愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題67 飛蓬-漢詩を詠む 10 -秋の京都嵐山

2018-02-22 15:13:53 | 漢詩を読む
先に亀岡―嵐山間の“保津川下り”の模様を紹介しました(閑話休題64、‘18-01-20投稿)。この“川下り”の終点嵐山について触れます。

“川下り”の折のほか、同年の秋(Nov. 5, ’16.)に嵐山を訪ねました。紅葉狩りとしては、低地の楓木が色着くにはまだ早い時期でした。しかし山また山と重なる山々の木々は既に満山紅葉でした(Fig. 1)。

写真1:”紅葉した”嵐山”

当日、意外な風景に目が止まりました(写真2)。渡月橋の上流側で、小型の屋形船の模型が波に揺れながら、自在に方向を変えて前進していたのです。岸辺の松影に腰を下ろした男の人がリモコンで操っていたのでした。小舟と操縦者を交互に見ながら、しばし見とれていた次第です。

写真2:”屋形船”

この“屋形船”を目にしたことがきっかけで、かつて真の屋形船で川を上っていき楽しんだことや嵐山諸所の情景が目に浮かんできました。その一部を律詩の形で点描して見ました。本稿末部をご参照下さい。

保津川の左岸には、川を挟んで“嵐山”と向かい合い小倉山があり、その麓には観光客の足を留めずにはおかない多くの見どころがあります。(注:本稿では以後、“嵐山”は、固有名詞の山の名を、嵐山は地区名を指します。)

昭和初期の俳優、大河内伝次郎の大河内山荘。広大な敷地に作られた庭園が見事です。東に道を辿れば、天龍寺。この寺の庭園は、夢窓国師(疎石)の築庭とされ、心字池を目前に、小倉山をも取りこんだ眺めは目を奪います。

天龍寺の裏には竹林があり、直ぐに天に伸びた竹は背伸びを誘い、涼やかな空気を胸一杯に吸い込み、快い気分にしてくれます。竹林を通る散歩道は‘竹林の小径’と言われているようです(写真3)。

写真3:竹林

渡月橋から南、桂川の下流方向に目を移すと、右岸に広がる松林の向こうには、西芳寺があり、苔寺(コケデラ)と通称されるほどに庭園の苔は一見に値します(写真4)。

写真4:緑に映える苔

小倉山、川、山荘、竹林、緑の苔、……と想像を巡らせてきて、思いは、中国唐時代の詩人王維が構えた輞川(モウセン)別荘に至りました。王維と輞川別荘については、別のシリーズで触れています(閑話休題52&63参照)。

王維は、都長安の南に位置する終南山の麓、輞川のほとりに別荘(輞川別荘)を構えていました。長安で官僚として時の皇帝玄宗に仕えながら、世事の煩わしさを避けてこの別荘に留まり、疲れを癒していたようです。

輞川別荘周辺の自然の風景は、王維のお気に入りであったようで、それらの情景を詩として多く残しています。例えば、“独り坐す幽篁(ユウコウ)の裏(ウチ)、琴を弾じ復(マ)た長嘯(チョウショウ)す”と竹林(篁)を描いた五言絶句の「竹裏館」。

また、“返景(ヘンケイ)深林に入り、復(マ)た照らす青苔の上”と、木の間から差し込んでくる夕日に照らされた青苔を描いた五言絶句の「鹿柴」などが想い浮かんできます。

TVドラマ「宮廷女官-若曦」では、伏流水のように、帝位を狙う第四皇子(後の雍正帝)の野望がドラマを通じて描かれていた。その野望を表現するのに(と筆者は理解した)、“行きて水の窮まる処に到り、坐して雲の起こる時を見る”の句が度々語られていました(閑話休題51 & 52参照)。

“水の窮まる処”とは、別荘の近くを流れる清流の上流で、山腹のどこかに水の湧き出る岩間の箇所があったのでしょうか。きっと近くには腰を下ろして休む見晴らしの良い台状の所があったのでしょう。

かつて保津川の右岸、“嵐山”の麓で、‘流しソウメン’の営業店がありました。山腹の岩間から湧き出る水を板で設えた‘水路’に導いて、上流で‘水路’にソーメンを投じて流します。

‘水路’を流れる間に冷たい清流の水で冷やされた冷ソーメンを下流で受けて頂きます。夏季の炎天下、嵐山を散策した後に頂く‘流しソウメン’は、命が蘇るのを実感させてくれたものです。

先の“保津川下り”の折には、「このような店は、今はありません」という情報でした。このような清流は、終南山や嵐山を含めて、山の中腹や麓ではよく見られる風景と言えるでしょうか。

本稿末尾に示した詩では、嵐山の風景から中国に飛び、嵐山は王維の別荘地を思わせると結びました。しかし小舟が浮かぶ風景や紅葉を愛でる情景、それらの存在を思わせるような詩は、王維の詩中には見当たりません。

両地区は、それぞれに良さ・個性を持った景勝地とした方が的確でしょう。敢えて両者の個性を評するとすれば、輞川別荘の“幽・聖の趣き”に対して、嵐山の“陽・憩いの雰囲気”と言えるでしょうか。

その昔、本邦の平安貴族は嵐山を憩いの場として訪れ、舟遊びを楽しみ、また紅葉を愛でたことは多くの資料で明らかにされています。締めに、秋の嵐山を詠った歌を一首、百人一首から:

小倉山 峯のもみじ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ  貞信公(藤原忠平)

蛇足] 「桂川」のうち、亀岡-嵐山間は「保津川」、また渡月橋の直近の上流側を「大堰川」と呼ばれている由。

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 秋季嵐山近景    秋の嵐山近景
山外紅山渡月淵、 山外(サンガイ)の紅山(コウザン) 渡月(トゲツ)の淵(フチ)、
水光瀲灔傘形船。 水光(スイコウ) 瀲灔 (レンエン)とす 傘形(サンケイ)の船。
小倉山脚古别墅, 小倉山の脚(フモト)には古い别墅(ベッソウ)あり,
保津川沿水鳥翩。 保津川(ホツガワ)に沿い水鳥が翩(ヒルガエ)る。
苔寺近前红葉盛, 苔寺(コケデラ)近前(キンペン)は红葉が盛(サカ)えてあり,
夕陽射入緑苔鮮。 夕陽が射入(イイ)って苔(コケ)の緑が鮮(アザ)やか。
凉風静地竹林里、 凉風 静かに 竹林に入って抜ける、
就把嵐山作輞川。 就(マサ)に嵐山(ランザン)を把(シ)て輞川(モウセン)と作(ナ)す。
註]
押韻:下平声 一先韻
傘形船:屋形船
瀲灔:さざ波が光きらめくさま
别墅:別荘、ここでは大河内山荘
輞川:長安の南、終南山の麓にある川、その近くに王維は別荘を構えた

<現代語訳>
  秋の季節 嵐山近景
山また山、彼方の山まで一面紅葉して、ここは渡月橋のある淵、
川面はさざ波に光がきらきらと輝き、屋形船はかすかに揺れている。
小倉山の麓には古い大河内山荘があり、
保津川に沿っては水鳥がすいすいと飛び交っている。
苔寺(西芳寺)のあたりもすっかり紅葉に染まっており、
夕日が差し込んで、苔の緑も鮮やかである。
そよ風がゆるやかに、竹林を吹き抜けていき、
まさに嵐山は王維の輞川別荘を想像させるのである。
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閑話休題66 漢詩を読む 酒に対す-3

2018-02-15 11:49:38 | 漢詩を読む
正にピッタリ!この一句:
 (三四杯以上も飲むと)陶然として、あらゆる煩わしさを消してくれるわ

中唐の詩人白居易(楽天)の詩:「陶潜(トウセン)の体に倣(ナラ)う詩十六首 其の五」の中の一句で、心底お酒を愛する白居易の感想です。
―――――

「陶潜の体に倣う詩十六首 其の五」は、18句からなる長編ですが、下に全編を挙げました。非常に平易で分かり易く、我々日本人にとっては、字ずらを見るだけで、言わんとすることが凡そ想像できます。なお、陶潜は、陶淵明のことです。

白居易は、詩を作るたびに文字の読めない老女に読んで聞かせ、老女が理解できなかったところは平易な表現に改めて完成した との伝説があります。日本へは平安時代に紹介され、その平易さ故でしょう、日本の貴族社会でよく読まれたようです。

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倣陶潜体詩十六首 其の五  陶潜(トウセン)の体に倣(ナラ)う詩十六首 其の五
朝亦独酔歌、 朝(アシタ)に亦(マタ) 独(ヒト)り酔いて歌い、
暮亦独酔睡。 暮(ク)れに亦 独り酔いて睡(ネム)る。
未尽一壺酒、 未(イマ)だ一壺(イッコ)の酒 尽(ツク)さざるに、
已成三独酔。 已(スデ)に三(ミ)たび独り酔うを成(ナ)す。
勿嫌飲太少、 嫌(ウタガ)う勿(ナカ)れ飲むこと太(ハナハ)だ少きを、
且喜歓易致。 且(シカ)も致(イタ)し易(ヤス)きを喜歓(ヨロコ)ぶ。
一杯復両杯、 一杯 復た両杯、
多不過三四。 多くとも三四を過ぎず。
便得心中適、 便(スナハ)ち心中の適(テキ)を得て、
尽忘身外事。 尽(コトゴ)く身外の事を忘る。
更復强一杯、 更に復た一杯を强(シ)いれば、 
陶然遺万累。 陶然(トウゼン)として万累(バンルイ)を遺(ワス)る。
一飲一石者、 一飲(イチイン)一石(イッコク)の者、
徒以多為貴。 徒(イタズラ)に多きを以(モツ)て貴(トウト)しと為(ナ)す。
及其酩酊時、 其れ酩酊(メイテイ)の時に及(オヨ)べば、
與我亦無異。 我と亦た異(コト)なる無し。
笑謝多飲者、 笑って多くを飲む者に謝(ツ)ぐ、
酒銭徒自費。 酒銭(シュセン) 徒(イタズラ)に自費(ムダヅカイ)すると。
 <現代語訳>
 陶淵明に倣う詩十六首 其の五
朝に一人で飲んで酔って歌い、暮れにまた一人で飲んで酔っては眠る。
徳利の一つも空けないうちに、すでに三度も一人で酔うことになる。
飲む量が甚だ少ないではないかと疑うなかれ、
しかもやすやすと心地よい気分になるのを喜んでいる。
一杯、また二杯と、三四杯を超えることはない。
それでいて胸の内はちょうど良い気分で、身の回りの事どもは悉く忘れる。
更にもう一杯強いて飲むならば、陶然として、あらゆる煩わしさが消える。
一度に一石(イッコク)もの量を飲む者は、量が多いことをやたらと誇っている。
ほら、酔っぱらってしまえば、私となんら異なることはないではないか。 
笑って大酒飲みに告げる、酒代を無駄に費やしているぞ と。
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白居易 (772~846) は、陶淵明 (365~427) の直系の後継者であるとも評されている。文学の面に限らず、酒好きの面でもそうである。ただ、お酒に向かう胸の内は、両者に違いがあるような気がしてならない。

お酒は人生に喜びを求めて飲むのであり、飲めば、陶然として世俗の煩わしさを忘れ、天地自然と一となる境地に達する、それこそ“お酒の妙味”と言えよう。その点、白居易は、陶淵明から、しっかりと引き継いでいるようである。

しかし前回の陶淵明の詩と上掲の白居易の詩を読み比べてみると、陶淵明にはお酒に対するに当たって、影に“憂”の思いが潜んでいるように思われてならない。一方、白居易は無条件(?)にお酒を楽しんでいる風である。

その違いは、生きた時代を含めて環境の違いによるのでしょうか。陶淵明は、故郷の農村に隠逸して、生活も困窮していたようです。また、前回紹介したように、東晋から劉宋へと移る政治的に激動の時代を過ごしていました。

唐では安氏の乱 (755~763) が起こり一時期乱れたが、白居易が生きた時代には一応落ち着いていた。白居易は、その唐朝の高級官僚であり71歳まで勤めている。以後、隠居しているが、その時期に作られたのが上掲の詩である。

以後の参考の為、白居易の生涯について簡単に通覧しておきます。白居易は、山西省太原の出身である。子供のころから頭脳明晰で、詩を作ることができて、評判の子であったらしい。800年(29歳)で科挙の進士科に合格しています。

ついで皇帝の司る親試に合格して、時代の選ばれた人となり、高級官僚の道を歩きはじめました。その頃、あの名高い玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を描いた120句からなる長編詩『長恨歌』を作っています。

若い白居易は、切り味鋭い政治批判の詩を多く作っています。それが原因の一つになったか、815年(44歳)に、ある事件に関連して越権行為があったとして、江州(現江西省九江市)に左遷されました。

現江西省九江市は、陶淵明の故郷であり、その頃白居易は陶淵明の旧宅を訪問していて、『訪陶公舊宅』と題する長い詩を作っています。また、「香炉峰の雪は簾(スダレ)を掲げてみる….」で知られる有名な詩もこの頃の作品である。

821年(50歳)には、穆宗の即位とともに長安に召喚された。しかし首都長安では、高級官僚間が分裂して激しい権力闘争が始まっていたようです。翌年自ら求めて中央を離れて風光明媚な江南、杭州に刺史(長官)として赴任しています。

54歳で蘇州刺史に任じられたが、間もなく中央に呼び戻された、しかし中央での権力闘争は激しさを増していて、堪らず829年(58歳)に洛陽に永住を決意し、以後、悠々自適の日々を送っていて、842年(71歳)で退官しています。

846年(75歳)に生涯を閉じますが、その間、3000首を越す、非常に多くの詩を残しているとのことである。その作風は、「流麗坦易(リュウレイタンイ)」と評されていて、平易で分かり易い表現の詩である。

多くの詩人と交わり、詩のやり取りをしていたようですが、その一人に元稹(ゲンジン)がいます。元稹は、物語世界の創造者の一人として、中国における最初の小説家と評されているようです。

後の時代北宋の詩人の蘇軾(東坡)は、白居易と元稹を批判して“元軽白俗(ゲンケイハクゾク)”(元稹は軽薄で、白居易は卑俗という意味)と評しています。哲学的意味を込めた詩作を好む蘇軾にすれば、さもありなん と言えようか(蘇軾については、本稿 閑話休題1、2、3及び45を参照)。

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閑話休題65 漢詩を読む 酒に対す-2

2018-02-04 15:13:54 | 漢詩を読む
正にピッタリ!この一句:
杯 尽きて壺(ツボ)自(オノ)ずから傾く
(一人で飲んでいるとはい言え)盃を干すごとに、徳利は大きく傾いていく。

陶淵明の詩、「飲酒二十首 其の七」の中の一句で、「一觴(イチショウ) 独(ヒト)り進むと雖(イエド)も」に続く一句です。秋の夜長、独りで徳利を傾けている情景です。
……….

詩人(否、ヒト)にとって、“お酒って何だろう?”と大命題(?)を念頭に置きながら、漢詩の中での“お酒”を読んで行こうと心つもりしております。肩の凝らないよう注意しながら進めます。

「(詩)篇篇 酒あり」と言われるほどに、お酒を愛した詩人・陶淵明(365~427)は、本シリーズの頭初に取り上げるのに最もふさわしい詩人でしょう。まず、陶淵明の「飲酒二十首」のうちの一首、“其の七”を選びました。原文、読み下し文および現代語訳は下に示します。

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飲酒二十首 其の七    陶淵明
秋菊有佳色、 秋菊(シュウキク) 佳色(カショク)有り、
裛露掇其英。 露に裛(ウルオ)う其の英(ハナ)を掇(ツ)み、
汎此忘憂物、 此の忘憂(ボウユウ)の物に汎(ウ)かべて、
遠我遺世情。 我が世を遺(ワス)るるの情を遠(トオ)くす。
一觴雖独進、 一觴(イチショウ) 独(ヒト)り進むと雖(イエド)も、
杯尽壺自傾。 杯 尽きて壺(ツボ)自(オノ)ずから傾く。
日入群動息、 日入って群動(グンドウ)息(ヤ)み、
帰鳥趨林鳴。 帰鳥(キチョウ) 林に趨(オモム)いて鳴く。
嘯傲東軒下、 嘯傲(ショウゴウ)す 東軒(トウケン)の下(モト)、
聊復得此生。 聊(イササ)か復(マ)た此の生(セイ)を得(エ)たり。
<現代語訳>
秋の菊が美しい色で咲いており、
露にぬれたその花びらを摘み、
(摘んだ花びらを)この憂いを忘れさせる酒に浮かべて(飲むと)、
世俗から離れた思いが一層深くなる。
一杯、一杯と独りで飲んでいると、
酒も残り少なくなり、酒壺は自然に傾きが増してくる。
日が落ちて諸々の物音も止み、
ねぐらに帰る鳥たちは林に向かって鳴きながら飛んでいく。
私も東側の軒の下で詩を口ずさむと、
今日も心のままに生きたのだという思いが湧いてくるのである。
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この詩の中で、陶淵明は、お酒を“忘憂の物”と言っています。向後、追々他の詩も取り上げ、鑑賞する中で、その真意を探って行くことにしたいと思っています。

まず陶淵明について、生きた時代背景も含めて、簡単に見ておきます。

後漢王朝の滅亡(220)後、分裂国家の三国時代を経て、晋が建国されて(265)一息つきます。が間もなく、華北は北方異民族の侵入に逢い、政府は江南に逃れて、建康(ケンギョウ、現南京)を都として東晋王朝(317)が建てられます。

東晋期は、官界は権謀術数が渦巻く貴族社会、また相次ぐ戦乱の時代でもあったようです。やがて武力の勝ったものが台頭して、(劉)宋(420)の時代へと動いていきます。陶淵明は、この激動期に生きたことになります。

思想的な側面で見ると、前・後漢を通じて、国を治める規律として孔子の儒教が重要な役割を果たしてきました。後漢の滅亡後、儒教に替わって、老荘の思想、すなわち“無為、自然”を重んずる思想が重きをなして来たようです。

知識人は、官界を“俗界”と見做し、“俗”から離れて、山野に身を隠す隠者としての生活を送る者が現れて、尊ばれるようになります。晋の草創期の「竹林の七賢」が代表的な例でしょうか(閑話休題42、2017-06-24投稿参照)。

陶淵明も、このような時代の流れに強い影響を受けているようです。その経歴を見て見ます。29歳(393)で初めて官界に入った後、41歳(405)には故郷に近い彭沢県令(知事)となります。

しかし赴任から80日後には、“わずかな俸給のために下っ端役人にペコペコできるか”と啖呵をきって、辞職して故郷(廬山の麓、現九江市)に帰っています。すなわち、以後、農村で隠逸者としての生活を送ることになります。

農耕生活を送る中で、「飲酒二十首」ができたわけですが、その“序”の中で、次のように述べています:

“故郷で閑居の暮らしをしているが、秋の夜長楽しみなことは少なく、自分の影を相手に酒を飲んでいる。酔いがまわって、心に浮かんだ詩句をメモして楽しんでいる。こうしてできた詩句はなんら脈絡の繋がったものではないが、溜まったところで、友達にたのんで、清書してもらった。お笑い種にでもしよう”と。

農耕生活を送りながら、詩作を続け、今日、詩124首が伝わっていて、その約半数がお酒に関わる作品であるとのことである。「田園詩人」、「隠逸詩人」また「酒の詩人」と称するに相応しい経歴の持ち主と言えるでしょう。

「飲酒二十首」の製作時期については、母の喪に服するため一時期帰郷した37~39歳のころ、または辞職して彭沢から帰郷して、本格的に農耕生活に入った41歳以後であろうとされますが、その時期は同定されていないようです。

さて、「飲酒二十首 其の七」の話題に戻って。詩の前半と後半部に、田園の自然の情景、菊の花とねぐらに帰る鳥の様子が描かれています。官界を離れた、陶淵明がまさに希求した世界の情景と言えるでしょう。

なお、菊の花びらをお酒に浮かせる状況は、以前に紹介した屈原の「離騒」の中の句:“朝(アシタ)に飲む 木蘭の墜(オ)ちたる露,夕(ユウベ)に餐(サン)す 秋菊の落英(ラクエイ)。”の状況と重なって見えます(閑話休題54、2017-10-25投稿参照)。

詩の中ほどにお酒を楽しむ作者の状況 すなわち、今回頭初に挙げた“正にピッタリ この一句”に相当する部分。最後に、安寧を得た心象風景、隠逸の生活を送っていることの喜びが詠われているように思われます。

ところで、本稿頭初に挙げた“正にピッタリ この一句”の情景、読者の皆さんは如何ように想像されますか?成書またはネット上、諸先達の著した解釈をみると、十人十色、色々な現代語訳が当てられています。

筆者は、陶淵明のように、“詩を口ずさみつつ”というわけにはいきませんが、この詩を口ずさむたびに次のような情景を想像しつつ、この詩の世界に浸っています:

<鼻歌も出ようかという心地よい酔いのなか、おもむろに、無意識のうちに、徳利に手が届き、空になった盃に酌をしている、全く無我の境地>

冒頭および現代語訳に示した状況からやや逸脱しているようにも思われますが、自ずとこのような状況を想像するに至ります。陶淵明もこのような状況を経験されたのではないでしょうか?
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