愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題329 飛蓬-182  みふゆつぎ 春し来ぬれば 鎌倉右大臣 源実朝

2023-04-24 09:31:13 | 漢詩を読む

遥かに山を望めば、初春の陽射しに映えて、新緑の木々が,伏した椀を置いたように、際立って丸く盛り上がって見える。活き活きとした息吹を感じます。下記の歌は、ちょうど今頃の、初春の情景であろう。

 

oooooooooooooo

みふゆつぎ 春し来ぬれば 青柳の 

   葛城山上 霞たなびく 

(金槐集 春・二十; 新勅撰集 春上・三十) 

 (大意) 冬に続いて春がやってきたので 青柳の新芽の緑も美しい葛城山には 今 霞がたなびいていることだ。

  註] 〇みふゆつぎ:“春”の枕詞; 〇春し来ぬれば:“し”は強めの助詞; 〇青柳の:“葛城”の枕詞; 〇葛城山:河内と大和の国境にある山。

xxxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩>

 孟春葛城山    孟春葛城山   [上平声十一真韻] 

草木茁芽冬已春, 草木 芽を茁(ダ)し 冬 已(スデ)に春, 

欣欣天地入佳辰。 欣欣(キンキン)たり天地 佳辰(カシン)に入る。 

葛城山上靄繚繞, 葛城山(カツラギサン)上 靄 繚繞(リョウジョウ)たり, 

青柳依依自有神。 青柳 依依(イイ)として自(オノ)ずから神有り。 

註] 〇茁(草木が)芽をだす; 〇欣欣:よろこぶさま、植物が生気あふれるさま; 〇佳辰:よい時節; 〇缭绕:めぐる、たなびく; 〇依依:生い茂った柳がなよなよと揺れるさま; 〇有神:神業のようである。

<現代語訳> 

 初春の葛城山 

草木も芽吹き 冬は往きもう春だ、

天地ともに喜ばしく佳い季節となった。

葛城山には春霞がかかり、

麓の青柳がなよなよと春風に揺れて 素晴らしい情景である。

<簡体字およびピンイン> 

 孟春葛城山   Mèngchūn Géchéng shān   

草木茁芽冬已春, Cǎo mù zhuó yá dōng yǐ chūn,   

欣欣天地入佳辰。 xīn xīn tiān dì rù jiā chén. 

葛城山上霭缭绕, Géchéng shān shàng ǎi liáo rào, 

青柳依依自有神。 qīng lǜ yī yī zì yǒu shén. 

oooooooooooooo 

 

実朝の歌は、次の歌を参考にしたものとされています。

 

み冬継ぎ 春は来れど 梅の花 

  君にしあらねば 招く人もなし (大伴書持 『万葉集』巻十七・3901)

(大意) 冬が過ぎ、春になったけれど、梅の花よ、君以外には招く人もいないのですよ。

 

白雲の 絶え間になびく 青柳の 

  葛城山に 春風ぞ吹く (『新古今集』 飛鳥井雅経* 春上・七四)

(大意) 白雲の切れ目に青柳がなびいている、葛城山に春風が吹きだしたのだ。

定家と実朝の間の遣り取りに貢献した [閑話休題326 (“23.04.03), 歌人・実朝の誕生 (20) 参照]

 

歌人・実朝の誕生 (23) 

 

実朝の歌に画期的な評価を与え、実朝を世に知らしめたのは、江戸時代中期の国学者、歌人・加茂真淵(1697~1769)であろう。真淵は、『歌意考』、『万葉考』、『国意考』等の著書、さらに『鎌倉右大臣集』(貞享本)の校訂を書いている。

 

真淵および真淵と実朝との関連について、以下、簡単に触れます。真淵は、当初から『万葉集』研究を志したわけではなかった。初学の頃、母から受けた次のような問が『万葉集』への扉を叩く契機であったとしている(『歌意考』藤平春雄 校注・訳)。

 

[このごろあなたたちが作歌の稽古をするというので、みなさんで口ずさんでいる歌の類は、作歌を知らない無教養な愚かなわたしには、どういう気持ちを歌ったのかいうことも理解できないのに、ここに書かれている上代の歌は、なるほどとわかって感銘を受け、声を出して言ってみても声調がすっきりしていて美しく聞こえるのですが、これはどういうわけのことだと思いますか]  と。

 

真淵は、“答え”を得ぬまゝ、年月を過ごした。古書を読み、内容を人に聞くなどしているうちに、「上代こそ真に手本として学ぶべき時代だ」と思うようになり、作歌態度については、40代の終わりごろから復古主義万葉尊重の立場を明確にしていった。

 

真淵の作歌に関連して、斎藤茂吉は、歌論『賀茂真淵』で次のように論じている。[中世歌学でも『万葉集』は本歌取りのための『万葉集』に過ぎなかった。不思議にも源実朝のごときものが出でて、万葉調の歌を作っている。

 

実朝以後、真淵の先進者たちでも、稀に万葉調らしい歌は見つかるが、強い信念を以て作っているのではない。真淵に至ってはじめて端的に明快に露骨に万葉調の歌でなければならぬと叫び、実践していった。]

 

また真淵の万葉観について、[古(イニシエ)の歌ははかなきが如くにしてよく見れば誠なり。後(ノチ)の歌は理(コトワリ)ある如くにしてよくみれば空言(ソラゴト)なり。古の歌は徒言(タダゴト)の如くにしてよく見れば心高きなり。後の歌は巧みある如くにしてよく見れば心浅きなり]との真淵の主張を紹介している。

 

「万葉尊敬者を連想する時は直ぐ賀茂真淵に行くのは順序で、それほど真淵は万葉を尊敬し、作歌に対しても万葉を唯一の手本としたほどの、万葉集にとっては尊ぶべき人である。」と、茂吉の真淵評である。

 

真淵は『金槐集』に触れる機会もあって、実朝の歌に感銘を受けた。すなわち、[『万葉集』の歌すべてが佳しとは言えないが、 “声調が渋滞せず、意味内容がはっきりわかり、優雅だと思われる心詞の歌”の数は少なからずある。万葉歌4300首もの中から、そのような歌を選び学んだのは鎌倉右大臣である]と述べている(『歌意考』)。

 

また、[実朝の歌こそ「奥山の谷間から岩を蹴散らして出てきて大空を翔(カケ)る龍の如く勢いがあり、野原の草木を靡かせ、雲や霧を吹き払う風の如く一途で、雄々しく且つ雅な古の姿を取り戻している」](『鎌倉右大臣家集の始に記るせる詞』)と、実朝の歌を絶賛している。

 

真淵は、実朝を育て、また実朝に育てられた、との思いに駆られる2先人ではある。

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閑話休題328 飛蓬-181  桜花 ちらばをしけむ 三代将軍 源実朝

2023-04-17 09:42:13 | 漢詩を読む

所によってはすでに散ってしまったであろうか、桜の花。春の陽射しを受けて、咲き誇る花に出逢うと、つい手を差し伸べたくなるものです。一枝取って、冠に、あるいは胸に飾りたいものだ とその衝動を詠った歌でしょうか。

 

oooooooooooooo 

    [詞書] 花をよめる

桜花 ちらばをしけむ 玉鉾(タマボコ)の 

  道行きぶりに 折(オ)りてかざさむ 

       (金槐和歌集 春64;新勅撰和歌集 春下106)  

 (大意) 桜の花、散ってしまっては惜しいよ、道中の行き合いに、枝を折って、

  冠に挿して飾ることにしよう。 

  註] 〇玉鉾の:“道”の枕詞、玉で飾られた鉾; ○道行きぶり:道中の行き

  合い、〇かざさむ:冠または髪に挿す。 

xxxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  詠桜花        桜の花を詠む   [下平声八庚韻] 

春郊絢麗一山櫻, 春郊(シュンコウ) 絢麗(ケンレイ)一山の櫻, 

無賞落花心不平。 賞(メデ)ること無く 花を落(チ)らすは心 平(オダヤカ)ならず。 

玉桙道上趁機会, 玉桙(タマボコ)の道上(ロジョウ) この機会に趁(ジョウ)じて, 

把朵撕插在冠行。 朵(エダ)を把(ト)って撕(チギ)りとり 冠に插(サ)して行かん。 

 註] ○春郊:春の慷慨; 〇絢麗:きらびやかで美しい; 〇玉桙:玉で飾

  られた桙(ホコ)、“道”の枕詞、特に意味はない; 〇趁:…に乗じて、…を利用

   して; 〇朵:花のついた枝。

<現代語訳> 

初春の郊外、山全体に桜の花が咲き誇っている、

この花を愛(メデ)ることもなく散らせては惜しくて心穏やかではない。

この道を通りがかったのを幸いに、

一枝手折って、冠に挿して行くことにしようか。

<簡体字およびピンイン> 

    咏樱花            Yǒng yīng huā

春郊绚丽一山樱, Chūn jiāo xuàn lì yī shān yīng, 

无赏落花心不平。 wú shǎng luò huā xīn bù píng

玉桙道上趁机会, Yù yú dào shàng chèn jī huì, 

把朵撕插在冠行。 bǎ duǒ sī chā zài guān xíng.

oooooooooooooo 

 

この実朝の歌に対すると、北宋の政治家・詩人・蘇軾の詩「吉祥寺に牡丹を賞す」を思い出します。その起・承句は:

      人老簪花不自羞、  人は老いて花を簪(シン)し自(ミズカ)らは羞(ハ)じず、

  花応羞上老人頭。  花は応(マサ)に羞ずべし 老人の頭(カシラ)に上(ノボ)るを。

     ……

  (大意) 私は年甲斐もなく花をかんざしにして 自分では恥ずかしくないが、

    花のほうでは 老人の頭につけられてきっと恥ずかしかろう。

    ……

 

宴会の後、夜遅く、牡丹の花を頭に挿してよい機嫌で帰路に就いているところです。江南の地・杭州に在任中で、この詩の季節も丁度今頃、日本と大差のない気候であったでしょう。きっと頬を撫ぜる春風も快く、無事に宿舎に辿り着けたことでしょう。

 

なお、蘇軾のこの詩は、筆者のお気に入りの一首で、この詩の“韻”を借りて、「子供の七五三祝い」の漢詩を書かせてもらいました[参照:閑話休題277 (‘22.08.29)]。「次韻の詩を書いた筆者は満足だが、それを許した蘇軾はさぞや御不満であろう」と、胸の底では羞じらいを覚えながら。

 

歌人・実朝の誕生 (22) 

 

歌人・源実朝の歌の特徴として、〇万葉調である、〇本歌取りの技術を駆使した歌が多い、〇独創性が高い、……等々。特に、“万葉調”であることが、当時としてはやや特異的なことであったようで、実朝がどのような過程を経て後世の人々から評価されてきたか、大略を見ておきたいと思います。

 

江戸時代中期の国学者・賀茂真淵(1697~1769)は、『万葉集』など古典研究を通じて古代日本人の精神を研究、端的に万葉調の歌でなければならぬと主張、自ら万葉の歌を唯一の手本として歌を作った。すなわち、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した人である。 

 

実朝の歌に画期的な評価を与えたのは、真淵であろう。真淵以前、作歌の手本として『万葉集』は必ずしも重要視されていなかったようである。ところが真淵は、実朝の歌に万葉調の歌を見出し、驚き絶賛している風である。

 

真淵に次ぎ実朝の歌を称揚するのは明治時代の正岡子規(1867~1902)である。子規は、俳句の革新で最もよく知られるが、俳句のみならず、文学の多方面に亘る創作活動を行った、明治を代表する文学者である。

 

『歌よみに与ふる書』を著し、「……実朝といふ人は三十にも足らで、……最期を遂げられ誠に残念致し候。……実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、……」と絶賛しています。

 

昭和に入って間もなく、国文学者で、『万葉集』研究者でもある佐佐木信綱(1872~1963)が、昭和四(1929)年五月、『金槐和歌集』のいわゆる『定家所伝本』を発見した。その奥書に「建暦三年十二月十八日」とあった。これは同本の歌は、1213年(22歳)までに作られたものであることを証明している。

 

一方、実朝が、定家から『万葉集』を献上されたのは、同年「建暦三年十一月二十三日」ということであった。奥書までの期間が短いことから、同本中の万葉調の歌は、定家から献上された『万葉集』を参考に詠まれたものではないことを強く示唆している。

 

斎藤茂吉(1882~1953)は、“既存の勅撰集の中に散見する万葉歌人の歌を通じて『万葉集』の歌に接し、影響を受けた結果であろう”との仮説を基に、逐一検討を進めた。結果、「予期したよりも万葉歌人乃至読み人知らずの歌の影響が多い」ことを明らかにした。

 

そこで茂吉は、「実朝が初期から万葉調が好きだったという証拠であり、『万葉集』本を直接読まなくとも、万葉の歌を真似得たという証拠になるのである」と結論している(『歌論 源実朝』)。実朝の感受性が高い証拠であるとも言えるのではないでしょうか。

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閑話休題327 飛蓬-180  夕されば 衣手すずし 三代将軍 源実朝

2023-04-10 09:27:47 | 漢詩を読む

格式の高い宮中にあって、クール・ジャパンと言うわけにはいかない。対暑法は、団扇で扇ぐ位でしょうか。炎暑の時期を過ぎ、夕方の涼やかな風にホッとした様子である。

 

ooooooooo 

夕されば 衣手すずし 高円の

     尾上の宮の 秋の初風  (金槐集 秋・162;新勅撰集 秋・182)

 (大意) 夕方になると着物の袖口が涼しく感じられる、離宮・尾上の宮にも

  秋の訪れたことを報せる風なのだ。 

  註] ○夕されば:夕方になると; 〇高円(タカマド)の尾上(オノエ)の宮:奈良

    市東部、高円山にあった第45代聖武天皇(701~756、在位724~749)の

    離宮。 

xxxxxxxxxx 

  孟秋風               孟秋の風     [上平声一東韻]

高円尾上宮, 高円(タカマド)の尾上(オノエ)の宮(ミヤ), 

浮景暮雲中。 浮景(フケイ) 暮雲(ボウン)の中(ウチ)。 

袖臂覚涼氣, 袖を通した臂(ウデ)に涼氣を覚(オボ)える,

正是秋初風。 正に是(コ)れ秋の初風にあらずや。 

  註] 〇高円の尾上(オノエ・オノウエ)の宮:奈良市東部、高円山にあった聖武天皇の

   離宮; 〇浮景:日の光; 〇袖臂:袖に通した手。   

<現代語訳> 

 初秋の風 

高円の尾上の離宮、

雲間から夕暮れ時の日の光が射している。 

袖を通した袖口の手が涼しく感じられ、 

正に秋の初風の訪れなのだよ。

<簡体字およびピンイン> 

   孟秋风       Mèng qiū fēng

高圆尾上宫, Gāo yuán wěishàng gōng,  

浮景暮云中。 fú jǐng mù yún zhōng.  

袖臂觉凉气, Xiù bì jué liáng qì,  

正是秋初风。 zhèng shì qiū chū fēng.  

ooooooooo 

 

和歌の中で、寒さ、涼しさの表現に“衣手”など、袖口に関わる用語に屡々出会います。手首までしっかりと保護できない日本の衣裳、袖口の広い着物の特殊性に拠るのでしょうか。万葉の時代からの用語である。掲歌は、次の萬葉集の歌の本歌取りと思われる。

 

夕されば 衣手寒し 高松の

    山の木ごとに 雪ぞ降りたる (万葉集 作者不詳  巻十 2319)  

 (大意) 夕方になると 着物の袖口が寒い 見ると山に茂る高い松のどの木に

    も雪が降っている。

 

歌人・実朝の誕生 (21) 

 

これまで「§1章 実朝の歌人としての天分・DNA」、「§2章 教育環境、特に和歌の指導に関わった師や協力者」について振り返ってきました。以後、最後の章:「§3章 後世、“歌人・実朝像”がいかに構築されていったか」、整理していきたいと思います。

 

実朝の歌集『金槐和歌集』が遺されており、実朝の作品に触れることができるのは幸いなことである。後世、多くの研究者が研究対象としてきており、「歌人・実朝」の像は、かなり鮮明になりつつあるように思われます。

 

『金槐和歌集』の編纂時期や成立過程等々、謎の多い著作物のようではある。まず、“実朝の和歌”そのものから離れ、後々の参考のため、著作物・『金槐和歌集』について、ここで大枠、整理しておきたいと思います。

 

佐々木信綱(1872~1963)の説によれば、“金”は、鎌倉の“鎌”の字の偏、“槐”は、唐名で“大臣”の意の“槐門”に由来する と。“金塊”とは、直訳するなら「鎌倉右大臣」であり、百人一首では「鎌倉右大臣」で表記されている。

 

『金槐和歌集』の名称は、誰が名付けたかは不明である。定家か、あるいは学問の指導に当たった源仲章か? 『蒙求和歌』や『百詠和歌』を用意して歌の指導に当たり、唐事情に詳しかった源光行ではなかったか? 

 

『金槐和歌集』には、大きく『定家所伝本』(所載歌数:663首)と『貞享(ジョウキョウ)四年板本』(所載歌数:716首)の2系統がある。両本は、それぞれ、『定家本』および『柳営亜槐本』とも呼ばれる。 

 

両本は、その構成・部立て等、違いが見られる。『定家所伝本』では、「春・夏・秋・冬・賀・恋・旅・雑」の部立てであるが、『貞享四年板本』では、「春・夏・秋・冬・雑」であり、「賀・恋・旅」を欠いている。

 

『定家所伝本』は、昭和4(1930)年5月、佐々木信綱により発見され、その奥書に「建歴三(1213)年十二月十八日」とある。1213年12月には、実朝(22歳)が、これまでに作られた歌を定家に届けたことはすでに述べた。

 

しかし実朝が、今日見るような形に編集・整理して定家に届けたのか定かではない。『定家所伝本』では、最後の三首を「太上天皇御書下預時歌三首」として締めていることから、実朝が後鳥羽上皇に献上するため整えて届けたものとも考えられている。

 

一方、20歳になったばかりの実朝が家集を纏めることがあったのか、実朝自身が編んだとみるには早すぎるのではないか。恐らく実朝が亡くなった後に、実朝から送られてきていた資料を集めて、定家が編んだのではないかとも考えられている。

 

『貞享四年板本』は、刊行した人が異なる2種知られているが、内容は同じのようである。その奥書に「柳営亜槐なる人改編」とあり、“柳営亜槐なる人”が編纂に関係している。

 

“柳営”とは唐名で“将軍”、“亜槐”とは“権大納言”の意で、“柳営亜槐なる人”とは、第4代将軍・藤原頼経(1218~1256、将軍位1226~1244)であろうとされている。したがって同本は、実朝の没後に編纂されたことは確かである。

 

『貞享四年板本』には、「賀・恋・旅」の部がなく、それでいて、定家本にない歌が数多く含まれる。したがって1213年、定家に届けられたその後の歌や、定家に送られなかった歌も含まれているのであろう と考えられている。

 

[この稿は、主に、小島吉雄 校注『金槐和歌集』(日本古典文学大系、岩波書店)および五味文彦『源実朝 歌と身体からの歴史学』(角川選書)を参考に纏めてあります。]

 

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閑話休題326 飛蓬-179  千々の春 万の秋に 三代将軍 源実朝

2023-04-03 09:51:30 | 漢詩を読む

『金塊集』中、「賀」部の歌は18首と少ない。歌の中で、“君”とは、後鳥羽上皇を指しており、上皇の長寿、また上皇の治世が千載も続くことを願い、慶賀する歌が多い。次の歌はその一つで、平穏のうちに千万歳も生き永らえられることを念ずる歌と言えよう。

 

ooooooooooooo 

  慶賀の歌 

千々の春 万(ヨロズ)の秋に ながらえて 

  月と花とを 君ぞ見るべき  

        (金槐和歌集 賀・353; 玉葉集 巻七 1049) 

 (大意) 千年も万年も生き永らえて 君は月と花とを数え切れぬほど何回も

  見るであろう。 

  註] 〇千々の:元来「色々」の意であるが、ここでは「よろづ」に対応して

    用いてあるから、数の多い意味。   

xxxxxxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

  慶賀君長寿    君の長寿を慶賀す   [去声八霽韻] 

四時肅肅更遷逝, 四時は肅肅(シュクシュク)として更(コモ)ごも遷(ウツ)り逝(ユ)き,

君寿悠悠千万歲。 君 悠悠(ユウユウ)として千万歲を寿(イキナガラ)えん。

遇見時時花亦月, 時時(オリオリ)の花亦(ト)月に遇見(デア)い,

傲賞勝事長久計。 勝事(ショウジ)を賞(メ)でるに傲(オゴ)れること長久に計(ハカ)らん。

  註] 〇肅肅:ひっそりと静かなさま; 〇悠悠:ゆったりと落ち着いたさま;

   〇遇见:出会う; 〇傲:おごれる; 〇勝事:勝れた風物; 〇長久:

   時間が長いこと。 

<現代語訳> 

  君の長寿を慶賀す 

時節は静かに次々に移り変わっていくが、

君は悠悠と千万歳も生き永らえよう。

折々の花と月に出会い、

この先 幾久しく 素晴らしい風物を愛でて楽しむことであろう。

<簡体字およびピンイン> 

  庆贺君长寿       Qìnghè jūn chángshòu

四时肃肃更迁逝, Sì shí sù sù gèng qiān shì,

君寿悠悠千万岁。 jūn shòu yōuyōu qiān wàn suì.  

遇见时时花亦月, Yùjiàn shíshí huā yì yuè,   

傲赏胜事长久计。 ào shǎng shèng shì chángjiǔ .  

oooooooooooooo 

 

掲歌の参考歌として次の歌が挙げられている。

 

ちぢの秋 ひとつの春に 向かわめや 

  紅葉も花も 共にこそ散れ (伊勢物語)  

 (大意) 千々の秋を集めたとしても、一つの春の素晴らしさには及びません。

    しかし紅葉も桜の花も、ついには共に散ってしまうのよ。

 

なお、参考歌は、元々男性(“春”)と親しかった女性が、“春”の不人情が基で別の男性(“秋”)と親しくなった。そこで“春”が、嫉妬あるいは未練がましく、「“秋”がよいのね 恨みますよ」 と歌を贈ります。それに対して「紅葉(“春”)も桜の花(“秋”)のどっちも一緒よ、ともに散ってしまいます」との女性の返歌である。 

 

歌人・実朝の誕生 (20) 

 

実朝の歌の師について見てきましたが、師と仰ぐ源光行および藤原定家ともに京の人である。今日のような通信手段がある時代ではない。在京の師と鎌倉の実朝の間での教材や諸資料の遣り取りに関わる人は、単なる連絡係以上に重要な存在であったと思われます。

 

京-鎌倉間の連絡には、主に在京の近臣・内藤兵衛尉知親(トモチカ、/朝親)および京歌壇の大物・飛鳥井(藤原)雅経(アスカイ マサツネ)が携わっていた。両人について、その活動状況を見てみます。 

 

当初、その役を担ったのは、御家人・知親である。実朝は、1204年、奥方を京から迎えます。後鳥羽院の外叔父にあたる前の大納言・坊門信清の娘であった。その折、挙式に付き添ってきた知親は、定家の和歌の弟子であった。 

 

したがって、知親は、実朝にとって身内同然に近く、実朝は定家らの編んだ『新古今集』を希望し、知親を通してその稿本を入手している。1209年には、実朝の歌20首を住吉社に奉納、また30首を定家に届けて批評を仰ぎ、定家から口伝書『近代秀歌』や『万葉集』を献上され、実朝に届けている。

 

1208年冬2月には、北条義時の山荘に雪見に出かけた実朝は、歌会を開き、側近の北条泰時や東重胤らに交じって、知親も参席している。この頃から実朝は本格的に詠みだしたようで、実朝の周囲で歌会も開かれるようになる。

 

雅経(1170~1221)も仲介役を果たしているが、雅経の実朝との繋がりは尋常ではない。源平の争いが終焉した後、頼朝・義経間に不和が生ずるが、その折、雅経の父・頼経が義経に助力した罪で安房に流罪となる(1186)。さらに3年後、再び義経をかばったという疑いで伊豆に流罪となった。

 

雅経自身も連座で鎌倉に送られた。しかし雅経は、頼朝から蹴鞠(ケマリ)と和歌の才を高く評価され、取り立てられて、頼家や実朝と近しくする。実朝の1~5歳の間で、その後、雅経は帰京している。雅経は、年少実朝の歌才を見抜いていたのではないでしょうか。

 

1197年、雅経は罪を許され、後鳥羽上皇の命で帰京します。以後、上皇の近臣として重んじられ、また藤原俊成に和歌を学び、内裏歌壇でも中心的存在となる。『新古今集』の撰者の一人であり、また百人一首歌人でもある(94番)。詠作では、特に「本歌取り」の技巧に優れていた。

 

蹴鞠の面では上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられ、後に「飛鳥井流蹴鞠」の祖とされるようになった。京に戻った後も、和歌や蹴鞠の関連で、鎌倉幕府の招きによって度々鎌倉を訪ねていた。

 

1211年には、雅経の仲介で、鴨長明が鎌倉に下向し、実朝と再三の面談の機会を持っている。雅経は、和歌の師として仕えるよう長明を推挙したが、実朝は同意することはなかったようである。

 

内藤知親および飛鳥井雅経は、度々鎌倉を訪れ、単なる資料等の受け渡し役としてだけでなく、普段の面談や歌会を通じて、京歌壇の様子や実際の詠歌の指導に力を尽くしたであろうことは、十分に推測できる。

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