愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題70 漢詩を読む 酒に対す-6:杜甫-2

2018-03-24 16:10:46 | 漢詩を読む
この一句!

酒債尋常行処有
 酒代の借金は普通で、行く先々にあるよ!

杜甫の「曲江二首 其の二」の中の一句です。「“人生七十 古来稀なり”……..、うららかな春を何時までも味わっていたいものである」と結んでいます。この詩から、“古希(=数え年70歳)”という言葉が生まれました。
―――――
他人の飲みっぷりを書いた杜甫自身はどうでしょうか。酒豪とは言えなさそうですが、事あるごとにお酒の話題を詠っています。下に挙げた詩では、衣服を質に入れて酒代を工面しても、なお足らず、行く先々で借金をしている様子が伺えます。

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曲江二首 其の二       杜甫
朝回日日典春衣  朝(チョウ)より回(カエ)りて日日(ヒビ)春衣(シュンイ)を典(テン)し、
毎日江頭尽醉帰  毎日 江頭(コウトウ)に醉を尽くして帰る。
酒債尋常行処有  酒債(シュサイ) 尋常(ジンジョウ) 行く処に有り、
人生七十古來稀  人生 七十(シチジュウ) 古來(コライ)稀(マレ)なり。
穿花蛱蝶深深見  花を穿(ウガ)つの蛱蝶(キョウチョウ) 深深(シンシン)として見え、
点水蜻蜓款款飛  水に点ずるの蜻蜓(セイテイ) 款款(カンカン)として飛ぶ。 
伝語風光共流転  伝語(デンゴ)す 風光(フウコウ)共に流転(ルテン)するを、
暫時相賞莫相違  暫時(ザンジ)相賞(アイショウ)して相違(アイタガ)うこと莫(ナカ)れと 。
註]
曲江:池の名。長安随一の行楽地として賑わった
典:質に入れる
酒債:酒代の借金
穿花:(蝶が)花の中へ入り込んでその蜜を吸う
点水:(トンボが)水面に尾をつけて卵を産む
款款:緩やかなさま
伝語:言い伝える、伝言する

<現代語訳>
朝廷を退出すると、日々着ている春の衣服を質に入れて、
毎日曲江のほとりで酒を飲んでは、酔って帰る。
酒代の借金は普通で、行く先々にある、
人生は短く、昔から七十歳まで生きるのは稀なのだ。
花の蜜を吸う蝶々は 深々と花に入り込んでいる、
水面に尾を付けるトンボはゆったりと飛んでいる。
このような自然の風光に対してともに流転して行きましょうと伝えたい、
しばらく相ともに楽しみ、お互い背くことのないようにしましょう と。
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杜甫の生涯について簡単に触れておきます。

杜甫 (712~770) の先祖には、三国時代~西晋のころ(3世紀)「破竹の勢い」で活躍した武将・杜預がいる と。また祖父の杜審言(ト シンゲン)は、初唐の著名な宮廷詩人であり、杜甫は、いわゆる名門の出と言えるでしょう。

出生地は、洛陽の近郊、現河南省鞏義(コンギ)市の由。6歳の頃には詩文を作ったと言われており、優れた才の持ち主であり、13歳の頃には洛陽で文人の仲間入りしていたようです。

杜甫も例に漏れず、仕官して理想の政治を行いたいという希望をもち、23歳(735)に科挙(進士)の試験を受けるが、及第できなかった。さらに35歳(747)には‘一芸に通じる者の試験’を受験しているが、やはり不合格であったようです。

詩作活動は活発で、社会や政治の矛盾を題材とした詩歌を作り、積極的に有力者に献じて就職活動を行っていた。40歳前後の頃、官職を得ていたが、755年、“安史の乱(~763)”が起こり、混乱の中に置かれます。

756年長安が陥落して、杜甫は、一時反乱軍により長安で幽閉されます。757年、長安を脱出して、玄宗から帝位を継いでいた粛宗のもとに駆け付けます。以後、難を逃れていた粛宗らは安氏の討伐に向かい、年末長安を奪還します。

杜甫は、粛宗のもとに駆け付けたことで、その忠誠心を認められて左拾遺(天子を諫める役職)の位を得ています(757)。しかし敗戦の責任を問われた宰相・房琯(ボウカン)を弁護したことで、粛宗の不興を買い華州(陝西省華県)に左遷されます(758)。

その頃、安史の乱の影響でしょう、関中一帯が飢饉に見舞われたため、官を捨てます。方々移動を繰り返した後、蜀道を越えて成都に赴きます(759)。と言うは安いが、妻子とともに、かの険難な蜀道を越えての旅路、如何ばかりな難儀であったろうと、想像するだに胸が痛くなるのを禁じえません。

幸いに、成都では、かつて房琯の下で働いていた厳武が成都を治めていて、流浪して来た杜甫を厚遇したとのことである。杜甫は、760年、成都で “杜甫草堂”を築き、やっと安寧な時を過ごすことができたようです。

しかし765年(53歳)、襄陽を経て故郷の洛陽に帰るべく、長江を下る旅に出ました。実際は、三峡を経て、さらに長江を下り、洞庭湖の辺りで亡くなりました。770年、58歳の生涯でした。

ところで、今回取り上げた詩ですが、先に触れたように、房琯を弁護したことで、粛宗の不興を買い、疎まれていた頃の作品とされています。やっと得た官職を追われるかも知れない、という絶望感に襲われていたのでしょう。

酔わずにはいられない、という心境にあって、毎日、酒代にも事欠く状態でありながら、曲江のほとりでお酒に浸っていたものと想像されます。杜甫にとって、生活環境のどん底にあった一時期での飲酒と言えようか。

本来は、杜甫は、たまたま親しいお客さんが訪ねてくると、垣根越しにお隣の翁にも声を掛けて、揃ってお酒を酌み交わす、このような“お酒飲み”であると想像されます(閑話休題18、「客至る」;2016-10-10投稿 参照)。
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閑話休題69 漢詩を読む 酒に対す-5:杜甫-1

2018-03-13 16:37:13 | 漢詩を読む
―――――
この一句!:
飲如長鯨吸百川
飲みっぷりは大クジラが百もの川の水を一口に吸い込むようなものだ

盛唐時の愛飲家を紹介する、杜甫の「飲中八仙歌」の中の一句です。愛飲家八人衆の一人、左丞相の李適之の飲むさまを詠っています。
―――――
“飲中”とは、今様に言えば“アル中”でしょうか? 社会派の‘詩聖’と言われる杜甫にしては珍しく、ダジャレに近い、非常に愉快な詩を残しています。「飲中八仙歌」のうち酒豪四人を取り上げます。下の詩参照。

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 飲中八仙歌
知章騎馬似乗船、 知章(チショウ)が馬に騎(ノ)るは船に乗るに似たり、
眼花落井水底眠。 眼花(ガンカ) 井に落ちて水底に眠る。
汝陽三斗始朝天、 汝陽(ジョヨウ)は三斗にして始めて天に朝し、
道逢麹車口流涎、 道に麹車(キクシャ)に逢えば口に涎(ヨダレ)を流す、
恨不移封向酒泉。 恨(ウラ)むらくは封(ホウ)を移して酒泉に向わざるを。
左相日興費万銭、 左相(サショウ)の日興(ニッキョウ) 万銭を費やす、
飲如長鯨吸百川、 飲むこと長鯨(チョウゲイ)の百川(ヒャクセン)を吸うが如し、
銜杯楽聖称避賢。 杯を銜(フク)み聖(セイ)を楽しみ賢(ケン)を避(サ)くと称す。
………(省略)
李白一斗詩百篇、 李白一斗 詩 百篇、
長安市上酒家眠、 長安市上 酒家(シュカ)に眠る、
天子呼来不上船、 天子 呼び来たれども船に上(ノボ)らず、
自称臣是酒中仙。 自(ミズカ)ら称す 臣(シン)は是(コレ)酒中(シュチュウ)の仙と。
………(省略)
 註] 
眼花:目がかすむこと、目がまわる
麹車:酒の原料である麹(コウジ)を積んだ車
聖と賢:それぞれ、清酒と濁酒;お酒の隠語、魏の曹操が禁酒令を出したときに密かに使われていたらしい

<現代語訳>
 愛飲家八人衆の歌
賀知章が酔って馬に乗ると、ゆらゆらと揺れていて舟に乗っているようだ、
目はかすんでいて、井戸に落ちてもそのまま水中で眠り込みそう。
汝陽王は、三斗のお酒を飲んでから出仕する、
途中麹(コウジ)を運ぶ車に出会うと口から涎を流して、
酒泉に封じられなかったことを恨んでいる。
左丞相の李適之(リ セキシ)は、日々の遊興に万銭を使い、
飲みっぷりは大きなクジラが百もの川の水を吸い込むようなものだ。
飲むにあたって清酒は頂くが、濁り酒は避けているという。
……(省略)
李白は、一斗の酒を飲むと、詩百編ができる。
都長安の酒場で眠りこけて、
帝のお呼びが掛かっても応えず、
「私は酒浸りの仙人なのだ」と嘯いている。
…… (省略)
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陶淵明から離れて、まず杜甫が挙げた愛飲家たちを「飲中八仙歌」で見ます。作者の杜甫については改めて触れるとして、今回は「飲中八仙歌」中、四人の酒豪について見て行きます。

賀知章(ガ チショウ、659-744)については、本シリーズの初期に触れました(閑話休題12 & 13、参照)。簡単に振り返っておきます。

李白が初めて宮中で玄宗皇帝にお目に掛かった際、偶然に賀知章も居合わせていた。そこで李白の詩文を見て即座に「謫仙人也」と評して、皇帝に紹介し、李白が宮廷詩人となる機会を得たという逸話がある。

賀知章は、紹興酒で名高い紹興の出です。李白は、後に紹興を訪ね、“昔、長安で自分を‘謫仙人’と評した。貴重な持ち物を酒代に変えてはご馳走してくれたが、今は草葉の陰に眠る。酒を飲むと思い出し、涙がこぼれる“と述懐する詩を残しています(「対酒憶賀監」)。

賀知章は、無類の酒好きで‘四明狂客’と号した(四明:紹興に近い四明山の略)。酔うと目はかすんできて、馬に乗る姿は舟に乗っているかのようである。手綱もしっかりと持っている風には見えない。井戸に落ちてそのまま寝込むのではないか と。 

汝陽王・李璡 (リ シン、? ~750) は、玄宗皇帝の兄・寧王・李憲の子。三斗の酒を飲んでやっとこさ腰を上げて出仕する。道で酒の原料である麹を積んだ車に出くわすと、その香りに刺激されて、涎を流し、恨みを込めて言う、どうして酒泉(現甘粛省)に封じてくれないのだ と。

“ダジャレのおじさん”とよく耳にします。杜甫が宮廷に出入りしていた40歳台のころ、まさに‘おじさん’の頃の作品かと想像しています。“硬い社会派”とレッテルを張りがちですが、人間杜甫の奥行きが感じられて、楽しくなります。

左丞相の李適之 (リ セキシ、694~747) は、大酒豪で一斗のお酒を飲んでも酔わなかった と。まさに大きなクジラが幾本もの川の水を一口で吸い込むという表現がぴったりと来るように思える。

李適之は、時の宰相・李林逋との権力争いに敗れて相(ショウ)を退いています(746)。李林逋は、玄宗皇帝の下、長年宰相の座にあって、名だたる腐敗政治の元凶とされています。政敵に対しては容赦することはなかった と。

李適之は、相を退くに当たって、“賢(ケン)を避けて初めて相(ショウ)を罷(ヤ)め、聖(セイ)を楽しんで且(シバ)らく杯を銜(フク)む。”で始まる五言絶句「罷相作、相を罷 (ヤ)めて作る」という詩を作っています。

その心は、“腐敗して濁った世界(賢=濁り酒)を避けて、清らかな世界(聖=清酒)に行き、一杯頂くとしよう”と、自らの身の振り方とお酒を掛けた表現です。この掛言葉は、杜甫の発想ではなく、李適之の発想でした。

なお、李適之は、丞相を辞した翌年(747)、毒薬を飲んで自害しています。権力闘争の結末であったのではないでしょうか。

李白は、“一斗詩百篇”と評されています。常時お酒を頂くのと詩作が同時進行であったことを言っているのでしょう。

杜甫と李白は、李白が長安を追われた744年に洛陽において逢っています。二人が知己を得た最初の機会だったのではないでしょうか。翌745年には斉の国で再会し、飲み回っていたようですが、またそれが最後の会合であったようです。

杜甫は、李白をはじめ詩中の人々の行状を直接目撃しているわけではなさそうです。この詩は、杜甫が長安に出たころ、多分に750年代、長安での風聞を基にして書かれたものと思われます。

八仙中、李白以外の諸人については2~3句ですが、李白については4句を当てています。李白-杜甫の関係の深さ、あるいは李白に対する杜甫の尊敬の念の強さを示しているのでしょう。

「飲中八仙歌」のその他四人については:張旭(書家)及び焦遂(詳細不明)はそれぞれ酒量3杯及び5斗、また崔宗之(垢ぬけた美少年)及び蘇晋(禅僧?)については飲みっぷりを窺わせる表現はありません。

この詩は、作られた直後に公にされたのでしょうか?歌に詠まれた当人の感想を聞きたいものです。750年代の作とすれば、多くの方々が已に亡くなっておられますが。
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閑話休題68 漢詩を読む 酒に対す-4:李白

2018-03-04 16:52:30 | 漢詩を読む
この一句!:
一杯一杯 復(マ)た一杯
(差しつ差されつ)さあ、もう一杯!
李白「山中与幽人対酌」の中の一句です。楽しげですネ!
――――

お酒に関わる李白の詩を読むと、非常におおらかな気分にさせられます。件の詩は、下に示しましたが、転句・結句では、李白のいかにも陶淵明を気取った、屈託のない仕草が目に浮かんできます。

xxxxxxx
 山中与幽人対酌  山中にて幽人と対酌(タイシャク)す

両人対酌山花開, 両人 対酌して 山花(サンカ)開く、
一杯一杯復一杯。 一杯一杯 復(マ)た一杯。
我酔欲眠卿且去, 我酔うて眠(ネム)らんと欲(ホッ)す卿(キミ)且(シバラ)く去れ,
明朝有意抱琴来。 明朝 意(イ)有(ア)らば琴を抱(イダ)いて来たれ。

<現代語訳>
 山中にて幽人と対酌す
隠者と二人向かい合って酒を酌み交わし、周りの山には花が開く。
一杯、一杯、もう一杯と盃を差し交す。
「わしはもう酔って眠くなった、君はまあちょっと帰れ。
明日の朝、気が向いたら琴を抱えてまた来てくれ。」
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李白については本稿の別のシリーズで数度にわたって触れてきました。それらの中でお酒と関わりのある詩には、「将進酒(ショウシンシュ:さあ飲もう)」と「行路難(コウロナン)」があります(それぞれ、閑話休題19 & 20参照)。

「将進酒」にあっては、“羊や牛を料理して、ともかく楽しいときを過ごそう、飲むからには、ぜひとも一気に三百杯は飲み干さなくては。……豪華なお料理など要らん、願いは一つ、いつまでも酔い続けること……” と豪放ぶりが伺えます。

「行路難」は、李白が宦官の讒言に逢い、都を追われて流浪の旅にあった折の作品な筈です。しかし全く暗さを感じません。再起を期しながらも、なお取るべき道が見えない中で、しばし盃を留めて詠います:

“一体、今自分はどこにいるのか、まるで迷路の中だ。だが、風に乗り、荒波を蹴立てて進むときは必ず訪れる。その時こそ、帆を高く揚げて大海原を渡って行くのだ。”と。

‘一杯一杯’の詩は、李白の若い頃の作品であると考えられています。若い頃、仙人の世界に憧れて山に籠って隠者と親交を深めたようです。恐らく、隠逸の世界で詩作に努めた陶淵明の姿が頭の隅にあったのでしょう。

陶淵明は、酒に酔って眠たくなってくると、「自分は眠たくなった、もう帰れ」と、客に向かって言ったと伝えられています。陶淵明はまた、“弦のない琴”を撫でさすって楽しんでいたとの逸話もあります。

筆頭に掲げた詩の転句・結句は、まさに陶淵明の逸話に沿ったものです。田園ならぬ、花咲く山の自然の中で、幽人と対して、‘陶淵明気取り’で言う李白の仕草が想像されて、微笑ましく感じられます。

実際は、この詩は、陶淵明のイメージを借りて、李白が世俗の価値観に囚われない自由な世界を豪放磊落に描いたものと理解されています。「一杯一杯復一杯」と、平仄を無視するなど、唐詩の規則に合わない型破りな表現も奔放さの現れと取れます。

“弦の無い琴”の逸話は、陶淵明より約百年後に編纂された『文選』に述べられているものです。『文選』は、南北朝時代、南朝(簫)梁の武帝の長子簫統 (昭明太子、501~531) が中心になって編纂された中国古典の一つです。

昭明太子は、皇太子時代に早世していますが、父親の武帝譲りで、学問をよくし、また政治的にも優れていた由。陶淵明の詩について“篇篇酒有り”としたのは、『文選』の陶淵明伝の中での彼の評価でした。

“弦の無い琴を楽しむ”とは、“実際に目で見、又耳で聞く”という現実世界の事象を遠く超えた幽遠な世界、すなわち“心で聞き、楽しむ”という、形而上の表現と捉えられる事柄でしょうか。

このような“弦の無い琴を楽しむ”こころは、仏教の“禅のこころ”に通ずる事柄として捉えられていて、その世界では“無弦琴”または“没弦琴 (ボツゲンキン)”と称されて、ある種“禅の境地”を表す言葉の一つとなっているようです。

実際に陶淵明は“無弦琴”を抱えていたのでしょうか。鋤や鍬を肩に農事に励み、ゴツゴツしているであろう手に“無弦琴”を抱えた淵明。想像すると楽しくもある。

が陶淵明の詩の世界は、“安楽”の中にではなく、“苦”の向こうにある ということでしょうか。李白は陶淵明に傾倒していながら、現実世界から離れることはできなかったようです。

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