この一句!
酒債尋常行処有
酒代の借金は普通で、行く先々にあるよ!
杜甫の「曲江二首 其の二」の中の一句です。「“人生七十 古来稀なり”……..、うららかな春を何時までも味わっていたいものである」と結んでいます。この詩から、“古希(=数え年70歳)”という言葉が生まれました。
―――――
他人の飲みっぷりを書いた杜甫自身はどうでしょうか。酒豪とは言えなさそうですが、事あるごとにお酒の話題を詠っています。下に挙げた詩では、衣服を質に入れて酒代を工面しても、なお足らず、行く先々で借金をしている様子が伺えます。
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曲江二首 其の二 杜甫
朝回日日典春衣 朝(チョウ)より回(カエ)りて日日(ヒビ)春衣(シュンイ)を典(テン)し、
毎日江頭尽醉帰 毎日 江頭(コウトウ)に醉を尽くして帰る。
酒債尋常行処有 酒債(シュサイ) 尋常(ジンジョウ) 行く処に有り、
人生七十古來稀 人生 七十(シチジュウ) 古來(コライ)稀(マレ)なり。
穿花蛱蝶深深見 花を穿(ウガ)つの蛱蝶(キョウチョウ) 深深(シンシン)として見え、
点水蜻蜓款款飛 水に点ずるの蜻蜓(セイテイ) 款款(カンカン)として飛ぶ。
伝語風光共流転 伝語(デンゴ)す 風光(フウコウ)共に流転(ルテン)するを、
暫時相賞莫相違 暫時(ザンジ)相賞(アイショウ)して相違(アイタガ)うこと莫(ナカ)れと 。
註]
曲江:池の名。長安随一の行楽地として賑わった
典:質に入れる
酒債:酒代の借金
穿花:(蝶が)花の中へ入り込んでその蜜を吸う
点水:(トンボが)水面に尾をつけて卵を産む
款款:緩やかなさま
伝語:言い伝える、伝言する
<現代語訳>
朝廷を退出すると、日々着ている春の衣服を質に入れて、
毎日曲江のほとりで酒を飲んでは、酔って帰る。
酒代の借金は普通で、行く先々にある、
人生は短く、昔から七十歳まで生きるのは稀なのだ。
花の蜜を吸う蝶々は 深々と花に入り込んでいる、
水面に尾を付けるトンボはゆったりと飛んでいる。
このような自然の風光に対してともに流転して行きましょうと伝えたい、
しばらく相ともに楽しみ、お互い背くことのないようにしましょう と。
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杜甫の生涯について簡単に触れておきます。
杜甫 (712~770) の先祖には、三国時代~西晋のころ(3世紀)「破竹の勢い」で活躍した武将・杜預がいる と。また祖父の杜審言(ト シンゲン)は、初唐の著名な宮廷詩人であり、杜甫は、いわゆる名門の出と言えるでしょう。
出生地は、洛陽の近郊、現河南省鞏義(コンギ)市の由。6歳の頃には詩文を作ったと言われており、優れた才の持ち主であり、13歳の頃には洛陽で文人の仲間入りしていたようです。
杜甫も例に漏れず、仕官して理想の政治を行いたいという希望をもち、23歳(735)に科挙(進士)の試験を受けるが、及第できなかった。さらに35歳(747)には‘一芸に通じる者の試験’を受験しているが、やはり不合格であったようです。
詩作活動は活発で、社会や政治の矛盾を題材とした詩歌を作り、積極的に有力者に献じて就職活動を行っていた。40歳前後の頃、官職を得ていたが、755年、“安史の乱(~763)”が起こり、混乱の中に置かれます。
756年長安が陥落して、杜甫は、一時反乱軍により長安で幽閉されます。757年、長安を脱出して、玄宗から帝位を継いでいた粛宗のもとに駆け付けます。以後、難を逃れていた粛宗らは安氏の討伐に向かい、年末長安を奪還します。
杜甫は、粛宗のもとに駆け付けたことで、その忠誠心を認められて左拾遺(天子を諫める役職)の位を得ています(757)。しかし敗戦の責任を問われた宰相・房琯(ボウカン)を弁護したことで、粛宗の不興を買い華州(陝西省華県)に左遷されます(758)。
その頃、安史の乱の影響でしょう、関中一帯が飢饉に見舞われたため、官を捨てます。方々移動を繰り返した後、蜀道を越えて成都に赴きます(759)。と言うは安いが、妻子とともに、かの険難な蜀道を越えての旅路、如何ばかりな難儀であったろうと、想像するだに胸が痛くなるのを禁じえません。
幸いに、成都では、かつて房琯の下で働いていた厳武が成都を治めていて、流浪して来た杜甫を厚遇したとのことである。杜甫は、760年、成都で “杜甫草堂”を築き、やっと安寧な時を過ごすことができたようです。
しかし765年(53歳)、襄陽を経て故郷の洛陽に帰るべく、長江を下る旅に出ました。実際は、三峡を経て、さらに長江を下り、洞庭湖の辺りで亡くなりました。770年、58歳の生涯でした。
ところで、今回取り上げた詩ですが、先に触れたように、房琯を弁護したことで、粛宗の不興を買い、疎まれていた頃の作品とされています。やっと得た官職を追われるかも知れない、という絶望感に襲われていたのでしょう。
酔わずにはいられない、という心境にあって、毎日、酒代にも事欠く状態でありながら、曲江のほとりでお酒に浸っていたものと想像されます。杜甫にとって、生活環境のどん底にあった一時期での飲酒と言えようか。
本来は、杜甫は、たまたま親しいお客さんが訪ねてくると、垣根越しにお隣の翁にも声を掛けて、揃ってお酒を酌み交わす、このような“お酒飲み”であると想像されます(閑話休題18、「客至る」;2016-10-10投稿 参照)。
酒債尋常行処有
酒代の借金は普通で、行く先々にあるよ!
杜甫の「曲江二首 其の二」の中の一句です。「“人生七十 古来稀なり”……..、うららかな春を何時までも味わっていたいものである」と結んでいます。この詩から、“古希(=数え年70歳)”という言葉が生まれました。
―――――
他人の飲みっぷりを書いた杜甫自身はどうでしょうか。酒豪とは言えなさそうですが、事あるごとにお酒の話題を詠っています。下に挙げた詩では、衣服を質に入れて酒代を工面しても、なお足らず、行く先々で借金をしている様子が伺えます。
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曲江二首 其の二 杜甫
朝回日日典春衣 朝(チョウ)より回(カエ)りて日日(ヒビ)春衣(シュンイ)を典(テン)し、
毎日江頭尽醉帰 毎日 江頭(コウトウ)に醉を尽くして帰る。
酒債尋常行処有 酒債(シュサイ) 尋常(ジンジョウ) 行く処に有り、
人生七十古來稀 人生 七十(シチジュウ) 古來(コライ)稀(マレ)なり。
穿花蛱蝶深深見 花を穿(ウガ)つの蛱蝶(キョウチョウ) 深深(シンシン)として見え、
点水蜻蜓款款飛 水に点ずるの蜻蜓(セイテイ) 款款(カンカン)として飛ぶ。
伝語風光共流転 伝語(デンゴ)す 風光(フウコウ)共に流転(ルテン)するを、
暫時相賞莫相違 暫時(ザンジ)相賞(アイショウ)して相違(アイタガ)うこと莫(ナカ)れと 。
註]
曲江:池の名。長安随一の行楽地として賑わった
典:質に入れる
酒債:酒代の借金
穿花:(蝶が)花の中へ入り込んでその蜜を吸う
点水:(トンボが)水面に尾をつけて卵を産む
款款:緩やかなさま
伝語:言い伝える、伝言する
<現代語訳>
朝廷を退出すると、日々着ている春の衣服を質に入れて、
毎日曲江のほとりで酒を飲んでは、酔って帰る。
酒代の借金は普通で、行く先々にある、
人生は短く、昔から七十歳まで生きるのは稀なのだ。
花の蜜を吸う蝶々は 深々と花に入り込んでいる、
水面に尾を付けるトンボはゆったりと飛んでいる。
このような自然の風光に対してともに流転して行きましょうと伝えたい、
しばらく相ともに楽しみ、お互い背くことのないようにしましょう と。
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杜甫の生涯について簡単に触れておきます。
杜甫 (712~770) の先祖には、三国時代~西晋のころ(3世紀)「破竹の勢い」で活躍した武将・杜預がいる と。また祖父の杜審言(ト シンゲン)は、初唐の著名な宮廷詩人であり、杜甫は、いわゆる名門の出と言えるでしょう。
出生地は、洛陽の近郊、現河南省鞏義(コンギ)市の由。6歳の頃には詩文を作ったと言われており、優れた才の持ち主であり、13歳の頃には洛陽で文人の仲間入りしていたようです。
杜甫も例に漏れず、仕官して理想の政治を行いたいという希望をもち、23歳(735)に科挙(進士)の試験を受けるが、及第できなかった。さらに35歳(747)には‘一芸に通じる者の試験’を受験しているが、やはり不合格であったようです。
詩作活動は活発で、社会や政治の矛盾を題材とした詩歌を作り、積極的に有力者に献じて就職活動を行っていた。40歳前後の頃、官職を得ていたが、755年、“安史の乱(~763)”が起こり、混乱の中に置かれます。
756年長安が陥落して、杜甫は、一時反乱軍により長安で幽閉されます。757年、長安を脱出して、玄宗から帝位を継いでいた粛宗のもとに駆け付けます。以後、難を逃れていた粛宗らは安氏の討伐に向かい、年末長安を奪還します。
杜甫は、粛宗のもとに駆け付けたことで、その忠誠心を認められて左拾遺(天子を諫める役職)の位を得ています(757)。しかし敗戦の責任を問われた宰相・房琯(ボウカン)を弁護したことで、粛宗の不興を買い華州(陝西省華県)に左遷されます(758)。
その頃、安史の乱の影響でしょう、関中一帯が飢饉に見舞われたため、官を捨てます。方々移動を繰り返した後、蜀道を越えて成都に赴きます(759)。と言うは安いが、妻子とともに、かの険難な蜀道を越えての旅路、如何ばかりな難儀であったろうと、想像するだに胸が痛くなるのを禁じえません。
幸いに、成都では、かつて房琯の下で働いていた厳武が成都を治めていて、流浪して来た杜甫を厚遇したとのことである。杜甫は、760年、成都で “杜甫草堂”を築き、やっと安寧な時を過ごすことができたようです。
しかし765年(53歳)、襄陽を経て故郷の洛陽に帰るべく、長江を下る旅に出ました。実際は、三峡を経て、さらに長江を下り、洞庭湖の辺りで亡くなりました。770年、58歳の生涯でした。
ところで、今回取り上げた詩ですが、先に触れたように、房琯を弁護したことで、粛宗の不興を買い、疎まれていた頃の作品とされています。やっと得た官職を追われるかも知れない、という絶望感に襲われていたのでしょう。
酔わずにはいられない、という心境にあって、毎日、酒代にも事欠く状態でありながら、曲江のほとりでお酒に浸っていたものと想像されます。杜甫にとって、生活環境のどん底にあった一時期での飲酒と言えようか。
本来は、杜甫は、たまたま親しいお客さんが訪ねてくると、垣根越しにお隣の翁にも声を掛けて、揃ってお酒を酌み交わす、このような“お酒飲み”であると想像されます(閑話休題18、「客至る」;2016-10-10投稿 参照)。