宋代の蘇軾の詩《雨中游天竺霊感観音院》に韻を借り(次韻し)た詩作を試みています。蘇軾の詩は、水害などで農民が苦しい思いをしているのに、中央政府は知らぬ顔であると、政府を風刺する内容のようです。
一方、次韻した詩では、時の鎌倉3代征夷大将軍・源実朝が、水害で困っている民を救うべく、“八大龍王よ 雨止めたまえ”と、雨を司っているとされる八大竜王に命を下し、将軍としての威厳を示している情景です。掲詩は、実朝の代表的な一首の和歌に思いを得ました。
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<漢詩および読み下し文>
次韻蘇軾《雨中游天竺霊感観音院》
実朝将軍惦念民 [下平声七陽韻]
離離稲穂欲金黄、 離離(リリ)たり 稲穂 金黄ならんと欲す、
過却害民雨浪浪。 過ぎれば却って 民に害(ワザワイ) 雨 浪浪(ロウロウ)。
八大龍王先止降, 八大龍王よ 先ず降るを止めよ,
将軍実朝在礼堂。 将軍実朝 礼堂に在り。
註] 〇惦念:気遣う、心配する; 〇離離:よく実って穂や枝が垂れさがるさま;
〇浪浪:大雨の降り続くさま; 〇八大龍王:法華経賛嘆の法会に列した8体の
護法の龍王、雨を司るという; 〇将軍実朝:鎌倉幕府三代将軍の源実朝。
<現代語訳>
実朝将軍 民を気遣う
穂が垂れさがるほどに実った稲穂は 黄金色に変わろうとしているが、
こんなに降雨が続くと、却って民にとって害となっている。
八大龍王よ 先ず降雨を止めよ と、
三代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮の仏前で合掌 居住まいを正している。
<簡体字およびピンイン>
次韵苏轼《雨中游天竺灵感观音院》
Cìyùn SūShì “yǔ zhōng yóu tiānzhú línggǎn guānyīn yuàn”
実朝將軍惦念民 Shízhāo jiāngjūn diànniàn mín
离离稻穗欲金黄、 Lí lí dào suì yù jīn huáng,
过却灾民雨浪浪。 guò què zāi mín yǔ láng láng.
八大龙王先止降、 Bādà lóngwáng xiān zhǐ jiàng,
将军実朝在礼堂。 jiāngjūn shízhāo zài lǐ táng.
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<蘇軾の詩>
雨中游天竺霊感観音院 [下平声七陽韻]
蚕欲老 麦半黃, 蚕(カイコ)は老いんと欲して 麦は半ば黃なり,
前山後山雨浪浪。 前山 後山 雨浪浪。
農夫輟耒女廃筐, 農夫は耒(スキ)を輟(ヤ)め 女は筐(カゴ)を廃す,
白衣仙人在高堂。 白衣の仙人 高堂に在り。
註] 〇天竺:寺の名、浙江省杭州市の西湖の西にある、上中下の3寺がある;
〇霊感観音院:上天竺寺にあるお堂、五代の呉越国王を継いだ銭俶(諡は忠懿)が夢に
白衣の人を見て造ったもの、日照りに祈ると即日雨が降ったという、名は宋の嘉祐
末年に朝廷より賜った; 〇蚕欲老:繭を作る時期をいう; 〇浪浪:大雨の降り
続くさま; 〇筐:四角い竹のかご; 〇白衣仙人:祀られている観音像をいう、
後晋の天福四年(939)僧道翊(ドウヨク)が奇木を得て工匠に彫らせたという。
<現代語訳>
雨中 天竺霊感観音院に遊ぶ
蚕は繭を作り始め、麦は半ば黄ばんでいる、
前の山にも後ろの山にも 大雨がふり続く、
男は鍬を手に取らず 女はかごを打ち捨てたまま、
白衣をまとった仙人様は 立派なお堂ですまし顔。
[石川忠久 NHK文化セミナ 『漢詩を読む 蘇東坡』に拠る]
<簡体字およびピンイン>
雨中游天竺灵感观音院 Yǔ zhōng yóu tiānzhú líng gǎn guānyīn yuàn
蚕欲老 麦半黄, Cán yù lǎo mài bàn huáng,
前山后山雨浪浪。 qiánshān hòu shān yǔ láng láng.
农夫辍耒女废筐, Nóngfū chuò lěi nǚ fèi kuāng,
白衣仙人在高堂。 Bái yī xiānrén zài gāo táng.
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蘇軾は、着任早々、父の逝去(1066)に遭い、帰郷して父の埋葬をするとともに、喪に服します。1069年服喪を終え、開封に帰りますが、朝廷は王安石の新法を巡って、賛否抗争を繰り広げていた。蘇軾は、新法に対し批判的な発言をしたことから、王安石に睨まれることになり、自ら進んで地方転出を願い出て、1071年杭州通判(副知事)となる。
掲詩は、翌1072年、37歳、杭州在任中の作である。蚕は繭を作り、麦は色づき始め、農作業の適期と言うのに降雨で男は鍬を持てず、女は籠を持てない。国の統治者は、その窮状に無関心であると。雨中に観音院に遊んだことを詠っていますが、民をないがしろにする為政者への風刺が込められた詩と言えようか。
一見、七言絶句の範疇から食みだした詩です。起句の6言、承句中4字目の孤平(コヒョウ)、すなわち、平(ヒョウ)音の字“山”が仄(ソク)音の2字“后”および“雨”に挟まれており、絶句のルール違反に当たります。それらのためであろうか、当詩を“古詩”として扱っている資料もあります。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映中ですが、源実朝(1192~1219)は未だ登場しておりません。どのような形で登場し、生涯を送るか、ドラマの進展に注目したいところです。12歳で将軍に擁立され、28歳の若さで甥によって暗殺された。“時の申し子”と言うべきか、“時与(クミ)せず”というべきか、短い生涯であった。
歌の才に恵まれ、百人一首にも入集されています(閑話休題154)。実朝の歌に関し、明治時代、正岡子規は、「……実朝は固より善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出たらんが、なかなかに善き歌とは相成り候ひしやらん。……」と絶賛し、「……今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも……」と嘆いている。(『歌よみに与ふる書』)。
実朝の歌の中でも、為政者の頂にありながら、民に思いを遣り、やさしい眼差しを向けていることを思わせる歌に特に惹かれます。その一つに次の歌が挙げられます。1211年洪水が起こり、実朝は鶴岡八幡宮の仏前で「雨止めさせたまえ」と祈願したという。
時により 過ぐれば 民の嘆きなり
八大龍王 雨やめたまへ(金槐和歌集 雑・619)
(大意) 恵の雨も降り過ぎれば却って人々の嘆きです 八大龍王よ 雨を降り止めさせよ
この歌は掲詩の2,3句に詠い込みましたが、詩全体としては、蘇軾の元詩に合わせて、実朝が仏前で祈っている情景として描きました。