愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 226 飛蓬-133 小倉百人一首:(殷富門院大輔)見せばやな

2021-08-30 09:05:59 | 漢詩を読む
(90番)見せばやな 雄島(ヲジマ)の蜑(アマ)の 袖だにも  
      濡れにぞ濡れし 色は変はらず 
         殷富門院大輔(インプモンインノタイフ)(『千載和歌集』恋・884)  
<訳> 私の袖をお見せしたいわ。雄島の漁師の袖でさえ、いくら濡れても色が変わったりしないのに、私の袖は血の涙で濡れに濡れて、色が変わってしまっています。(板野博行)

ooooooooooooo 
私の衣の袖を見てほしいものだ!かの松島の雄島の海女の袖は、あれだけ濡れても色は付いていないのに、私の袖は、濡れているばかりか紅色に染まっているわよ、(涙は涸れて、血涙に替わったのよ)と。迸る激情を一気に詠いきっています。

殷富門院大輔は、若いころから後白河院の第一皇女・殷富門院に仕え、和歌は藤原俊成に手解きを受けているようだ。また、俊恵法師の歌林苑の会衆のひとりでもあり、女流歌人として高い名声を得ていた。特に多作家で、「千首大輔」の異名があったという。

和歌の漢詩化に当たって、作者の “こころ”を忠実に伝えるよう心掛けています。ただ俊成流の“幽玄”に属する内容をどこまで字句として表現するか?当歌は、その難解さを端的に経験させてくれた歌でした。その苦労談も述べましたが、読者のご批評頂けると有難いです。七言絶句としました。

xxxxxxxxxxxxxxx 
<漢詩原文および読み下し文>  [上平声一東韻] 
 涙尽而血涙流 涙尽きて血涙(ケツルイ)流る 
淡淡雄島漁女袖, 淡淡たり 雄島の漁女(アマ)の袂(ソデ),
常常淋浪彩色空。 常常(シバシバ) 浪を淋(カカ)るも彩色 空(クウ)なり。 
請君来看我衣袂, 請(コ)う君来りて看(ミ)よ我が衣の袂(ソデ)の, 
不但濡還染成紅。 濡れているのみならず還(マ)た紅に染まるを。 
 註] 
  血涙:血の涙。          淡淡:淡白なさま。 
  雄島:東北・陸奥国の歌枕の名勝 松島にある島のひとつ。 
  常常;しょっちゅう、しばしば。  袂:そで、たもと。 
  不但~還~:~のみならず、また~。 

<現代語訳> 
 涙尽きて血涙流れる 
松島にある雄島の海女の袖は、見た目 感じがあっさりとしており、 
しばしば波が掛かり、濡れていても色はついていない。 
君 来て私の袖を見てほしい、 
濡れているばかりか、その上血涙で紅色に染まっているのを。 

<簡体字およびピンイン> 
 泪尽而血泪流   Lèi jìn ér xuèlèi liú 
淡淡雄岛渔女袖, Dàn dàn Xióngdǎo yúnǚ xiù,
常常淋浪彩色空。 Cháng cháng lín làng cǎisè kōng.
请君来看我衣袂, Qǐng jūn lái kàn wǒ yī mèi,
不但濡还染成红。 bùdàn rú hái rǎn chéng hóng.
xxxxxxxxxxxxxxx 

殷富門院大輔の生没年は不詳であるが、1130~1200年の頃活躍した歌人である。父は藤原北家勸修寺流従五位下藤原信成、母は従四位式部大輔菅原在良の娘。若いころから後白河院の第一皇女・殷富門院(亮子内親王)に仕えた。

藤原清輔(百人一首84番、閑話休題224)撰の『続詞花和歌集』に選ばれ、以後「太皇太后宮大進清輔歌合」(1160)を始めとして多くの歌合せに出詠している。また自ら百首歌などの歌会を主催するとともに、定家(百-97番、閑休-156)、家隆(百-87番)、寂蓮(百-87番、閑休-152)などに百首歌を求めている(1187)。

俊恵 (百-85番、閑休-198)が主宰している歌林苑の会衆のひとりであり、定家、寂蓮の他、西行(百-86番、閑休-114)、源頼政等多くの歌人と交流している。作歌数においても多作で、当時「千首大輔」と異名があったとのことである。

鴨長命は『無名抄』の中で、“当代女流歌人の中で、大輔と小侍従(コジジュウ)は双璧をなす最高の名手だとの評判である”と記している。小侍従とは、石清水八幡宮護国寺別当光春の娘で、大輔の母方の従姉に当たるようだ。

ところで、当歌は、100年ほど前に作られた源重行(百-48番、閑休-181)の次の歌を本歌とした“本歌取り”の歌とされています:

松島や 雄島の磯に あさりせし
  海人の袖こそ かくは濡れしか (後拾遺和歌集 恋827) 
 [松島の雄島の磯で漁をしている海女の袖くらいでしょうか、私の袖ほどに 
 こんなにもひどく濡れているのは] 

大輔は、重行の歌を一歩進めて、「私の袖は、ひどく濡れているばかりか、色さえ変わっていますよ」と。すなわち両歌は、100余年越の贈答歌で、大輔の歌は、返歌に当たる。ただ大輔の歌で「何色に変わり、その原因は何か」は、想像の域(“余韻”)ですが。

一方、中国・春秋時代、楚国の和(カ)なる人物が山で採れた璞(ハク、まだ磨いてない玉)を王に献上した。それが2代の王に亘って、ただの石と鑑定され、偽りの罪で足切りの刑に処された。和は、悔しさ・悲しさの余り三日三晩泣き続け、遂には涙が尽き、血を流したと。

3代目の王が理由を問うと、「足切りを嘆くのではない、宝玉をただ石とされ、その上虚言の者とされたのが悲しい」と訴えた。後にその石は歴史に刻まれる名玉となっている。『韓非子・和氏篇』にある故事で、悲しみのために流す“血の涙”の由来である。

さて、大輔の歌は、暗にこれらの歴史的“故事”を含めた凝縮された物語であり、「何色に変わり、その原因は何か」については、「血液の色、(悲しみの余り流れた)血の涙」を意味していることが理解されます。問題は、これらの事柄をどこまで“漢詩”の中に詠い込むか?

結果として、漢詩中「起・承・転・結」の “結”として“色”を明示して、 “変色の基”は漢詩中に明示せず、読者が心で感ずる“余韻”となるような絶句としました。ただ、蛇足ながら、“血涙”は、漢詩中には含めず「詩題」の中に含めました。

和歌で常用される枕詞、掛詞、序詞等々に対する対応については、以前に示した(閑休118)。俊成・定家流の歌の翻訳の難しさとその対応法について、大輔の歌は最良の例題と思われたことから、一つの考え方を述べ、読者のご批判を仰ぐ次第である。

本論に戻って、殷富門院大輔の歌は、知的で、力強く、堂堂とした作風であると。また歌全体として古風な印象を与えつつも、技巧的には、当歌に見るように、本歌取りや初句切れ(第一句で結論)など俊成に学んだ先進的な“新古今調の”詠みぶりが伺えます。

大輔に対する定家の評価は高く、定家単独撰による『新勅撰和歌集』(1235成立、後堀河天皇の勅)には十五首もの歌が入集されていると。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に63首入集、家集『殷富門院大輔集』がある。1192年、殷富門院に伴って出家したとされる。
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閑話休題 225 飛蓬-132 小倉百人一首:(皇嘉門院別当)難波江の

2021-08-23 09:09:08 | 漢詩を読む
(88番)難波江(ナニワエ)の 芦のかりねの ひとよゆゑ  
      みをつくしてや 恋ひわたるべき 
           皇嘉門院別当(『千載和歌集』恋三・807)   
<訳> 難波の入り江に生える葦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、あなたとたった一夜(ひとよ)の仮寝(かりね)の契りを結んだために、身を尽くして恋し続けなければならないのでしょうか。(板野博行)

ooooooooooooo 
葦の茂る難波江の旅宿で偶々、葦の節の間にも似た短いたった一夜を過ごしたあの人が忘れられない。仮初の縁とは知りつつも、魂が抜けてしまいそうだ。これから先、この想いを胸の奥に仕舞って、堪え忍んで生きて行かなければならないのか。

女の情念がひしひしと感じられる歌ではある。実は、実体験ではなく、さる歌合で「旅宿で逢う恋」の題で詠まれた歌であると。当時、歌枕である難波江は多くの人の往来で賑わい、遊女も多かったようで、当歌は、遊女の立場で詠われた歌であると。

掛詞を駆使するなど、技巧オンパレード、正に“新古今調”の歌である。掛詞の意図と併せて、難波江の旅の情景から葦、仮初の契り、永遠の恋、澪標と、歌の流れに沿う形になるよう心掛けました。七言絶句としました。

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<漢詩原文および読み下し文>  [下平声二蕭韻] 
 難波江旅夜偶然恋  難波江の旅夜の偶然(カリソメ)の恋  
難波江葦節間短, 難波江(ナニワ)の葦(アシ)の節の間(マ)短かし,
单夜假縁魂欲消。 単夜(ヒトヨ)の假(カリ)の縁(エニシ)にして 魂 消えんと欲(ホッ)す。
把恋君懐蔵心里, 君を恋する懐(オモイ) 心里(ココロ)に蔵(シマッ)て,
忍慕下去若澪標。 澪標(ミヲツクシ)の若(ゴトク)に 忍(シノ)び慕い続けん。
 註] 
  偶然:かりそめの、偶然の。    難波江:摂津国難波(現大阪市)の入江で、 
  葦が群生する低湿地。       澪標:船が入り江を航行する時の目印にな 
  るように立てられた杭のこと。和歌では、身を亡ぼすほどに恋焦がれる意味の 
  「身を尽くし」の掛詞として用いられる。    

<現代語訳> 
 難波江の旅でのかりそめの恋 
難波江の葦の節の間が短いように、 
短い一夜のかりそめの縁であったが、魂が抜けてしまいそうだ。
君を恋い慕う思いを胸の奥に仕舞って、 
これから先澪標のように耐え忍んで慕い続けていくことになるのか。 

<簡体字およびピンイン> 
难波江旅夜偶然恋 Nánbō jiāng lǚ yè ǒurán liàn 
难波江苇节间短, Nánbō jiāng wěi jié jiān duǎn, 
单夜假缘魂欲消。 dān yè jiǎ yuán hún yù xiāo. 
把恋君怀蔵心里, Bǎ liàn jūn huái cáng xīnlǐ,  
忍慕下去若澪标。 rěn mù xiàqù ruò língbiāo.  
xxxxxxxxxxxxxxx

皇嘉門院別当は、太皇太后宮亮・源俊隆(トシタカ)の娘、名前および生没年ともに不明であるが、1181年に出家したという記録はあるようです。崇徳院(77番)の皇后(皇嘉門院)・聖子(セイシ)に仕えた女房で、院の別当。別当とは、女院に仕える女官たちを束ねる長官である。

皇嘉門院聖子は、藤原忠通(76番)の娘で、摂関・太政大臣・九条兼実の異母姉である。そこで兼実が主催した歌会には度々参加していたようで、当歌も、兼実の屋敷で催された歌合に出詠された歌であるとされる。

皇嘉門院とは、崇徳天皇の皇后・聖子の院号である。院号とは、皇族の女性で、上皇に準じた待遇を受ける人への尊称で、贈られた人は女院と呼ばれる。女院には慣習として宮城の門の名がつけられ、聖子の皇嘉門は大内裏の南面にある門のことである。

難波江は、現大阪市・大阪湾の湾岸、海遊館やUSJと広がる辺りか。当時は葦が繁茂した大湿原で、海鳥の鳴き声も旅情を掻き立てたことでしょう。能因法師(69番)の項でも触れたように、単なる地名ではなく、歌枕として、儚い恋をも象徴しています。

別当の作歌数は必ずしも多くはない。勅撰和歌集に入集された歌は9首で、その内7首は恋の歌であると。


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                
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閑話休題 224 飛蓬-131 小倉百人一首:(藤原清輔朝臣)ながらえば

2021-08-16 09:32:32 | 漢詩を読む
(84番) ながらえば またこの頃や しのばれむ 
        憂しと見し世ぞ 今は恋しき 
              藤原清輔朝臣(『新古今和歌集』雑1843) 

<訳> これから先 生き長らえたのならば、今のつらさが懐かしく思い出されるのだろうか。この世をつらいと思った昔が 今は恋しく感じられるのだから。(板野博行)

oooooooooooooooo 
今はこんなにも辛い状況にあるが、時が経てば、懐かしく思い返す時がきっとくるよ、だって曽てあれほど憂きに堪えない世の中だと思っていたのに、今日では、恋しく思い返されているのだから と。コロナで辛い思いをしている今日、力を落とさないで! と鼓舞しているように読める。 

藤原清輔は、歌壇を二分する一方の雄・“六条藤家”の三代目の歌人、歌学者で、王朝歌学の大成者とされている。『万葉集』を基調とする、保守的な歌風を身上とする。当時革新的な歌風を興した他方の雄・“御子左家”の藤原俊成と競い、歌壇を活性化させた。 

七言絶句とした。 

xxxxxxxxxxxxxxx 
<漢字原文および読み下し文>  ·[去声二十三漾韻] 
 懐旧念      懐旧の念 
更加継続活無恙, 更加(サラ)に継続(ケイゾク)し、恙(ツツガ)なく活きていくならば, 
人後緬懐難現状。 人 後(ノチ)には難(ムズカ)しかりし現状を緬懐(メンカイ)するならん。 
曾経覚得憂塵世, 曾経(カツ)て憂(ウ)き塵世(ジンセイ)と覚得(オボエ)しに, 
今日恋念昔彼況。 今日 昔の彼(カ)の況(キョウ)を恋念(レンネン)しあり。 
 註] 
  無恙:無事に、心配事なく。    緬懐:過ぎた事柄を追懐する。 
  覚得:感じる、…と思う。     塵世:この世、俗世。 
  恋念:恋しく思う、懐かしく思う。 彼:かつて憂に耐えないと思ったこと。 
  況:状況。 
 
<現代語訳> 
 懐旧の想い 
この先、なお無事に生きながらえて行けたならば、 
後程には苦難の現状を懐かしく思い起こすことでしょう。 
かつて憂きに堪えない世の中であると思っていたのが、 
昔の彼の状況が、今日恋しく思い出されているのだから。 

<簡体字およびピンイン> 
 怀旧念 Huáijiù niàn 
更加继续活无恙, Gèngjiā jìxù huó wú yàng,  
人后缅怀难现状。 rén hòu miǎnhuái nán xiànzhuàng.  
曾经觉得忧尘世, Céngjīng juédé yōu chén shì,  
今日恋念昔彼况。 jīnrì liàn niàn xī bǐ kuàng。 
xxxxxxxxxxxxxx 

藤原清輔(1104~1177)は、藤原北家末茂流、六条藤家の始祖・顕季(アキスエ)の孫、左京大夫・顕輔(アキスケ、百人一首79番)の次男、最終官位は、正四位下、太皇太后大進。40代半ばまで無位無官のままであった。不和のため父の後援が得られなかったためであろうとされている。

1144年、父・顕輔が崇徳院(百77番、閑休159)から勅撰和歌集・『詞花和歌集』(1151頃完)の編纂を命じられ、清輔もその補助に当たったが、父と対立し、清輔の意見はほとんど採用されなかったという。昇進が停滞したためであろう、詠歌の機会も恵まれなかったようである。当歌は、この不遇の時期の想いを念頭に詠ったのであろうか。

しかし優れた歌才は、知られ亘っていたのでしょう。崇徳院の命で選ばれた14名の歌人たちによる百首の会が催され「久安百首」(1150)として編集された。清輔もその一人として出詠しており、これが公的な和歌行事への最初の参加であったようだ。

1151年、父から「人麻呂影供」を伝授され、歌学の六条藤家を継ぐ。養弟・顕昭とともに実証的な六条家の学風を大成し、藤原俊成の御子左家に相対した。その頃、歌学書・『奥義抄』を崇徳院に献上、また和歌の百科全書ともいうべき『袋草子』を完成、二条帝に献上した。天皇の信任は篤く、太皇太后宮大進の地位を得た。

やがて摂関・太政大臣・九条兼実の師範となり、歌道家としての権勢は、対立する俊成の御子左家を凌いだ。その前後から自宅で歌合を主催したり、歌合の判者に招かれるなど、歌壇の中心的存在となっていく。

博学の人として知られ、『奥義抄』や『袋草子』の他、『和歌一字抄』、『和歌初学抄』などの歌学書を次々に著した。一方、二条帝に重用され『続詞花和歌集』を編纂していたが、奏覧前に帝が崩御し(1165)、勅撰和歌集とはならなかった、しかし私選集として完成させた。

1172年晩春、京都白河の寺院で、清輔主催の「暮春白河尚歯会和歌」が催された。“尚歯会”とは、“歯(ヨワイ)を尚(タットブ)会”、つまり敬老会である。主人を含めて最高齢の7人(7叟)が集まり、詩や和歌を作り、音楽を奏でたりして楽しむ会であると。

尚歯会は、唐詩人・白居易が創始者とされ、平安時代初期に日本に伝わったようです。もっとも、漢詩の世界では日本でも早くから実施されていたようであるが、和歌の世界では、清輔主催の此の会が最初であるという。

百人一首歌人で同会に参加したのは、清輔のほか、道因法師こと藤原敦頼(百82番、閑休222)である。作者名:「散位敦頼八十三歳」の記名から、道因法師の年齢が明らかになったことについては以前に触れた。

平安末期を代表する 優秀歌人 20人の歌人評である『歌仙落書』(1172)によれば、清輔は多種多様な作風の歌を詠じていると。『千載和歌集』(19首)以下の勅撰和歌集に89首入集、家集に『清輔朝臣集』がある。
   
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閑話休題 222 飛蓬-129 小倉百人一首:(道因法師)思いわび 

2021-08-09 09:03:38 | 漢詩を読む
(82番) 思いわび さても命は あるものを 
       憂きにたへぬは 涙なりけり 
             道因法師(『千載和歌集』恋三・817) 
<訳> 思い通りにならない恋で嘆き哀しんでいるが、それでも命は長らえているのに、つらさで耐えきれないのは、こぼれ落ちてくる涙であるのだなあ。(板野博行)

ooooooooooooooo 
昔、命を懸けても…と心底恋した人からつれない仕打ち受け、その嘆きは未だに消えることがない。それでも猶、命は長らえているが、涙は憂いに耐え切れず、ひとりでに溢れ出てくるのだ。 

失恋を嘆く何の技巧もない、単純な歌に見えて、かなり意味深に思える歌ではある。胸の内に“歎き”を秘めつつ、器(身体)である“命”は生き長らえているが、ただ水分の“涙”が、耐え切れずに“ひとりでに”溢れ出ていると。“涙“を擬人化した表現の歌に思える。 

このような意味合いを念頭に漢詩化に挑みました。歌の作者は、道因法師(1090~1182 ?)、俗名は藤原敦頼(アツヨリ)。70歳台から作歌活動が活発となり、83歳を過ぎて出家した。没年は不詳である。五言絶句の漢詩としました。 

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<漢字原文および読み下し文>  [去声七遇韻] 
 未滅的昔日嘆  未だ滅(キエ)ぬ昔日(セキジツ)の嘆  
無情前日嘆, 無情たり前日の嘆,
猶命年光度。 猶(ナオ)命(イノチ) は年光(ネンコウ)を度(ワタ)る。 
惟有流溢泪, 惟(タ)だ流溢(リュウイツ)する泪(ナミダ)有り, 
憂愁经不住。 憂愁(ユウシュウ)に经(ヘ)るを住(トド)めず。 
 註] 
  前日:むかし、以前。    年光:年月、歳月。 
  度:過ごす、暮らす。    流溢:あふれて流れ出す。 
  经不住:(試練などに)耐えられない。 

<現代語訳> 
 未だに消えぬ昔の嘆き 
むかし、つれない仕打ちを受けた嘆きが今も消えない、 
それでもなお我が命は長らえて、今生を過ごしている。 
ただ止め処無くあふれ出る涙があり、 
涙は憂いに耐えきれないのだ。 

<簡体字およびピンイン> 
 未灭的昔日叹 Wèi miè de xīrì tàn 
无情前日叹, Wú qíng qiánrì tàn,  
犹命年光度。 yóu mìng niánguāng . 
惟有流溢泪, Wéi yǒu liúyì lèi,  
忧愁经不住。 yōuchóu jīng bù zhù. 
xxxxxxxxxxxxxxx 

敦頼は、藤原北家・藤原高藤(838~900)の末裔。治部丞清隆の息子。若いころの事績は不明である。官位は従五位上・右馬助に至る。80歳を過ぎて出家した目的は、仏道修行や隠棲のためではなく、雑事を離れて歌に専念したいためであったらしい。 

歌への執心は、出家以前から一方ならず、また七、八十歳になっても、歌の上達を願って、歌神として信仰されていた大阪の住吉大社にわざわざ徒歩で、毎月参詣していたという。また歌会でも、講師の席近くに陣取って、歌の講評に熱心に聞き入っていたと。 

歌壇での活動は晩年に活発となるが、俊恵(85番)主催の歌人集団である歌林苑の会員の一人で、俊成(1114~1204、83番)などと交流があった。1160~81年にかけて開催された主要な歌合せに参加、出詠している。参考までに列挙すると: 

「太皇太后宮大新進清輔歌合」(1160)、「左衛門督実国歌合」(1170)、「右大臣兼実歌合」(1175,1179)、「別雷社歌合」(1178)等。また自らも「住吉社歌合」(1170)や「広田社歌合」(1172)などの社頭歌合せを奉納、勧進している。 

1172年、藤原清輔(1104~1177、84番)主催の「暮春白河尚歯会和歌」に参加、その折、「散位敦頼八十三歳」の記録があり、その後まもなく出家したと考えられている。なお、“散位”とは、律令制で位階だけで官職のないこと、また、その人をいう。 

当歌は、先述したように、何ら技巧や工夫なく単純に見えて、実は“涙”を擬人化して表現する技術が隠されているように思われる。その隠れた味が、俊成や定家の革新的な歌風に一脈通じるところがあって、定家によって百人一首に撰ばれた と愚行する。 

敦頼の没後に編纂された『千載和歌集』(俊成撰、1183年成立)には敦頼の歌20首入集されている。それに関連して、歌に対する敦頼の執心深さに纏わる逸話が語られている。俊成は当初18首撰進していた。 

そこで敦頼は、俊成の夢に現れて、18首もの歌を撰んでくれた と涙を流して喜び、お礼を述べたと。俊成は、敦頼の歌に対するひた向きさを意に留めて2首追加して20首にしたと。なお当歌はその20首のうちの一首である。 『千載和歌集』(20首)以下の勅撰和歌集に41首入集。選集『現存集』(散逸)がある。 

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閑話休題 223 飛蓬-130 コロナ下の五輪・パラ輪 東京2020

2021-08-04 09:57:26 | 漢詩を読む
コロナ感染者の増加が止まらない。我が国では“第5波”の到来である。今波の感染者増加速度は、特に急勾配で、感染者数の最高値も高く、いずれも日々記録更新の勢いである。感染力が強いとされるδ-変異株の関与が大きく影響しているようである。

そんな中、五輪・パラ輪 “東京2020”が7月23日開幕した。折しもコロナ感染・第5波の爆発的増加の局面に遭遇、余儀なく「第4次 緊急事態宣言」が発令された(8/2~30)。対象都府県:東京(延長)、埼玉、千葉、神奈川、大阪(新規)。

全国的に早期収束の見通しは全く立っていない。最も期待されるワクチン接種は順調に進んでいるようには見えない。折にふれ、“withコロナ”下の市民生活の一断面を漢詩の形で追ってきて今回8作目となる。コロナ収束を綴る“打ち止め稿”を心待ちにしつつ。

xxxxxxxxxxxxxxx  
<漢詩原文および読み下し文> 
 冠状下東京2020 冠状(コロナ)下の東京2020   [上平声十一真韻]  
選手活躍感動頻, 選手の活躍 感動頻(シキリ)なり,
金牌擁擠悦更新。 金牌(キンパイ)の擁擠(ヨウサイ) 悦(ヨロコ)び更(サラ)に新なり。
但胸芥蒂君莫責, 但だ 胸に芥蒂(カイタイ)あるを 君責めること莫(ナカ)れ,
無蟠歓呼有幾人。 蟠(ワダカマリ)のない歓呼(カンコ) 幾人か有る。 
 註] 
  冠状:冠状病毒(コロナ ヴィルス)の略。 
  金牌:金メダル。          擁擠:ラッシュ、混雑。 
  芥蒂: (胸の)閊(ツカ)え、わだかまり。 蟠:石や枯葉の下で群生する虫ワラジムシ、 
   わだかまり。 

<現代語訳> 
 コロナ下での東京2020   
選手たちの活躍には、感動する場面がしきりであり、 
金メダル ラッシュには さらに喜びが新たに湧いてくる。
ただ、胸の片隅の閊えを拭い去ることができないでいるが、責めないでくれ、
何の蟠(ワダカマリ)もなく無邪気に歓呼している人は何人いるであろうか。 

<簡体字およびピンイン> 
 冠状下东京2020 Guānzhuàng xià Dōngjīng 2020  
选手活跃感动频、 Xuǎnshǒu huóyuè gǎndòng pín
金牌拥挤悦更新。 jīnpái yōngjǐ yuè gèng xīn.  
但胸芥蒂君莫责、 Dàn xiōng jièdì jūn mò zé, 
无蟠欢呼有几人。 wú pán huānhū yǒu jǐ rén.  
xxxxxxxxxxxxxxx  

’19年末から’20年初頭にかけて中国武漢市で初めて報告された新型コロナ感染症の世界的な広がりを受けて、東京2020は一年延期された、現在予定通り進行中である。但し競技は、ほとんどの会場で無観客下に進められている。

第5波の“爆発的”感染者増加が進む、その真ただ中で東京2020は進行している。この異常な状況なればこそと言うか、逆説的であるが、関係者の人間性丸出しの「五輪・パラ輪の真実の姿」が肌で感じられる形で露顕されたように思える。“真実の姿”とは:

(1)  五輪・パラ輪の理念と大会スローガン -ご都合主義-
大会を運営する団体の内部で 五輪・パラ輪の理念に反する事象が一度ならず明らかになり、その度ごとに弥縫されてきた。まだまだ一層の体質改善の努力を期待してやまない。

東京2020のスローガンは、・東日本震災復興五輪、・コロナに打ち勝った証し、・未来を生きる子供たちに夢と希望を与える、・安全安心の大会 と変幻自在。但しいずれのスローガンも重要であり、“嘘から出た真”で結構、微小なりとも成果を期待すること大である。

(2)  五輪・パラ輪と政治の関り -国または個人による政治的利用-
大会の準備~開催は、まさに“政治的配慮、活動”が要求される事業であろう。ましてや“大会のスローガン”は、まさしく“政治的主張”と言える。すなわち政治との関りを否定するものではありません。

但し五輪・パラ輪の国威発揚または個人的な政治的利用は厳に戒めるべきと考える、庶民の生活基盤の疲弊をものともせず、虚報とは思うが、例えばノーベル賞を……とか、政治的な地位を……等、巷間時折耳にした。忌まわしいことである。

(3)  集金と浪費の機構・IOC -過度の商業主義、拝金主義- 
世上、東京2020招致運動のころから、想像も着かない額のお金(オカネ、銭)が動いている風評があったが……。開催の可否、場所、時期、時間等々、あらゆる面において“お金”を判断の根底としたIOCの胸三寸で決定されている風である。実働機関の、今一歩、自主的判断があってもよいのではなかったか。

さて、漢詩の結びに“蟠(ワダカマリ)”に登場してもらった。“蟠”とは、[名詞]で、虫の一種ワラジムシ; 石や枯葉の下で群生するその生活環境から転じて、心の中にたまった不安、不満、しこり等を表す、また[動詞]で、わだかまる、とぐろをまく。

漢詩は、競技者の活躍、競技の進行に感動や喜びを覚えながらも、心の片隅で、コロナに対する不安を払拭することができないことやIOCの醜態への抗議を詠ったつもりです。なお“蟠りの種”は、各人各様、種々あると思われる。

この機会に、今後、五輪・パラ輪を 何の蟠りもなく、心の奥底からの喝采を送ることができるような姿に変革されることを 関係機関に切に望みます。
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