愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題40 漢詩を読む 漢詩『縄文杉を拝す』

2022-04-21 17:20:10 | 漢詩を読む

5/28 (日)~5/30 (火)、H交通社のツアーに参加して、屋久島、縄文杉を訪ねる旅に出ました。「ドラマの中の漢詩」については一休みして、この旅の様子を記します。

この旅の印象が非常に強烈であったこともあり、縄文杉を訪ねた模様について自ら漢詩を作ってみました。最後に触れます。

縄文杉については、広く喧伝されており、今更の感がないでもありませんが、漢詩と併せて観るなら、一味違ってくるのでは?と。まず写真1をご覧ください。

写真1:縄文杉

縄文杉の、神々しいほどのドッシリと、且つシャンとした樹姿体と、幾千年もの風雪に耐えた木肌の様相は実に印象的です。その麓に辿り着いた瞬間、多くの人が自然と胸元に両手を合わせて頭を垂れ、また仰ぎ見ていました。難路を経た疲れも吹っ飛んだ瞬間です。

当日(5/29)は、好天に恵まれて、縄文杉の全容を見ることが出来たことは幸いであった。ただ、同杉の保護のため、人や鹿などが近づけないよう柵が設けられていて、周囲には草木が繁茂している。今日、古い写真に見るような姿はみられない。

なお、縄文杉(固有名詞である)は別格にして、樹齢1,000年を超す杉を“屋久杉”、1,000年未満を“小杉”と称しているようである。

縄文杉に到る間の登山道の各所に、諸々の姿の屋久杉や杉の株跡が目を楽しませてくれることも特筆に値する。写真2はその一つ、“ウイルソン株”と呼ばれている古木の切り株の風化が進んだ跡である。

写真2:ウイルソン株の内部空洞

この杉株は、豊臣秀吉がほぼ天下を手中に収めたころ、1589年、方広寺大仏殿(京都)の造営のために伐採された古杉の跡であるとのこと。なお秀吉の命を受けて、実際に伐採に従事したのは、薩摩藩の島津氏であった由。

切り株跡は、風化が進み、木の樹皮側に近い部分を残して内部は空洞になっています。空洞は、写真に見るように大勢の人を収容できるほどに、相当に広く、また天井部は天を仰ぎ見ることができる天窓になっています。

内壁部は、燃え盛る炎の“ひだ”を思わせます。天窓部は、ある角度で天を仰いだ時、いわゆるハート型を呈します(写真3)。写真3は、急いで撮ったためやや歪んだ“ハート”となっていますが。

写真3:ウイルソン株のハート型天窓から天を仰ぐ

縄文杉に到る行程について少し触れておきます(写真地図4)。安房(屋久島東南海岸部)から荒川林道(写真右下)をバスで約1時間走って荒川登山口(地図P)、トロッコ道の始点に至ります。この点からトロッコ道を徒歩で約9 km行くと、大株歩道入口(地図中心上部WC)に至ります。


写真4:縄文杉にいたる行路;濃緑表示部は世界遺産登録地域

大株歩道入口から北方向に縄文杉まで約2.5kmの登山道となります。この地点で往路のほぼ8割がた過ぎたものと安堵したものであるが、実は、これからが難路。1丁目、2丁目、3丁目と特に岩場の難所が、これでもか!これでもか!と続いた。

大株歩道の様子は、写真5に見る通りで、山の斜面で大小の岩石や地上に露わになった木の根っこなど凸凹道です。特に馬の背のような、急な上り・下りの箇所では、厚い杉板で約40~50 cm幅の階段が設けられている。

写真5:山の斜面を行く大株歩道

路上には木の太い根っこが地上に浮いた形で露出していて歩行を妨げている。また人の身長ほどの大岩を大木の太い根が抱きかかえていて、岩の上に木が生えたように見える。これらは長年にわたる頻回の大雨により地表部の土砂が流されていった結果である由。

走行距離と走行時間の比例関係が全く狂わされた状態は次の標識(写真6)から窺えます。トロッコ道の途中にある標識です。この表示から算出すると、荒川登山口~大株歩道入口(トロッコ道):約9kmを130分、一方、大株歩道入口~縄文杉(大株歩道):約2.5kmを115分と算出できます。大株歩道が並みでない登山道であることが容易に想像できます。

写真6:標識
左:大株歩道入口まで60分;縄文杉まで175分;右:荒川登山口まで70分

トロッコ道についてちょっと触れておきましょう。トロッコ道は写真7に見るように、枕木の上に板を2または3枚付けた部分と板のない部分が約半々。板のない部分では、不規則に並べられた枕木を踏み台に歩くことになる。

写真7:トロッコ道、ガードのない橋
下は10 mを越す深さの岩場で、岩間を清水が流れている

因みに、当日の行動記録は、往復約23 kmの距離を、途中昼食及び休憩時間を含めて、約11時間かけて踏破した。同行者の歩数計の記録では37,000歩であった由。

さて、筆者は、古木を訪ねて写真に収めることを愉しみの一つにしています。但し、わざわざ古木を訪ねて旅することはなく、何らかの旅行の折に、少し足を延ばして、ついでに古木を訪ねることがすべてであった。

今回は、縄文杉の姿を写真に収めることを主眼に、わざわざ屋久島を訪ねた次第です。実際に縄文杉を目にし、また行路の各場面で目に止まった古木の諸々の姿を目にするにつけて、格別に感興が湧いて、漢詩を作る気を起こした次第です。


   訪繩文杉    繩文杉を訪ねる      [上平声十五刪韻]

昔聞屋久島、 昔聞く 屋久の島、

今対悟難攀。 今対して 攀(ヨ)じ難(ガタ)きを悟(サト)る。

嶄嶄神霊木、 嶄嶄(サンサン)たり神霊(シンレイ)の木、

峩峩古代杉。 峩峩(ガガ)たり古代の杉。

洋海東南坼、 洋海 東南に坼(サ)け、 

風雪天地間。 風雪(フウセツ) 天地の間(カン)。

黙祷向尊樹, 尊樹(ソンジュ)に向かいて黙祷(モクトウ)するに,

杳如心自閑。 杳(ヨウ)として 心(ココロ)自(オノズ)から閑(カン)なるが如し。

 註] 〇嶄嶄:高く、威儀が立派なさま; 〇峩峩:高く聳え立つさま; 〇洋海:太平洋と東シナ海; 〇坼:裂ける。

<現代語訳> 

 屋久島の縄文杉を尋ねる 

昔から聞いていた屋久島、

今対してみると、登るのが難儀なことが実感できた。

威厳に満ちた神霊の木、

高く聳える古代の縄文杉。

太平洋と東シナ海を東南に分けて、

天地の間に幾千年の風雪に耐えてきた。

その木に向かって暫し黙祷を捧げると、

自然と心が洗われて安静になるように思われた。

 

<簡体字およびピンイン> 

 访绳文杉       Fǎng shéngwén shān 

昔聞屋久岛、 Xī wén wūjiǔdǎo,

今対悟難攀。 jīn duì wù nán pān.

崭崭神灵木、 Zhǎn zhǎn shén líng mù,  

峩峩古代杉。 é é gǔdài shān.  

洋海东南坼, Yáng hǎi dōng nán chè,

风雪天地间。 fēng xuě tiān dì jiān.

默祷向尊树, Mòdǎo xiàng zūn shù,

杳如心自闲。 yǎo rú xīn zì xián.  

 



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閑話休題 143 飛蓬-50 小倉百人一首:(蝉丸)  これやこの

2020-04-25 14:42:38 | 漢詩を読む
(10番)これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(アフサカ)の関 
蝉丸『後撰集』雑一・1089
<訳> これがあの、京から出て行く人も帰る人も、知り合いも知らない他人も、皆ここで別れ、そしてここで出会うと言う有名な逢坂の関なのだなあ。(板野博行)

oooooooooooooooo
逢坂の関は、京(畿内)から東国へ向かう人、また東国から亰に帰ってくる人、知っている人であろうとも知らない人であろうとも、別れてはまた出逢う、すれ違いの場所であると言う。

「逢坂の関」は、“歌枕”としてしばしば和歌に登場する名所である。この歌を含めて百人一首中3首で主要舞台となっています。他の2首はすでに本シリ-ズで紹介しています。ここで「逢坂の関」について整理しておきたいと思います。

上の歌を五言絶句の漢詩にしました(下記ご参照)。

xxxxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文>  [上平声十一真・十五刪韻]
....会者定離   会者定離(エシャジョウリ)
這処去東人, 這処(ココ)では 東に去(ユ)く人,
或還返京顔。 或(アル)いは還(マタ) 京に返(カエ)る人の顔。 
分開認識的, 分開(フンカイ)しては 認識(シ)る的(ヒト)も,
不知逢坂関。 知らぬ人も 逢坂の関。
 註]
  会者定離:仏教用語、出会った者とは必ず別れる定め。
.......這処:此処の場所、逢坂の関。  分開:別れる。
.......認識:見知っている。
.......逢坂の関:山城国(現京都府)と近江(現滋賀県)の境にある関。当時、この関の東を関東とされていた。

<現代語訳>
 会者定離 
此処では、京から東国に出かけていく人、
また東国から京に帰ってくる人が行き交う。
別れては、知り合いの人も、 
知らない人も、また出逢い、すれ違う逢坂の関である。

<簡体字およびピンイン>
.....会者定离   Huì zhě ding lí
这处去东人, Zhè chù qù dōng rén,
或还返京顔。 Huò hái fǎn jīng yán.
分开认识的, Fēnkāi rènshi de,
不知逢坂关。 bù zhī Féngbǎn guān.
xxxxxxxxxxxxxxxxx

“逢坂の関”は、和歌に読み込まれる名所―“歌枕”―として最も頻度高くお目に掛かれる場所ではないでしょうか。百人一首の中でも3首で登場します。これらはいずれも平安期の作品で、都から東国への門戸として交通の要所にあったことに依るのでしょう。

加えて、その名称に“逢(=心を通わす)”と“関(=隔て)”という、人の心情に関わる語・ことばを持っていることが、その応用を広めているようです。すなわち、地理的な交通要所の場所としてばかりでなく、例えば、“恋”の遣り取りの間接的な一表現法として活かされてきているようです。

今回取りあげた歌は、まさに“逢坂の関”という場所での人々の往来・人間模様を覚めた(悟り?)眼差しで描いたものと思われる。漢詩の詩題とした“会者定離”は、やや誇張の感はありますが、『新古今集』収載の蝉丸の次の歌:

「秋風に なびく浅茅(アサジ)の 末ごとに 置く白露の あはれ世の中」 [秋風に吹かれてゆらゆらと揺れる浅茅の梢に置かれた白露のように、この世はなんとはかないことか](mixiユーザー)

この歌では、“無常感”が直感として感じられます。蝉丸の「これやこの……」の歌でも、「逢ってもすぐに別れる、すれ違い」という“無常感”が詠われているのであろう との理解から、“会者定離”の詩題としました。

百人一首の中で“逢坂の関(山)”が登場する他の2首は:
「(25番)名にしおはば 逢坂山の さねかずら 人にしられでくるよしもがな」
「(62番)夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」

両首とも、“恋”の遣り取りに“逢坂の関”を活用した例と言えます。25番では、短刀直入に「逢坂山の さねかずら」と切り込んでいます。62番では、「私の心の“関”は開きませんよ」と肘鉄砲の歌と言えます。なお、これらの詳細は、それぞれ、[閑話休題129および123]で紹介しました。

作者、蝉丸について。突飛なようですが、“蝉丸”と聞くと、俳人の一茶翁(小林一茶)とダブって想像されるのです。自分ながらよくは分からない。軽口を叩いているようで、裏には何か深淵なことが語られているような……。

百人一首かるた中、名前のユニークさ、また唯一奇妙な“帽子”を被った坊さん。歌「これやこの……」と、言葉遊びのような調子のよさ、子供の頃、意味は解さずとも、つい口ずさんでいたように思う。恐れ多いことながら、親しみを覚える歌人と言えます。

蝉丸は、生没年不詳。平安時代前期頃の歌人。歌は、上に挙げた2首を含め『続古今集』に3首、勅撰和歌集に計5首採録されている と。光孝天皇(830~887)の皇子など諸説あり、やんごとない生まれを想像させますが、不詳である。

蝉丸についての伝承は、多く『今昔物語』で語られているようである。例えば、逢坂の関に庵を結んでいて、今回主題の歌は、そこで往来の人を見て詠んだ と。逢坂山の庵迹(?)には、関蝉丸神社があり、関の明神として祀られているようです。

また蝉丸は盲目で、琵琶のあるいは琴の名手であったと伝えられている。これら蝉丸伝説を象徴する歌を紹介して本稿の締めとします。

『今昔物語』によれば、蝉丸が弾く琵琶の秘曲を聞きたくて、琵琶の名手・源博雅が、蝉丸の庵に3年通った と。その折に源博雅が「都に出てこないか」と誘うと、蝉丸は次の歌を詠んで答えている。

「世の中は とてもかくても おなじこと 宮もわら屋も はてしなければ」[世の中はどうあろうとおなじことだ、立派な宮殿もわら屋もいつどうなるかわからないのだから](Mixiユーザー)

次に、琴の名手であったとする伝承に拠った歌を紹介します。第84代順徳天皇(在位1210~1221)が内裏で催した歌会(内裏名所百首)で、“逢坂の関”の題で宮内卿家隆朝臣が詠んだ歌ということです。

「逢坂の 関の庵の 琴の音は ふかきこずえの 松風ぞふく」[逢坂の関の蝉丸の庵の琴の音は色濃い松の梢を吹く風がかき鳴らしているのだ](本稿で引用した歌および訳は、特記以外、小倉山荘氏に拠る)。
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閑話休題 142 飛蓬-49 小倉百人一首:(小野小町)  花の色は

2020-04-17 16:10:06 | 漢詩を読む

(9番)花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
        小野小町『古今和歌集』春・113
<訳> 美しい桜の花の色も、春の長雨が降っていた間にすっかり色あせてしまいました。私の美貌も、物思いにふけりながら世を過ごしている間に、ずいぶん衰えてしまったものです。(板野博行)

ooooooooooooooooo
しとしとと春雨が降り続いている中、所在なげに戸外に眼を遣って、雨を見ながら物思いに耽っています。このところ桜の花が色あせたようだ。いや我が身も年経て、だいぶ衰えたのかな…と、恋だの世の事など、来し方に想いを巡らすのである。

音に聞く絶世の美女・小野小町の歌に挑戦しました。掛詞や縁語を上手く活かした難解な歌です。“三十一文字で多くを語る”見本の歌と言えるのではないでしょうか。七言絶句の漢詩にぴったり嵌ったように思われます(下記をご参照)。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上平声一東韻]
 婦女有煩悩    婦女の煩悩
花彩惟徒褪色顕, 花彩(カサイ)惟(タダ)徒(イタズラ)に褪色(タイショク)顕(アキ)らかにして,
淫雨不断下来中。 淫雨(インウ) 断えず下(フ)り来(キ)たる中(ウチ)に。
予身女色略衰減, 予(ヨ)が身 女色(ジョショク)略(アラマシ)衰減(スイゲン)す,
往事沈思尚未窮。 往事(オウジ) 沈思(チンシ)すること尚(ナオ)未だ窮まらざるに。
 註」
  花彩:花の彩り。       淫雨:長雨。
  予:私。           女色:女の色香。
  衰減:次第に衰える。     沈思:深く考え込む。

<現代語訳>
 女性の悩み事
花の色はただむなしく褪色が明らかである、
春の長雨が絶えず降りしきる間に。
気がつくと、わが身の色香もほぼ衰えてしまったようだ、
来し方をあれこれと思いめぐらしているうちに。

<簡体字およびピンイン>
 妇女有烦恼    Fùnǚ yǒu fánnǎo
花彩惟徒褪色显, Huācǎi wéi tú tuìsè xiǎn,
淫雨不断下来中。 yínyǔ bùduàn xiàlái zhōng.
予身女色略衰减, Yǔ shēn nǚsè lüè shuāijiǎn,
往事沉思尚未穷。 wǎngshì chénsī shàng wèi qióng.
xxxxxxxxxxxxxxxx

百人一首の漢詩化を始めたころ、作者や歌に対する興味が最も強かった故に、先ず小野小町を選び、手掛けたのでした。しかしその内容を読み解くことが難儀で、お手上げ、遠ざけてきた“鬼門”の一首となっていました。

難儀の元は駆使された“技巧”にあります。この和歌では、長雨/眺め、降る/経る(老いる)とそれぞれ“掛詞”の関係にあり、さらに降る/経るは、それぞれ長雨/眺めの“縁語”でもある。今、やっと整理でき、上掲の七言絶句となりました。

和歌の中での“色”は、花の“色”と人の“容貌”と両者に関わる意味を含んでいます。その意を活かすため、漢詩では敢えて花の“褪色”と人の“女色”と、“色”の文字を再度用いています。本来、一文字を繰り返し用いることは“法度”なのですが。

この和歌の特徴として、結論を先ず述べ、説明的な文が後に続くという“倒置法”が採られています。この技法は、読者に訴える衝撃度がより大きいと思われる故、漢詩でも採用しました。

今一つ、漢詩について触れると、近代詩・絶句では1(起)、2(承)および4(結)句の最後の文字が韻を踏む(脚韻)という決まりがあります。上掲の漢詩では、2(承)および4(結)句は韻を踏んでいますが、1(起)句は、韻から外れています。

これは「踏み落とし」と言われ、1(起)および2(承)句が“対句”の場合許されるきまりです。花彩/淫雨(名詞)、惟徒/不断(副詞)、褪色顕/下来中(動詞・形)と,文法的に同じ働きの言葉が同じ順番で相対している場合、許されるきまりなのです。

作者・小野小町について触れます。やや伝説的存在のお人であるが、生没年不詳、また親の名前も不明で、生前の逸話もほとんど伝わっていないようである。祖先は、有力氏族であったようで、多くの偉人を輩出しています。

607年遣隋使として随に派遣された小野妹子、百人一首(11番)にも名を連ねる参議小野篁(802~852)、能書家の小野道風(894~966)等々。ただ小野篁の参議を最後に要職に就く人は出ていないようです。

小野小町 と言えば、絶世の美女の代名詞。実際にどうであったかは定かではないようです。美女とされた元は、紀貫之の『古今和歌集』の仮名序に、「小野小町はいにしえの衣通姫(ソトホリヒメ)の流なり」との記載に由来するらしい。

衣通姫は、“肌の美しさが衣を通して輝いていた”という美女であった とか。16代仁徳天皇の第4皇子、後の19代允恭天皇の后の妹。天皇が、后を差し置いて、血道を上げたという、記紀時代のお人である。..

小野小町という人物が実在したことは、実在の人物との贈答歌が残っていることから明らかであり、850年前後に活躍したと思われる。文屋康秀(?~885?)と恋仲にあって、歌の遣り取りをしたことは先に紹介しました(閑話休題127参照)。

ある日小野小町は、石上寺(イソノカミデラ)(現天理市にあった)に詣でたが、日が暮れて寺に泊まることにした。そこには僧正遍照(816~890)が居ることを知り、試してみようと歌を贈り、次のようなやり取りがあった(小倉山荘氏)。

小野小町の贈歌:
岩の上に 旅寝をすれば いと寒し 苔の衣を われにかさなむ
.........岩の上に旅寝をしているので寒くてたまりませんわ、あなたの苔の衣をわたしに
.........貸してくださいよ。[岩の上=石上、その縁語・苔から“苔の衣(僧衣)”]

僧正遍照の返歌:
世をそむく 苔の衣は ただ一重 かさねばうとし いざ二人寝む
.........出家したわたしの粗末な衣は一重しかありませんが、貸さないのも失礼ですから 
.........さあ二人で寝ましょうか。[一重と重ね/貸さね のシャレ]

いずれの歌も『後撰和歌集』収載。冗談には冗談で返す。遍照も生臭坊主の面目躍如。(僧正遍照については「閑話休題128百人一首-12番」をご参照下さい。)
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閑話休題 141 飛蓬-48 小倉百人一首:(猿丸太夫) 奥山に

2020-04-10 09:06:26 | 漢詩を読む
(5番) 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の
      声聞くときぞ 秋は悲しき
                 猿丸太夫
<訳> 寂しい奥山で、紅葉を踏み分けながら雌鹿を求めて鳴く牡鹿の声を聴くときこそ、秋のもの悲しさが、しみじみと感じられるよ。(板野博行)

oooooooooooooooo
秋は、日射しも弱まりつつあり、なんとなく物寂しい季節です。遠く奥山で鳴く鹿の声を聴くと、一層その感を強くする という。晩秋に近いころ、紅葉が散り敷いた山奥で、雌鹿を求めて彷徨う牡鹿が信号を送っています。

作者の“猿丸太夫”とは?どうも尋常な姓名には思えません。それでも藤原公任(966~1041)が優れた歌人として撰んだ三十六歌仙の一人なのです。上の歌を読む限り、それなりの身分・教養の持ち主である事が想像されますが。

上の歌を七言絶句の漢詩に仕上げました。下記ご参照ください。

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<漢字原文および読み下し文>  [上平声四支韻]
 季秋有懐      季秋に懐(オモ)い有り
遥看深山秋色奇, 遥かに看(ミ)る深山 秋色奇(キ)なり,
蕭蕭楓景稍許衰。 蕭蕭(ショウショウ)として楓の景(アリサマ)に稍許(イササ)か衰えあり。
求雌流浪踏畳葉, 雌を求めて畳(ツミカサナッ)た葉を踏んで流浪(サマヨ)うか,
聞鹿呦呦特覚悲。 鹿の呦呦(ヨウヨウ)鳴く声を聞くと特に悲しみを覚ゆ。
 註] 
  季秋:晩秋。        蕭蕭:木の枝が風に鳴って寂しげなさま。
  稍許:少しばかり。     畳:積み重なる。
  呦呦:鹿の鳴き声。

<現代語訳>
 晩秋の懐い
遥かに遠く奥山に目をやると秋の景色に変化があり、
物寂しく風にそよぐ彩鮮やかな紅葉、その景色にやや衰えが見える。
牡鹿が雌鹿を求めて、散り敷く紅葉の葉を踏んで流浪(サマヨ)っているのであろう、
牡鹿の鳴き声を聞くと秋の悲しみが一入深く感じられる。

<簡体字およびピンイン>
 季秋有怀     Jìqiū yǒu huái
遥看深山秋色奇, Yáo kàn shēnshān qiūsè qí,
萧萧枫景稍许衰。 xiāoxiāo fēng jǐng shāoxǔ shuāi.
求雌流浪踏叠叶, Qiú cí liúlàng tà dié yè,
闻鹿呦呦特觉悲。 wén lù yōuyōu tè jué bēi.
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歌中の“紅葉踏み分け”の語句は、晩秋の季節を想像させます。但しここでは全山の紅葉がすっかり散ってしまっているのではなく、山肌には、まだ色鮮やかさが残り、晩秋に差し掛かったころの景色を思い描いています。

紅葉が一部散り敷き、山肌の色鮮やかさにはやや衰えが感じられる頃、秋の寂しさをより一層感じさせてくれるように思える。漢詩の起・承句は、このような季節感の情景を表現しました。

鹿の鳴き声は、独特な悲しい響きがあり、万葉の時代から、秋の寂しさを表現する歌の定番であったという。奈良公園は幾度となく訪ねているが、鹿の鳴き声をシカと聞いたことがない。仲間と群居する環境にあるためでしょうか。

“紅葉踏み分け”については、その世界で議論があるという。散り敷かれたもみじ葉を“踏み分けて”いるのは、鹿かまたは人(作者)か と。前者の方が抵抗なく想像されて、漢詩では前者の情景を採りました。

歌の作者・猿丸大夫について。生没年不詳、“「人」としては実在した”であろうが正体不明。“猿丸”は、単なる“筆名”ではなく、敢えて正体を公にすることを憚った“仮名”であると推察されます。

元明天皇(661~721)頃の人?また天武天皇(?~686)の子(孫?)の弓削皇子では?女帝・称徳天皇(718~770)に仕えた僧・道鏡では?柿本人麻呂(7世紀後期~8世紀初)の別名では?等々、提起されていますが、確証はない。凡そ7世紀後半~8世紀初期の人物と想定されているようである。

『古今和歌集』(905年成立)の仮名序で、六歌仙の一人・大友黒主を紹介する中で、「大友黒主が歌は、古の猿丸大夫の次(ツギテ)なり」という記載があり、その頃には已に“謎の人物”とされていたようです。なおこれは猿丸大夫の存在を示す唯一の公的資料である という。

上の歌から、猿丸大夫は、都の貴族社会の感覚の持ち主であることを想像させます。何よりも藤原定家のおメガネに適った人物であることは特筆したい。因みに“大夫”は、五位以上の官位を持つ人に与えられる呼称であるという。

所で、上の歌は、『古今和歌集』では「詠み人知らず」とされている。“古の猿丸大夫”を知る紀貫之が「詠み人知らず」とした歌を、後の世の藤原定家が、百人一首(成立13世紀前半?)の中で“猿丸大夫”としたその経緯は?

謎が謎を生む話題ですが、作者が姓名を敢えて公にすることを憚った意図に留意しつゝ、名歌を読む愉しみに注意を向けることにしましょう。
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閑話休題 140 飛蓬-47 小倉百人一首:(紀 貫之) 人はいざ

2020-04-02 09:53:41 | 漢詩を読む
(35番) 人はいざ 心も知らず ふるさとは
  花ぞむかしの 香ににほいける
紀 貫之
<訳> あなたは、さてどうでしょうね。他人の心は分からないけれど、昔なじみのこの里では、梅の花だけがかつてと同じいい香りをただよわせていますよ(小倉山荘氏)

久しぶりに訪ねて宿を請うと、主人は「長らく見えなかったねえ、心変わりしたのでは?」と問う。「あなたこそどうでしょうか?」と問い返しながら、梅の一枝を折って、上の歌を添えて主人に手渡します[詞書(コトバガキ)から]。

宿の主人は、男性それとも女性?上の歌を漢詩化するに当たって最も難儀した一点です。問題意識は持ちつつ、ロマンを感じて、女性かな?と想像して進めました。下に漢詩を示しました、ご参照ください。

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<漢詩原文と読み下し文>  [下半声 九青韻] 
...寄久別重逢宾館主人
......序 隔了好久拜訪長谷寺後,在一座賓館借了一夜宿。主人貧嘴薄舌地説:这座賓館總是
......在站等着您,您不是变了心吗?我立刻折一柯梅花親手交给她,附上着這首詩.

住客焉知人性霊,住客(ジュウカク) 焉(イズ)くんぞ人の性霊(セイレイ)を知らんや、
蘇生旧景好音聴。旧景(キュウケイ)蘇生(ソセイ)して 好音(コウイン) 聴(キ)こゆ。
暗香満院如昔日、暗香(アンコウ) 院(イン)に満つること昔日(セキジツ)の如し、
折遺一柯当馥馨。折(タオ)って遺(オク)る一柯(イッカ) 馥馨(フクケイ)に当(ア)てて。
...註]
......久別重逢:久しぶりに再会する。   住客:宿泊客。          
......焉:どうして…だろうか。      性霊:人の心。
......好音:小鳥のきれいな鳴き声。
......暗香:どこからともなく匂ってくる香り、多く梅の香りをいう。
......柯:草木の枝や茎。
<現代語訳>
 久しぶりに再会した旅館の主人に寄す
.......序 久しぶりに初瀬・長谷(ハセ)寺に参詣した折、かつてよく利用した旅館に泊まった。
.......久しぶりに再会した(女?)主人は、いたずらっぽく私に言った:宿は昔のまま
.......変わることなく、あなたの来訪を待っていましたよ。あなたは心変わりしたのでは
.......ないですか? 私は即座に梅の花一枝を手折って、この詩を添えて、主人に手渡した。

宿泊客(私)が、人(あなた)の心など知る由もありませんが、
小鳥の囀りを聴くにつけ、昔の情景が蘇る、此処はわたしの心のふるさとです。
昔と変わらずに、庭いっぱいほのかな香りが漂っている、
香草の代わりに梅の一枝を手折って贈ります、梅の花同様、私に心変わりはありませんよ。

<簡体字およびピンイン>
...寄久別重逢宾館主人 Jì jiǔbié chóngféng bīnguǎn zhǔrén
......序 隔了好久拜訪長谷寺後,在一座賓館借了一夜宿。主人貧嘴薄舌地説: 
......这座賓館總是在站等着您,您不是变了心吗?我立刻折一柯梅花亲手交给 
......她,附上着这首诗.

住客焉知人性灵、 Zhù kè yān zhī rén xìnglíng, 
苏生旧景好音听。 sūsheng jiù jǐng hǎoyīn tīng.
暗香满院如昔日、 Ànxiāng mǎn yuàn rú xīrì,
折遺一柯当馥馨。 zhé wěi yī kē dàng fùxīn.
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上の紀貫之の歌に対して、宿の主人は次のように返歌した と:

花だにも 同じ心に 咲くものを 植えたる人の 心知らなん
.......花でさえ昔と同じ心のままに咲きますのに、ましてそれを植えた人の心を
.......覚えていてほしいものです。(板野博行)

このように即座に返歌できる宿の主人のセンスと力量も並みではないと思われます。上掲の歌の詞書(コトバガキ)に“この家の主人”とありますが、男性か女性かの情報はありません。

これらの歌の場合、歌を送る、それに対して歌を返すという遣り取りを通して、両人の“響きあう”心が感じられます。これは男性同志とは考え難い“響きあい”のように思えますが、如何でしょうか?

このように、物事を明確にすることなく、曖昧な情景を詠う。解釈は読者の感覚に任せる、読者の“読む”自由度の幅を広くする という意味では面白い技法かと思われる。“古今調の雅び”といわれる“歌風”と言えるのでしょうか。

この歌の中で、“主人”は重要な存在でありながら、一方、本質的に曖昧にするという歌風にあり、漢詩にするには難儀な歌と言えます。今回は女性と想定して訳出しをしました。このように自分の“読み/感想”で翻訳するという点、葛藤を覚えることではある。

歌の理解に役立つであろう背景、例えば季節感を表す自然現象など、を補足して詩を仕上げることは許されると思われる。今回の場合、元歌が技法の一つとして敢えて“曖昧”としてある点を“感想”を雑えて仕上げた点、検討すべき宿題とします。

作者・紀貫之(868?~945)について簡単に触れます。平安時代前~中期の歌人・貴族である。905(延喜5)年、第60代醍醐天皇(在位897~930)の命により、初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の撰に当たった。

特筆すべきは、仮名で書かれたその序文「仮名序」の執筆である。後代の文学に多大な影響を及ぼした歴史的な歌論とされている。三十六歌仙の一人で、『古今和歌集』(101首)以下勅撰和歌集に435首収められている と。

今一つ大きな功績は、仮名による散文の『土佐日記』の執筆が挙げられる。60歳過ぎて土佐守の任を終え、帰洛する55日間の旅日記である。仮名書きだからこそできる諧謔(ダジャレの類)がよく出てくるという。例えば、「船旅なれど、“馬のはなむけす”」とか。

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