遥かに山を望めば、初春の陽射しに映えて、新緑の木々が,伏した椀を置いたように、際立って丸く盛り上がって見える。活き活きとした息吹を感じます。下記の歌は、ちょうど今頃の、初春の情景であろう。
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みふゆつぎ 春し来ぬれば 青柳の
葛城山上 霞たなびく
(金槐集 春・二十; 新勅撰集 春上・三十)
(大意) 冬に続いて春がやってきたので 青柳の新芽の緑も美しい葛城山には 今 霞がたなびいていることだ。
註] 〇みふゆつぎ:“春”の枕詞; 〇春し来ぬれば:“し”は強めの助詞; 〇青柳の:“葛城”の枕詞; 〇葛城山:河内と大和の国境にある山。
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<漢詩>
孟春葛城山 孟春葛城山 [上平声十一真韻]
草木茁芽冬已春, 草木 芽を茁(ダ)し 冬 已(スデ)に春,
欣欣天地入佳辰。 欣欣(キンキン)たり天地 佳辰(カシン)に入る。
葛城山上靄繚繞, 葛城山(カツラギサン)上 靄 繚繞(リョウジョウ)たり,
青柳依依自有神。 青柳 依依(イイ)として自(オノ)ずから神有り。
註] 〇茁(草木が)芽をだす; 〇欣欣:よろこぶさま、植物が生気あふれるさま; 〇佳辰:よい時節; 〇缭绕:めぐる、たなびく; 〇依依:生い茂った柳がなよなよと揺れるさま; 〇有神:神業のようである。
<現代語訳>
初春の葛城山
草木も芽吹き 冬は往きもう春だ、
天地ともに喜ばしく佳い季節となった。
葛城山には春霞がかかり、
麓の青柳がなよなよと春風に揺れて 素晴らしい情景である。
<簡体字およびピンイン>
孟春葛城山 Mèngchūn Géchéng shān
草木茁芽冬已春, Cǎo mù zhuó yá dōng yǐ chūn,
欣欣天地入佳辰。 xīn xīn tiān dì rù jiā chén.
葛城山上霭缭绕, Géchéng shān shàng ǎi liáo rào,
青柳依依自有神。 qīng lǜ yī yī zì yǒu shén.
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実朝の歌は、次の歌を参考にしたものとされています。
み冬継ぎ 春は来れど 梅の花
君にしあらねば 招く人もなし (大伴書持 『万葉集』巻十七・3901)
(大意) 冬が過ぎ、春になったけれど、梅の花よ、君以外には招く人もいないのですよ。
白雲の 絶え間になびく 青柳の
葛城山に 春風ぞ吹く (『新古今集』 飛鳥井雅経* 春上・七四)
(大意) 白雲の切れ目に青柳がなびいている、葛城山に春風が吹きだしたのだ。
*定家と実朝の間の遣り取りに貢献した [閑話休題326 (“23.04.03), 歌人・実朝の誕生 (20) 参照]。
歌人・実朝の誕生 (23)
実朝の歌に画期的な評価を与え、実朝を世に知らしめたのは、江戸時代中期の国学者、歌人・加茂真淵(1697~1769)であろう。真淵は、『歌意考』、『万葉考』、『国意考』等の著書、さらに『鎌倉右大臣集』(貞享本)の校訂を書いている。
真淵および真淵と実朝との関連について、以下、簡単に触れます。真淵は、当初から『万葉集』研究を志したわけではなかった。初学の頃、母から受けた次のような問が『万葉集』への扉を叩く契機であったとしている(『歌意考』藤平春雄 校注・訳)。
[このごろあなたたちが作歌の稽古をするというので、みなさんで口ずさんでいる歌の類は、作歌を知らない無教養な愚かなわたしには、どういう気持ちを歌ったのかいうことも理解できないのに、ここに書かれている上代の歌は、なるほどとわかって感銘を受け、声を出して言ってみても声調がすっきりしていて美しく聞こえるのですが、これはどういうわけのことだと思いますか] と。
真淵は、“答え”を得ぬまゝ、年月を過ごした。古書を読み、内容を人に聞くなどしているうちに、「上代こそ真に手本として学ぶべき時代だ」と思うようになり、作歌態度については、40代の終わりごろから復古主義万葉尊重の立場を明確にしていった。
真淵の作歌に関連して、斎藤茂吉は、歌論『賀茂真淵』で次のように論じている。[中世歌学でも『万葉集』は本歌取りのための『万葉集』に過ぎなかった。不思議にも源実朝のごときものが出でて、万葉調の歌を作っている。
実朝以後、真淵の先進者たちでも、稀に万葉調らしい歌は見つかるが、強い信念を以て作っているのではない。真淵に至ってはじめて端的に明快に露骨に万葉調の歌でなければならぬと叫び、実践していった。]
また真淵の万葉観について、[古(イニシエ)の歌ははかなきが如くにしてよく見れば誠なり。後(ノチ)の歌は理(コトワリ)ある如くにしてよくみれば空言(ソラゴト)なり。古の歌は徒言(タダゴト)の如くにしてよく見れば心高きなり。後の歌は巧みある如くにしてよく見れば心浅きなり]との真淵の主張を紹介している。
「万葉尊敬者を連想する時は直ぐ賀茂真淵に行くのは順序で、それほど真淵は万葉を尊敬し、作歌に対しても万葉を唯一の手本としたほどの、万葉集にとっては尊ぶべき人である。」と、茂吉の真淵評である。
真淵は『金槐集』に触れる機会もあって、実朝の歌に感銘を受けた。すなわち、[『万葉集』の歌すべてが佳しとは言えないが、 “声調が渋滞せず、意味内容がはっきりわかり、優雅だと思われる心詞の歌”の数は少なからずある。万葉歌4300首もの中から、そのような歌を選び学んだのは鎌倉右大臣である]と述べている(『歌意考』)。
また、[実朝の歌こそ「奥山の谷間から岩を蹴散らして出てきて大空を翔(カケ)る龍の如く勢いがあり、野原の草木を靡かせ、雲や霧を吹き払う風の如く一途で、雄々しく且つ雅な古の姿を取り戻している」](『鎌倉右大臣家集の始に記るせる詞』)と、実朝の歌を絶賛している。
真淵は、実朝を育て、また実朝に育てられた、との思いに駆られる2先人ではある。