李白は42歳で宮廷に招かれましたが、44歳で宮廷を追われました。その事態には、前回取り上げた「清平調詞 三首」の中の一首の詩が関わっています。少し道草して、この点に触れておきます。
李白は、当時すでに世に広く知られる存在でした。42歳のある時、宮廷に招かれて、玄宗皇帝の前で作詞する機会を得ました。その折、宮廷詩人として大長老の 賀知章 が、李白を「“謫仙人(タクセンニン)”である」と評したようです。
“謫仙人”とは、“天上界から罪によって人間界に追放された仙人”という意味のようです。李白が“詩仙”と呼ばれるようになったのはこれによるのでしょう。そこで“翰林供奉(カンリングブ)”として宮廷に“就職”することになります。
“翰林供奉”とは、特定の組織・職場に属するのではなく、天子側近の顧問役で、詔勅や詩文の作成に当たる“自由人”と言ったところのようです。ただし、お声が掛かれば直ちに参内して、役を果たさなければならない立場でした。
玄宗皇帝は、彼自身詩人であるばかりでなく、作曲をよくする多芸の人でもありました。歌舞学校を作って、音楽や演劇の人材を養成する熱の入れようです。なお、当時、詩は曲に合わせて歌われていたようです。
牡丹の花盛りのころ、楊貴妃を傍に侍らせ、牡丹の花を愛で、自ら作曲した音楽を聴き、見事な舞を楽しんでいました。花も女も音楽も舞いも最上なのだが、どうも歌詞が物足りない。そこで皇帝は、李白を呼んで詩を作らせることにします。
李白は、いつものように酒を楽しんでいましたが、お声が掛かると直ちに参内しなければなりません。この花見の宴で、玄宗皇帝から「楊貴妃と花を読み込んだ詩を作れ」とのご所望があり、そこで作ったのが、3連作の「清平調詩 三首」でした。
「三首」のうち、「其の一」は前回に紹介しました。本稿で取り上げたい、問題の部は、「其の二」です。「其の二」の詩およびその読み下しと現代訳は末尾に挙げてあります。
李白は、参内する際に、宦官の 高力士 という人に足を突き出して、靴を脱ぐよう強要したらしい。いかに豪放な李白であり、また酔っぱらっていたとは言え、ちょっと頂けない行いであったのではないでしょうか。
宮廷内での李白は、皇帝の覚えめでたく、それゆえに周囲の宮廷人の嫉妬の対象でもありました。さらに彼の豪放磊落さが一部の人々に良くない印象を与えていたようでもありました。そこへ高力士の自尊心を傷つけるような行いです。
高力士は、玄宗皇帝の信任が厚く、側近第一号と言っても過言ではない人物でした。靴脱がせの出来事以来、高力士が玄宗皇帝に何らかの働き掛けを行ったことは、想像に難くない。
失脚させようと思えば、口実を設けることはたやすいことでしよう。その口実としたのが、「清平調詩 三首 其の二」の中で、楊貴妃を飛燕に譬えている第3、4句でした。歴史に残る“漢宮の美女の中で、あの可憐な趙飛燕がお化粧したての時の美貌”に当たると詠んでいます。
趙飛燕は、卑賎の出であるが、美貌が前漢第11代皇帝の成帝(BC33~BC7)を虜にして、後宮に迎えられ、皇后となりました。当時、傾城という言葉はなかったが、まさに傾城の美女と言えるでしょうか。しかし成帝が崩御すると、宗室を乱した者として断罪され、庶人に落とされ、自殺する羽目となります。
高力士は、“楊貴妃を、卑賎の出で、好ましくない末路をたどった趙飛燕に譬えた”と玄宗皇帝に、恐らく、口酸っぱく説いたことでしょう。皇帝とて、心穏やかではなく、結局、李白は宮廷を追われることになりました。744年、李白44歳の時でした。
以後、李白は、宮廷復帰の夢を追いながら、放浪の旅を続けます。
[蛇足]
趙飛燕は、楊柳に譬えられていて、柳腰のほっそりとした、風に吹き飛ばされそうな容姿であり、舞えば飛んでいる燕のようであった と。一方、楊貴妃は、ふっくらとした、白楽天の表現を借りれば、“温泉 水滑らかにして凝脂を洗う”(長恨歌から)肌であった と。
のちに趙飛燕と楊貴妃の美貌をもとに、女性の優れた容姿を表現するのに‘環肥燕痩’(環:楊貴妃の幼名・玉環による)という四字熟語ができているようです。
xxxxxxxxxx
清平調詩 三首 李白
其の二
一枝濃艶露凝香 一枝(イッシ)の濃艶(ノウエン) 露(ツユ) 香(コウ)を凝(コ)らす
雲雨巫山枉断腸 雲雨(ウンウ)巫山(フザン) 枉(ムナ)しく断腸(ダンチョウ)
借問漢宮誰得似 借問(シャモン)す 漢宮(カンキュウ) 誰か似たるを得(エ)ん
可憐飛燕倚新粧 可憐(カレン)の飛燕(ヒエン) 新粧(シンショウ)に倚(ヨ)る
<現代訳>
ひと枝の鮮やかな赤い牡丹の花に降りた露は、香を凝集させたかのようである。
(楚の襄王は)巫山の神女をむなしい夢で断腸の思いをした(が、今の玄宗と楊貴妃とは、なんとすばらしいことか)。
すこしおたずねするが、漢代の宮中では、誰が似通っているのだろうか。
心が揺り動かされる趙飛燕のお化粧したてのさまであろうか。
[筆者注] 雲雨巫山:昔楚王が、高唐の館に遊んだとき、昼寝の夢に一人の美女が現れ、契りを結んだ。美女は巫山の神女であると名のり、自分は朝には雲となり、夕には雨となって現れると告げたところで目が覚めたという。交情、情愛の表現。
碇豊長:『詩詞世界 2千3百首詳註』から引用http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/。
李白は、当時すでに世に広く知られる存在でした。42歳のある時、宮廷に招かれて、玄宗皇帝の前で作詞する機会を得ました。その折、宮廷詩人として大長老の 賀知章 が、李白を「“謫仙人(タクセンニン)”である」と評したようです。
“謫仙人”とは、“天上界から罪によって人間界に追放された仙人”という意味のようです。李白が“詩仙”と呼ばれるようになったのはこれによるのでしょう。そこで“翰林供奉(カンリングブ)”として宮廷に“就職”することになります。
“翰林供奉”とは、特定の組織・職場に属するのではなく、天子側近の顧問役で、詔勅や詩文の作成に当たる“自由人”と言ったところのようです。ただし、お声が掛かれば直ちに参内して、役を果たさなければならない立場でした。
玄宗皇帝は、彼自身詩人であるばかりでなく、作曲をよくする多芸の人でもありました。歌舞学校を作って、音楽や演劇の人材を養成する熱の入れようです。なお、当時、詩は曲に合わせて歌われていたようです。
牡丹の花盛りのころ、楊貴妃を傍に侍らせ、牡丹の花を愛で、自ら作曲した音楽を聴き、見事な舞を楽しんでいました。花も女も音楽も舞いも最上なのだが、どうも歌詞が物足りない。そこで皇帝は、李白を呼んで詩を作らせることにします。
李白は、いつものように酒を楽しんでいましたが、お声が掛かると直ちに参内しなければなりません。この花見の宴で、玄宗皇帝から「楊貴妃と花を読み込んだ詩を作れ」とのご所望があり、そこで作ったのが、3連作の「清平調詩 三首」でした。
「三首」のうち、「其の一」は前回に紹介しました。本稿で取り上げたい、問題の部は、「其の二」です。「其の二」の詩およびその読み下しと現代訳は末尾に挙げてあります。
李白は、参内する際に、宦官の 高力士 という人に足を突き出して、靴を脱ぐよう強要したらしい。いかに豪放な李白であり、また酔っぱらっていたとは言え、ちょっと頂けない行いであったのではないでしょうか。
宮廷内での李白は、皇帝の覚えめでたく、それゆえに周囲の宮廷人の嫉妬の対象でもありました。さらに彼の豪放磊落さが一部の人々に良くない印象を与えていたようでもありました。そこへ高力士の自尊心を傷つけるような行いです。
高力士は、玄宗皇帝の信任が厚く、側近第一号と言っても過言ではない人物でした。靴脱がせの出来事以来、高力士が玄宗皇帝に何らかの働き掛けを行ったことは、想像に難くない。
失脚させようと思えば、口実を設けることはたやすいことでしよう。その口実としたのが、「清平調詩 三首 其の二」の中で、楊貴妃を飛燕に譬えている第3、4句でした。歴史に残る“漢宮の美女の中で、あの可憐な趙飛燕がお化粧したての時の美貌”に当たると詠んでいます。
趙飛燕は、卑賎の出であるが、美貌が前漢第11代皇帝の成帝(BC33~BC7)を虜にして、後宮に迎えられ、皇后となりました。当時、傾城という言葉はなかったが、まさに傾城の美女と言えるでしょうか。しかし成帝が崩御すると、宗室を乱した者として断罪され、庶人に落とされ、自殺する羽目となります。
高力士は、“楊貴妃を、卑賎の出で、好ましくない末路をたどった趙飛燕に譬えた”と玄宗皇帝に、恐らく、口酸っぱく説いたことでしょう。皇帝とて、心穏やかではなく、結局、李白は宮廷を追われることになりました。744年、李白44歳の時でした。
以後、李白は、宮廷復帰の夢を追いながら、放浪の旅を続けます。
[蛇足]
趙飛燕は、楊柳に譬えられていて、柳腰のほっそりとした、風に吹き飛ばされそうな容姿であり、舞えば飛んでいる燕のようであった と。一方、楊貴妃は、ふっくらとした、白楽天の表現を借りれば、“温泉 水滑らかにして凝脂を洗う”(長恨歌から)肌であった と。
のちに趙飛燕と楊貴妃の美貌をもとに、女性の優れた容姿を表現するのに‘環肥燕痩’(環:楊貴妃の幼名・玉環による)という四字熟語ができているようです。
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清平調詩 三首 李白
其の二
一枝濃艶露凝香 一枝(イッシ)の濃艶(ノウエン) 露(ツユ) 香(コウ)を凝(コ)らす
雲雨巫山枉断腸 雲雨(ウンウ)巫山(フザン) 枉(ムナ)しく断腸(ダンチョウ)
借問漢宮誰得似 借問(シャモン)す 漢宮(カンキュウ) 誰か似たるを得(エ)ん
可憐飛燕倚新粧 可憐(カレン)の飛燕(ヒエン) 新粧(シンショウ)に倚(ヨ)る
<現代訳>
ひと枝の鮮やかな赤い牡丹の花に降りた露は、香を凝集させたかのようである。
(楚の襄王は)巫山の神女をむなしい夢で断腸の思いをした(が、今の玄宗と楊貴妃とは、なんとすばらしいことか)。
すこしおたずねするが、漢代の宮中では、誰が似通っているのだろうか。
心が揺り動かされる趙飛燕のお化粧したてのさまであろうか。
[筆者注] 雲雨巫山:昔楚王が、高唐の館に遊んだとき、昼寝の夢に一人の美女が現れ、契りを結んだ。美女は巫山の神女であると名のり、自分は朝には雲となり、夕には雨となって現れると告げたところで目が覚めたという。交情、情愛の表現。
碇豊長:『詩詞世界 2千3百首詳註』から引用http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/。