の涙で濡れに濡れて、色が変わってしまっています。(板野博行)
ooooooooooooo
私の衣の袖を見てほしいものだ!かの松島の雄島の海女の袖は、あれだけ濡れても色は付いていないのに、私の袖は、濡れているばかりか紅色に染まっているわよ、(涙は涸れて、血涙に替わったのよ)と。迸る激情を一気に詠いきっています。
殷富門院大輔は、若いころから後白河院の第一皇女・殷富門院に仕え、和歌は藤原俊成に手解きを受けているようだ。また、俊恵法師の歌林苑の会衆のひとりでもあり、女流歌人として高い名声を得ていた。特に多作家で、「千首大輔」の異名があったという。
和歌の漢詩化に当たって、作者の “こころ”を忠実に伝えるよう心掛けています。ただ俊成流の“幽玄”に属する内容をどこまで字句として表現するか?当歌は、その難解さを端的に経験させてくれた歌でした。その苦労談も述べましたが、読者のご批評頂けると有難いです。七言絶句としました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [上平声一東韻]
涙尽而血涙流 涙尽きて血涙(ケツルイ)流る
淡淡雄島漁女袖, 淡淡たり 雄島の漁女(アマ)の袂(ソデ),
常常淋浪彩色空。 常常(シバシバ) 浪を淋(カカ)るも彩色 空(クウ)なり。
請君来看我衣袂, 請(コ)う君来りて看(ミ)よ我が衣の袂(ソデ)の,
不但濡還染成紅。 濡れているのみならず還(マ)た紅に染まるを。
註]
血涙:血の涙。 淡淡:淡白なさま。
雄島:東北・陸奥国の歌枕の名勝 松島にある島のひとつ。
常常;しょっちゅう、しばしば。 袂:そで、たもと。
不但~還~:~のみならず、また~。
<現代語訳>
涙尽きて血涙流れる
松島にある雄島の海女の袖は、見た目 感じがあっさりとしており、
しばしば波が掛かり、濡れていても色はついていない。
君 来て私の袖を見てほしい、
濡れているばかりか、その上血涙で紅色に染まっているのを。
<簡体字およびピンイン>
泪尽而血泪流 Lèi jìn ér xuèlèi liú
淡淡雄岛渔女袖, Dàn dàn Xióngdǎo yúnǚ xiù,
常常淋浪彩色空。 Cháng cháng lín làng cǎisè kōng.
请君来看我衣袂, Qǐng jūn lái kàn wǒ yī mèi,
不但濡还染成红。 bùdàn rú hái rǎn chéng hóng.
xxxxxxxxxxxxxxx
殷富門院大輔の生没年は不詳であるが、1130~1200年の頃活躍した歌人である。父は藤原北家勸修寺流従五位下藤原信成、母は従四位式部大輔菅原在良の娘。若いころから後白河院の第一皇女・殷富門院(亮子内親王)に仕えた。
藤原清輔(百人一首84番、閑話休題224)撰の『続詞花和歌集』に選ばれ、以後「太皇太后宮大進清輔歌合」(1160)を始めとして多くの歌合せに出詠している。また自ら百首歌などの歌会を主催するとともに、定家(百-97番、閑休-156)、家隆(百-87番)、寂蓮(百-87番、閑休-152)などに百首歌を求めている(1187)。
俊恵 (百-85番、閑休-198)が主宰している歌林苑の会衆のひとりであり、定家、寂蓮の他、西行(百-86番、閑休-114)、源頼政等多くの歌人と交流している。作歌数においても多作で、当時「千首大輔」と異名があったとのことである。
鴨長命は『無名抄』の中で、“当代女流歌人の中で、大輔と小侍従(コジジュウ)は双璧をなす最高の名手だとの評判である”と記している。小侍従とは、石清水八幡宮護国寺別当光春の娘で、大輔の母方の従姉に当たるようだ。
ところで、当歌は、100年ほど前に作られた源重行(百-48番、閑休-181)の次の歌を本歌とした“本歌取り”の歌とされています:
松島や 雄島の磯に あさりせし
海人の袖こそ かくは濡れしか (後拾遺和歌集 恋827)
[松島の雄島の磯で漁をしている海女の袖くらいでしょうか、私の袖ほどに
こんなにもひどく濡れているのは]
大輔は、重行の歌を一歩進めて、「私の袖は、ひどく濡れているばかりか、色さえ変わっていますよ」と。すなわち両歌は、100余年越の贈答歌で、大輔の歌は、返歌に当たる。ただ大輔の歌で「何色に変わり、その原因は何か」は、想像の域(“余韻”)ですが。
一方、中国・春秋時代、楚国の和(カ)なる人物が山で採れた璞(ハク、まだ磨いてない玉)を王に献上した。それが2代の王に亘って、ただの石と鑑定され、偽りの罪で足切りの刑に処された。和は、悔しさ・悲しさの余り三日三晩泣き続け、遂には涙が尽き、血を流したと。
3代目の王が理由を問うと、「足切りを嘆くのではない、宝玉をただ石とされ、その上虚言の者とされたのが悲しい」と訴えた。後にその石は歴史に刻まれる名玉となっている。『韓非子・和氏篇』にある故事で、悲しみのために流す“血の涙”の由来である。
さて、大輔の歌は、暗にこれらの歴史的“故事”を含めた凝縮された物語であり、「何色に変わり、その原因は何か」については、「血液の色、(悲しみの余り流れた)血の涙」を意味していることが理解されます。問題は、これらの事柄をどこまで“漢詩”の中に詠い込むか?
結果として、漢詩中「起・承・転・結」の “結”として“色”を明示して、 “変色の基”は漢詩中に明示せず、読者が心で感ずる“余韻”となるような絶句としました。ただ、蛇足ながら、“血涙”は、漢詩中には含めず「詩題」の中に含めました。
和歌で常用される枕詞、掛詞、序詞等々に対する対応については、以前に示した(閑休118)。俊成・定家流の歌の翻訳の難しさとその対応法について、大輔の歌は最良の例題と思われたことから、一つの考え方を述べ、読者のご批判を仰ぐ次第である。
本論に戻って、殷富門院大輔の歌は、知的で、力強く、堂堂とした作風であると。また歌全体として古風な印象を与えつつも、技巧的には、当歌に見るように、本歌取りや初句切れ(第一句で結論)など俊成に学んだ先進的な“新古今調の”詠みぶりが伺えます。
大輔に対する定家の評価は高く、定家単独撰による『新勅撰和歌集』(1235成立、後堀河天皇の勅)には十五首もの歌が入集されていると。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に63首入集、家集『殷富門院大輔集』がある。1192年、殷富門院に伴って出家したとされる。
濡れにぞ濡れし 色は変はらず
殷富門院大輔(インプモンインノタイフ)(『千載和歌集』恋・884)
<訳> 私の袖をお見せしたいわ。雄島の漁師の袖でさえ、いくら濡れても色が変わったりしないのに、私の袖は血の涙で濡れに濡れて、色が変わってしまっています。(板野博行)
ooooooooooooo
私の衣の袖を見てほしいものだ!かの松島の雄島の海女の袖は、あれだけ濡れても色は付いていないのに、私の袖は、濡れているばかりか紅色に染まっているわよ、(涙は涸れて、血涙に替わったのよ)と。迸る激情を一気に詠いきっています。
殷富門院大輔は、若いころから後白河院の第一皇女・殷富門院に仕え、和歌は藤原俊成に手解きを受けているようだ。また、俊恵法師の歌林苑の会衆のひとりでもあり、女流歌人として高い名声を得ていた。特に多作家で、「千首大輔」の異名があったという。
和歌の漢詩化に当たって、作者の “こころ”を忠実に伝えるよう心掛けています。ただ俊成流の“幽玄”に属する内容をどこまで字句として表現するか?当歌は、その難解さを端的に経験させてくれた歌でした。その苦労談も述べましたが、読者のご批評頂けると有難いです。七言絶句としました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [上平声一東韻]
涙尽而血涙流 涙尽きて血涙(ケツルイ)流る
淡淡雄島漁女袖, 淡淡たり 雄島の漁女(アマ)の袂(ソデ),
常常淋浪彩色空。 常常(シバシバ) 浪を淋(カカ)るも彩色 空(クウ)なり。
請君来看我衣袂, 請(コ)う君来りて看(ミ)よ我が衣の袂(ソデ)の,
不但濡還染成紅。 濡れているのみならず還(マ)た紅に染まるを。
註]
血涙:血の涙。 淡淡:淡白なさま。
雄島:東北・陸奥国の歌枕の名勝 松島にある島のひとつ。
常常;しょっちゅう、しばしば。 袂:そで、たもと。
不但~還~:~のみならず、また~。
<現代語訳>
涙尽きて血涙流れる
松島にある雄島の海女の袖は、見た目 感じがあっさりとしており、
しばしば波が掛かり、濡れていても色はついていない。
君 来て私の袖を見てほしい、
濡れているばかりか、その上血涙で紅色に染まっているのを。
<簡体字およびピンイン>
泪尽而血泪流 Lèi jìn ér xuèlèi liú
淡淡雄岛渔女袖, Dàn dàn Xióngdǎo yúnǚ xiù,
常常淋浪彩色空。 Cháng cháng lín làng cǎisè kōng.
请君来看我衣袂, Qǐng jūn lái kàn wǒ yī mèi,
不但濡还染成红。 bùdàn rú hái rǎn chéng hóng.
xxxxxxxxxxxxxxx
殷富門院大輔の生没年は不詳であるが、1130~1200年の頃活躍した歌人である。父は藤原北家勸修寺流従五位下藤原信成、母は従四位式部大輔菅原在良の娘。若いころから後白河院の第一皇女・殷富門院(亮子内親王)に仕えた。
藤原清輔(百人一首84番、閑話休題224)撰の『続詞花和歌集』に選ばれ、以後「太皇太后宮大進清輔歌合」(1160)を始めとして多くの歌合せに出詠している。また自ら百首歌などの歌会を主催するとともに、定家(百-97番、閑休-156)、家隆(百-87番)、寂蓮(百-87番、閑休-152)などに百首歌を求めている(1187)。
俊恵 (百-85番、閑休-198)が主宰している歌林苑の会衆のひとりであり、定家、寂蓮の他、西行(百-86番、閑休-114)、源頼政等多くの歌人と交流している。作歌数においても多作で、当時「千首大輔」と異名があったとのことである。
鴨長命は『無名抄』の中で、“当代女流歌人の中で、大輔と小侍従(コジジュウ)は双璧をなす最高の名手だとの評判である”と記している。小侍従とは、石清水八幡宮護国寺別当光春の娘で、大輔の母方の従姉に当たるようだ。
ところで、当歌は、100年ほど前に作られた源重行(百-48番、閑休-181)の次の歌を本歌とした“本歌取り”の歌とされています:
松島や 雄島の磯に あさりせし
海人の袖こそ かくは濡れしか (後拾遺和歌集 恋827)
[松島の雄島の磯で漁をしている海女の袖くらいでしょうか、私の袖ほどに
こんなにもひどく濡れているのは]
大輔は、重行の歌を一歩進めて、「私の袖は、ひどく濡れているばかりか、色さえ変わっていますよ」と。すなわち両歌は、100余年越の贈答歌で、大輔の歌は、返歌に当たる。ただ大輔の歌で「何色に変わり、その原因は何か」は、想像の域(“余韻”)ですが。
一方、中国・春秋時代、楚国の和(カ)なる人物が山で採れた璞(ハク、まだ磨いてない玉)を王に献上した。それが2代の王に亘って、ただの石と鑑定され、偽りの罪で足切りの刑に処された。和は、悔しさ・悲しさの余り三日三晩泣き続け、遂には涙が尽き、血を流したと。
3代目の王が理由を問うと、「足切りを嘆くのではない、宝玉をただ石とされ、その上虚言の者とされたのが悲しい」と訴えた。後にその石は歴史に刻まれる名玉となっている。『韓非子・和氏篇』にある故事で、悲しみのために流す“血の涙”の由来である。
さて、大輔の歌は、暗にこれらの歴史的“故事”を含めた凝縮された物語であり、「何色に変わり、その原因は何か」については、「血液の色、(悲しみの余り流れた)血の涙」を意味していることが理解されます。問題は、これらの事柄をどこまで“漢詩”の中に詠い込むか?
結果として、漢詩中「起・承・転・結」の “結”として“色”を明示して、 “変色の基”は漢詩中に明示せず、読者が心で感ずる“余韻”となるような絶句としました。ただ、蛇足ながら、“血涙”は、漢詩中には含めず「詩題」の中に含めました。
和歌で常用される枕詞、掛詞、序詞等々に対する対応については、以前に示した(閑休118)。俊成・定家流の歌の翻訳の難しさとその対応法について、大輔の歌は最良の例題と思われたことから、一つの考え方を述べ、読者のご批判を仰ぐ次第である。
本論に戻って、殷富門院大輔の歌は、知的で、力強く、堂堂とした作風であると。また歌全体として古風な印象を与えつつも、技巧的には、当歌に見るように、本歌取りや初句切れ(第一句で結論)など俊成に学んだ先進的な“新古今調の”詠みぶりが伺えます。
大輔に対する定家の評価は高く、定家単独撰による『新勅撰和歌集』(1235成立、後堀河天皇の勅)には十五首もの歌が入集されていると。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に63首入集、家集『殷富門院大輔集』がある。1192年、殷富門院に伴って出家したとされる。