愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 268 飛蓬-152 実朝将軍惦念民 次韻蘇軾《雨中游天竺霊感観音院》

2022-06-27 09:16:09 | 漢詩を読む

宋代の蘇軾の詩《雨中游天竺霊感観音院》に韻を借り(次韻し)た詩作を試みています。蘇軾の詩は、水害などで農民が苦しい思いをしているのに、中央政府は知らぬ顔であると、政府を風刺する内容のようです。

 

一方、次韻した詩では、時の鎌倉3代征夷大将軍・源実朝が、水害で困っている民を救うべく、“八大龍王よ 雨止めたまえ”と、雨を司っているとされる八大竜王に命を下し、将軍としての威厳を示している情景です。掲詩は、実朝の代表的な一首の和歌に思いを得ました。

 

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<漢詩および読み下し文> 

  次韻蘇軾《雨中游天竺霊感観音院》

  実朝将軍惦念民             [下平声七陽韻]  

離離稲穂欲金黄、 離離(リリ)たり 稲穂 金黄ならんと欲す、

過却害民雨浪浪。 過ぎれば却って 民に害(ワザワイ) 雨 浪浪(ロウロウ)。 

八大龍王先止降, 八大龍王よ 先ず降るを止めよ,

将軍実朝在礼堂。 将軍実朝 礼堂に在り。

 註] 〇惦念:気遣う、心配する; 〇離離:よく実って穂や枝が垂れさがるさま; 

  〇浪浪:大雨の降り続くさま; 〇八大龍王:法華経賛嘆の法会に列した8体の 

  護法の龍王、雨を司るという; 〇将軍実朝:鎌倉幕府三代将軍の源実朝。 

<現代語訳> 

 実朝将軍 民を気遣う 

穂が垂れさがるほどに実った稲穂は 黄金色に変わろうとしているが、

こんなに降雨が続くと、却って民にとって害となっている。

八大龍王よ 先ず降雨を止めよ と、 

三代将軍源実朝は、鶴岡八幡宮の仏前で合掌 居住まいを正している。

<簡体字およびピンイン> 

    次韵苏轼《雨中游天竺灵感观音院》

        Cìyùn SūShì “yǔ zhōng yóu tiānzhú línggǎn guānyīn yuàn”

   実朝將軍惦念民   Shízhāo jiāngjūn diànniàn mín

离离稻穗欲金黄、 Lí lí dào suì yù jīn huáng, 

过却灾民雨浪浪。 guò què zāi mín yǔ láng láng. 

八大龙王先止降、 Bādà lóngwáng xiān zhǐ jiàng, 

将军実朝在礼堂。 jiāngjūn shízhāo zài lǐ táng. 

ooooooooooooo 

 

<蘇軾の詩>

 雨中游天竺霊感観音院       [下平声七陽韻]

蚕欲老 麦半黃, 蚕(カイコ)は老いんと欲して 麦は半ば黃なり, 

前山後山雨浪浪。 前山 後山 雨浪浪。 

農夫輟耒女廃筐, 農夫は耒(スキ)を輟(ヤ)め 女は筐(カゴ)を廃す, 

白衣仙人在高堂。 白衣の仙人 高堂に在り。 

 註] 〇天竺:寺の名、浙江省杭州市の西湖の西にある、上中下の3寺がある; 

  〇霊感観音院:上天竺寺にあるお堂、五代の呉越国王を継いだ銭俶(諡は忠懿)が夢に 

  白衣の人を見て造ったもの、日照りに祈ると即日雨が降ったという、名は宋の嘉祐 

  末年に朝廷より賜った; 〇蚕欲老:繭を作る時期をいう; 〇浪浪:大雨の降り 

  続くさま; 〇筐:四角い竹のかご; 〇白衣仙人:祀られている観音像をいう、 

  後晋の天福四年(939)僧道翊(ドウヨク)が奇木を得て工匠に彫らせたという。 

<現代語訳> 

  雨中 天竺霊感観音院に遊ぶ 

蚕は繭を作り始め、麦は半ば黄ばんでいる、 

前の山にも後ろの山にも 大雨がふり続く、 

男は鍬を手に取らず 女はかごを打ち捨てたまま、 

白衣をまとった仙人様は 立派なお堂ですまし顔。 

           [石川忠久 NHK文化セミナ 『漢詩を読む 蘇東坡』に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

  雨中游天竺灵感观音院  Yǔ zhōng yóu tiānzhú líng gǎn guānyīn yuàn

蚕欲老    麦半黄, Cán yù lǎo  mài bàn huáng,

前山后山雨浪浪。 qiánshān hòu shān yǔ láng láng.

农夫辍耒女废筐, Nóngfū chuò lěi nǚ fèi kuāng,

白衣仙人在高堂。 Bái yī xiānrén zài gāo táng.  

oooooooooooooo 

 

蘇軾は、着任早々、父の逝去(1066)に遭い、帰郷して父の埋葬をするとともに、喪に服します。1069年服喪を終え、開封に帰りますが、朝廷は王安石の新法を巡って、賛否抗争を繰り広げていた。蘇軾は、新法に対し批判的な発言をしたことから、王安石に睨まれることになり、自ら進んで地方転出を願い出て、1071年杭州通判(副知事)となる。

 

掲詩は、翌1072年、37歳、杭州在任中の作である。蚕は繭を作り、麦は色づき始め、農作業の適期と言うのに降雨で男は鍬を持てず、女は籠を持てない。国の統治者は、その窮状に無関心であると。雨中に観音院に遊んだことを詠っていますが、民をないがしろにする為政者への風刺が込められた詩と言えようか。

 

一見、七言絶句の範疇から食みだした詩です。起句の6言、承句中4字目の孤平(コヒョウ)、すなわち、平(ヒョウ)音の字“山”が仄(ソク)音の2字“后”および“雨”に挟まれており、絶句のルール違反に当たります。それらのためであろうか、当詩を“古詩”として扱っている資料もあります。

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放映中ですが、源実朝(1192~1219)は未だ登場しておりません。どのような形で登場し、生涯を送るか、ドラマの進展に注目したいところです。12歳で将軍に擁立され、28歳の若さで甥によって暗殺された。“時の申し子”と言うべきか、“時与(クミ)せず”というべきか、短い生涯であった。

 

歌の才に恵まれ、百人一首にも入集されています(閑話休題154)。実朝の歌に関し、明治時代、正岡子規は、「……実朝は固より善き歌作らんとてこれを作りしにもあらざるべく、ただ真心より詠み出たらんが、なかなかに善き歌とは相成り候ひしやらん。……」と絶賛し、「……今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも……」と嘆いている。(『歌よみに与ふる書』)。

 

実朝の歌の中でも、為政者の頂にありながら、民に思いを遣り、やさしい眼差しを向けていることを思わせる歌に特に惹かれます。その一つに次の歌が挙げられます。1211年洪水が起こり、実朝は鶴岡八幡宮の仏前で「雨止めさせたまえ」と祈願したという。

 

時により 過ぐれば 民の嘆きなり 

   八大龍王 雨やめたまへ(金槐和歌集 雑・619)

  (大意) 恵の雨も降り過ぎれば却って人々の嘆きです 八大龍王よ 雨を降り止めさせよ 

 

この歌は掲詩の2,3句に詠い込みましたが、詩全体としては、蘇軾の元詩に合わせて、実朝が仏前で祈っている情景として描きました。

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閑話休題267 句題和歌 20  白楽天・長恨歌(14)

2022-06-20 09:26:42 | 漢詩を読む

“太真”は、楊貴妃の女道士となった折の名でした。また‘漢の使者が訪ねてきた’との知らせに、飛び起きて、“取る物も取り合えず”の慌てぶりで、涙ながらに堂を駆け下りてきました。違うことなく、方術士は楊貴妃の魂魄に巡り会えたようです。

 

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<白居易の詩> 

   長恨歌 (14) 

93攬衣推枕起徘徊、  衣を攬(ト)り枕を推(オ)し起(タ)ちて徘徊し 

94珠箔銀屏邐迤開。  珠箔 (シュハク)銀屏 (ギンペイ)邐迤(リイ)として開く 

95雲鬢半偏新睡覺、  雲鬢 (ウンピン)半ば偏(カタム)きて 新たに睡(ネム)りより覚め 

96花冠不整下堂來。  花冠(カカン)整はずして堂を下(クダ)りて来る 

97風吹仙袂飄颻舉、  風吹きて 仙袂(センペイ)飄颻(ヒョウヨウ)として挙がり 

98猶似霓裳羽衣舞。  猶ほ霓裳(ゲイショウ)羽衣(ウイ)の舞に似たり 

99玉容寂寞涙瀾干、  玉容(ギョクヨウ)寂寞(ジャクマク)として涙瀾干(ランカン)たり 

100梨花一枝春帶雨。  梨花一枝 春 雨を帯ぶ 

   註] 〇徘徊:進みあぐねるさま。動揺してうろたえている姿をいう; 〇珠箔:真

    珠で編んだすだれ; 〇銀屏:銀の屏風; 〇邐迤:折り畳んだものがしだいに

    開いていくさま; 〇雲鬢:女性の鬢の毛の美しさを雲に譬えていう語;

    〇花冠:女道士の花飾りのかんむり; 〇袂:衣服のそで、たもと; 〇飄颻:

    風に翻る; 〇猶似:2字で“……のようだ”; 〇玉容:美しい容貌;

    〇瀾干:涙が縦横に流れるさま; 〇梨花:花の白さは、楊貴妃がすでに

    この世の人ではないことを示す。 

<現代語訳> 

93上衣を取り、枕を押しのけ、起き上がってそぞろ歩き回り、

94真珠のすだれ、銀の屏風がつぎつぎに押し開かれる。

95雲のように豊かな鬢の毛が一方に片寄り、まだ眠りから醒めたばかりの様子で、

96花の冠も整えずに、御殿を下りて来た。

97風が吹いて、仙女の袂(タモト)は踊るようにひるがえり、

98かつて宮殿に奏した霓裳羽衣の舞を思わせる。

99玉のかんばせは精気に乏しく、涙がとめどなく溢れ、

100あたかも春雨に濡れた一枝の梨の花だ。

              [川合康三 『編訳 中国名詩選』 岩波文庫 に拠る]

<簡体字およびピンイン>  

93揽衣推枕起徘徊、 Lǎn yī tuī zhěn qǐ pái huái,               [上平声十灰韻] 

94珠箔银屏逦迤开。 zhū bó yín píng lǐ yí kāi. 

95云鬓半偏新睡觉、 Yún bìn bàn piān xīn shuì jiào, 

96花冠不整下堂来。 huā guān bù zhěng xià táng lái. 

97风吹仙袂飘飖举、 Fēng chuī xiān mèi piāo yáo ,            [上声六語韻] 通韻 

98犹似霓裳羽衣舞。 yóu shì ní shang yǔ yī .            [上声七麌韻] 

99玉容寂寞涙澜干、 Yù róng jìmò lèi lán gàn, 

100梨花一枝春带雨。 lí huā yī zhī chūn dài .

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前回から続く。まず老荘思想。字面通り、老子(生没年不明、『史記』には紀元前6世紀ごろ)および荘子(BC369?~BC286?)が著した、それぞれ、『老子(老子道徳経)』および『荘子(ソウジ)』を基にした思想である。『老子』では、社会の在り方や国家の事、『荘子』では、個人の思想に焦点が当てられている と。

 

長い間、両著書は別々に扱われてきた。しかし儒家の礼・徳を不自然で作為的であるとして否定し、無為自然(自然体)であるべき と説く点、共通の面がある と、淮南王・劉安(BC179~BC122)は、「老荘」と両者を合体して論じた[淮南子(エナンジ、BC139成立]。すなわち、国の政(マツリゴト)、人の生きざまともにあるがまゝであるべきとした思想・老荘思想である。

 

道教は、漢民族固有の宗教で、中国における三大宗教の一つである。伝説上の人物・黄帝を始祖、老子を大成者とする“黄老思想”を根幹として、後漢の頃、帳陵(チョウリョウ、生没年不詳)が教祖となって教団が創設され、道教が始動する。多神教で、その概念規定は確立されておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である と。

 

すなわち、老子の思想を根本として、その上に不老長生を求める神仙術や呪術、亡魂の救済、災厄の除去などに関わる三国時代の太平道、五斗米道、さらに仏教の影響など、時代の経過とともに様々な要素が取り入れられ、積み重なった宗教ということである。

 

道教は、巫術や迷信と結びついて社会の下層ばかりでなく、社会の上層においても皇帝個人の不老長生の欲求を満たす、または支配力を強めるなどと利用されることもあった。西晋の頃、陶淵明や竹林の七賢で代表される隠遁生活を送った知識人の精神の拠り所ともなった。道教から生まれた文化は現代に、さまざまな民間風俗として生きているようである。

 

後漢末頃に生まれた道教は、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至った と。玄宗皇帝は、当初、儒学を重んじ、「開元の治」と称えられる善政を敷いたが、後に儒教的理念から離れて道教に傾倒していったようである。楊貴妃を妃に迎えるに当たって、女道士として出家させ“太真”と改名させたことにもその一端が窺われるようである。

 

[句題和歌]

 

長恨歌の“梨花一枝春带雨”は、『漢辞海』(戸川芳郎 監修 佐藤進・濱川富士雄 編 三省堂)に一句丸ごと一項目として建てられ、《ナシの花が一枝、春の雨にぬれる。楊貴妃が泣きぬれた様子を形容した句。美人が涙ぐむさまのたとえ。(白居易-詩・長恨歌)》と解説が付いています。ことほど左様に、この句が日本の人々によく知られた有名な句であると言える。

 

『漢辞海』に今一度登場してもらうと、“梨雪(リセツ)”の項が設けられており、《ナシの花の白さを雪にたとえていう》と解説されている。その白さから“清純な”イメージが持たれるためであろう、“梨花”の花言葉として「愛情」が当てられている。 

 

わが国では、現に桜や梅・菊ほどに、“梨花”が愛でられている風にはみえない。平安の頃は、むしろ一般に忌避されていたように思われる。清少納言は『枕草子』「木の花」の項で、“……梨花はつまらぬもので、特に有難がられることもない、……かわいげのない人の顔を見て、「梨花みたい」と たとえて言うのも頷ける……”と記している。

 

但し、納言自身は、“唐(モロコシ)では、詩文によく出て来るゆえ、それなりの理由があるであろうと、よく観てみると、花びらの端に、趣きのある美しい色つやが微かについているようで、……楊貴妃が、帝のお使いに会って泣いた顔を「梨花一枝春帶雨」と譬えられたのも頷ける”として “やはり梨花はほかに類なく美しいと思われた”と肯定的に捉えています。

 

第100句 “梨花一枝春帶雨” に思いを得た、藤原為家の句題和歌を紹介します。藤原為家(1198~1275)は、鎌倉中期の公家・歌人。藤原北家御子左流・藤原定家(閑話休題156参照)の三男。後嵯峨院歌壇の中心的な歌人として活躍、勅撰集・『続後撰和歌集』を単独で撰進している。

 

聞きわたる 面影見えて 春雨の

  枝にかかれる 山なしの花(藤原為家『新撰和歌六帖』) 

 (大意) ずっと耳にしていた楊貴妃(春雨に濡れた一枝の梨花)の面影がやっと見えてきたようだ。

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閑話休題266 句題和歌 19  白楽天・長恨歌(13)

2022-06-13 09:16:35 | 漢詩を読む

方士は、上は碧空から下は黄泉の国まで奔走したが、楊貴妃の魂魄は杳としてその消息を掴むことはできなかった。ふと海上にあるという仙山の情報を得て、訪ねてみると、それらしい仙女が住まっているようである。いよいよ白楽天の筆が冴えを見せる段に至ったように思え、詩、話題の展開ともに楽しみである。

 

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<白居易の詩> 

   長恨歌 (13) 

83忽聞海上有仙山、  忽ち聞く 海上に仙山有りと 

84山在虛無縹緲閒。  山は虚無(キョム)縹緲(ヒョウビョウ)の間に在り 

85楼殿玲瓏五雲起、  楼殿は玲瀧(レイロウ)として五雲起こり 

86其上綽約多仙子。  其の上に綽約(シャクヤク)として仙子(センシ)多し 

87中有一人名太真、  中に一人有り 名は太真(タイシン) 

88雪膚花貌參差是。  雪の膚 (ハダエ)花の貌(カンバセ) 参差(シンシ)として是(コ)れならん 

89金闕西廂叩玉扃、  金闕(キンケツ)の西廂(セイショウ) 玉扃(ギョクケイ)を叩(タタ)き 

90轉敎小玉報双成。  転じて小玉をして双成(ソウセイ)に報ぜしむ 

91聞道漢家天子使、  聞く道(ナラ)く 漢家(カンカ)天子の使ひなりと  

92九華帳裡夢中驚。  九華(キュウカ)の帳裡(チョウリ) 夢中に驚く 

 註] 〇仙山:東海に浮かぶ三つの仙人の山; 〇縹緲:遠くぼんやりとしたさま; 〇玲瓏: 

   玉のような透き通った輝き; 〇五雲:めでたいしるしである五色の雲; 〇綽約: 

   なまめかしく美しいさま; 〇太真:玄宗の後宮に入る前の女道士であった時の楊貴妃の名; 

   〇参差:ほとんど間違いなく; 〇西廂:正殿の西の脇部屋、女性の居室; 〇玉扃: 

   玉で装飾した門扉、“扃”はかんぬき; 〇轉:順次に取り次ぐ; 〇聞道:……と耳にする; 

   〇九華帳:多くの花をあしらった帳(トバリ); 〇驚:はっと目が覚める。 

<現代語訳> 

83ふと耳にしたことには、海上に仙人の住む山があり、

84縹渺と霞む太虚の間に浮んでいるという。

85高殿は玉のように輝き、湧き上がる五色の雲の中に聳えて、

86その上に嫋やかな仙女たちがあまたすんでいる。

87中に一人、太真という名の者があり、

88雪のように白い肌、花のような容貌、果たしてこれがその人ではないか。

89方士は宮殿の西の廂(ヒサシ)の間に来て、玉の門扉を開き、

90さて小玉という少女をして腰元の双成に取り次いでもらった。

91漢の皇帝の使者であるとの知らせを聞き、

92太真は花模様の帳(トバリ)のうちで夢うつつに驚く。

              [川合康三 『編訳 中国名詩選』 岩波文庫 に拠る]

<簡体字およびピンイン>  

83忽闻海上有仙山、 Hū wén hǎi shàng yǒu xiān shān     [上平声十五刪韻]

84山在虚无缥缈闲。 shān zài xū wú piāo miǎo xián     

85楼殿玲珑五云起、 Lóu diàn líng lóng wǔ yún ,        [上声四紙韻]

86其上绰约多仙子。 qí shàng chuò yuē duō xiān.  

87中有一人名太真、 Zhōng yǒu yī rén míng tàizhēn,  

88雪肤花貌参差是。 xuě fū huā mào cēn cī shì. 

89金阙西厢叩玉扃、 Jīn què xī xiāng kòu yù jiōng,        [下平声九青韻] (通韻) 

90转敎小玉报双成。 zhuǎn jiào xiǎoyù bào shuāngchéng.   [下平声八庚韻] 

 91闻道汉家天子使、 Wén dào hàn jiā tiān zǐ shǐ, 

92九华帐里梦中惊。 jiǔ huá zhàng lǐ mèng zhōng jīng. 

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話題は、神仙界での出来事へと転じています。前回(閑話休題265)、蘇軾の《驪山三絶 其三》でも“三仙山”の話がありました。漢詩の世界では、神仙界の想像上の事象が、直接の話題としてあるいは寓話として度々登場します。

 

“神仙界”の話題に遭遇した際、兼々、道教・老荘思想・神仙思想について歴史的に、またそれらの内容の関連など、疑問を感じつつも素通りしてきました。今を良い機会として、自らの後学の為に調べてみました。ちょっと整理してみます。まず“神仙思想”について。

 

“神仙思想”は古く、古代中国で庶民の間に広まった民間信仰であり、“仙人”の存在を基礎としているようだ。“仙人”は、山中に住み、不老不死で、空中を自由に飛翔できるなどの“神通力”を持っている。“仙人”の住む山は“(神)仙山”とされ、東方の海上にあり、主に蓬莱山、方丈山、瀛州山(エイシュウザン)の“三神山”が想定され、山中には“不老不死の薬”がある と。

 

“神通力”や“不老不死の薬”は、庶民のみならず、人間として誰しも欲するものであろう。需要/供給の関係で、実際に“方(術)士”と称する、その信仰(神秘的な考え)に精通したあるいはそれを吹聴して広める者が存在していた。紀元前数世紀の頃、燕(河北省)や斉(山東省)を中心に“方(術)士”の活躍は始まり、徐々に他国に広まったようである。

 

伝説では、“(神)仙山”は、渤海湾の海上、海岸からそう遠くなく、縹緲として霞んで在るとされ、近づくと風波を起こして船を寄せ付けず、宮殿は悉く黄金や銀でできており、棲んでいる鳥獣はすべて白色である と。渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海にあるともされている。それ故であろう、日本を“(神)仙山”に擬する話題も時に見ることがある。

 

史記(司馬遷)の徐福伝説では、触れられていないようであるが、古代の地理書『山海経』(著者、成立年代不明、前漢以降成立)では、蓬莱山とは“蜃気楼”であることを示唆するような記載があるようである。謎解きは、解けてしまうと興味が失せるが、謎の多い古代の話題は興味が尽きない。道教・老荘思想との関連については、次回に触れます。 

 

[句題和歌]

 

長恨歌の特定の句というより、方(術)士が活躍する物語の流れとの関連が考えられる歌として、『源氏物語』(紫式部)・第一帖「桐壺」に挿入された歌が挙げられています(千人万首asahi-net.or.jp)。

 

帝の寵愛を一身に集めていた桐壺更衣は、美貌の若宮(第二皇子、後の光源氏)を設けます。先に第一皇子を設けていた弘徽殿の女御はじめ、周りの妃たちの妬みにあい苛められ、体調を崩します。若宮の誕生数年後、更衣は若宮を伴って実家に帰り保養に努めますが、薬石効なく亡くなります。

 

帝は、靫負の命婦(ミョウブ)を使いにして、実家での様子を報告させていた。更衣の没後の使いの折、命婦は、更衣の母の思いなどを伝えた後、贈り物を帝の御前に並べた。そこで帝は、「これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に逢って得て来た玉の簪(カザシ)であったらと かいないこともお思いになった」として、次の歌を載せています(青空文庫 与謝野晶子訳 『源氏物語』から)。

 

尋ねゆく まぼろしもがな つてにても

   魂(タマ)のありかを そこと知るべく(紫式部 『源氏物語・桐壺』) 

  (大意) 亡き桐壺の更衣のまぼろしを探しに行ってくれる方士はいないものか、 

   せめて人伝にでも 魂のありかを知りたいものである。

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閑話休題 265 飛蓬-151 京都嵐山三絶 其三 大沢池 依韻蘇軾《驪山三絶 其三》

2022-06-06 09:19:05 | 漢詩を読む

宋代の詩人蘇軾(1037~1101)の詩《驪山三絶》に韻を借りた(依韻)詩《京都嵐山三絶》の詩作に挑戦しています。名勝地・京都嵐山の気に入ったスポット、今回は大沢池を擁する大覚寺に焦点を当てました。依韻とは、同じ韻に属する語を脚韻に用いることを言います。 

 

大沢池は、日本最古の人工湖で、中国の洞庭湖を模したとされる。その上流にはやはり石組の滝が人工的に作られていた。現在は“名古曽の滝跡”として、その名残をとどめている。築造の頃を偲びつゝ、その頃の姿を思い描ける詩を と心掛けました。今日、この界隈は桜・紅葉・中秋の観月など、四季折々に目を楽しませてくれる名勝である。

 

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<漢詩および読み下し文> 

  依韻蘇軾《驪山三絕·· 其三》 京都嵐山三絶 其三 大沢池   [上平声十五刪韻] 

水経瀑布下旋山, 水は、石組の瀑布を経て 山を旋(メグッ)て下り, 

留池行行向海還。 池に留(トド)まり 行き行きて海に向かいて還(カエ)る。 

帝把池摸洞庭水, 帝(テイ)は池を把(トッ)て洞庭水(ドウテイスイ)に摸(モ)す, 

庭園奕奕是仙寰。 庭園は奕奕(エキエキ)として是(コ)れ仙寰(センカン)。 

 註] 〇瀑布:大沢池の上流に石組で作られた“勿来(ナコソ)の滝”;  〇池:大沢池; 

  〇行行:行き続ける; 〇帝:第52代嵯峨天皇; 〇洞庭水:中国長江中流にある 

  洞庭湖; 〇庭園:人工湖「庭湖」である大沢池を擁する大覚寺の庭園; 

  〇奕奕:非常に美しいさま; 〇仙寰:別世界。 

<現代語訳> 

  蘇軾《驪山三絕·· 其三》に依韻す 京都嵐山三絶 其三 大沢池 

水は、石組の人工滝を経て 山を回って下り、

大沢池に一時留まり 下流に流れて 遂には川を経て海に注ぐ。

嵯峨天皇は、人工的に“大沢池”を造成し、中国の洞庭湖に模した、

その庭園は素晴らしく、四季折々の明るく美しい景観は別世界である。 

<簡体字およびピンイン> 

  依韵苏轼《骊山三绝 其三》 京都岚山三绝 其三 大泽池 

    Yī yùn SūShì “líshān sān jué  qí sān”  Jīngdū lánshān  qí sān  Dàzéchí 

水经瀑布下旋山, Shuǐ jīng pùbù xià xuán shān,  

留池行行向海还。 liú chí xíng xíng xiàng hǎi huán.  

帝把池摸洞庭水, Dì bǎ chí mō dòngtíng shuǐ,   

庭园奕奕是仙寰。 tíng yuán yì yì shì xiān huán.  

 

ooooooooooooo 

<蘇軾の詩>

 驪山三絶 其三      [上平声十五刪韻] 

海中方士覓三山, 海中の方士 三山を覓(モト)め,

万古明知去不還。 万古 明らかに知る 去って還(カエ)らざるを。  

咫尺秦陵是商鑑、 咫尺(シセキ)の秦陵(シンリョウ)は是れ商鑑(ショウカン)、

朝元何必苦躋攀。 朝元 何ぞ必ずしも苦(ネンゴ)ろに躋攀(セイハン)せん。

 註] 〇方士:仙人の術を行う人、方術の士、道士;  〇覓:尋ねる、探す、求める; 

  〇三山:東の海上にあると伝えられた三つの山、蓬莱・方丈・瀛州(エイシュウ); 

  〇咫尺:きわめて近いこと;  〇秦陵:秦の始皇帝の陵、七十万の人々を使役して 

  建てられたという;  〇商鑑:商すなわち殷のかがみ(商は殷の別名)、殷の国が 

  戒めとするべき事柄;  〇朝元:華清宮の内部にあった楼閣の名、慶暦年間(1041~ 

  8)に焼失した;  〇躋攀:朝元閣は非常に高いので、階段の柱を紅の綿の‘くみ 

  ひも’で繋ぎ、宮女たちは其れにつかまりながら辛うじて階段を上ったという。 

<現代語訳> 

  驪山三絶 其三 

東の海に向かう方士たちは三つの仙山を求めて旅立ったのだが、

いくら時間を費やしてもそんな山を見つけて帰ることなどできぬことは明らかだ。

目の前の秦陵は悪いお手本としていましめるべきもの、

唐代の朝元閣は、登るに難儀するほど高大なものにする必要がどうしてあったあろう。

             [石川忠久 NHKブンカセミナー 漢詩を読む 蘇東坡]

<簡体字およびピンイン> 

  骊山三绝 其三   

海中方士觅三山, Hǎi zhōng fāngshì mì sān shān,  

万古明知去不还。  Wàn gǔ míng zhī qù bù huán. 

咫尺秦陵是商鉴、 Zhǐchǐ qín líng shì shāng jiàn,   

朝元何必苦跻攀。 cháo yuán hé bì kǔ jī pān.  

oooooooooooooo 

 

蘇軾の詩の前半は、徐福伝説でしょうか。天下統一後、なお永遠の生命をと願う秦始皇帝を、“東方の仙山で不老不死の霊薬を求め帝に献上します”と誑(タブラ)かして、大いなる富をせしめた徐福。帰還することのないことは分かり切ったことであったろうに と。

 

始皇帝が築いた高さ76m、底辺面積50数km2という巨大な陵墓、中に宮殿のような広い空間があるとされている。この眼前の陵墓を鑑とすべきを、唐の玄宗はなお華清宮・朝元閣に見るような無用の長物を拵えている と。若手官僚の意気が感じられる詩である。

 

話は変わって大沢池。京都北嵯峨・大覚寺境内にある大沢池は、中国・唐文化への憧れが強かった第52代嵯峨天皇(在位809~823)が、中国の洞庭湖を模して築造した人工池である。大覚寺の前身は、嵯峨天皇の離宮で、その庭園には、唐風文化の理想郷を作るべく巨費を投じて滝を備えた人工湖・「庭湖」(現 大沢池)が作られた。

 

大沢池の北東約100m地点に石組が組まれて人口の滝が築かれていた。滝から流れる豊富な水流は、その南方に開削された幅5~10mの蛇行溝を通って「庭湖」に注いでいた と。離宮の庭園は泉、滝、名石などの美を極めた庭園であった由。

 

約百6、70年後に藤原公任(キントウ、966~1041、閑話休題148参照)が訪れた頃には、滝の石組は土に埋もれて、滝の音も聞こえなくなっていた と歌(下記)に書き遺している。石組みの人工滝は、今日この歌に因んで“名古曽(/勿来(ナコソ))の滝”と命名されている。 

 

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 

  名古曽ながれて なお聞こえけれ 

  (大意) 滝の水音は途絶えて久しいが、その名声だけは今に流れ伝わって、人の口端に

    上っていることだ。 

        (大納言公任 百人一首55番;『千載集』雑上・1035)  

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